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あなたのとりこ 12 創作 ブログトップ

あなたのとりこ 331 [あなたのとりこ 12 創作]

「日比さんはどうするの?」
 考えあぐねて甲斐計子女史は、自分と同じく非組合員である日比課長に向かって縋るような視線を向けるのでありました。
「俺かい?」
 日比課長は自分を指差して見せるのでありました。「俺は未だ今のところは、何となくだけど、組合に入るのは止しておこうかなって思っているよ」
「日比さん、未だそんな事云って尻込みしているの?」
 袁満さんが眉根を寄せるのでありました。「律義に社長に忠義立てしている訳?」
「別にそんなんじゃないよ」
 日比課長は袁満さんの云い草に不愉快そうな声音で返すのでありました。
 そこへ片久那制作部長が下の社長室から戻って来るのでありました。甲斐計子女史を取り囲んでいた一同は一斉にそちらの方に視線を向けるのでありました。

 片久那制作部長は一直線に甲斐計子女史の方に来るのでありました。場所を空けるために袁満さんと均目さんが脇に退くのでありました。
「甲斐君の賃金も問題無く新体系の下で支払われる。何も心配無いからな」
 片久那制作部長は先ずそう云って甲斐計子女史を安心させるのでありました。
「当然、馘首も無いんですよね?」
 袁満さんが訊くのでありました。
「当然だ。そんなルール違反は俺がさせない」
 片久那制作部長は社長室に乗り込んで、社長の理不尽を強力に正してきたのでありましょう。しかし向後も何事に依らず全幅の信頼を置けない社長と土師尾営業部長でありますから、道理の前に無理が幅を利かす事態もあるかも知れません。この言葉は、そう云う事は自分が絶対許さないと云う片久那制作部長の従業員に対する確約でありましょう。
 この片久那制作部長の頼もしい言葉を聞いて、甲斐計子女史はようやく愁眉を開くのでありました。日比課長は「やれやれ」と呟いて溜息を吐くのでありました。
 他の一同も安堵の顔になるのでありあました。こちらの方は、なかなか会話の噛み合いそうにない判らんちんの社長や土師尾営業部長を相手に、甲斐計子女史への無体を組合として糾弾するストレスが無くなってホッとしたと云う思いからでありましょうか。
「しかし一応念のため、甲斐君も組合に入っておいた方が何かと都合が良いな」
 片久那制作部長は甲斐計子女史の組合加入を勧めるのでありました。「その方が今後社長に変な云いがかりを付けられないで済む。それから、日比さんも同じくね」
「俺も組合に入るんですか?」
 日比課長はまた自分の鼻先を自分で指差して及び腰を見せるのでありました。「俺は、多分大丈夫なんじゃないですかねえ」
「大丈夫だと、そんな無邪気にどうして云い切れるの?」
 袁満さんが日比課長を睨むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 332 [あなたのとりこ 12 創作]

「そうよ。社長や土師尾営業部長は何を仕出かすか判らない連中よ」
 那間裕子女史も日比課長に険しい視線を送るのでありました。
「いやまあ、そうかも知れないけど、でも組合に入るのはなあ、・・・」
 日比課長の逡巡はなかなかに頑固な模様であります。
「どうしてまた、そんなにも組合に入るのを躊躇うんですか?」
 頑治さんがその頑迷さに何やらの意味でもあるのかと思って訊くのでありました。
「社長や土師尾営業部長に幾ら忠義立てして見せても、何の得も無いよ。向こうは日比さんの忠義なんて屁とも思っていないんだから。その忠義立てなんかは如何にも無意味だと思うけどね、俺は。それともあの二人に何か弱みでも握られているの?」
 袁満さんが些か遠慮の無い云い草をするのでありました。
「別に弱みなんか握られていないよ」
 日比課長は眉を寄せて不愉快そうに呟くのでありました。「そんなんじゃなくて、俺が組合に入っても、何となく一人だけ浮きそうな気がするんだよ」
「一人だけ浮く、と云うのはどういう事ですかね?」
 頑治さんが首を傾げるのでありました。
「俺だけ皆と歳も離れているし、その分色んな事に対する考え方もズレがあるだろうし、上手くやっていける自信も無いしね。何よりも組合の活動なんて億劫だしねえ」
「組合活動に歳は特段関係無いんじゃないですかね。それよりも、身に迫っているかも知れない危機に対して、何も方策しないのは如何にも危ないんじゃないでしょうか」
「そうだよ、唐目君の云う通りだよ」
 袁満さんが頑治さんの言に乗せて云い募るのでありました。「甲斐さんに妙な手を回そうとした社長と土師尾営業部長が、トータルの人件費を抑えようとして、今度は同じような立場の日比さんにちょっかいを出してくるのは、判り切った事じゃないかね」
「いや、それは無いよ。それも俺が絶対させない」
 片久那制作部長が語調を強めて云うのでありました。「でも、従業員が一枚岩だと思われていた方が、存在感として強いし、交渉事に於いても一本になっている方が何かと好都合に作用するだろうから、甲斐君も日比さんも組合に入っておいた方が得策だな」
「そうだよ日比さん。片久那制作部長の云う通りだよ」
 袁満さんが嵩に懸かるのでありました。「組合に入ると、ここで決断してよ」
「いやまあ、それはそうだけど、でも矢張り、俺は当面、遠慮しておくよ」
 日比課長の煮え切らない及び腰は意味不明且つ、矢鱈に強硬なのでありました。
「あたしは入るわ、組合に」
 甲斐計子女史がここで発言するのでありました。「その方が安心みたいだし」
 現実に社長の横暴を蒙ろうとした瀬戸際でそれを回避出来た甲斐計子女史は、向後そんな事態はまっぴら御免と観念してか組合加入をここで容認するのでありました。
「こちらとしては、それは大歓迎だよ」
 袁満さんが諸手を上げて歓迎の意を表すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 333 [あなたのとりこ 12 創作]

 甲斐計子女史の決断は片久那逢制作部長の勧めが大いに作用したのは云うまでもありませんし、甲斐計子女史としても片久那制作部長の言には一定の信頼を寄せているようであります。日比課長の方も直接の上司である土師尾営業部長よりは、片久那制作部長の方に信を置いているのは云うまでもない事でありましょうが、社長への遠慮の方がそれを上回って重大だと云う事でありますか。そうまで社長の存在を憚る日比課長の心根の程は、これは全く頑治さんには判らない辺りでありました。ひょっとしたら袁満さんがものすように社長に何か弱みを握られていると云う推察もあるかも、と云うところでありますか。
 それにしても社長や土師尾営業部長の姑息な悪巧みを、ほんの一発で易く粉砕出来る片久那制作部長の腕力と云うものは、これは今更ながら慎に以って侮り難いのであります。この人の会社に於ける存在感の大きさは、これはもう社長以下の誰よりも遥かに圧倒的なのでありました。そればかりではなく、この人を敵に回すととんでもない事になると云う恐怖を、作為も無く肌合いとして他者に感じさせてしまうのでありますし、その大いなる威厳なんと云うものは、一体全体この人の奈辺に根差しているのでありましょうか。
 大学時代は全共闘闘士だった、と云う経歴でありましょうか。それとも、何時も不愉快そうな面構えからでありましょうか。或いは体躯の大きさからでありましょうか。
 眼鏡の奥から放たれる眼光の強さでありましょうか。人に一を喋らせればその数歩先まで展開を見取って、先回り出来る頭の高速な回転速度でありましょうか。陰鬱気なその声でありましょうか。その声でものされる、人の云う事を絶対に聞きそうにない頑固一徹そうな喋り口でありましょうか。如何にも隙の無い、食えなさそうな骨柄からでありましょうか。或いはひょっとしたら、憎たらしい程の皮肉の鋭さからありましょうか。
 まあ兎も角、この片久那制作部長がすっかり社長の側に回らないでいてくれる辺りが、組合としては勿怪の幸いと云うところでありますか。かと云って万全の味方と云う訳にはいかないような辺りが穏やかならざる部分でもありますし、万全の味方になって組合に加入する等と云われるのも、これもなかなか御免蒙りたいところでもありますか。
 甲斐計子女史が組合に入ったので、組合の会計係は頑治さんから甲斐計子女史に移るのでありました。この移動は全く以って餅屋は餅屋の処置であります。依って頑治さんは出雲さんと同じ執行委員となるのでありましたが、これは格下げなのか格上げなのか良く判らないのでありました。ま、頑治さんは別にどちらでも良いのではありましたが。
 社長は偶に上の事務所に上がって来ると、何の蟠りも無い前同様の調子で甲斐計子女史にあれこれ仕事の話しや、あんまり感心出来ない下卑た冗談なんかを飛ばしたりして屈託なく笑っているのでありました。なかなかの狸でそうしているのか、それとも甲斐計子女史の平穏を惑乱させた事に対して本当に何の後ろめたさも無いのか、頑治さんにはその辺りは良く判らないのでありました。先天的に人の心を洞察する能力に欠けている、或いはその能力に重きを置かない傲慢さが濃い、と云う風にも考えられるのでありますが。
 甲斐計子女史の方はあれ以来、社長への不信感がいや増したのは尤もな事であります。それは言葉付きの無愛想や態度のすげなさで充分察せられるのでありました。如何にもあからさまな風ではないけれど、社長を疎む意は充分発散しているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 334 [あなたのとりこ 12 創作]

