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あなたのとりこ 4 創作 ブログトップ

あなたのとりこ 91 [あなたのとりこ 4 創作]

「唐目君が入って二か月どころか一か月経たなくても、もう刃葉君より仕事が出来るようになったものだから、早々に厄介払いしたくなったんだろう」
 日比課長が土師尾営業部長の魂胆を推量するのでえありました。自分の名前が出て来たものだから頑治さんは傾けかけていたジョッキの動きを竟々止めるのでありました。
「それはそうだけどね。唐目君が入ってから倉庫が見違えるように綺麗になったし、棚が何時も整理されているから出し入れも効率的になったし、手際が良いから何をやらせてもそつが無いし、刃葉さんより遥かに仕事の信頼感はあるし、車の運転も上手いし」
 袁満さんが、この場で持ち上げる必要は特段無いようでありますが、頑治さんの仕事振りを褒めて見せるのでありました。まあ確かに、頑治さんが考えてもそれはその通りでありますか。しかし車の運転に関しては袁満さんは頑治さんの技量を知らない筈でありますから、何故それを褒めるのか頑治さんは訊くのでありました。
 そうすると袁満さんは、池袋の宇留斉製本所に行く場合の、帰社時間が刃葉さんより遥かに早い事を理由として挙げるのでありました。
「刃葉さんは何時も午後の一時過ぎになってから帰っていたけど、まあ、途中で昼休みを取るとして、それでも午前中一杯掛かっていただろう。唐目君が行くと場合に依っては十一時前には帰って来るからなあ。だから運転がスムーズなんだろうと思ってさ」
 池袋の宇留斉製本所へは初回は刃葉さんに同行したのでありましたが、別に難しい経路でも込み入った仕事でも無いのだから、次回からは頑治さんが一人で行っているのでありました。羽場さんは色んな理由から自分が行きたそうでありましたが、制作部の山尾さんの指示で次からこれは頑治さんの担当となるのでありました。どうやら当の宇留斉製本所から、次回以降は頑治さんに来て貰いたいとの要望があったようであります。
 それにつけても運転技術だけでは一時間以上の差は出せないと頑治さんは内心で袁満さんに云うのでありました。羽場さんは無意味な近道指向で結局時間を無駄にしたり、未だ仕事時間中であっても帰路に喫茶店に寄ったり私用を入れたりするから遅くなるのであります。しかし頑治さんにはその不謹慎をここで論う了見は別に無いのでありました。
「今まで刃葉君の仕事振りは、一体何だったんだと云う思いは俺にもある」
 日比課長が袁満さんの話しに乗っかるのでありました。「普段から社員の誰彼の目がある倉庫を屡勝手に離れてコーヒーを飲みに行ったりするくらいだから、車で外に出たらもっと盛大にやりたい放題だろうとは想像が付いているけどね」
 日比課長は袁満さん程おっとりとはしていないようであります。
「そのサボりを今まで誰も注意しなかったんですか?」
 頑治さんは日比課長の手中のコップにビールを注ぎ入れながら訊くのでありました。
「下手に注意してキレたら怖いからなあ」
 袁満さんが諦めの笑いらしきを口の端に浮かべるのでありました。「相手は柔道とかの有段者だし、自戒とか抑制とか云う言葉が体内の何処にも無い人だし。それに第一刃葉さんは俺とか日比さんを日頃から小馬鹿にしているから、そんな人に注意されたりしたら屹度逆上するだろう。それに、日比さんときたら迫力のある顔なんか出来ない人だし」
(続)
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あなたのとりこ 92 [あなたのとりこ 4 創作]

 急に袁満さんに自分の顔にケチを付けられた日比課長は思わず苦笑うのでありました
「いや俺も袁満君が考えている程、実は甘くはないんだよ」
「へえ、そうかねえ」
 袁満さんはあくまで侮りの口調を崩さないのでありました。「でも実態は、日比さんの事を何も有意な事を云えない、単なるお調子者のスケベ親父としか刃葉さんは見ていないと思うよ。完全に見縊られているに決まっているよ。出雲君もそう思うよなあ」
「いや良くは判りませんが」
 袁満さんよりも年下で、それに袁満さん程日比課長に遠慮が無い訳ではないためか、出雲さんは曖昧且つ無難に袁満さんの同意の要請を笑って受け流すのでありました。
「俺だってこう見えても、昔は柔道を少し齧った事があるんだから、そう簡単に刃葉君に遅れは取らない心算だけどなあ」
 日比課長はどういう了見か、諄く自分が力の行使では負けないと云う点に於いてのプライドを守ろうとしているのでありました。少し酔ってきたのでありましょうか。
「昔は柔道を齧った事があったとしても、現役黒帯の刃葉さんには先ず喧嘩じゃ叶わないに決まっているよ。それに日頃の自堕落な生活が祟って、その齧ったとか云う分はとうの昔に消えてなくなっているさ。年寄りの冷や水、と云う辺りが関の山だね」
「年寄りはないだろう。俺も袁満君如きに盛大に見縊られたもんだな」
 日比課長はコップのビールを飲み干すのでありました。まあ、これ以上ムキになって袁満さんに食い付かない辺り、未だ日比課長の酔いは然程でも無いのでありましょうか。
「山尾さんとかがきっぱり注意する事も無かったのですか、それに制作部長とかも?」
 頑治さんが話しを元に戻すのでありました。
「山尾君は時々小言を云っているみたいだけど、それも一向に効き目が無いようだね」
 日比課長が出雲さんにビールを注ぎ足して貰いながら云うのでありました。
「刃葉さんは山尾さんの事も融通の利かない朴念仁だと侮っているようだしね」
 袁満さんがコップを一口傾けてから云うのでありました、中身は殆ど減ってはいないのでありますが、出雲さんは袁満さんのコップにもビールを注ぎ足すのでありました。
「刃葉さんは社内の人総てを侮っているみたいですね」
「そうだね、唯一の例外は片久那制作部長なんだけど、無駄だと思っているのか刃葉さんには何も注意を与えない。存在自体を全く無視、と云う感じみたいだね」
「そんなものぐさで良いんですかね」
 頑治さんはそう呟いてから出雲さんが差し出すよりも早く、自ら瓶を取って自分のコップにビールを注ぎ入れるのでありました。これは、年下とは云え会社の中では先輩に当たる出雲さんの手数を憚った心算でありました。
「良いか悪いかは兎に角、今迄そう云う風に刃葉君を憚ってきたのは確かだね」
「ああそうですか」
 頑治さんは醒めたように呟くのでありました。これはつまり、度を越した事なかれ主義であり、会社への思い入れが社員全員に欠けている証しとも取れる訳でありますか。
(続)
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あなたのとりこ 93 [あなたのとりこ 4 創作]

「どうして皆さんそんなに刃葉さんを憚るのでしょうかね?」
「どうしてと云われても、・・・どうしてかねえ」
 袁満さんが苦笑うのでありました。
「面倒臭いからじゃないっスか」
 今迄意見らしき意見をものさなかった出雲さんが云うのでありました。
「刃葉さんと関わり合うのが面倒臭い、と云う事ですか?」
 一応先輩に対する配慮から頑治さんは丁寧な物腰で訊くのでありました。
「まあ、そうっスねえ」
 出雲さんは頷いて頑治さんに愛想笑いを送ってくるのでありました。
「別に刃葉さんの腕力に畏れをなしていると云う訳ではないのですね」
「意外かも知れないけど刃葉さんは腕力を誇示して、人を威迫すると云うようなところは別に無いですからね。人を侮るような振る舞いはするけど、それは腕力に依っているんじゃなくて、自分以外の人間は皆浅はかなヤツに見えているからでしょうし」
「そうね、自分は他の有象無象と違ってご大層な人間だと信じ込んでいる節はあるね」
 日比課長が肯うのでありました。「俺なんか典型的な俗物と思われているようだし」
「まあ、それは当たっているけどね」
 袁満さんが混ぜ返すのでありました。
「そう云う袁満君なんかは屹度、お人好しだけが取り柄のようなそうでないような、気の利かない鈍間で鈍感なヤツだと思われているんだぜ」
「うん、確かにそうだろうなあ」
 袁満さんは別に逆らわないのでありました。成程お人好しなのでありましょうか。
「刃葉さんは高邁で気高い人なのでしょうかね」
 頑治さんは少し考えるような顔で訊くのでありました。
「まさか!」
 袁満さんが鼻で笑って吹き出すように云うのでありました。「あれを高邁とか気高いとか云うのなら、高邁と気高いの神様のばちが当たるよ」
 大して面白い云い回しとも思わなかったけれど、無視するのも会社の先輩に対して無愛想かと、頑治さんは軽い笑いを唇から零して見せるのでありました。
「そう云えば制作部の均目さんが、刃葉さんはああしているけどひょっとしたら途轍もない大志を抱いているのかも、とか前に飲み会で云っていましたよねえ」
「色んな武道を意欲的にやっているし武道を探求するために一見関係の無いバレエまで始めたくらいだから、屹度一廉の武道家になりたいと云う意志はあるのでしょうね」
 出雲さんが特に毒気の無い講評をするのでありました。
「でも会社の仕事振りから見ると、万事にちゃらんぽらんだし」
 袁満さんが疑わしそうな目で出雲さんを見るのでありました。
「会社の仕事はちゃらんぽらんでも、武道に関してはそうじゃないのかも知れませんよ」
「仕事がちゃらんぽらんなんだから、武道の方もちゃらんぽらんだとも考えられる」
(続)
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あなたのとりこ 94 [あなたのとりこ 4 創作]

「ちゃらんぽらんなら仕事を差し置いて迄も武道の練習はしないでしょう」
「ああ確かにね。でもこっちにしたら仕事を差し置かれるのが困ったものだけどね」
「それは云えていますけど」
 出雲さんは苦笑しながら何度か頷くのでありました。
「まあ、ああ云う人だから、武道の道場の中でも色んな人と軋轢を引き起こしているんじゃないかな。武道に向きあう気持ちと道場での人間関係は別物だろうから」
 袁満さんはどうしても刃葉さんと云う人を信用してはいないようでありました。