 他の組合員にしても、社長の奢りで一献受けたあの宴会の時に持った、案外穏和で社員の事を慮ってくれている人だと云う印象もきっぱりと裏切られたような具合で、愛想の一つもおべんちゃらの一言も表す配慮は喪失しているのでありました。社長の方は自業自得の結果だとは露とも思わず、折角奮発して大いに飲ませてやったと云うのに、恩義も礼儀も弁えない、しおらしさの欠片すら無い社員共だと云う風に思ったかも知れません。
 まあそれでも組合を憚っているような素振りは、社長の挙措から幾らかは見て取れるのでありました。しかしこれは組合を疎かにすれば片久那制作部長からお小言を頂戴する事になるのを憚っている、と云う畏れに違いないのでありました。別に組合等はどうでも良いけれど、片久那制作部長の機嫌を損ねるのが何にも況して恐ろしいと云う社長の忌憚でありますか。それでもこれに依って社長の横暴を結果として牽制出来ているのは、組合にとっては有難い事でありました。虎の威を借りている辺りは少し不甲斐無いとしても。

 新しい賃金体系になって初めての支給を控えた数日前、思わぬ人事が発表されるのでありました。前口上として、社長も出席しての社員会議を開くので終業三十分前に応接スペースに集合せよと、土師尾営業部長から昼一番に全社員に申し渡されるでありました。
 ここでまたうんざりするような社長の悪あがきがその口から飛び出すのではないかと、組合員一同は一応身構えるのでありました。社長は組合への意趣返しを何時か必ず実行してやろうと目論んでいるのだろうと、均目さんは舌打ちして見せるのでありました。
 この社員会議で社長から報告されたのは、土師尾営業部長と片久那制作部長はこの四月から従業員を一応退職して、役員になると云う事でありました。土師尾家業部長が常務取締役、片久那制作部長が取締役制作部長と云う肩書きのようであります。ここでも土師尾営業部長が片久那制作部長よりも名目では上の扱いとなるようでありました。
 これは片久那制作部長が土師尾営業部長に対して遠慮があるとか遜っているとか、或いは会社運営や管理能力が自分よりも優っていると思っている訳では断じてなく、実質の権限を握るために土師尾営業部長を名目的に上の地位に持ってきて、ある意味でその自由を制限して、その陰で自分が実権を振るうと云う目論見でありましょう。こう云う思惑は、これ迄と何も変わってはいない片久那制作部長の算段と云うところでありますか。
 多くの組織では大体に於いて、ナンバーワンよりナンバーツーの方が何かと遣り手で凄みがあって、大向うには畏れられる存在でありますか。一般的な組合における委員長と書記長の関係とかもそんな感じでありますかな。ま、贈答社の場合は袁満さんと那間裕子女史の関係も、少しはそんな風情もありそうに見えない事も無くはないのでありますが、しかし那間裕子女史には然程の権力志向も支配欲も無さそうではありますし、第一遅刻の常習犯と云う評判は、皆の畏怖を集めるにはなかなか迫力不足でありましょうかな。
 とまれ、土師尾営業部長と片久那制作部長の二人が役員になると云う事は、贈答社に於ける従業員の賃金体系の外に出る、と云う事になる訳であります。要するに、賃金体系に捉われないで、そう云うものとは全く別の役員報酬と云う枠にそそくさと移動して、自分達の取り分を自分達の納得出来る額で確保しようとする工面でありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 335 [あなたのとりこ 12 創作]

 成程そう云う手があったのかと、組合員は一種の口惜しさに襲われるのでありました。そう云う魂胆であるならば、要求書の作成段階で両部長の賃金に思いを致して役職手当を基準内に入れる、なんと云う配慮なんかは必要も無かったと云う事であります。それより寧ろ住宅手当辺りを入れておけば皆に恩恵が行き渡ったと云うものであります。まあ、あくまで要求でありますから、それが実現したかどうかは不明でありますけれど。
 この両部長の役員昇格と云う人事に対して組合には発言権が無いのは当然であります。それは経営の判断に属する事柄でありますし、自分達の待遇に関わりもないのでありますから。ただ矢張り、両部長は巧妙な抜け道に巧妙に足を運んで、組合結成と云う騒動を利用して社員を出し抜いたんだなと云う思いは強く感じるのでありました。
 片久那制作部長迄も従業員には組合に理解のある辺りを見せておきながら、事が自分の待遇に及べば躊躇いなくそちらの抜け道に進んだのであります。或いはひょっとするとこの人事は社長の思い付きではなく、片久那制作部長の社長への要求だったのかも知れませんし、この人の目論見だったと云う可能性は、これは大いにあり得るでありましょう。
 若し組合にこの人事に不満を表する権利があったとしても、相手が社長と土師尾営業部長ではとんでもない紛糾春闘になっていたところを、回答を要求に沿った形で纏めてくれた恩義は片久那制作部長に多大に感じていた筈だから、組合として面と向かっていちゃもんは付け辛いと云う辺りもちゃんと計量済みなのでありましょう。まあこれはあくまでも組合側の云い分で、片久那制作部長の方には別の云い分もありはしましょうが。
 片久那制作部長の顔を見ると相変わらず口をへの字に曲げて腕組みをして、無愛想且つ不愉快そうにそっぽを向いているのでありました。この佇まいは、事が自分の思惑通りに運んでいる事への満足を隠そうとするための仮面と取れなくもないのでありました。
「片久那さんは当然、役員待遇になる事を納得しているんですよね」
 那間裕子女史がやや敵意の籠った目を向けるのでありました。
「そう云う話しが社長からあった時に、その方が社員の制作部長でいるよりも会社全体を統括し易いと考えて、まあ、暫く迷ったけど、その人事を受ける事にした」
 この云い草をその儘受け取れば、これはあくまで社長の方から切り出された人事案と云う事で、片久那制作部長の謀慮では無いと云う事になりますか。しかしこの手の腹芸は片久那制作部長であれば難なく熟すであろうとも頑治さんは思うのでありました。
「じゃあ、片久那さんは取締役になる事は不本意ではないんですね」
 これは質問と云うより念を押す調子の那間裕子女史の言葉でありました。
「売り上げが落ちているのは紛れもない事実だ。会社の在り方や各自の仕事の遣り方を思い切って徹底的に見直すのは喫緊の課題となる。取締役としてこれまで以上にその辺を強力にリードして行く心算だ。だから全社員の仕事振りにはこれまで以上に目を光らせる事になるだろう。そう云う意味でみんなにも覚悟をして置いて貰いたい」
 那間裕子女史はそう片久那制作部長から一直線に睨まれながら云われて、おどおどと視線を外すのでありました。遅刻常習犯と云う弱みと、何に付けても仕事が大体に於いて遅いと云う自覚があるためか、これは自分への恫喝だと居竦んだようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 336 [あなたのとりこ 12 創作]

 他の組合員にしても片久那制作部長にこう宣されると、夫々弱味の一つや二つは感じ持っていたものだから、たじろいで視線を外す他ないようであいました。
「ちょっと那間君」
 今迄すっかり出番の無かった土師尾営業部長が徐に口を開くのでありました。「前から感じていたけど、自分の上司に向かって、さん付けで呼ばわるのは不謹慎じゃないか」
 ここで嘴を差し挟んでくるこの人の了見なんと云うものは、今次の役員人事に於いては自分ももう一人の当事者であると云うのに、皆の質問やら視線やらが片久那制作部長だけに向いていて、こちらには全く及んで来ないのを甚く心外に思ったと云うところでありましょうか。本題から脇に逸れた遊閑地の辺りで自己主張を展開しようとするのはこの人の得意芸で、あんまり尊崇を得られないところのなまくら然とした常套手段でありました。こうして何時も鬱陶しがられていると云うのにちっとも懲りないようであります。
「ああそうですか、済みませんねえ」
 那間裕子女史はぞんざいな云い草で往なそうとするのでありました。
「他の人はちゃんと、片久那制作部長、と云う風に上司に対する礼儀を弁えた云い方をするのに、那間君だけはそう云う呼び方をしないのは、何か理由でもあるのか?」
「名前の後に役職名を付けるのが、上司への礼儀を弁えた呼び方になるのかしら?」
「そう云う事になるんじゃないのかな、普通は」
 改まって目を見据えられてそう訊かれるとはっきり自信がない、と云った面持ちで土師尾営業部長は眼鏡の奥の黒目を揺動させるのでありました。
「それは特に世間一般に広く認知された決まり事、とか云うのでもないし、当然我が社にそうしろと云う規定も無いし、役職名を付けない呼び方が失礼と思うのは、全くの土師尾さんの個人的感覚と云う事でしかないでしょう。第一その呼び方をあたしはこれ迄片久那さんに注意された事はないし、無礼に呼んでやろうと云う気持ちも元々ないし」
「別に呼び捨てしているわけじゃないんだから、無礼とは云えないよなあ」
 袁満さんが独り言の体裁で、那間裕子女史への援護の言葉をものすのでありました。
「そんな事じゃなくて、心掛けを問題にしているんじゃないか」
 土師尾営業部長は声を荒げるのでありました。女性に対して縷々小言を云うのは何となく荷が重かったようで、ここで好都合にも野郎がしゃしゃり出て来たものだから、土師尾営業部長は早速そちらに居丈高な視線を投げつけるのでありました。
「役職名で呼ぶ方が、心掛けが良いと云う風にも云えないでしょう。役職名より、ちゃんと名前を呼ぶ方が真心が籠っている、と云う解釈もあるでしょうから」
 何時もなら土師尾営業部長との口論を面倒臭がって逆らわない流儀の袁満さんが、どう云う心算からか珍しくここは引き下がらないのでありました。
「片久那制作部長もそんな那間君の態度を、内心非常に不快に思っているだろうし」
「別に不快になんか思っていないよ」
 ここで片久那制作部長自身が土師尾営業部長の言を、まるで机の上の消しゴムの滓を吹いて落すように、全くの無表情で鮸膠も無く退けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 337 [あなたのとりこ 12 創作]