「刃葉君は社員の中でも特に、土師尾営業部長が一番気に入らない存在だから」
 日比課長が同じ刃葉さんの話題ながら少し話しの色味を変えるのでありました。
「そう云えば前に、土師尾営業部長の事を生臭坊主だと軽蔑していましたね」
 出雲さんが日比課長の話題を受けてそう応えるのでありました。
「俺もあんなインチキ坊主は滅多に居ないと思っているよ」
 袁満さんはこの点、信を置いていない刃葉さんと同意見なのでありました。
「何ですかその、生臭坊主、とか、インチキ坊主、と云うのは?」
 頑治さんが三人の誰にとも無く訊くのでありました。
「土師尾営業部長は坊主の資格を持っているんだよ」
 袁満さんが応えるのでありました。
「坊主の資格、ですか?」
「勿論それは国家資格とかそう云ったものなんかじゃないけどね」
「要するに僧籍に在ると云う事ですか?」
「そう。千葉の或る寺の副住職だか副々住職だかしているみたいだよ」
 袁満さんが説明を始めるのでありました。「住んでいる家の近くの寺でね。学生時代に何かそっち方面の勉強をして資格を取ったらしいよ」
「仏教関係の学校に行かれていたのですか?」
「いや、そうじゃないけど」
 聞けば土師営業部長の出身大学はどちらかと云うと神道系で有名な大学でありました。色んな地方の神社の、神官をしている家の子弟が家を継ぐためにその大学に通うと云う話しは、何となくではありますが頑治さんは誰かから聞いて知っているのでありました。
「その大学は仏教とはあんまり関係が無いところではないですかね」
「まあそうだね」
「土師尾営業部長の実家がお寺なのですか?」
「いや、違うんじゃないかな」
「では神社の方ですか?」
「それも無関係みたいだよ」
「では自分の了見で神道系の大学に入って、仏教の方に進路を曲げたと?」
「学力とか、入学金とか、色んな条件からその大学に行ったんだろうけどさ」
(続)
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あなたのとりこ 95 [あなたのとりこ 4 創作]

「あの人は経営学部の出身じゃなかったかな」
 日比課長が横から補足するのでありました。「大学に入った時には神道にも仏教にも全然興味は無かったんじゃないかな。何かしらの個人的な事情があって仏教に目覚めたと云うような話しを聞いた事がある。その事情とやらは具体的には知らないけど」
「土師尾営業部長は片久那制作部長と同じ全共闘世代ですよね」
 頑治さんは確認するのでありました。
「そうね。あの二人は同い歳だからね」
「大学時代に接点は無かったにしろ、一方は政治に、一方は宗教に走った訳ですね」
「そう云うとあの二人を同列に並べているみたいだけど、片久那制作部長はバリバリの闘士で今でも何となくその面影は窺えるけど、土師尾営業部長の方はどんなものかな」
 日比課長は宗教者としての土師尾営業部長の方には懐疑的なようでありました。
「そう云えば均目さんが土師尾営業部長の事を、葬式の作法とか仏壇のディテールなんかには詳しいけど、肝心の親鸞やら蓮如の思想についてはありきたりの知識しかないようだって云っていましたね。一般的に坊主が説法でやる程度で本人の思考の深化は無いと」
 出雲さんが話しに加わるのでありました。
「親鸞とか蓮如とかだから、宗旨は浄土真宗と云う事ですかね」
「俺は仏教についてはド素人だから、何宗かは良く知らないっスけど」
 頑治さんの質問に出雲さんは少したじろぎを見せるのでありました。
「何かの折に、悪人正機説、とか云っていたから、多分そうだろうね」
 日比課長が横から頷くのでありました。
「でも、均目さんがそんな話しを土師尾営業部長とする折があったんだ」
 その点が頑治さんには少し意外でありました。
「去年の社員旅行で伊東温泉に行ったんだけど、その時の部屋割りで均目さんと俺とそれに土師尾営業部長が偶々一緒の部屋になったんですよ。多分その時っスね、二人がそう云った事について話す機会があったとすれば」
 出雲さんが経緯を推測するのでありました。「俺は袁満さんと日比課長と三人で、街に繰り出して遅くまで場末のスナックで飲んでいたから、その場には居なかったけど」
「ああ、あのスナックね」
 日比課長がそう云って苦笑うのでありました。「あそこは参ったなあ」
「寒いからって何処でも良いから入ったんだけど、何となく店の装飾は古びているし、ソファーは破れているところが目立つし、中に居るお姉ちゃんはちっとも若くないし、図々しいし騒々しいし、がさつだし下品だし、商売っ気丸出しだし」
 袁満さんが思い出してげんなり口調で愚痴を云うのでありました。
「そう云う割には袁満君が一番ノリノリで、お姉ちゃん達とキャアキャア云いながら一気飲み合戦したり、オッパイに触ったりちょっかい出して戯れていたくせに」
 日比課長がからかうのでありました。
「それは日比さんの方でしょう」
(続)
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あなたのとりこ 96 [あなたのとりこ 4 創作]

 袁満さんは苦った表情で云い返すのでありました。「大人しく飲んでいる俺や出雲君の横で、日比さんだけがお姉ちゃんに悪ふざけしながら羽目を外していたんだ」
「いやいや、袁満君こそ目立たないながら執拗にちょっかい出していたくせに」
「そんな事無いよ」
 袁満さんが首を横に振りながらきっぱり否定するのでありましたが、こうまで一生懸命肯んじないところを見ると日比課長の言も満更間違ってはいないのかも知れません。
「その伊東温泉の社員旅行中に均目さんの方から、何気なく浄土真宗の教義とかについて土師尾営業部長に訊ねたのでしょうかね?」
 頑治さんは話しの舵を土師尾営業部長の宗教の方へ戻すのでありました。
「部屋で二人になって布団を並べて寝ている時に、丁度良い折だと思ったのか、土師尾営業部長の方から話し出したって均目さんは云っていましたけど」
 出雲さんがそう云いながら頑治さんのコップにビールを注ぐのでありました。
「宗教の話しになったら待ってましたとばかり得意になってベラベラ喋り出すに決まっているから、そんな面倒臭い事を態々均目君の方から仕かける筈はないわなあ」
 袁満さんも頑治さんの後に出雲さんの酌を受けながら云うのでありました。
「土師尾営業部長にしたら、屹度勧誘でもしようと云う魂胆だったんでしょうね」
「布教活動の一環と云う訳ですか」
 頑治さんはすっかり満たされたコップのビールを二口で半分程飲むのでありました。空かさず出雲さんはまた頑治さんのコップの上でビール瓶を傾けるのでありました。
「そう云う心算だったかも知れないけど、ところがどっこい均目さんは大学時代の専攻は日本思想史だったから、そう一筋縄ではいかないと云う寸法です」
「均目さんは日本思想史が専攻だったんですか?」
「そうみたいだね。確か史学部だったか文学部だったかの、日本史科だったか哲学科だったかの卒業だって前に訊いた事があるね」
 袁満さんがそんな事を紹介するのでありました。頑治さんは均目さんが大学時代に日本史だったか哲学だったかを専攻していたと云うのは初耳でありました。今迄均目さんとそんな話しはしなかった故でありましたが、成程そう云えば均目さんは頑治さんと閑話する時でも、話し振りに妙に理屈っぽいところがあるのはその故かも知れません。
「均目さんに依れば土師尾営業部長は先ずは均目さんの家の宗旨を聞いてきて、それから滔々と浄土真宗について語り出したって云っていました」
 出雲さんが伊東温泉の旅館の部屋での話しを続けるのでありました。
「土師尾営業部長は均目さんが入社する時に履歴書に目を通しただろうに、大学時代に日本思想史を専攻したと云う事は知らなかったのでしょうかね?」
「知らなかったんじゃないですか。或いは、目を通していたとしても新入社員の学歴なんか、大学の名前には多少の興味を示したとしても、その専攻まではどうでも良かったたと云う事じゃないですかね。どうせ営業部ではなく制作部に入る人なんだし」
「土師尾営業部長は損得勘定以外は結構な迂闊者でもあるしね」
(続)
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あなたのとりこ 97 [あなたのとりこ 4 創作]

 袁満さんが横から話しに加わるのでありました。
「迂闊じゃなくても、履歴書の中に書いてある、日本思想史、と云う言葉がピンとこなかったのかも知れないな。大体に於いて血の回りが悪い人だからね、あの人は」
 日比課長も参加するのでありました。
「親鸞とか蓮如がどうのって話すんだけど、土師尾営業部長は本当にその思想が判っているのか均目さんは大いに疑問だったようですね。この人は僧服を着てお経をつるっと暗記して、それを如何にも外連味タップリに唱えて見せて、仏事の作法を細々習得すれば立派な坊主になったと考えているだけの人じゃないかって、そう思ったそうです」
「まあ、あの人の仏教に対する了見は粗方そんな程度だろうな」
 袁満さんが出雲さんが紹介した均目さんの意見に同意を示すのでありました。
「でも、学生時代に特に今まで縁も所縁も無かった仏教に傾倒したというのであれば、それなりにそれを求める気持ちが高揚する経緯があったと云う事じゃないですかね」
 頑治さんがボソッと云うのでありました。
「気持ちが高揚する経緯って?」
 袁満さんが首を傾げて頑治さんを見るのでありました。
「まあ例えば、境遇に於いて激変があったとか、生涯を決定するような霊的感動があったとか、自分のこれまでの生き様に心底悩んでいたとか」
「そんなもの、あの人にある訳が無い」
 日比課長が憫笑を湛えて、ここもきっぱり否定して見せるのでありました。「そんな高尚なオツムなんかあの人は持ちあわせていないよ」
「別に高尚と云うのではないでしょうが」
「兎に角、人を差し置いてでも自分が先ず得をしようと云う卑劣な根性しか無いし、只管隠そうとしてはいるけど俺以上にスケベで俗物だね。まあ、体裁上人に高尚な人間に見られたいと云うさもしい目論見は人一倍持っているみたいだけどね、あの人は」
「日比さんよりスケベで俗物と云うのなら、それは相当なものだね」
 袁満さんが混ぜ返すのでありました。
「でも親鸞だって最初はそう云われて迫害されていたでしょう」
「親鸞はそうかも知れないけど、アレは全くの別物だ。正真正銘生一本の俗物だよ」
 日比課長は自信たっぷりに請け合うのでありました。竟にアレ呼ばわりになったところを見ると、日比課長も土師尾営業部長を心底では軽侮しているようであります。
「均目さんは、あの人は親鸞の教えを悪用しているだけだとも云っていましたね。俺はさっきも云ったように仏教にはド素人だから、それがどういう事かよく判らないけど」
 出雲さんが再び均目さんの意見を紹介するのでありました。要するに悪人正機説を逆手に取って、念仏さえ唱えていれば何をしようが構うもんかと開き直っていると云う事でありましょうか。まあ、その内均目さんに訊いてみれば教えてくれるでありましょうが、それにしても土師尾営業部長はひょっとしたらその悪質性に於いて刃葉さん以上に社員から、いや少なくとも頑治さんの前に居る三人から疎まれている存在なのかも知れません。
(続)