 せっかく為を思って態々代わって小言を云ってやっているのに、その当人から軽く肩透かしを食らった、と云う図でありますか。土師尾営業部長としたらこれはどうにも立つ瀬が無いと云ったところでありましょう。まあ、片久那制作部長の方にすれば、つまらない自己の体面を必死に保とうとして、些末で余計な事を持ち出して敢えて口出しを試みるその土師尾営業部長の手口なんと云うものが、実に煩わしいだけでありましょうけれど。
 この遣り取りを見て社長も苦笑いを浮かべているのでありました。大体に於いて端から想像は付いていたのでありましたが、この経営三人のチームワークなんと云うものは、これはもう全く以ってしっくりいってはいないような気配であります。
 概観すると、社長は片久那制作部長を只管畏れつつ、土師尾営業部長の方は然程にその力量を買ってはいないようでありますか。片久那制作部長は社長にも土師尾営業部長にもその役職に値する程の信頼を端から置いてはいないようで、役職を離れた面に於いても、考え方や感受性や趣味も嗜好も、大きく括れば政治信条も思想性も何から何まで、異人種の如く共感するところなんぞは只管皆無であると見做しているでありましょう。
 土師尾営業部長の場合、片久那制作部長を畏れるのは社長同様でありますし、社長にはなかなかしっかり取り入る態度ではありながらも、こちらも片久那制作部長と同様に社長としての評価は大して高くはないでありましょう。それに第三者から見た妥当性は全く別にして、当人は社長を大いなる俗物と見做しているようであります。これは土師尾営業部長の僧籍に在る者としての評価に起因するようでありますが、当の土師尾営業部長本人の俗物根性にしても、これは到底出家者のものとは程遠い品の無さでありましょうかな。
 土師尾営業部長の片久那制作部長に対する評価は、これは社長の思いをその儘自分の思いとして踏襲しているだけでありましょうし、社長への評価に関しても、こちらは片久那制作部長の社長への評価を考えも無く真似しているだけなのでありましょう。何れにしても自ら考えた評価と云うよりは、夫々の影響、或いは真似の域でありましょうか。
 社長が話しを締め括るためにソファーから身を乗り出すのでありました。
「と云う訳で、片久那君と土師尾君の役員昇格を私の方から諸君に報告しておきます。まあ、この人事は殊更こういう形で諸君に告げる必要も無いとは思ったけれど、諸君とのこの先の良好な関係のために、態々直接に報告したと云う風に理解して貰いたいですな」
 と云われても、組合からは特に異を唱える筋合いも無いものだから、袁満さんを始めとする組合員は総じて不愉快そうな面持ちをしていながらも、無言の儘何の返答もしないのでありましたし、頷くと云った所作もないのでありました。

 この後、珍しく甲斐計子女史も一緒に、それに日比課長も含めて、従業員皆で夕食がてら一杯やりながらちょっと話しでもしようかと云う算段が纏まり、経営三人を除く全員で打ち揃って神保町駅近くの居酒屋に繰り出すのでありました。甲斐計子女史は、組合員になったのだから、この際こう云う付き合いも偶には熟さなければと云う律義さから付き合ってくれたのでありましょう。日比課長の方は組合への参加は社長への遠慮から躊躇いながらも、しかし立場としては組合に近い側に居ると云う了見からなのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 338 [あなたのとりこ 12 創作]

「甲斐さんと一緒に飲むのは随分久し振りと云う感じがするなあ」
 一通りの酒や肴の注文を終えた後で、円卓の、甲斐計子女史の左横に座った袁満さんが愛想の心算で女史に話し掛けるのでありまいた。
「そうだよな。甲斐さんは滅多にこういう席には顔を出さないからなあ」
 袁満さんのそのまた左隣りの日比課長が、間に挟まった袁満さんの体一つ分を躱すために少し身を乗り出しながら、甲斐計子女史に向かって言葉を投げるのでありました。
「あたしは大体お酒が飲めない性質だし」
 甲斐計子女史は自分の前に置かれたおしぼりを取り上げて、何故か入念に掌や手甲や五指や指の股を拭きながらそう応えるのでありました。ちなみに頑治さんは偶々甲斐計子女史の右隣りに座を取ったのでありましたが、甲斐計子女史の手はそんなに一生懸命におしぼりで拭わなくてはならない程、事務仕事のためにインクとかで汚れているようには見えないのでありました。甲斐計子女史は実は結構な潔癖症なのかも知れませんが、普段の会社に居る時の様子からはそう云う風な気配は特には窺えないのでありましたけれど。
 ここで席次を記しておくならば、頑治さんの右隣が那間裕子女史、その右横に均目さんが座っていて、那間裕子女史は頑治さんと均目さんに挟まれた座に居るのであります。均目さんの右隣りが出雲さんで、出雲さんの右に座っているのが日比課長であります。別に意図があった訳ではなく、総勢七人はこのように着席して円卓を囲むのでありました。
 ビールと日本酒が運ばれて来て、甲斐計子女史は日比課長の差し出す徳利を断って、左隣の袁満さんからビールをコップに三分の一程注いで貰うのでありました。頑治さんが見たところ、甲斐計子女史は日本酒が殊の外駄目だと云うのではなく、日比課長から酌をして貰うのが嫌と云う風でありましたか。酒の好き嫌いを云うなら、甲斐計子女史は、飲めない性質、であるから日本酒もビールも嫌い、と云う事になるのでありましょうし。
 酒が皆に行き渡ると、初めから日本酒の日比課長以外はビールのコップを夫々前上方に差し出して、一斉に、と云う訳ではなく、何となくガチャガチャと銘々乾杯をしてから一口に及ぶのでありました。甲斐計子女史は中のビールが唇に僅か触れる程度にコップを傾けると、それをすぐに卓の脇に置いてその後は全く手を伸ばさないのでありました。
「あのう、ジュースとかウーロン茶とか、別に何か頼みましょうか?」
 他の連中が普段面子に加わる事が無いためか、甲斐計子女史の飲み物について放念している様子なので、頑治さんが気を利かせて甲斐計子女史に訊くのでありました。
「そうねえ、それならウーロン茶を貰おうかしら」
 それを聞いて頑治さんは早速、偶々近くにいたウエイターにウーロン茶を一杯持ってきてくれとオーダーするのでありました。
「有難う唐目君」
 甲斐計子女史はニンマリ笑って礼容を示すのでありました。
 その頑治さんに右脇からビール瓶を持つ手が差し出されるのでありました。これは那間裕子女史の手で、女史は酌をしてくれる心算のようであります。
「あ、どうも」
(続)
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あなたのとりこ 339 [あなたのとりこ 12 創作]

 頑治さんは慌ててコップのビールを半分程口の中に流し込んでから、そのコップを両手で持って那間裕子女史の手に持つビール瓶の傍に徐に差し出すのでありました。甲斐計子女史に向いていた頑治さんの顔を自分の方に向けようとして、些か強引に酌を試みようとしたのかしらと、頑治さんは那間裕子女史の心中を推察するのでありました。
 那間裕子女史はこれ迄も屡、頑治さんにそんなちょっかいを出す事があるのでありました。どうしてかは確とは判らないながら、那間裕子女史は自分の居る席で、頑治さんが自分以外の人、特に女性と、親しく話しをするのが嫌いなようでありました。だからと云って頑治さんに特別な感情を持っていると云う風ではないのでありましたが、恐らく女史は頑治さんの見立てに依るとかなり自意識が強いタイプなのでありましょう。
 頑治さんの顔が反対側に居る那間裕子女史の方に向いて、甲斐計子女史から逸れたのを好都合と、袁満さんを間に挟んでいるから些かもどかしそうな気配を見せつつも、日比課長が上体を卓の上に乗りだして顔を甲斐計子女史の方に捻じって何やかやと話し掛けている声が、頑治さんの後頭部で些か煩く聞こえるのでありました。滅多に宴席に顔を出さない甲斐計子女史のこの場での佇まいが日比課長は大いに気になるようであります。
 日比課長は甲斐計子女史が自分と同じく他の連中よりも歳がかなり上であると云う辺りにも、より親しみを感じるのかも知れません。確か甲斐計子女史は頑治さんよりも十歳ばかり歳上の三十歳代で、日比課長はそのまた七つ程歳上の四十代であります。三十代の甲斐計子女史が、二十代の他の連中よりは四十代の日比課長の方により親しみを感じるかどうかは、これは何とも云えないであろうと、頑治さんは背後の日比課長のあれこれ何やかやと、甲斐計子女史に熱心に喋り掛けている声を聴きながら思うのでありました。
「唐目君は全然腹が立たないの、片久那さんと土師尾さんの役員昇格に対して?」
 那間裕子女史が背後の気配に未だ少し意識を残し気味の頑治さんに向かって、頑治さんの気持ちをしっかり自分の方に向ける心算からかそう聞くのでありました。
「ああいや、まあ、そんなに腹が立つと云う程ではないけど、驚きはしました」
 頑治さんは那間裕子女史の、上目がちに見開かれた目元を見ながら応えるのでありました。こうして見ると那間裕子女史の目はなかなかに大きくて円らかでありました。
「今度の新しい賃金式では、片久那制作部長も土師尾営業部長も、それ以前の賃金とあんまり変わらないと云う事になるから、それが気に入らなかったんだろうなあ」
 那間裕子女史の右隣に居る均目さんが言葉を挟むのでありました。「俺達従業員は同一年齢同一賃金と云う建前から是正額があって、そのせいで結構なアップ額になるけど、あの二人は殆ど前と変わらない計算になるからなあ。まあ、以前から俺達の賃金に比べて、あの二人だけ突出して、かなり貰い過ぎ、と云う側面はあったけど、そう考えて納得するようなタマでは二人共ないし、社長に、俺達にはもっと寄越せと当然凄んで、そのためには賃金体系から外れる必要があるから、まあ、役員に、と云う事になったんだろう」
「遣る事が姑息と云うものよ、そう云うのは」
 那間裕子女史がそう吐き捨ててビールをグイと煽るのでありました。
「まあしかし、あの二人の気持ちを慮れば、それもありかな、とは思いますけど」
(続)
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あなたのとりこ 340 [あなたのとりこ 12 創作]

 頑治さんが控え目な声で返すのでありました。
「今日の朝、片久那さんから従業員の四月からの新しい給料額があたしの方に回って来たけど、それに依るとあたしが一番給料が上がるみたいね」
 ここで頑治さんの左隣りから徐に、甲斐計子女史がこちらの話しに加わってくるのでありました。と云う事は詰まり、日比課長の努力も虚しく、甲斐計子女史は日比課長とのお喋りにあんまり興味が喚起されなかった、と云う事でありますか。
「そうなるかな。甲斐さんの基本給は片久那制作部長や土師尾営業部長と同じになる筈だったからね。同一年齢同一賃金と云う原則に照らしてみると、あの二人に今まで随分差を付けられていたと云う事だよ。つまり甲斐さんは酷く冷遇されていた訳だな」
 甲斐計子女史の左隣りから袁満さんが話しに加わるのでありました。
「まあ、学歴も違うし仕事の難しさも違うから、それは仕様が無いと思っていたけど」
 甲斐計子女史は経営側から見ればある種のしおらしさを見せるのでありました。
「それは違うよ。基本的には同一年齢同一賃金なんだから」
 袁満さんが甲斐計子女史の心得違いを正す、と云った語調で云うのでありました。
「でも営業とか製作とかは会社の業績にすぐに響く仕事だけど、あたしは単なる会計係だから、売り上げに貢献する仕事をしている訳じゃないもの」
「でも営業とか製作とかと同じで、それと比較すると地味な仕事ではあるけど、でも、どんな会社にも必ず無くてはならない仕事には違いない」
 袁満さんは先程と同じで甲斐計子女史の認識を改めさせる語調ではあるにしろ、その中に些かの慰めと云うのか激励と云うのか、そう云う調子も込めて云うのでありました。
 その袁満さんの言葉を聞きながら、しかし社長はそうは考えていないらしいではないかと頑治さんは思うのでありました。甲斐計子女史の担当する会計と云う仕事が然程重要ではないと考えているから、甲斐計子女史に理不尽な選択を迫ったのでありましょうし。それにまた同じ意味で、社長は屹度、倉庫で荷造りとか商品管理をしている自分の業務仕事も、誰にでも代わりが出来る単純仕事だと恐らく思っているのでありましょう。
 確かにそう考えればその通りとも云えるかと頑治さんは考えるのでありました。だから単純明快で素朴な能力主義的賃金と云う考え方に立てば、会社が困窮した時には先ずは自分や甲斐計子女史が冷遇されたり馘首されたりするのでありましょう。
 まあしかしながら、それはこちらの方で端から納得済みの事柄だと云えなくもないのでありました。ある意味で賃金とか待遇面での好条件を掃って、そう云う気楽な身分を求めて頑治さんはこの会社に入ったと云う事も云えるでありましょうから。
 それが組合結成と云う退っ引きならぬ事態を受けて、この秘かな気楽さは隅に追い遣る羽目になったのでありました。待遇改善とか給料のアップと、それを望まない代わりの気楽な身分とでは、さて、どちらが頑治さんにとって好都合と云えるでありましょうか。

 頑治さんのコップに甲斐計子女史がビールを注ぎ入れてくれるのでありました。
「ああ、どうもすみません」
(続)
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あなたのとりこ 341 [あなたのとりこ 12 創作]

 頑治さんは慌ててコップを両手で少し持ち上げるのでありました。
「若しこのタイミングで組合が出来ていなかったら、あたしや唐目君なんか今頃会社を馘首になっていたかも知れなかったわね」
 甲斐計子女史はそう云い終った時に丁度ビールも注ぎ終えるのでありました。
「そうかも知れませんねえ」
 頑治さんはなみなみとビールの注がれたコップを、両手で持った儘もう少しばかり持ち上げて見せて甲斐計子女史に礼意を表するのでありました。頑治さんが今し方考えた社長の了見と同じ事を、甲斐計子女史も考えたのでありましょう。そう云う危うさの崖縁に居た自分が、組合に救われたのだと云う認識が女史にはあるのでありましょう。
 いや、実際に救ったのは組合ではなく片久那制作部長なのではありましたが、しかしそう云う片久那制作部長の態度を誘発したのは、組合が出来たためだとは思うのでありましょうか。片久那制作部長に組合に入った方が良いと云われて、日比課長とは違ってそれに素直に従ったのも、組合を寄る辺と捉えたための決断に他ならないでありましょう。
 実際、賃金も従業員の中で一番上昇したし、ここは大いに組合に恩義を感じてこれ迄滅多に顔出ししなかった従業員同士の酒の席にも、こうして連なる気にもなったのでありましょうか。組合の中の会計と云う仕事もあっさり引き受けてくれた訳でもありますし。
「日比課長も甲斐さんを見倣って、組合に入った方が良いんじゃないですかね」
 均目さんが出雲さんの右向こうに居る日比課長に声を掛けるのでありました。急にそんな言葉を自分の方に向けられて、日比課長は少しどぎまぎするのでありました。
「あの社長の事だから、この先ずっと日比さんを篤く遇するとは限らないよ」
 これは袁満さんの言でありました。
「日比さんは組合に入る事に及び腰みたいだけど、それはどうしてなのか理由を聞いてみたいわね。組合活動が性に合わないと云う事かしら、それとも何か思想上の問題?」
 今度は那間裕子女史が日比課長に目を据えて問うのでありました。
「日比さんがガチガチの右翼だとは、俺には全く思えないけどねえ」
 袁満さんが那間裕子女史の言を受けて首を傾げて見せるのでありました。
「別に右翼じゃないよ。でも、左翼でもないけどね俺は」
 日比課長はぞんざいな口調で袁満さんの方を向いてそう応えるのでありました。「右翼だ左翼だなんてのは、俺にはどうでも良い問題だよ。そんなものに関心は無いし」
「そうだね。日比さんは色んなスケベな事が、何より興味あるものだよね」
 袁満さんがからかうのでありました。
「そうでもないよ」
 日比課長は同席している甲斐計子女史と那間裕子女史と云う女性陣の手前、袁満さんの言に対して取り繕うように否を発するのでありましたが、満更その指摘は当たっていない事もない、と云う一種のしおらしさと照れを竟々語調に滲ませて仕舞う辺りは、なかなか憎めないところではあると思って頑治さんは秘かに微笑むのでありました。
「日比さんはスケベな事にしか興味が無い訳?」
(続)
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あなたのとりこ 342 [あなたのとりこ 12 創作]