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あなたのとりこ 98 [あなたのとりこ 4 創作]

 給料とか待遇は特に希望は無いがその日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかしなかなか堅実に続いて行きそうな会社、と云うのが飯田橋の職安職員の田隙野道夫氏に就職斡旋を頼んだ時の頑治さんの条件でありました。さて、贈答社と云う会社はこの条件にどの程度適合しているのか頑治さんは判断が付かないのでありました。ざっくりと考えれば概ね合致しているようでもあり、しかし実は何一つとして符合していないような気もするのでもあります。
 勿論そんな呑気な条件に当て嵌まるような会社は何処にも無いでであろう事は、頑治さんも端から承知はしているのでありましたが、しかし居心地と云う点でこの贈答社はどんなものでありましょう。まあ、未だここで判断を下すのは早計でありましょうが。

 結局刃葉さんは、土師尾営業部長から出された一か月早い退社の勧告を呑むのでありました。刃葉さんに支払う一か月分の給料の出し惜しみからそんな事を提案してみた土師尾営業部長にしてみたら、これは瓢箪から駒が出たような按配になりますか。刃葉さんの方は、そうまで云われて一か月分の賃金欲しさに会社にしがみ付いているのは、誇り高い彼の人でありますから沽券に関わると云ったところでありましょう。
 刃葉さんは翌日、九時を少し過ぎた頃会社に遣って来てその儘土師尾営業部長の机の方に一直線に進むと、その机の上に、辞職届、とボールペンで表書きしてある白封筒を放り投げるように置いて土師尾営業部長を見下ろすのでありました。土師尾営業部長は先ず封筒に目を遣り、それから徐に横に立っている刃葉さんを見上げるのでありました。
 刃葉さんの退職届を提出する態度に何かいちゃもんを付けたいようでありましたが、細い目を余計細めて無表情に自分を見下ろしている刃葉さんを不気味に思ったのか、何も云わずに徐に目を逸らして封筒を取り上げると、その中に入っている折り畳まれた便箋を引っ張り出すのでありました。机で在庫帳を開いていた頑治さんは、土師尾営業部長の便箋を取り出す手付きが妙にぎごちないように見えるのでありました。
「辞職届を今月の二十日付けに書き直してきました。これで良いんでしょう」
 便箋に目を落としている土師尾営業部長に向かって刃葉さんが突慳貪に声を振り掛けるのでありました。その声に土師尾営業部長は顔を起こすのでありました。
「判りました。受理します」
 土師尾営業部長は何故か一見丁寧な言葉遣いで云うのでありました。しかし感情の籠っていない冷たい云い方ではありました。せめてもの不快の表明でありましょうか。
 今月の締め日まで出社するようでありますから、刃葉さんはあと三日したら退社となる寸法であります。この間で頑治さんへの仕事の引継ぎは粗方完了しているのでありましたし、それに若し完了していなくとも、頑治さんは特段刃葉さんをこの先必要としないでも充分仕事を熟して行けるでありましょう。依って刃葉さんの予定より早い退社は頑治さんには何の支障も無いのでありました。寧ろ先輩への気兼ねが無くなる分、頑治さんは気楽になると云うものでありますか。満更悪い事態の推移と云う訳ではないのであります。
(続)
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あなたのとりこ 99 [あなたのとりこ 4 創作]

「有給休暇が未だ残っているから今日はこれで帰りますし、明日も来ません」
 刃葉さんが土師尾営業部長にまるで宣言するように云うのでありました。「明後日は一応最後の挨拶と私物の整理に来ますが、それで構わないですね」
「有給休暇があるのなら仕方が無いけど、仕事の方はそれで問題無いんだね?」
 土師尾営業部長はこの宣言をあっさり了承するのも癪だと思ってか、一応そこいら辺を確認すと云った風に訊き糺すのでありました。
「問題が無いと部長も思ったから、昨日さっさと辞めろと云ったんでしょう」
 刃葉さんは何をほざくかと云う顔をして苛立たし気な口調で返すのでありました。
「別にさっさと辞めろ、なんて云っていないよ」
 土師尾営業部長はしれっと抗弁するのでありましたが、それを聞いて頑治さんは吹き出しそうになるのでありました。使った言葉は違っていても、謂いはさっさと辞めろと云う事に違いないのでありますから、何を今更どの面下げてと云うところであります。
 刃葉さんは土師尾営業部長の云い草に、急に表情を険しくするのでありました。しかしこの期に於いて云った云わないで争うのは全く無意味だと考えてか、まあ良いや、と呟いて不愉快そうに受け流して、頑治さんの方に顔を向けるのでありました。
「もう俺が居なくても大丈夫だよな?」
 刃葉さんは頑治さんにそう確認を取ろうとするのでありました。
「大丈夫です」
 頑治さんは簡潔に応えるのでありました。これは些か刃葉さんに対して素っ気無さ過ぎる云い方だったかなと、云った後で思うのでありました。
「唐目君もそう云っているんだから、問題は無いですね」
 刃葉さんはまた土師尾営業部長の方に顔を向け直して無愛想に云うのでありました。
「判りました。そう云う事なら」
 土師尾営業部長はまたもや丁寧な口調で頷くのでありました。
 刃葉さんはその言葉を聞いて土師尾営業部長との遣り取りを切上げて制作部のスペースに向かうのでありました。そちらへも後三日で辞める事にした点と、今日明日は有給休暇を取って明後日に顔を出す旨告げるためでありましょう。
 マップケースの壁に阻まれて頑治さんには制作部での遣り取りは確とは聞こえなかったものの、別に片久那制作部長が刃葉さんを引き留める様子も窺えないし、刃葉さんの思わぬ早目の退社をあっさり受け入れるようでありました。
「今までご苦労さん。落ち着いたらまた遊びに来てよ」
 山尾主任もそんな気の無い愛想なんぞをものして餞としているのでありました。均目さんは仕事の上で刃葉さんと馴染みも有ったから、こちらも、ご苦労様でした、の短い別れの挨拶を送るのでありましたが、那間裕子女史は殆ど交流が無かった故か特段餞別の言葉を発する気配も無いようでありました。まあ女史としても刃葉さんの方をふり向いて、一時でも同じ釜の飯を食った会社の同僚として軽く頭くらいは下げたでありましょうが、しかし何れにしても制作部の反応は全く呆気無い程事務的な様子でありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 100 [あなたのとりこ 4 創作]

 刃葉さんが出て行った後でそれとなく頑治さんが土師尾営業部長を窺うと、大いに晴れやかな顔色なんぞをしているのでありました。刃葉さんの自分への恨みの矛先を兎も角も躱して、当面の危機を脱した事への安堵のためでありましょう。それにひょっとしたら瓢箪から駒ではありますが、刃葉さんへ支払う予定の一か月分の賃金をケチり得た満足もあるのでありましょう。しかもそれは自分の一言に依って齎された功績であります。
 頑治さんはふと、嫌なものを見た気がするのでありました。こう云う顔色をあっけらかんだかうっかりだか表わして仕舞う土師尾営業部長のある意味での素朴さを、大いに頼り無く感じたのでありました、こんな人が会社を統べていて大丈夫でありましょうか。

 頑治さんは午前中の発送仕事を熟すために倉庫に下りて行こうとするのでありました。「午前中に業務の車を使うかい?」
 頑治さんが扉のノブに手を掛けた時に袁満さんから声を掛けられるのでありました。
「いや、午前中は梱包をしていますから車は使いません」
「それなら駐車場のエレベーターの上にある俺の車と入れ替えして構わないかな?」
 袁満さんが、俺の車、と云うのは別に袁満さん所有になる車と云うのではなく、袁満さんが専用に出張に使っている会社所有の、前の両ドアに社名の入った白いバンの普通車であります。因みに出雲さんは、贈答社で使える下の駐車スペースが二台分しかないため、普段は赤羽の自分の家の近くに会社で駐車場を借りて貰っていているのでありました。出張に行く時には前日にそこから運転して会社に持って来るのであります。
 袁満さんは明日から出張に出るので、荷物の積み込みとか準備をするために頑治さんにそんな事を訊いたのでありました。
 頑治さんと袁満さんは揃って下の倉庫に下りて行くのでありました。車の上下入れ替え作業を終えてから二人は倉庫に入るのでありましたが、袁満さんはなかなか自分の仕事に取り掛からないで頑治さんの傍に来て今さっきの事務所での出来事に付いて、頑治さんに少し高ぶった口調であれこれものすのでありました。
「もう仕事の方は刃葉さんなんか居なくても大丈夫なんだろう?」
「ええまあ、大体が単純作業だから俺一人でも何とかやれると思いますよ」
「そうだよなあ。そんな込み入った作業じゃないから、一度要領を覚えれば大丈夫だよなあ。でもそんな仕事も刃葉さんはミスばっかりしていたけど」
 ここでそうですねと頷くのも一応会社の先輩である刃葉さんに対して不謹慎であろうから、頑治さんは曖昧に笑って返す言葉を保留するのでありました。
「刃葉さんはかなり土師尾営業部長に対して怒っていたんだろうな」
 袁満さんが梱包の荷物を取りに行こうとする頑治さんの作業を引き留めるように言葉を掛けてくるのでありました。頑治さんは一応礼儀から歩を止めるのでありました。
「見込んだ収入とか、次の就職先を見付ける算段とかが狂ったんじゃないですか」
「そうだよな。でも予定通り辞めるのが一か月後だったところで、事前に次の仕事を探すような周到さは刃葉さんには元々無いだろうから、算段も何も無いんじゃないかな」
(続)
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あなたのとりこ 101 [あなたのとりこ 4 創作]

「その辺は俺には判りませんけどね」
「まあしかしこれでようやくこの倉庫の中も綺麗になるだろうね。唐目君は綺麗好きらしいし几帳面だし、仕事もそつが無いし気も利くし」
「いやあそうでもないかも知れませんよ。自分で自分の事を綺麗好きとか几帳面なんて思った事もありませんからね。倉庫の美化に関しては保証の限りではありません」
「現に唐目君が来てから格段に綺麗になったし、商品は整理整頓されているし、この棚の見取り図と正確な在庫表のお蔭で商品の出し入れもスムーズになったし」
 袁満さんは貼ってある見取り図を指差しながら頑治さんを大いに持ち上げるのでありました。しかし刃葉さんの事はさて置き、山尾主任や均目さん、それに出雲さんやこの目の前の袁満さんとか、倉庫によく出入りする他の人が今迄仕事の効率化のために何の画策もしなかったと云うのが、頑治さんにしたら何とも怠慢にも思えるのでありました。
 倉庫の現場管理者たる刃葉さんを憚ったと云うのもあるのかも知れませんが、しかしそれにしてもそんなのは態の良い云い訳以上ではないでありましょう。第一これ等の人達は刃葉さんの仕事振りを信用もしていなかったし侮って止まなかったのでありますから、仕事が滞ると思うなら、刃葉さんに遠慮すること無く、それに陰で刃葉さんへの不満をものすだけでなく、自分が何がしかの方策を堅実に施せば良かったのであります。
 依ってこれ等の人達も、無責任と職務怠慢の誹りは免れないと頑治さんは思うのであります。まあここで敢えてそれを口にして論う心算は無いのでありますが。