 那間裕子女史がそう云う風に日比課長を追い詰めるのでありました。しかしこれは嫌悪感からと云うよりは、少しからかってみようと云った意味合いが強いでありましょうか。那間裕子女史も頑治さんと同じように、日比課長のどこか遠慮がちな否定の言が可笑しくなって、ちょいとばかりちょっかいを出してみたくなったのでありましょう。
「他にも色々な方面に興味はあるよ、俺だって。もう良い歳なんだから」
「歳が増すにつれてスケベの方も益々盛んになると云うんじゃないのかしら、日比さんの場合は。そう云われてみれば我が社の男達の中では、日比さんが一番ギラギラ脂ぎっているようにも見えるわね。甲斐さんもそう云う風に思わない?」
 那間裕子女史は卓の上に身を乗り出して、頑治さんの左向こうに居る甲斐計子女史の方に同意を求めて顔を向けるのでありました。甲斐計子女史は見返すもののただ口に手添えて笑うだけで、その那間裕子女史の言に頷いたりして賛同する素振りは見せないけれど、だからと云って首を横に振る仕草もしないのでありました。
「なんか俺は誤解されているみたいだな、那間さんにも甲斐さんにも」
 日比課長はそう呟いて猪口の酒をグイと飲み干すのでありました。
「それは兎も角として、組合に入ると云う目は全く無いのかな?」
 袁満さんが空いた日比課長の猪口に徳利を差し向けるのでありました。
「まあ、今は無いな。将来は判らないけど」
 日比課長は曖昧な返事をしながら袁満さんの酌を受けるのでありました。
「社長や土師尾営業部長に忠義立てしていても、あの二人はそんな事屁とも思っていないんだから、その内手酷い目に遭わせられるかもよ」
「俺は別にあの二人になんか、忠義立てする気は無いよ」
「だったら組合に入れば良いじゃないか。片久那制作部長も勧めるんだから」
「まあね。でも何となく今は止めておくよ」
 日比課長はどうした訳か妙に頑ななのでありました。
「会社の売り上げがガタ落ちして従業員の待遇を大幅に落とそうとしたのに、組合が出来た事で逆に従業員の賃金は上がるし、一時金の削減も儘ならなくなったし、片久那さんと土師尾さんの待遇も役員に昇格させて上げなければならなくなったんで、社長としてはせめてもの打開策として非組合員の甲斐さんへの皺寄せを企んだけど、まあ、それは片久那さんにきつく諌められて上手くいかなかったと云う事になる訳よね」
 那間裕子女史が先程のからかう調子ではなく、至極真面目な顔付きでテーブルを挟んでほぼ自分の正面に座っている日比課長に語り出すのでありました。「それに甲斐さんは組合員になったんだから、今後はそう云う無体な事はおいそれとは出来なくなったわけよ。そうなると社長の次のターゲットは、日比さんだと云うように考えられる訳じゃない」
「そうだよ。そう考えるのが妥当なところだよ」
 袁満さんがすぐに那間裕子女史に同調するのでありました。
「まあ、この先も片久那制作部長の目があるから、社長もそう滅多な事は出来ないと思うけど、でも、確かに一番立場が弱いのは日比課長と云うのは事になるかな」
(続)
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あなたのとりこ 343 [あなたのとりこ 12 創作]

 均目さんがそう云いながら日比課長の説得に加わるのでありました。
「その片久那さんも、全幅の信頼を置けると云う訳じゃないわよ」
 那間裕子女史はそう云いながら横目で頑治さんの顔を見るのでありました。これは何時だったか、組合が正式に結成される前に、確か新宿の洋風居酒屋で那間裕子女史と均目さんと頑治さんの三人で飲んだ時に話題に上った、片久那制作部長と土師尾営業部長の魂胆は、実は日比課長と出雲さんに会社を辞めさせる口実として、業態と人事の改変を持ち出したに違いないと云う話しを踏まえた上で、でありましょうか。
 その折には最初、今はもう居ない山尾主任と出雲さんを辞めさせようと云う裏の企図を疑ったのでありました。しかし頑治さんが人件費の削減と云うところから考えると、実は日比課長と出雲さんと云う二人の二番手がターゲットなのではないかと云い出して、那間裕子女史も均目さんも、ああ成程とそれに納得したのでありましたか。
 頑治さんはそれを思い出してそれとなく出雲さんの方に視線を向けるのでありました。出雲さんは、全くこれは日比課長だけの危険だとのんびり考えているようで、まさか自分にも両部長の触手が伸びてこようとしていたとは考えだにしていないような風情でありました。まあ、出雲さんの人の好さからして無理からぬ事かも知れませんが。
「片久那制作部長も、いざとなったら自分の身が第一番だろうから、案外平気で見殺しにするか、場合に依っては自分から日比課長を切り捨てようとするかも知れませんよ」
 均目さんがそう云いながら、矢張り頑治さんの方に横目を呉れるのでありました。
「そうなったらそうなったで、俺はさっさと次の就職先を考えるだけだよ」
 日比課長は笑いながら云って、両部長の目論見を歯牙にもかけないような事を嘯くのでありました。これはどうやら自分の解雇と云う危険に対して、全くリアリティーを感じていないと云う事でありましょう。往々にして目前の危機に鈍い様子なんと云うものは、呆気ない程の脆さを懸念させる有力な兆候と云えるでありましょうから、頑治さんはこの日比課長の振る舞いに何とはなしに一種の遣る瀬無い感情を抱くのでありました。
 しかしこう嘯いて一向に自分や那間裕子女史の忠告を本気で聞こうとしない様子の日比課長の頑なさに、均目さんは些かげんなりと云う表情をして見せるのでありました。那間裕子女史も、そう云う態度であるのなら後はどうなってももう知らないと云った風に冷ややかに沈黙して、もうそれ以上の説得は控えるのでありました。
 出雲さんは組合員であるから一先ずその身は安全だと思われるのでありますが、しかし今次の甲斐計子女史への社長の横暴に対して、実質として組合はオロオロとはしてもアクションは何も起こせなかったのでありました。実際に働いたのは片久那制作部長であり、片久那制作部長が迅速に社長と談判して一人ですっかり処置したのでありました。
 そうであるなら、組合の真価は今次発揮されなかった訳であります。従業員の危機に際して組合が大いに頼りになるのかどうかは、実は未だ確とは証明されなかったのであります。となれば出雲さんに降り掛かるかも知れない危機は、組合員だからと云う事を以って盤石たる安心を保証されるものではないと云う事でありますか。出雲さんはその事を知ってか知らでか、無邪気そうな表情で焼き鳥の串に手を伸ばしているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 344 [あなたのとりこ 12 創作]

 まあしかし、制作部から特注営業の仕事にコンバートしようとした山尾主任が会社を電撃的に辞めて仕舞ったのでありましたから、その煽りで日比課長の危機も少し変容したと考えるのもあながち不自然な推考ではないでありましょうか。山尾主任が会社から居なくなった以上、日比課長は当面は特注営業に欠かせない人材でありますし、ここで日比課長迄抜けて仕舞えば、土師尾営業部長は楽が出来なくなる訳でありますし。
 しかし出雲さんの方は、こちらは依然として危機の度合いは減少してはいないと考えられるのでありました。恐らく以前同様の地方出張営業の方に出雲さんを戻そうと云う考えは、土師尾営業部長には端から無いでありましょう。
 いやいやそればかりではなく、頑治さんは均目さんと那間裕子女史との三人での、あの新宿の洋風居酒屋の酒席では敢えて口にするのは控えたのでありましたが、地方出張営業と云う仕事自体を土師尾営業部長は近い将来切り捨てる心算でいるのかも知れません、またそれは、片久那制作部長も社長も実はもう承知している目論見なのかも知れません。
 となると出雲さんばかりではなく、その仕事を一人で担って算段せよと申しつけられた袁満さんの危機も、次の段階のものとして当然考えておかなければならない事項でありましょう。土師尾営業部長の地方出張営業を軽視する態度は結構あからさまでありますし、社長や片久那制作部長の秘かな承認があるとすれば、彼の人は必ずそれに手を付けるでありましょう。それも軋轢と憎悪を増大させるような如何にも下手な遣り口で。

 役員となった土師尾営業部長の呼称は、土師尾常務、となるのでありました。片久那制作部長は取締役制作部長と云う肩書きでありますから、こちらは従来通りの、片久那制作部長、の儘でありました。ちなみに彼の人を、土師尾常務、と呼べと、やんわりとした口調ではあっても厳に制作部の中で嗾けたのは片久那制作部長でありました。
 これは役員となった彼の人を今迄にも況して前に立てておいて、従来通り自分はその後ろに身を潜めて、しかし実はこれも前にも況して、陰の頭目たる威光を全く意図しない体裁で以ってより強く発光させるための策術であろう、と云うのは均目さんの頑治さんに語った解説でありました。まあ、片久那制作部長にとってはその方が、社長を相手にするのも二番手でいられるし、あれこれ面倒が少ないと云う前乍の魂胆なのでありましょう。
 片久那制作部長を筆頭に那間裕子女史と均目さん、それに頑治さんが当初はぎごちない風情ながらも彼の人をそう呼ぶものだから、営業部の方にもそれが次第に染みるのでありました。公的な場或いは私的な場に於いても、立場の上の人をその人の関係属性たる役職名で呼ぶのは、古より連綿と続く扶桑の習慣であります。これはその方が名前をダイレクトに呼ぶよりはそこはかとなく一歩引いた態度を表せるし、波風が穏やかで且つ大いに簡便であり無難であると云う一種の消極的英知の為せるところでありましょうか。
 とまれ、彼の人はそう呼ばれる事が満更でもないような風でありましたか。敬われているのだと、呼ばれた人を心地良くさせると云う役職名呼称のもう一つの便利が、見事に的中したと云う按配でありましょう。まあそれが、好い気な勘違いに属する場合が往々にしてあると云うのはこの際ここでは脇に置いておくと云う事にして、でありますが。
(続)
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あなたのとりこ 345 [あなたのとりこ 12 創作]

 土師尾常務は役員になっても、相変わらず威光をひけらかそうとはするものの、前にも況して仕事に精を出す、なんと云うしおらしさは全く見られないのでありました。寧ろ朝の得意先への直行と夕方の出先からの直帰を呆れるくらい頻繁に、ま、ほぼ毎日、公然と繰り返すようになるのでありました。尤も以前もそれは屡行われていたのでありましたけれど、それは不当に残業代を稼ごうと云うさもしい魂胆からの仕業でありましたか。
 しかし役員となった今では、そんなに給金のためにあくせくする必要も無いし、そうする事に対するほんの僅かな後ろめたさも感じないで済むようになるのでありました。他の社員からはそのあまりにあからさまな態度と、見え透いたさもしい根性を秘かに軽侮されるのでありましたが、自分以外の者共の心根なんぞは寸分も意にも介さず、何処吹く風と云った開き直りも相変わらすと云えば全く以って相変わらずなのでありましたか。
 例に依って朝一番に土師尾常務から得意先に直行すると云う電話連絡を受けた甲斐計子女史は、向こうが電話を切ってからでありましょうが、少し荒けなく忌々しそうな手付きで受話器を架台に戻して舌打ちをするのでありました。
「今日も常務さんは得意先に直行だってよ」
 甲斐計子女史は自席で茶を飲んでいる日比課長の背中に向かって、殆ど唾棄するような口調で報告するのでありました。それに対して日比課長は甲斐計子女史の方に振り返ってから鼻を鳴らして見せるのでありましたが、この遣り取りは制作部スペースに居る頑治さんにも、分過ぎるくらいのボリュームで聞こえてくるのでありました。
 均目さんと那間裕子女史はその遣り取りを聞きながら顔を上げて、互いに目を合わせて失笑するのでありました。片久那制作部長の思わず僅かに失笑を漏らす気配も、頑治さんに伝わるのでありました。片久那制作部長としてはこんな土師尾常務の態度に苦っている筈でありましたが、それを察しもしないし、配慮も羞恥も無く野放図に得意先直行の電話を掛けてくる彼の人のいけ図々しさに、反射的に笑って仕舞ったのでありましょう。
「直行するのなら、昨日の内に云って置いて貰いたいもんだよな、毎度の事だけど」
 日比課長が恨み言をものするのでありました。
「そりゃ無理だよ。朝起きて、急にサボりたくなって直行と決めたんだろうから」
 日比課長の対面にいる袁満さんは先の日比課長同様に鼻を鳴らすのでありました。
「そりゃそうだ。それに本当に得意先に行くのかも大いに怪しいもんだし」
 日比課長は頷くのでありました。「ま、十中八九得意先には行く気は無いな。恐らく朝飯の後に茶をゆっくり飲みながら悠々と寛いで、それから願力寺にでも立ち寄って、その後で何食わぬ顔しておっとりと会社に出て来る了見なんだろうからなあ」
 願力寺、と云うのは、前に誰かに聞いたところに依ると土師尾常務がサイドビジネスみたいに副住職をしていると云う、千葉に在る彼の人の家の近くの寺院でありました。
「役員になったもんだから、益々調子に乗ってつけ上がり放題だよな」
 袁満さんのそんな憎悪剥き出しの科白が聞こえてきたタイミングで、片久那制作部長が聞えよがしの咳払いをするのでありました。もうその辺で止めておけと云うサインを、マップケース向こう側の営業部スペースに送ったのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 346 [あなたのとりこ 12 創作]

 それを察してか、土師尾常務に対する袁満さんの愚痴も日比課長の揶揄も、この後には何も聞こえてこないのでありました。片久那制作部長から窘められた事への不満八分と、土師尾常務がここに居ないのを良い事に悪口を述べ立てた自責の念二分から、二人は屹度マップケースの向こう側で顔を見合わせながら首を竦めたでありましょう。

「でも、ちょっと最近度が過ぎると思わない、土師尾さんの無軌道振りは」
 これはその日の昼休みに地下鉄神保町駅近くの中華料理屋で、均目さんと那間裕子女史と頑治さんの三人で昼飯を一緒にした時の、那間裕子女史の言葉でありました。
「遣りたい放題と云った感じだな」
 均目さんも眉根を寄せた表情をしながら同調するのでありました。「週に三日は真偽は別にして得意先に直行すると云う電話を寄越すし、週に三日は昼過ぎに、時には午前中から得意先に行くと称して会社を出て行って、決まって終業時間間際のタイミングで、仕事が長引きそうなので直帰すると云う電話を寄越して会社には戻って来ないもんなあ」
「でも、役員は殊更、従業員と同じ就業時間に縛られないんじゃないかな」
 頑治さんがそう云うと那間裕子女史が険しい表情をするのでありました。
「役員になって益々のさばり出したその根性が気に入らないって事よ」
「直行直帰しても今迄は自分勝手放題に残業として付けていたのが、組合結成時の団交で組合から問題にされて、それで文句を云われないように役員にして貰って、これからは大手を振って自由気儘が出来ると勘違いしたに違いない。詰まり役員になって残業手当にあくせくしなくて済むようになった事を、一人だけ最大限謳歌している訳だよ」
 均目さんも眉間の皺をその儘にして頑治さんの顔を見るのでありました。
「まあ確かに片久那制作部長は役員になる前もなった後も、仕事している時間は殆ど変わりないかな。均目君や那間さんが残業していると、一応気を遣ってか自分も居残っているからなあ。その意味で片久那制作部長は役員待遇になった事を謳歌してはいない訳だ」
「でも、それがごく普通の感覚と云うものよ」
 那間裕子女史が遣っていた箸を置いて中国茶の入った湯呑みを取って、口を付ける前に云うのでありました。「度し難い鈍感の恥知らずじゃないならね」
「度し難い鈍感の恥知らずの人は、片久那制作部長や他の従業員から、自分のそう云う態度に対して眉を顰められていると云う事を気付いていないんでしょうかね」
 頑治さんは那間裕子女史に倣って箸を置いて湯呑みに手を伸ばすのでありました。
「気付いていないんでしょうね。そこが鈍感の鈍感たる所以よ」
「いや、幾ら何でも少しは気付いてはいるだろう」
 均目さんも箸を置くのでありました。「ただ気付いていても、そう云う他者の抱く気持ちに配慮するだけの感受性とか篤実さとかが、恐らく先天的に欠けているんだろうな」
「つまり結構気にはしていながら、開き直っているのかな」
 頑治さんが云うと均目さんは皮肉な笑いをして首を横に振るのでありあました。
「いや、ほんの少し気付いてはいるけど、それ程大して気にはしていないんだろう」
(続)
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あなたのとりこ 347 [あなたのとりこ 12 創作]

「じゃあ、呑気と云うのか、天真爛漫に他人の心根に関心が無いだと云う事かな」
「或る意味、そう云う事だね」
「一方では自分を実像よりも大きく見せたいとか、自分に対する他人の目は矢鱈と気にしていると云うのに、他人の心根そのものに対しては無関心なのかい?」
「あの人は他人の目を気にしていると云っても、分析的に気にしているのではなくて、ただ、大して立派でもない自分の実像を立派に見せたいと云う欲求の上で懸念しているだけだしねえ。人の心の機微にはさっぱり通じてはいないし、通じたいと云う気も無いだろう。そんな人間への関心ではなく、要するに自分の見てくれへの関心だけなんだから」
 均目さんは冷笑を浮かべるのでありました。
「それにしても、あの人は曲がりなりにも坊主なんだろう。仏教はあれこれ小難しい教義や建前はあるとしても、つまるところこの世の人間の心の救済を目的にしているんだし、他者への関心が薄い儘ではそんな高邁な目的は達せられないと思うけどねえ」
 頑治さんは会話上そんな初歩的な理屈を並べながら、あの土師尾常務なんと云う人はそう云う哲理の人ではなく、単に仏教的な形式とか体裁とか雰囲気とかに無上の憧れを感じているだけの、或いはそう云う雰囲気を様々な場面で功利的に利用しているだけの、紛い物坊主である事は既に明白になっているか、とも考えるのでありました。
「あの生臭坊主に、そんな哲理とか仏教的理想がほんの髪の毛の先程でもあると、まさか唐目君は本気で思っているんじゃないだろう?」
 云わんこっちゃなく、均目さんにそう突っ込まれると、頑治さんとしては決まり悪そうに無声で表情だけで笑って見せるしかないのでありました。
「そんな面倒臭い事は良いとして、・・・」
 那間裕子女史が頑治さんと均目さんの遣り取りを如何にも胡散臭そうに横に打遣って、話しの舳先を元の方向に戻そうとするのでありました。「役員になって早速、遣りたい放題に直行直帰、と云うより狡賢い仕事サボりを繰り返して、何の良心の呵責も感じないあの薄ら鈍感に、何か報復する方法は無いものかしらねえ」
「さっきも云ったけど、役員なんですから従業員と同じ就業時間に縛られて仕事をしなくても構わないんだと開き直られたら、結局それで終わりじゃないですか。まあ、こちらの感情が収まらないとしても、理屈上はそれ以上に責める道理がこちらには無いし」
 頑治さんが那間裕子女史の怒りに水を差すのでありました。
「あんな質の悪いチンピラ役員に小賢しく立ち回られると云う事態だけでも、あたしはもうハラワタが煮えくり返るような心地がしているわ」
「要するに、あんな低俗なヤツが、あろう事か那間さんをさて置いて、堂々とのさばっているのが無性に気に入らないと云う事ね」
 均目さんが少しの、或いはかなり多めの揶揄を込めて云うのでありました。
「何それ。感じの悪い云い方ね」
 那間裕子女史の怒りが土師尾常務から均目さんに移ろうとするのでありました。
「気持ちは、俺も均目君も、那間さんと同じですよ」
(続)
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あなたのとりこ 348 [あなたのとりこ 12 創作]