 二日後に刃葉さんは会社に遣って来るのでありました。頑治さんはその日は午前中に上野の取引先に商品配達の仕事があったので、倉庫の私物を整理すると云う刃葉さんを残して一人で出かけるのでありました。私物の整理とやらでまた倉庫内が荒らされるのではと云う危惧もあったのでありましたが、帰ってみると特段倉庫が取り散らかっている様子も無いのでありました。頑治さんは秘かに安堵の溜息を吐くのでありました。
 倉庫に在る刃葉さんの私物と云ったら、ロッカーに入れてある数本の木刀やらボクシングのグローブやら、襟の辺りが古びて解れた柔道着やら、これも縁が解れて色も褪せた錦糸で名前の刺繍が入った柔道の黒帯やら、空手の突きの練習用に棚の柱に括り付けたある古座布団やらでありますが、作業台の上に並べている、持って帰るのであろう物を見ると柱に括り付けていた古座布団がそこには見当たらないのでありました。頑治さんにしたら今迄倉庫の中でそれが一番目障りだったからその事を訊き糺すのでありました。
「奥にある柱に縛り付けている座布団は持って帰らないのですか?」
 そう訊かれて刃葉さんはどう云う心算なのかニヤリと笑うのでありました。
「ああ、あれね。あれは捨ててくれて構わない」
「俺が捨てるのですか?」
「他に何かあれこれ見付けたら適当に処分してくれて構わないよ」
「いやそうじゃなくて、今日の内に刃葉さんが自分で、自分の責任に於いてすっかり処分して行くんじゃなくて、後で俺が捨てるのですかと訊いたのです」
(続)
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あなたのとりこ 102 [あなたのとりこ 4 創作]

 頑治さんにそう云われて刃葉さんは、ああそう云う事を云っているのか、と云うようなやや不興の色の雑じった無表情になるのでありました。頑治さんは刃葉さんを不愉快にさせたかなと思うのでありましたが、たじろがないで刃葉さんの目を真顔で一直線に見るのでありました。言葉を発した以上、もう後には引き下がれないのでありました。
「テメエの始末はちゃんとテメエでして行けよな、と云う訳ね」
 刃葉さんはこの期に及んで何故か妙に突っかかって来る頑治さんに対して余裕を見せるためか、薄ら笑いなんぞを頬に浮かべて見せるのでありました。
「その通りです。立つ鳥跡を濁さず、とか世間ではよく云うじゃないですか。本当なら最後に倉庫の中や駐車場、それに車の掃除やら、自分がこれまで使っていた会社の備品なんかも綺麗に手を入れてから会社を去るのが筋ではないですかね」
 正論でありましょうから頑治さんは気概として一歩も引く気は無いのでありました。これが恐らく刃葉さんと関わり合う最後の時なのだから、今まで溜めに溜めていた鬱憤を少しはぶちまけるぞと云う気でもありましたか。
「何だ、最後の最後にお説教か」
 刃葉さんの目尻に険しさが現れるのでありました。同時に多少の気後れの色も浮かぶのは頑治さんの小生意気な言が正論であると判るからでありましょう。
「説教ではありません。筋を云っているだけです」
 頑治さんは無愛想ながらも冷静な物腰で云うのでありました。上擦った様子は見せられないところであります。眼光を強くして、後は刃葉さんが怒って実力行使に及んだら、及ばずながらも対抗するしかないと臍を固めるのでありました。
「判ったよ」
 暫くの睨み合いの後で刃葉さんがふと視線を外すのでありました。「奥の座布団は外して持って帰るよ。それで良いんだろう」
 事ここに至っては古座布団の件だけではなく、倉庫や駐車場や車の掃除やら備品の手入れやらの、去るに当たっての礼節や態度の涼やかさの事も頑治さんは云ったのでありましたが、古座布団以外にそれを刃葉さんに望むのは無理かとも考えるのでありました。
 刃葉さんは倉庫奥に行って古座布団を外してくるのでありました。それからそれをゴミ入れ代わりのポリバケツに放り込もうとするのでありましたが、そんな無作法な行為にまたもや頑治さんが噛み付くかもしれないと思ったのか、机上に纏めてある、持って帰るべき私物の上にそれを載せるのでありました。なかなか気遣っている様子ではあります。
「じゃあ、短い間だったけど、世話になったな」
 刃葉さんは纏めてある私物を古座布団込みで抱えると頑治さんに手を挙げて見せるのでありました。何はともあれここは糞生意気な頑治さんへの不快をグッと腹の底に呑み込んで、大度な辺りを見せようとする心算でありましょうか。
「ご苦労様でした。こちらこそお世話になりました」
 頑治さんは顔色を改めて静かに云ってお辞儀するのでありました。
「ま、また縁があったら逢おうぜ」
(続)
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あなたのとりこ 103 [あなたのとりこ 4 創作]

 そう云われて頑治さんは一応愛想から口角を上げてみせるのでありましたが、刃葉さんとはこの先縁が無くなる事を祈るのでありました。そう云う頑治さんの気分なんぞは隠せないもので、刃葉さんは苦笑してから頑治さんに背を向けるのでありました。

   木枯し

 夕美さんがバスタオルで洗い髪を拭きながら風呂場から出て来るのでありました。
「寒い々々」
 夕美さんは炬燵に足を潜り込ませながら云うのでありました。「この頃随分寒くなってきたわね。もう本格的な冬って感じ」
 頭を拭いたタオルが未だ夕美さんの肩に掛かった儘になっているのは、充分に髪の毛の水分が拭き取られてはいないからでありましょう。頑治さんは夕美さんの首半分を隠すように厚く蟠っている肩のバスタオルを見ながら返すのでありました。
「未だ十一月の初旬だと云うのにね」
「今年は例年になく冬が来るのが早いってテレビで云っていたわ」
「今年は大雪が降るかもかも知れない」
「そうね。それもニュースで云っていたわ」
 夕美さんは肩のタオルで横の髪を挟むようにして水気獲りに忙しいのでありました。頑治さんは立ち上がって冷蔵庫から缶ビールを持って来るのでありました。寒い々々と云いながら冷えた缶ビールもないかと思うのでありましたが、しかし態々日本酒の熱燗を仕込むのも面倒であります。まあ、大して手間は掛からないでありましょうけれど。
 頑治さんが夕美さんの前に缶ビールを置くと夕美さんは髪の毛拭きの手を休めない儘、先ずその置かれた缶を見て、それからすぐに頑治さんの方に目を移してニッコリと微笑むのでありました。何時ものように可憐な笑顔でありました。頑治さんは冷えた自分の指先にほんの少しながら熱を感じたような気がするのでありました。
「有難う」
「寒いのに冷たいビールで良いかな?」
「うん。大丈夫」
 夕美さんは髪の毛拭きを中断して缶ビールを取り上げると、プルリングを引き開けるのでありました。炭酸の抜ける音が小気味良いのでありました。頑治さんもその後に同じ音を手元で響かせてから一口煽るのでありました。
「幾ら日曜日だからって、朝からビールと云うのは少し気が引けるけど」
 夕美さんはそう云いながらも、風呂上がりの渇いた喉にビールを三口程流し込んでからその後で如何にも爽快そうに溜息を吐き出すのでありました。
「さて、今日はどうしようかな」
 頑治さんがそう云ってからまた一口ビールを口に含むのでありました。
「映画にでも行く、新宿か池袋辺りに?」
(続)
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あなたのとりこ 104 [あなたのとりこ 4 創作]

「そうねえ」
 頑治さんはあんまり気乗りしないような云い草をするのでありました。
「じゃあ、浅草か上野をブラブラ散歩してから寄席見物とか?」
「それも何となく億劫だなあ」
「じゃあ、ずっとここに居ていちゃいちゃしてる?」
 夕美さんは悪戯っぽい流し目をして頑治さんを見るのでありました。
「それも全く悪くないんだけど、幾らする事が無いからと云っても明日の日本を背負って立つべき健全な青少年がやるべき事柄じゃないかなあ、そう云うのは」
「じゃあ、健全な青少年は日曜日に朝寝した後、何をするのが正しいのかしら?」
「先ず、ビールを飲む」
「成程」
 夕美さんは頷いてビールを一口飲むのでありました。「それから?」
「それから、今日やるべき事柄についてあれこれ議論をする」
「ふんふん」
 夕美さんはまたビールの缶を傾けるのでありました。
「で、結局結論を得ない」
 ここで頑治さんも一口煽るのでありました。「依って不本意ではあるけれど、ずっとここに居ていちゃいちゃしながら過ごす事になる」
「そうだ、東京都美術館に行ってみない?」
 頑治さんの戯言とは全く関係無く夕美さんが急にそう提案するのでありました。
「東京都美術館?」
「そう。上野公園の」
「そこで何かやっているのかい?」
「確か書道展をやっている筈よ」
 夕美さんはそう云って一つ頷くのでありました。その頷き様に何となく確然とした趣きがあって、今急に思い付いた東京都美術館行きを夕美さんはもう決しているようだと頑治さんは推察するのでありました。しかし夕美さんの趣味に書道があったとは今の今まで頑治さんは知らなかったのでありました。一体全体何故の書道展行きでありましょうや。
「何でまたそんなものに?」
「知り合いの人が出展しているのよ」
「知り合いって?」
「考古学教室の同級生。と云ってももう六十歳過ぎの人だけど」
「六十歳過ぎの同級生?」
「社会人枠で入ってきた人なのよ。ウチの大学で考古学を専攻していて、大学を出てからはずうっと高校の社会科の先生をしていたんだけど、定年になって一念発起して考古学専攻の大学院生になったらしいの。その人の長年の趣味が書道で、何とか云う書道の団体の会員さんで、そこの年に一回の書道展を東京都美術館で今やっているのよ」
(続)
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あなたのとりこ 105 [あなたのとりこ 4 創作]