 頑治さんが取り成すように云うのでありました。
「まあその内、土師尾常務の就業態度とかも、この儘じゃ従業員の士気に関わるからと、組合として問題にすることは可能だろうね。でもそれには、予め片久那制作部長を味方にして置く必要があるし、場合に依っては社長もこちらの方に引き入れておく必要もある。土師尾常務を孤立無援にしないと、あの人は自分をなかなか改めないよ」
 均目さんもどちらかと云うと組合としての今後の対処を語ると云うよりは、多分当座の那間裕子女史の心情に配慮する方に力点を置いてそう語るのでありました。
「でも片久那さんは自分の盾として土師尾さんを利用しようと云う魂胆だから、寧ろ皆の怨嗟の的になっていてくれる状態を維持する方が、あれこれ按配が良いと考えているんじゃないかしら。だとしたらあたし達の土師尾さんに対する不満に、或る程度調子良く同調しながら、でも適当にあしらって、結局何もしないなんじゃないかしらね」
「確かにそれはあるかもね」
 均目さんが湯呑を口元から離して頷くのでありました。「それに社長もこちら側の味方に付けるとなると、これも何か気が滅入る程にしんどそうだしなあ」
「基本的に社長は土師尾常務を信用しているんだろう?」
 頑治さんが均目さんが手に持つ湯呑を見ながら訊くのでありました。
「信用しているかどうかは判らないけど、片久那制作部長よりは御しやすいと考えているんだろうな。片久那制作部長は社長にとってなかなか煙ったい存在だし」
「だったら社長は結局、土師尾常務を擁護する方に回るだろうなあ」
「社長としては、まあどのくらい役に立つかは知れないけど、でも色々煩い事を云う片久那制作部長に対する盾として、土師尾常務を遣おうと云う肚もあるだろうし」
「土師尾常務は、盾たる存在としては多方面から重宝がられていると云う訳だ」
「ま、もう一度云うけど、どのくらいの強度のある盾かは大いに疑問だけどね」
「三国一の盾男、と云ったところだ」
「ああ、伊達男の駄洒落ね」
 頑治さんと均目さんはそう掛け合いしながら笑うのでありました。
「二人共、本気で土師尾さんを許せないって思っているの?」
 那間裕子女史が頑治さんと均目さんの不謹慎を詰るように云うのでありました。二人は居住まいを正して、苦笑って那間裕子女史の顔から視線を外すのでありました。
「まあ、この儘の態度で土師尾常務がこれから先ずうっと遣って行ける筈はないさ。当人自ら業績不振だと事ある毎に大声で喚き散らしているんだから、それを打開するために先ずは隗より始めてもらわないとね。自ら範を示す事が、この度常務取締役として優遇を得た者の義務なんだし、それが今からでも遅くない社員の尊敬と心服をかち取る道だし」
「土師尾さんがそんな殊勝な心掛けの人なら、あたしはこんなにあの人をボロクソになんか云ったりしないわ。それとは真反対の人だから苛付いているのよ」
 那間裕子女史が均目さんのどこか公式論のような冗談のような、あんまり本気で怒っていないようなその口振りに、多少敵意を込めた視線を投げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 349 [あなたのとりこ 12 創作]

「ところで、メーデーには初参加するんだろう、ウチの分会も?」
 頑治さんが今迄の話しとは全く無関係な話題を均目さんに振るのでありました。
「そうなるだろうな。色々世話になった全総連への義理もあるから」
 均目さんは那間裕子女史の土師尾常務への敵意がふとした弾みにこっちに向けられたりしたら叶わないと、頑治さんの話頭変更に渡りに舟と乗っかるのでありました。
「一応全員参加が原則かな?」
「ま、原則はそうだけど」
 均目さんはどうしてまた頑治さんがそんな質問をするのか、と云ったような目付きをしながら応えるのでありました。「未だ少し先の話しだけど、五月一日は何か今から予定が入っていて、唐目君はひょっとしたら都合が付かないのかな?」
「いやまあ、そんな事も無いんだけど、・・・」
 頑治さんは曖昧に応えるのでありましたが、ゴールデンウィークには夕美さんが東京に出て来る筈で、頑治さんとしてはメーデーよりは夕美さんとの逢瀬を優先させたいのでありました。まあ、根掘り葉掘り均目さんや那間裕子女史に訊かれるのは勘弁して貰いたいから、それ以上の言葉は畳んで喉の奥に仕舞うのでありましたが。

 出雲さんは当面仕事が無いのでありました。例年は早春からの東北方面から出雲さんの出張営業が始まるのでありましたが、年頭から新たな地方特注営業と云う仕事に回されたので、従来の仕事は袁満さんの方に割り振られて仕舞ったのでありました。
 しかも山尾主任が抜けると云う予期せぬ事態が出来しために、指導者兼相棒たる日比課長が従来の都内特注営業からなかなか足を洗えないのでありました。依って地方特注営業と云う仕事は未だに何も始動出来ないのでありました。まあ、だからと云って、出雲さんはやきもきしていると云うような風は特段見られないのでありましたけれど。
 出雲さんは暇そうにしているからと声を掛けられると、日比課長の都内特注営業回りに助手みたいな立場で同行してみたり、仕事を引き渡した袁満さんの手助けをしてみたりしているのでありました。それに頑治さんが片久那制作部長の云い付けで製作部の仕事の方をやっている時は、倉庫の中で入出庫管理とか発送品の荷造り梱包とか、車での配達とか集荷とかの業務仕事を代わりに受け持ったりしているのでありました。
 出雲さんは従来の地方出張ばかりの仕事はそんなに好きでも無く、些かうんざりしていたのでありましたから、どちらかと云うとこれと云った決まった仕事の無い現状に不安や不本意を覚えると云うよりは、現状のそんな境遇をのんびり謳歌していると云った感じでありましたか。そうしてこんな出雲さんの会社での在りようを、自分には只管甘く、人の瑕疵には甚だ容赦のない土師尾常務が見咎めない筈がないのでありました。
 或る日の午後、出雲さんは日比課長と一緒に会議名目で土師尾営業部長に社外への同道を命じられるのでありました。屹度喫茶店辺りで陰鬱な追及とかお小言を二人揃って頂戴するのでありましょう。まあ、ひょっとしたら地方特注営業と云う新しい仕事に関して、土師尾常務から何かしらの画期的な提案があるのかも知れませんけれど。
(続)
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あなたのとりこ 350 [あなたのとりこ 12 創作]

 と頑治さんは一応考えるのでありましたが、先ずそれは無いもの強請りと云うものでありましょう。土師尾営業部長の口から零れ落ちる提案なんと云うものは、誰でも考え付きそうなものばかりで、しかも自分は何もしないで人に無理を押し付ける類のものばかりなのでありました。第一、部下の粗探しが人の上に立つ者の第一番目の仕事と心得ているらしく、提案、なんと云う仕事があるとは露程も考えていないような風でありましたし。
 一時間程で、出雲さんは土師尾常務のお小言からようやく解放された模様で、社に戻って来るのでありました。尤もその時頑治さんは倉庫で仕事をしていて、戻った出雲さんが一時間を少し過ぎた頃合いで倉庫に現れたものだからそう推測したのでありました。
「上で片久那制作部長が呼んでいますよ」
 出雲さんは頑治さんがその時していた梱包作業を自分が代わろうとする心算で、結束バンドを金具締めする工具を手に持つのでありました。
「じゃあ、後の梱包は出雲さんが代わってくれるのですね?」
「そうっスね。俺が代わります」
「じゃあ、八個口の荷物の内五個まで完了しましたから後の三個を頼みます。発送伝票は未だ書いていませんからそれもよろしくお願いします」
 頑治さんは発送指示書を出雲さんに手渡すのでありました。出雲さんはそれを受け取ってざっと目を通してから六個目の荷物を作業台の上に載せるのでありました。
「土師尾常務とは何の話しだったんですか?」
 頑治さんは特に聞きたそうな風ではなく、至ってさり気なく問うのでありました。
「何でも地方特注営業と云う仕事を、俺一人で明日からやれと云う事らしいっスよ」
「ふううん、日比課長がなかなかそちらに回れないから、ですかね?」
「そうっスね。俺一人じゃ小難しい商談とか出来る訳がないけど」
「今迄全く経験が無いから、それはそうですかね」
「土師尾常務の肚としては、暗中模索で良いから日帰り出来る関東圏の地方都市に兎に角出掛けて行って、飛び込みの特注営業をさせられるようです。まあ、到底俺では頼りにならないだろうと云う見込みのようで、当面成果は期待しないと云う話しっスかねえ」
「ふうん、そうですか。・・・」
 頑治さんは出雲さんから目を逸らして中空に視線を馳せるのでありました。「ところで出雲さんは特注営業の方の商品ラインアップを、ちゃんと掌握しているんですか?」
「まあ、大雑把には判るけど、すっかり全部とはいかないっスけどね」
 出雲さんは自信なさそうに首を何度か横に振るのでありました。
「地図関連なら、地学出版社で出している日本地図帖とか世界地図帖とか、或いはペーパークラフトの地図入りカレンダーとか、その辺は知っていますよね?」
「ああ、それは知っていますよ、当然」
「それじゃあ、生活便利社から出ているポケット便利帳セットとかは?」
「ええと、名前は聞いた事があるけど、それは?」
 出雲さんは及び腰で小首を傾げて見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 351 [あなたのとりこ 12 創作]