「無料招待券でも貰ったの?」
「入場は無料らしいの。好かったら観に行ってとか云われていたのを思い出したのよ」
「ふうん」
 頑治さんは頷きながらも、未だすっかり乗り気になったと云う風ではない返事をするのでありました。特段書道に興味がある訳でも無いのでありますし、そのために態々上野まで出掛けると云うのも億劫と云えば億劫に感じたのでありましたから。
「あたしも書道自体は別に興味は無いんだけど、未だ紅葉には早いけど偶には上野の森でブラブラ散歩するのも悪くないじゃない。それにちょこっとでも書道展に顔を出せば、その同級生に対する義理みたいなものも、あたしとしては果たせるし」
 そう云えば夕美さんと上野公園を散歩した事は今まで無かったなと頑治さんは考えるのでありました。上野ならこの本郷のアパートから歩いてもそんなに遠い距離でもないし、これは格好の暇潰しになるような気もしてくるのであります。書道展に顔を出すと云う確たる目的もあるし、それで夕美さんの義理も立つと云う事であるなら、漫然と鈴本演芸場に寄席見物に赴くと云うのよりは外出のし甲斐もあるというものでありますか。
「じゃあ、そうするかな。序にパンダも見て来るか」
 頑治さんは缶ビールを飲み干してから頷くのでありました。
「じゃあ、決定ね。パンダは別として」
 夕美さんもビールを飲み干してから立ち上がるのでありました、それからもう一度ユニットバスの中に姿を消すのは、ようやく髪を拭き終わってこれからドライヤーをかけるためでありましょう。序に外出用の少しの化粧もあるのでありましょうか。

 アパートを出ると二人は先ず本郷三丁目駅近くのレストランで朝食兼昼食を摂って、その後本郷通りを少し歩いて春日通りに曲がるのでありました。それから本富士警察署の脇を左に折れて道成りに幾つか角を曲がり、無縁坂をダラダラ下るとすぐに不忍通りに出るのであります。それから不忍通りを渡って不忍池畔を並んで漫ろ歩いて、池を半周もすればもうすぐに西郷さんの銅像が見える辺りに出るのでありました。
 夕美さんが云ったように確かに紅葉は未だでありましたが、日曜日の公園の中は多くの人出で賑わっているのでありました。家族連れや若いカップル、芸大の学生風の黒いバイオリンケースやチェロケースを抱えた男女、それに何をしに来たのか良く判らない、大きなリュックを背負った登山のいで立ちの十人程の中年の男女の集団と擦れ違いながら、公園のメイン通りを歩いて噴水の傍まで来ると東京都美術館はすぐそこであります。
 頑治さんと夕美さんは先ずは義理を果たすべく書道展に顔を出すのでありました。受付には夕美さんの同級生の顔は無いようでありましたが、一応来た証しに夕美さんは来場者名簿に記帳するのでありました。もうそれで既に義理は完了した事になるのでありましたが、まあせっかくだからと二人は場内をつるっと巡って、迷路のように建て回してある壁面に隙間無く掛けてある書を一通り観るのでありました。その中に大学院の同級生のものを見付けた夕美さんは、そこで立ち止まって暫しの間それを俯瞰するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 106 [あなたのとりこ 4 創作]

「見事な書かい?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「判らないわ」
 夕美さんは未だ熱心に眺め遣りながら応えるのでありました。「何が書いてあるのか覚えておかなくちゃ、と思って眺めているだけ」
「そりゃそうだな。ちゃんと足を運んだと云う証拠だもの」
「風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還」
 夕美さんは書いてあるところを音読みで諳んじるのでありました。「・・・だって。長くて覚えきれないわ。多分漢文の一節でしょうけど」
「風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去って復た還らず」
 頑治さんが読んで見せるのでありました。夕美さんは横に立つ頑治さんの方に顔を向けて驚きの表情をするのでありました。
「あれ、頑ちゃんこの文章知っているの?」
「荊軻と云うヤツの歌だな」
「誰、荊軻って?」
「秦の始皇帝を暗殺しようとして失敗した刺客だよ」
「ふうん、そうなんだ」
 夕美さんは感心して見せるのでありました。
「中国の戦国時代末の男で、燕と云う国から正に始皇帝、その時は未だ秦王政だけど、暗殺に出発する時、易水と云う川の畔で歌ったんだ。司馬遷の『史記』の中にあるよ」
「時々感心するんだけど、頑ちゃんはよく何でも知っているわね」
「ま、あんまり役に立ちそうにない余計な事はあれこれね」
「ちょっと後で読み方を紙に書いといてよ」
「良いよ。帰ったら書くよ」
「何かさあ、今の仕事させとくのは惜しい気がする」
「今の仕事って、会社の業務の仕事?」
 夕美さんは勿体らしく頷くのでありました。
「他にもっとその知識を生かした仕事がありそうなものだけど」
「いやいや、知っているとは云ってもそれはつまり、半可通と云うものでがさつでちゃらんぽらんで、深みには欠けるもの。何か一つを突き詰めると云う風じゃ全然ないから」
「そうでもないと思うけど」
「いやいや、落語に出てくる横丁のご隠居さんレベル以上ではないな。俺なんかより大学院で考古学をやっている夕美の方が遥かに、専門的な知識と云う点で上だな」
「考古学、かあ」
 夕美さんはそこで少し考える風の顔をするのでありました。と云っても、考古学をやっている自分と頑治さんのどちらが知識と云う点で上かどうかを考える、というような事ではなく、もっと別な想念が頭の中に去来したからのようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 107 [あなたのとりこ 4 創作]

「博士課程に進むかどうか未だ迷っているの?」
 頑治さんはその辺りが今の夕美さんの心根の中で、ふと明滅し始めた思念であろうと当たりを付けて少し躊躇いがちに訊くのでありました。
「そうね、未だ迷っているわね」
 夕美さんはそう云ってから目の前の書を眺め遣るのでありましたが、それは眼前の書に意を集中しているとは決して云えない瞳容でありましたか。
「せっかく今迄考古学を熱心にやってきたんだし、これから先も続けていける環境にあるんだから、ここで止すのは勿体無いような気がするけど」
「それはあたしもそう思うけど、でもこの儘続けたとしてもその先に何があるんだろうって考えるのよ。色んな人に今までお世話になりながら続けてきたけど、それに見合うだけの成果をあたしが出せるのかどうか自信も無いし」
 夕美さんは書から目を離して俯くのでありました。
「博士課程を終えて助手として大学に残って、その後は後続する学生達を指導しながら自分の研究をもっと深めていく、と云う意欲みたいなものはあるんだろう?」
「あるのかなあ。・・・」
 夕美さんは無表情で自問するのでありました。迷いは深いようでありました。

 東京都美術館を出てから、頑治さんと夕美さんは上野公園の中を漫ろに散歩するのでありました。出掛ける時はかなり寒かったのでありましたが、太陽がぼちぼち傾きかける頃になると、風が無いせいでもありましょうが戸外に居ても然程の寒さは感じないのでありました。肩の辺りに服を通して日の温かさも感じられるくらいでありました。
 歩き疲れた訳でもないのでありますが、二人は陽溜まりの中のベンチに並んで腰を掛けるのでありました。未だ散るのは少し早いように思うのでありましたが、二人の間に傍らの樹から枯葉が一枚舞い落ちるのでありました。
「でももうそろそろ、この儘博士課程に進むのか、それとも何か別の道を探すのか、決めなければならないんだろう?」
 頑治さんが先程の話しの続きを始めるのでありました。
「そうね。・・・」
 夕美さんは膝の上に指を搦めて組んだ自分の手を見ながら返事するのでありました。
「これはあくまで仮定の話として、若し博士課程に進まないのなら、故郷の博物館の研究員になるか、それとも学校の先生になるか、とか前に云っていたよなあ」
「そうね。それから考古学やそう云った事から全く離れて、普通に会社勤めをするか」
「前にも云ったけど、何れにしても、夕美はその選んだ道をそつ無く歩くだろうな」
「博士課程に進んでその儘大学に残るか、それとも東京の会社に就職するとしたら、この先もずっと頑ちゃんとこうして一緒に居られるわよね」
 夕美さんは頑治さんの方を向いて笑むのでありました。夕美さんがそう云った辺りも考慮しているようなら、頑治さんとしては大いに嬉しい事でありました。
(続)
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あなたのとりこ 108 [あなたのとりこ 4 創作]

「俺としては夕美が兎に角東京に居てくれるのが一番嬉しいかな」
「あたしもそうしたいと思ってはいるんだけど。・・・」
 夕美さんはそう云ってから頑治さんの方に気持ちの籠った強い視線を投げて、それからゆっくり俯くのでありました。
「思ってはいるけど、そうもいかない障害でもあるのかな?」
 頑治さんが訊くと夕美さんは顔を上げるのでありました。
「ううん、東京に残れないような特別な障害なんか何もないわ。でも、・・・」
「でも、何?」
「何だか、思い通りにはいかないような予感、みたいなものがあるの」
「予感、ねえ」
 不吉な予感だと頑治さんは心の中で云うのでありました。特に根拠は無いながらもそう云った予感は時々見事に当たったりするものだと云うのは、これまで生きてきた経験から頑治さんは承知しているような気がするのでありました。だから余計不吉なのでありますし、夕美さんがそんな予感を持っている事は慎に忌々しい事であります。
「既定路線通り博士課程に進めば良いんだ」
 頑治さんが云うと夕美さんは縋り付くように頑治さんの腕を自分の胸にかき抱くのでありました。なかなか強い力だと頑治さんは感じるのでありました。
「そうよね。あれこれ迷わないですんなり予定通りの進路を取れば良いのよね」
 何となく自分に云い聞かせるような夕美さんの云い草でありましたか。
 先程見た登山姿の、十人程の中年男女の一団が笑いさざめきながら二人が座るベンチの前を通り過ぎていくのでありました。皆一様に如何にも楽しそうな笑顔でありますが、しかしどうしてこの場所にそぐわないそのようないで立ちをしているのか、頑治さんは再び訝しく思うのでありました。頑治さんと夕美さんが東京都美術館で書道展を観ている間もずっと、あの姿で公園内をうろうろしていたのでありましょうか。
「あの連中はどうして登山の格好をしているのかな」
 頑治さんが頬に軽く触れている夕美さんの髪の横で顎を動かすのでありました。
「さあ、どうしてかしらね」
 先程から夕美さんもその場違いな服装の一団に気付いていたのでありましょう。
「あのいで立ちは何ともそぐわないよなあ、ここには」
「公園散歩が目的なら、如何にも大袈裟過ぎる服装よね。尤も、上野のお山、なんてここの事を云うけどね。でもまあ、それにしてもねえ」
 夕美さんは頑治さんを見上げながらクスと笑うのでありました。
「信州か新潟辺りに登山に行った帰りで、上野駅に着いた後ちょろっとここに立ち寄ったのかな。未だ家に帰るには早いから、とか何とか云う理由で」
「そうね、そうかも知れないわね。でも、そうでないかも知れないけど」
「そうでないとしたら?」
「さあ、それはあたしには全く判らないわ」
(続)
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あなたのとりこ 109 [あなたのとりこ 4 創作]

「山へ行く予定でここに集まったんだけど誰かあの中の一人の気持ちが挫けて、それでその挫けたヤツの気持ちを尊重して、それで皆で上野公園散歩に切り替えたとか」
「でも、そうだとしても公園散歩と登山の間には余りに落差があり過ぎない?」
 夕美さんが頑治さんの説に異を唱えるのでありました。
「本当は殆どのヤツが登山に乗り気でなかったんだけど、中に矢鱈と押しの強いヤツが居て、そいつの意見に引き摺られて不承々々ながらここに集まったんだよ。でもそこで好都合にも登山に行きたくないと土壇場で表明するヤツが現れて、勿怪の幸いと皆が同調したものだから公園散歩に目的を切り替えざるを得なかった、と云うのはどうだろう」
「かなり推理に無理があるような気がする」
 夕美さんはニンマリ笑いはするけれど賛同しないようでありました。「大方の人が乗り気でなかったのなら、態々登山に必要な荷物を前から色々用意して、当日重いリュックを背負って重装備をしてここに集まる前の段階で、あの一行の登山計画は頓挫しているんじゃないかしら、幾ら押しの強い人が一人強硬に登山を主張したとしても。第一若しそんな経緯があるなら、皆があんなに楽しそうに歩いたりしていないでしょう」
「その押しの強いヤツは、それなら勝手にしろとか棄て科白を吐いて一人で駅から電車に乗って居なくなったので、厄介払いが出来て和気藹々が出現したのかも知れない」
「でも、そうだとしても、後に残った人達はあんなにあっけらかんと笑ったり冗談を云ったりなんかしていられないでしょう。厄介払いが出来て、尚且つ嫌な登山に行かないで済んで内心ほっとしたとしても、何となく気まずい雰囲気にはなるでしょうよ」
「確かにそれはそうだな」
 頑治さんは夕美さんの論に納得するのでありました。「それなら、あの連中は皆が皆、まるで親切の国から親切教を広めに来たような、すこぶる付きの好人物達で、一人だけ集合時間になっても未だ現れないヤツが居て、そいつが現れるのを、出発を後らせて只管ここでやきもきしながら待っている、と云う設定はどんなものかな」
「それも無理の国から無理教を広めに来たような素っ頓狂な推論ね。やきもきして待っているのなら、矢張りあんな楽しそうな顔でうろちょろ歩いたりしていないでしょうし」
「そう云われてみれば、そうかも知れない」
 頑治さんは如何にも鈍そうな表情で納得気に一つ頷いて見せるのでありました。その仕草を上目で見ながら夕美さんはクスッと笑うのでありました。
 その夕美さんの笑いで、夕美さんの差し迫った将来の進路と云う少し重たい話題が、取り敢えずこの場からぼんやりと消えたような気が頑治さんはするのでありました。まあ、暫しこの場から消えただけで一先ず話題としては保留、と云う事ではありますが。

「熱い飲み物でも買ってくるかい?」
 頑治さんがそう訊くと、夕美さんはコックリと頷いた後、凭れていた頑治さんの肩から頭を離すのでありました。頑治さんは夕美さんの頭が離れた肩先辺りに、冷たい空気が無遠慮に空かさず浸みて来るのを感じるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 110 [あなたのとりこ 4 創作]

 動物園入り口ゲート近くの自動販売機で自分の温かい缶コーヒーと、夕美さんの冷たい葡萄ジュースを買っていると頑治さんは誰かから肩先を不意に叩かれるのでありました。振り向くとそこに立っていたのはこの前会社を辞めた刃葉さんでありました。
「久し振り。また妙な処で逢ったもんだな」
 刃葉さんはニコニコと笑い掛けるのでありました。
「ああ、羽葉さんじゃないですか。お久し振りです」
 頑治さんも笑い返すのでありましたが、まさかこんな処で逢うとは思ってもいなかったものだから、頑治さんの笑い顔は何となくぎごちないものになるのでありました。
「何だよ、動物園にでも遊びに来たのかい?」
 刃葉さんは場所柄そう問うのでありました。
「いや、そうじゃないですが、自動販売機を探していたらここに在ったんで」
 頑治さんがそう返すと刃葉さんは頑治さんが両手に一缶ずつ持っているコーヒーと葡萄ジュースの方に交互に目を遣るのでありました。
「二つ買ったところを見ると、連れが居るのかな?」
「ええまあ」
 頑治さんは特に夕美さんの存在を刃葉さんに隠す必要も無いし、それにまた態々告げる必要も無いと思うものだから曖昧にそう応えるのでありました。
「ひょっとしてデートかい?」
「知り合いと東京都美術館に来た序に、ちょっと公園内を散歩していたんです」
「ふうん。まあ良いや」
 刃葉さんはそれ以上頑治さんの連れについて興味を示さないのでありました。
「新しい仕事はもう見付けたんですか?」
 別に刃葉さんの近状や消息について頑治さんも大して興味は無いのでありましたが、まあ一種の愛想からそんな事を訊いてみるでありました。
「いや未だだよ」
 刃葉さんがあっけらかんとそう応えるところを見ると、さして熱心に新しい仕事を探している様子は窺えないのでありました。前職があんな調子だったからなかなか就職先も見つからないであろうと、頑治さんは余計な心配なんかを秘かにするのでありました。
「あんまり焦っていないようですね」
「うん、まあ」
 刃葉さんは一つ頷いてから、ちょっと間を空けて続けるのでありました。「来年になったら網走の方に行く事になるかも知れない」
「網走と云うと北海道ですか」
「当然そうだな。北海道の網走」
 刃葉さんは繰り返して、少し勿体を付けるように口を閉じるのでありました。
「網走に仕事が見つかりそうなんですか?」
「いや、仕事と云うのじゃないんだけど」
(続)
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あなたのとりこ 111 [あなたのとりこ 4 創作]

「じゃあ旅行ですか?」
「いやそんなんじゃなくて、向こうに云ったら数年、いやひょっとしたら十年くらい留まる事になるかも知れないかな」
「十年留まる?」
 頑治さんはこの意外な報告に少し驚いて見せるのでありました。「そんなに長く北海道の網走で一体何をすると云うんですか?」
「空手だよ」
 刃葉さんはあっさりそう云ってから思わせ振りに無表情をするのでありました。
「空手、ですか?」
「そう。空手。今通っている道場の師範の、そのまた先生が網走に住んでいるんだよ」
「詰まり源流を訪ねる、と云ったところですかね」
「まあ、そう云うところもあるかな」
 刃葉さんは無表情の儘一つ頷くのでありました。「俺が仕事を辞めてフリーの身の上だと云うのを聞いて、それならば網走に行ってみないかって師範が云ってくれたんだ」
「その師範の方に刃葉さんが見込まれて、より凄い先生の道場で修業をするように推薦された、とか云った感じですかね、要するに」
「その先生は別に道場はやっていないんだ」
「道場をやっていない?」
 頑治さんは訝しそうに刃葉さんの顔を覗くのでありました。「それなら何のためにその先生の下へ身を寄せるんですかね?」
「小さな農園をやっているんだよ、網走の近くで奥さんと二人」
「ああそうですか」
 頑治さんは刃葉さんの網走行きの目的が上手く呑み込めないのでありました。羽場さんは空手をやりに網走に行くと先程明快に云った筈であります。しかしその訪ねるべき先方の先生は空手の道場をやっていないと云う事らしいのであります。
 刃葉さんの雑に語る話しのあれこれから推察してみるとつまり、羽場さんは網走に行ってその先生の所有になる農園の中の粗末な小屋に一人滞在して、農園仕事を手伝いながら殆どの人交わりを断って、刃葉さんの言に依れば、山籠もりのような生活、をしながら空手の修業に只管打ち込むと云う事のようでありますか。勿論その先生に事あるに付け様々指南を頂戴するのでありましょうが、基本は一人暮らしの一人修行のようであります。
 江戸時代かそれ以前の求道者のような、なかなか浮世離れした、大自然を相手の隠者みたいな修行と云えるでありましょう。まあ、人交わりが無いと云うところが刃葉さん向きとも云えるかも知れません。しかしあの万事にがさつで怠け者の刃葉さんみたいな人が、そう云う人目から隠れた厳しい修行なんぞ務まるのでありましょうか。
 意地悪く勘繰れば、実は調子に乗せられて体良く刃葉さんが今通っている道場から追っ払われているとも考えられるのであります。どうせ道場でも師範や同門連中と様々余計な摩擦を引き起こしたり、良くない意味で独立不羈でやっているのでありましょうから。
(続)
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あなたのとりこ 112 [あなたのとりこ 4 創作]

「刃葉さんはご両親と一緒に暮らしているんでしたよね?」
 頑治さんが懸念を眉宇に湛えて訊くのでありました。
「そうだけど」
「ご両親は刃葉さんの網走行きを承諾されたのですか?」
「ああ、ウチの両親ね」
 刃葉さんはあっけらかんと笑うのでありました。「それは何も問題は無いな。ウチの両親は出来損ないの俺の事なんか、もう疾の昔から眼中にないからね。何処で野垂れ死にしようと知った事じゃないだろう。それに俺には兄貴が居て、こちらは結構大きな会社に就職していて真っ当なサラリーマンをやっているし、俺になんかに頼る必要は全く無い」
「ああそうですか」
 頑治さんはその、ある意味好い気で自分勝手な返答に疑わしさを表する心算で、敢えて無表情をして少しばかりの不愉快を籠めた声音で云うのでありました。「網走の先生とやらの農園は、一度くらい訪ねた事はあるんですか?」
「いや、ないよ」
「先生個人には東京の道場か何処かでお逢いされた事はあるのですか?」
「それもない」
「こんな云い方は失礼かも知れませんが、その先生は信頼が置ける方なのですか?」
「道場の師範が云うには、向こうは大いに乗り気だったと云う事だ。今時奇特な漢だと俺の事を感心して、俺にその意志と覚悟があるのなら是非鍛えてみたいと云ったらしい。まあ、道場の師範はなかなか出来た人だし、その師範が云うんだから間違いないだろう」
「ああそうですか」
 頑治さんは先程と同じ文句を、先程と同じ顔付きと声で繰り返すのでありました。矢張り体良く東京の道場を追っ払われて、網走で賃金の殆ど掛からない都合の良い労働力として期待されているだけのような気もするのでありましたが、そんな憶測を今の段階で大乗り気になっている刃葉さんに対して表明するのは何となく及び腰になるし、第一頑治さんがそんな心配をする謂われも無いと云えば全く無いのでありますし。
「来年の正月明けには俺は網走に行くから、唐目君に逢うのはこれが最後と云う事になるな。まあ、逢ったのは全くの偶然だったけど。つまりそう云う訳で、・・・」
 と、ここで刃葉さんは口調を改めて頑治さんに笑い掛けるのでありました。「唐目君も、今の会社でしっかり頑張れよ。その内良い事もあるよ」
 刃葉さんは別に名残惜しそうでもない口調で頑治さんを励ますのでありました。アンタに激励されたくもないし余計なお世話だと頑治さんは内心鼻を鳴らすのでありましたが、そう云う真似もせず如何にも邪気の無さそうな笑い顔をして見せるのでありました。
「じゃあ、まあ、刃葉さんもお元気で」
 頑治さんが云うと刃葉さんは片手を上げてそれに応えるのでありました。それから頑治さんにクルリと背中を向けてその場を去っていくのでありました。少し強い初冬の風が吹いて、刃葉さんの着ているジャケットの裾を翻すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 113 [あなたのとりこ 4 創作]