「文庫本サイズの食事マナー集とか、表書きの実例集とか、慶弔金相場事典とか」
「ああ、この倉庫で見た事はありますよその商品は」
 出雲さんはそれが置いてあると思しき作業台の右横の棚の方に視線を向けるのでありマました。しかし残念ながらそれはそこには無く、作業台の真後ろの棚に収納してあるのでありました。それでも頑治さんは今敢えてそれは云わない儘にするのでありました。
「それから東京とか神奈川とか、或いはもっと広いエリアで南関東圏とかのグルメガイドと云う冊子なんかは知っていますか?」
「それは確か以前に、金箔の名入れをしたのを刃葉さんが引き取って来て、刃葉さんが忙しいと云うので俺が代わりに、浅草にあるギフト屋さんに納品した事があったかな」
「それならどんな体裁の商品かは知っている訳ですね?」
「まあ、ぼんやりとは」
 出雲さんは頼りない返事とたじろぎの笑いを見せるのでありました。
「ああ、最近良く出るのは、折り畳まれた厚紙に企業名を印刷して、そを六角柱に組み立ててペンスタンドにする廉価な商品がありますが、これは知っているでしょう?」
「いやあ、それは知らないっスねえ」
 出雲さんは狼狽を見せるのでありました。「土師尾常務からウチで扱っている商品カタログを渡されて、一応目を通してはいるんですけどねえ。・・・」
 贈答社で扱っているギフト用の特注商品はそんなに多種多様と云う訳ではなく、覚えようと思えば大した造作も要らず覚えられる筈であります。それにカタログにある商品を実見したければ、倉庫に置いてある物は何時でも見る事も出来たのであります。でありますから、地方特注営業の仕事に就けと命じられて以来、出雲さんは今日に至る迄、そう云う極めて初歩的な下調べなんぞも何もしていなかったと云う事になるでありましょう。
 これはたとえ新しい仕事が気に入らなかったとしても、或いは具体的な仕事内容がさっぱりイメージ出来なかったとしても、それでも自分がこれから扱う商品をちゃんと認知しておくと云うのは営業と云う仕事の、いろはのい、に属するものでありますから、今日に於いて迄そう云う知識を得よとしてこなかったと云うのは、明らかに出雲さんの迂闊と云うのかものぐさと云うものであります。いや寧ろ、土師尾常務の仕事サボりに劣らぬくらいの怠慢と云うものであります。まあ、彼の人程の性質の悪さは見られないとしても。
 頑治さんは出雲さんのこの怠慢に対して内心眉を顰めるのでありましたが、実際には努めて無表情の儘出雲さんを見ながら云うのでありました。
「飛び込みで営業を掛けるとしても、さて何を売りに来たのかと問われてこれが自分で良く判らないとすれば、こんな間抜けな笑い話しはないでしょうね」
「そりゃそうだ、確かに」
 出雲さんはあっけらかんと笑い声を上げるのでありました。
 いやここは気楽に哄笑する場面ではなく、頑治さんの言葉の棘を敏く察して、寧ろ恥じ入るべきところでありましょうか。まあ、出雲さんも袁満さんに負けず劣らず大らかな人なのでありましょうが、少しの食い足りなさがこの人にもあるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 352 [あなたのとりこ 12 創作]

「あ、出雲さんとここでゆっくり会話をしている場合じゃなかったですね。それじゃあ後の発送作業はお願いします。先ず無いと思いますが、若し何か不明な点があったらインターフォンで呼んでください。それじゃあよろしくお願いします」
 頑治さんは片久那制作部長に事務所に上ってこいと呼ばれているのでありましたから、出雲さんとの言葉の遣り取りをここでこれ以上続けている訳にもいかず、片手を挙げて出雲さんに挨拶を送ってからそそくさと倉庫を後にするのでありました。

 この出雲さんの、何の用意も無く見切り発車のように始められた新規営業活動が、組合結成から色々続いていた様々な振動を激震に変える端緒となるのでありました。これ迄の事も充分に身に応える振動だと、頑治さん一人だけではなく従業員皆は感じていたのでありましたが、しかしそれは更なる激震の予兆に過ぎなかったようでありました。
 出雲さんが今迄出張営業で使っていた車は、もう今後は使用する事も無かろうからと疾うに廃車にしてあるのでありました。依って出雲さんは電車で、日比課長のふとした思い付きで口から出たと云う以外にその地を選んだ理由は無いのでありましたが、先ずは新宿駅から中央線沿いに大月市や甲府市、それからもう少し足を延ばして、日帰り出来る信州は諏訪市や少し足を延ばして松本市辺り迄出掛けてみる事になるのでありました。
 出雲さんは商品サンプルや名入れ見本を入れた、ブリーフケースと呼ぶにはかなり大きめの書類カバンを如何にも大儀そうに引っ提げて、朝出掛ける前に日比課長にその日予定している行程を申告してから、足取り重く会社の扉を押し開いて出掛けて行くのでありました。出掛ける前に日比課長にその日の行程を申告するのは、日比課長が一応、出雲さんの新規営業の面倒を見る事になっていたためと云う一端の事情からであります。
 しかしまあ、そればかりではなく例に依って土師尾常務は得意先直行が殆ど常習化していて、朝から会社に出て来ないので申告する事が実態として出来ないと云う事情もありましたか。それに出雲さんの新規営業には、抑々このような営業形態を自分で発案していながら、実際には何の関心も示そうとしないと云うぞんざいな態度でもありましたし。
 数日間やってみて、この新規営業に出雲さんは前の出張営業よりも一層うんざりしたようでありました。車を使えたならもう少しは楽だったかもしれませんが、長い距離を電車で移動して目的地に行って、地図を片手に行き交う人に道を訊ねながらバスや徒歩で地名に慣れない街を回り、また長い時間電車で帰ってくると云うのは、これはもう考えただけでも気持ちも体もしんどい仕事であろうと頑治さんは思うのでありました。
 第一こんな営業は全く以って非効率でありましょう。現地に行くにもかなりの時間が掛かるし、それにまた帰りの電車の事を考えると街中を営業周り出来る時は極めて限られるでありましょう。それに予めの目途もルートも無く、行き当たりばったりに飛び込み営業するのでありますから、現段階で商品知識も豊富とは云えず、この手の営業の手腕も未知数の、それに何より、然してこの仕事に意欲的に取り組む気も無い出雲さんが成果を殆ど上げられないのは、実に無理からぬ事であります。強いてこの営業に活路を求めるとすれば、飛切りの幸運が自分に巡って来る事を只管神頼みするしかないでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 353 [あなたのとりこ 12 創作]

 こんな観念論的営業活動なんぞが上手くいく筈は無いのであります。依って出雲さんは益々塞ぎ込んで仕舞うのでありました。
「出雲さんは今の仕事に就いて間もないのに、もう疲弊したような顔をしているなあ」
 昼食を一緒にとお茶の水下交差点近くのラーメン屋に均目さんと赴いた折に、頑治さんが均目さんに、夫々注文を終えて水を一口飲んでから話し掛けるのでありました。
「ここ最近急に口数が減ったかな」
 均目さんも心配顔で応じるのでありました。
「動き出したばかりの新規の特注営業が上手くいかないんだろうなあ」
「あんな営業方法が上手くいく訳がないのは、初めから判り切っていたけど」
「ちょっと考えただけでも非効率極まりないからなあ」
「車を使えたらもう少し疲労は少ないかも知れないけど、でもまあ、経験も無い出雲君が地理不案内の土地に行って、飛び込み営業するなんて云うのがどだい無茶だし」
 均目さんも水を一口飲むのでありました。
「そうだよな。何処かの会社に飛び込んでも大体は受付で邪険に扱われるだろうし、若し話しを聞いてくれる所があったとしても、出雲君の様子ときたら如何にも新米の営業見習いみたいな風だろうから、先方も侮るだろうし丁寧には対応してはくれないだろうな。勿論、出雲君自身の事をあれこれ論おうと云う心算ではないよ。あんなふざけた営業方法を考え付いて遣らせている土師尾常務に、殆ど総て問題があるのは云う迄もない話しだ」
「例えば日比課長とかが、その土師尾常務の考えた営業形態に、もう少し細かく検討する必要があるとか云って、良識的なところから待ったを掛けるとか出来ないのかねえ」
「無茶だと内心思っても、日比課長は先ず、土師尾常務には逆らわないだろう」
「土師尾常務に異議を唱えるのが面倒臭いからかな?」
「間違いなく面倒臭いのもあるけど、日比課長は結局、自分の保身以外には無関心な人だからなあ。上辺は出雲君に友好的でも、心根の奥ではそれ程でもないさ」
「片久那制作部長が難色を示す、と云う事も無いか」
「無いだろうね。営業部は営業部だとドライに考えているから、こっちも先ず口出しはしないだろうなあ。土師尾常務に軽蔑の目線くらいは投げるとしても」
「分を守って、先ずは土師尾常務のお手並み拝見、と云う態度か」
「あの人のお手並みなんぞは疾うの昔に知れているだろうから、敢えて自分から営業部のゴタゴタには関わりたくないと云う了見だな、寧ろ。まあ、これが会社存亡の危機になるようなら乗り出してくるとは思うけど、今のところ傍観と云うスタンスだな」
 均目さんが丁度そう云い終る頃に盛んに丼から湯気を立てている、頑治さんの注文したワンタンメンと均目さんの五目ソバが運ばれて来て、夫々の前に、この店でもう随分長く働いている、髪を赤色に染めた若い女店員の手でぞんざいに置かれるのでありました。
「相変わらずがさつなヤツだなあ、あの赤色は」
 丼の縁からはかろうじて零れなかったけれど、中でゆらゆら大時化の海のように揺れている汁を見ながら、均目さんが眉間に縦皺を二本刻むのでありました。
(続)
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