 頑治さんは両手に一本ずつ持っているコーヒーと葡萄ジュースの缶を見るのでありました。予期せぬ刃葉さんとの再会と思わぬ長話しのせいで、買った時には熱くて同じところを長く持てないくらいだったコーヒーの缶は、すっかり冷めて仕舞っているのでありました。まあしかし、夕美さんに頼まれた葡萄ジュースの方は、どだいそんなに冷えていた訳ではなかったから、こちらの温度はさして変わらないようでありました。
 頑治さんはベンチで待っている夕美さんの方に急ぎ足に戻るのでありました。急ぎ足のところが夕美さんへの、遅くなった事の多少の申し訳でありますか。

 夕美さんは寒そうに肩を竦めてベンチに腰掛けているのでありました。
「待たせたなあ」
 頑治さんはそう云いながら夕美さんの横に腰を下ろすと葡萄ジュースを手渡して、自分の缶コーヒーのプルリングを引き開けるのでありました。
「随分のんびりした買い物だったわね。何処まで行っていたの?」
 夕美さんは葡萄ジュースを受け取って、すぐには飲まずに暫く缶を両手で弄びながら首を傾げて見せるのでありました。
「動物園の入り口の自動販売機で買ったんだよ」
「それにしては戻るのが遅かったのね」
「いやね、買っていたら後ろから俺の肩を叩く人がいたんだ」
 頑治さんは夕美さんの両手の間を転がりながら行き来する葡萄ジュースの缶に視線を遣りながら云うのでありました。「それがこの前会社を辞めた刃葉さんだったんだ」
「ああ、この前会社を辞めた、頑ちゃんの業務仕事の先輩に当たる人ね」
 そこで夕美さんはやっとプルリングを引き開けるのでありました。
「そうそう。こんなところで逢うなんて全く予期していなかったから驚いたよ」
「この辺にお家があるの?」
「いや、そうじゃない筈だよ」
「上野に遊びに来たのかしら」
「さあ、それは知らないけど。でも博物館や美術館見学とか、動物園見物とか、それに公園散歩もあの人の趣味には無いと思うけどね。それから西郷隆盛や野口英世の熱烈なファンだと云う訳でもないし、考える人の像を見ながら何か考えるタイプの人でもない」
 頑治さんはすっかり冷めて仕舞ったコーヒーを一口飲むのでありました。
「それで、ちょっと立ち話をしていたから遅くなったんだ」
 夕美さんは葡萄ジュースの缶をチョビチョビと傾けるのでありました。
「そう。何でも年が明けたら北海道の網走に行くんだって」
「別に刑務所に入る訳でもないけど?」
 夕美さんは云ってから小首を傾げて愛嬌たっぷりに頑治さんを見るのでありました。これは頑治さんが時々科白に付け加える仕様も無い蛇足を先回りに口にして、それで頑治さんの反応を窺うと云う夕美さんのちょっとした悪戯っ気か洒落っ気でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 114 [あなたのとりこ 4 創作]

「そうね」
 頑治さんは何食わぬ顔であっさり受け応えるのであありました、「長滞在のようだからひょっとしたら、網走の顔を立てて刑務所観光はする事もあるかも知れないけど」
「長滞在って、十日くらい?」
「いやいや、十年とか聞いたけど」
 夕美さんはそう聞いて眉をヒョイと上げて少しの驚きを表するのでありました。
「それじゃ旅行で長滞在って云うより、向うに移住するって事だわね」
「そうね。そう云う方が正しいかな」
「向こうで仕事が見つかったの?」
「そうじゃなくて空手の修業らしい」
「空手の修業?」
 夕美さんはここでも眉を少し上げるのでありました。
「何でも網走に偉い先生が居て農場を遣っているんだと。そこに寄宿して農場を手伝いながら、その先生に時々一対一でみっちり教えを受けるんだそうだよ」
「ふうん。まるで熱血少年漫画、みたいな話しね」
「そうだよな。確かにちょっと浮世離れしている感じかな」
「まあ、人夫々だけど」
 夕美さんはそう云って、もうこの話しには興味を失ったような無表情になるのでありました。夕美さんはこれ迄の人生で武道とか修行とか云う言葉にはあんまり馴染んだ事は無かったのでありましたし、殊更の関心を持った事もないようでありました。ま、夕美さんは、大方のスポーツや身体運動はあんまり得意な方ではないようでありますし、
 公園の中の木々が俄にさざめくのでありました。ベンチの傍に溜まっていた枯葉が吹き払われて宙に舞うのでありました。
「随分強い風だな」
 埃が入らないように目を細めて頑治さんが云うのでありました。夕美さんは上着の襟を立てて寒そうに肩を竦めるのでありました。
「木枯しみたいね」
「今日の夜の天気予報で木枯し一号が吹きました、とか云うんじゃないのかな」
「そうね。そんな感じね」
 二人はベンチから立ち上がって傍らの塵入れに飲み終えた空の缶を棄てるのでありました。それから来た時と同じルートで上野公園を後にして帰路に就くのでありました。
 やや早足になるのは風が冷たいせいであります。不忍池の水上音楽堂の先の左岸の緑道に囲まれた一画には、木枯しの吹く中でもボートが多く浮かんでいるのでありました。木枯しの中での水遊びと云うのは一種酔狂ではあるにしろ、頑治さんにはなかなか勇気の要る遊びに思えるのでありました。頑治さんは生来の寒がりでありましたから。頑治さんは頑治さんの腕に腕を搦めて並んで歩く夕美さんをチラと窺うのでありました。夕美さんが何時もより強い力で頑治さんの腕に縋っているのは屹度寒い故でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 115 [あなたのとりこ 4 創作]

 刃葉さんは人里離れて、山籠もり、のような空手修行に入るという事でありますが、さて、この身を寄せて同じ歩調で歩くこちらの羽場さんは、来年になったらどのような身の振り方を決断するのでありましょうか。大学院に進むのかそれとも就職するにしても東京に残るのか、或いは郷里に帰って博物館職員とか学校の先生と云う道を選ぶのか。
 勿論頑治さんとしては東京に残って欲しいと願うのでありましたが、しかしながら頑治さんがどうあがこうと、この決定は夕美さんの専権事項であるのは云う迄もないのでありました。頑治さんはただ、夕美さんがこの先もずっと頑治さんの傍を離れたくないと、先ず以て願ってくれているであろう事を切実に望むしかないのであります。頑治さんは自分の腕に縋り付いている夕美さんの手を取って強く握るのでありました。
 頑治さんの手は今迄上着のポケットに突っ込んでいたから少しは防寒出来たけれど、夕美さんの指は寒い中に出ていたせいで嫌に冷たいのでありました。頑治さんはその夕美さんの指を自分の手で急いで温めなければと、何故か妙に焦っているのでありました。

   那間裕子女史

 倉庫で頑治さんが梱包作業をしていると均目さんが下りて来るのでありました。何か制作部関連の材料の搬入があるのかしらと思って頑治さんは声を掛けるのでありました。
「搬入があるのなら手伝おうか?」
「ああいやいいんだ。ちょっと北海道の観光絵地図の刷り本を取りに来ただけだから」
 均目さんはA全判観光絵地図の北海道の刷り本を数枚棚から取って、それを丸めながら作業台の頑治さんの傍に遣って来るのでありました。
「冬のボーナスの事、誰かから何か聞いているかい?」
 均目さんは丸めた刷り本に輪ゴムを掛けながら頑治さんに訊くのでありました。
「いや、何だい冬のボーナスの事って?」
「それが、この暮れはどうやら支給が無いらしいぜ」
「ふうん」
 頑治さんのあんまり興味が無さそうな上の空の応答振りに均目さんはちょっと興醒めしたようで、次の句を継ぎ損ねたように少し口籠もるのでありました。
「ああそうか、唐目君はこの冬が初ボーナスになる筈だったからなあ」
 均目さんは頑治さんが贈答社に於けるボーナスの事情をよく知らないために素っ気ない返答をしたのだと解釈したようで、そう云って自得するように頷くのでありました。
「そう云えば七月と十二月の年二回、ボーナスの支給があるって入社の時に土師尾営業部長から聞いたような気がするなあ」
「そうなんだ。業績次第で変動はあるけど、夏が大体基本給の二か月分、それから冬が二か月半分何時も支給されていたんだ。それがこの冬は無いらしいんだよ」
「ほう、それだけ貰えればちょっとホクホク、と云うところだけどなあ」
「社員は皆、それを当てにしていたんだ。だから冗談じゃないってところだ」
(続)
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あなたのとりこ 116 [あなたのとりこ 4 創作]

 均目さんは少し大袈裟に深刻そうな顔をするのでありました。
「支給しないと云うのは片久那制作部長がそう云ったのかい?」
「いやそうじゃない」
「じゃあ、土師尾営業部長から直接聞いたの?」
「いや、それもそうじゃない」
「じゃあ、何処から出た情報なんだい?」
「日比課長からそうらしいよと袁満さんが聞いて、袁満さんから俺が聞いたんだ」
「日比課長にボーナスを支給するかしないかの決定権があるのかい?」
 頑治さんは眉宇を上げて訝しそうな物腰で訊くのでありました。
「いやいや、そうじゃない」
 均目さんが頑治さんの察しの悪さにげんなりしたのか、苦笑って丸めた観光絵地図を持っていない方の手を小さな振幅で横に何度か振って見せるのでありました。
 要するに均目さんの話しに依れば、日比課長が営業打ち合わせと称して土師尾営業部長に会社近くの喫茶店に連れ出されて、そこでそんな話しをされた模様であります。と云う事は土師尾営業部長発信の情報と云う事になりますか。
 今年度の営業成績が前年に比べて今のところかなり落ち込んでいて、来年上半期の売り上げ見込みも全く芳しくない観測と云った情勢で、社員に暮れのボーナスを支給する目途が立たないと、土師尾営業部長はさも日比課長の常日頃の営業活動を暗に詰るような、それに且つ脅すような口調で宣したと云う事のようであります。まあ、その時の土師尾営業部長の口調に関しては伝聞のそのまた伝聞と云う事になるので、日比課長か袁満さんの土師尾営業部長に対する日頃の心証が反映されている可能性があるから、副詞的信憑性は保証の限りではないと均目さんは如何にも慎重そうな口調で付け足すのでありました。
「日比課長の売り上げ成績が随分と落ち込んでいるのかい?」
 頑治さんが聞くと均目さんは首を傾げるのでありました。
「確かに落ちてはいるけど、そんな詰られるような極端な落ち込みではないと云った感触のようだけどな、日比課長としては」
「じゃあ、袁満さんや出雲さんの出張売り上げが落ちたのかな?」
「袁満さんの言に依れば、前に比べると確かにここのところ漸次落ちてはいるけど、こちらも下半期が極端に悪いと云う事でもないらしいよ」
「じゃあ、残るは土師尾営業部長の成績、と云う事になるのかな」
 頑治さんが云うと均目さんは陰鬱そうな顔で頷くのでありました。
「特注関連の大口の注文が一番落ち込んでいると云う袁満さんの話しだな。それと毎年、大体決まった量の注文がある旅行斡旋会社や関連出版社、それに共済組合関連の会社や進物用品関係の会社への納品量も、今年は或る一社から丸々注文が無かったところもあって、グッと落ちたと云う按配かな。その辺は制作部でも仕事量の実感としてあるな」
「そう云った定期物とか特注物のセールスは土師尾営業部長が担当しているのかな?」
「そうね。土師尾営業部長と日比課長が分担している」
(続)
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あなたのとりこ 117 [あなたのとりこ 4 創作]

「誰の売り上げがどのくらいあるとか、数値としてはっきりしているのかな?」
「その辺は結構曖昧かな。出張営業は分担があるけど、日比課長と土師尾営業部長に関しては大まかにと云うのか、何となく担当はあるみたいだけど、どの会社が何方の担当とはっきり区分してあると云う訳でもないようだし。まあ、全日本地名総覧社時代から取引のある会社は、主に土師尾営業部長が総取りで受け持っていているようだけど」
 その辺の詳しいところは制作部の均目さんは知らないようでありました。日比課長にでも直接聞いてみないと明快には判らないでありましょう。
「売り上げがガクンと落ちた事に関して土師尾営業部長は、ちゃんと具体的で妥当な分析をしてから、自分の反省と共に日比課長に苦言を呈したのかな?」
 頑治さんが首を傾げて均目さんを見るのでありました。
「その辺は確認してはいないけど、まあ、自己反省は無いだろうな。例に依ってザックリとした自分に都合の好い感触と、このタイミングで少し日比課長を脅して置いてやろうと云う不埒な魂胆から、思いつきで急に喫茶店に呼び出したんだろうけどね」
 均目さんは皮肉っぽい笑いを口の端に浮かべるのでありました。「あの人は自分の保身を目的に他人を大した考えも無しに排斥するところがある。先ず以って自分の責任逃れのために日比課長をやり玉に上げようとしたんだと思うね。あの人の常套手段だよ」
「しかしさっきの説明に依ると、得意先の分担がはっきりしていないと云う事だから、売り上げ低迷の責任は、半分くらいは土師尾営業部長にもある事になる訳だよな」
「その通り」
 均目さんは確然と頷いて見せるのでありました。「しかし何でも手前味噌にしか考えない土師尾営業部長は、責任をすっかり日比課長の方に押し付ける心算なんだろうな」
「それは余りにも無体と云うものじゃないかな」
「その通り」
 均目さんの頷き様は先と同じでありました。
「その無体さは日比課長も判るだろうから、反発しないのかな」
「内心は大いに反発しただろうよ」
「内心は、と云う事は面と向かっては反発する言なり態度なりを控えたと?」
「まあ、多分そうだろうな」
 均目さんの口の端に今度は苦笑が浮かぶのでありました。「日比課長は土師尾営業部長をえらく軽蔑しているくせに、何故か実際の態度や言動は妙に遜っているんだ」
「ふうん。それはまたどうして?」
「ま、こちらも一種のサラリーマン的保身だろうけど。或いはひょっとしたら土師尾営業部長に決定的な弱みか何かを握られているのかもね」
「そうなのかい?」
「いやこれは俺の何の根拠もない好い加減な憶測以上ではないけど」
 均目さんの口の端には今度は自嘲の笑みが浮かぶのでありました。「でも、確かに日比課長は必要以上に土師尾営業部長にオドオドしているよなあ、どんな場合でも」
(続)
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あなたのとりこ 118 [あなたのとりこ 4 創作]

「地位の上下関係の秩序以上に、と云う事かな」
「そうね。何かオドオドしているようにも見える」
 その辺の詳しい事情に関しては頑治さんには全く判らないのでありました。

 月曜日に池袋の宇留斉製本所から帰って、納品書を制作部の山尾主任に渡した後、頑治さんが引き取って来た荷を車から下ろしているところに、山尾主任が上の事務所から下りて来るのでありました。何か納品書の記載に不首尾があってその確認に来たのかと思うのでありましたが、山尾主任の用件はそうではないのでありました。
「唐目君、ちょっと良いかな」
 山尾主任は頑治さんを倉庫の奥に誘うのでありました。
「納品書の記載に不備がありましたか?」
 作業台の前で頑治さんが訊くと、山尾主任はしかつめ顔をして頑治さんを見ながら首を横に何度か振るのでありました。
「唐目君も今度の冬のボーナスが出ないと云う事を聞いているだろう?」
「ええ、何となく知っています」
「冬のボーナスが若しカットになるなら色々困るので、その件について従業員全員で話し合いを持とうと云う事になってね、明後日の水曜日の、仕事が終わってからなら銘々の都合が良さそうなんだけど、唐目君はどうかな?」
「大丈夫だと思いますが」
 頑治さんはほんの少し考えてからそう返答するのでありました。
「じゃあ、予定に入れて置いてくれるかい」
 山尾主任は頑治さんの了解に二度頷きを返すのでありました。
「従業員全員と云う事は、両部長も入れて、と云う事ですか?」
 頑治さんは山尾主任の二度目の頷きが終わったところで訊くのでありました。
「いや、片久那制作部長と土師尾営業部長は来ないよ。声も掛けていないし。それから日比さんと甲斐さんも今回の会合には誘っていない」
「じゃあ、出席するのは、・・・」
「俺と唐目君の他には、制作部の那間さんと均目君、それから営業部の袁満君と出雲君と云う面子だな。全部で六人と云う事かな」
「ああそうですか」
 出席は社員十人中の六人と云う事だから、山尾主任は全従業員と云ったけれど、そうではないようであります。両部長も日比課長も役職に就いているけれど厳密な区分としては従業員の内でありましょうし、第一、主任と云う役職の山尾さんは除外されてはいないのであります。況してや甲斐計子女史は一人で経理を担ってはいるけれど別に役職に就いているのでもないのでありますから、こちらは紛う事無く従業員の内でありましょう。
 要するに、年齢が近い普段から比較的気さくな同士の集まりと云う了見のようでありますか。まあ新人の頑治さんは未だそんなに気さくな方ではないのでありますが。
(続)
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あなたのとりこ 119 [あなたのとりこ 4 創作]

 刃葉さんが居なくなって何となく社内が落ち着いたと思ったのに、今度は冬のボーナスカットと云う問題が間を置かず出来するのでありました。頑治さんは陰鬱な気分になるのでありましたが自分だけ蚊帳の外で知らん顔をしている訳にもいかないでありましょう。あんまり気乗りはしないものの、山尾主任に誘われた従業員会合には出なければならないでありましょう。慮れば何かとゴタゴタの多い会社に入ったものであります。

 この水曜日の会合は会社近くの居酒屋で執り行われるのでありました。例に依って頑治さんの歓迎会が開かれた人生通りに在る居酒屋でありました。
 先ずは何となくビールで乾杯してから、料理が出て来る迄、付き出しとして供された牛蒡の削ぎ切りの甘辛煮に銘々は箸を付けているのでありました。
「さて、今日集まって貰ったのは冬のボーナスの件なんだけど」
 山尾主任が早速、主たる話題を切り出すのでありました。その声にテーブルを囲む全員が自分の小鉢から目を離して顔を上げるのでありました。
 この面子の中では山尾主任が一番年嵩であるために、畢竟この人が話しをリードする役回りとなるのでありましたし、それには全員特段の異議は無いのでありました。
「本当に冬のボーナスは出ないの?」
 那間裕子女史が山尾主任に、一応と云った語調で訊ねるのでありました。頑治さんはこの那間裕子女史とは、同じ制作部に属している均目さんとは違って出退社時に挨拶を交わす程度しか今迄会話をした事は無いのでありました。
「日比さんの話しだとそう云う事らしいね。なあ、袁満君」
 山尾主任は隣に座る袁満さんを見るのでありました。
「そうですね、俺は土師尾営業部長がそう云ったって日比さんから聞いたけど」
 袁満さんが頷くくのでありました。
「それは別にきっぱり確定的に云ったんじゃなくて、日比さんの営業に喝を入れる心算で、そんな可能性もあるぞって、そんな風なニュアンスだったんじゃないかしら?」
「いや、日比さんの話しでは、出さない事に決まったようだったですけどねえ」
「本当に日比さんは決定事項として冬のボーナスが出ないと聞かされたのね?」
 那間裕子女史は念を押して訊き募るのでありました。
「いやまあ、俺はその場に居た訳じゃないからその様子は何とも云えないけど、でも日比さんの口振りではもうすっかり決定した事と云った調子でしたけど」
「あれこれ自分への批判を並べられて日比さんがちょっと興奮して仕舞って、うっかり決定事項と云う風に聞き取って仕舞っただけ、なんて云う事はではないのね?」
「さあ、まあ、それは、・・・」
 袁満さんはしつこく詰め寄られてたじろぐ気配を見せるのでありました。
「日比さんは、決定事項、とかそんなような言葉を使ったの?」
「いや、そうじゃないけど、冬のボーナスは出ないらしいよって、・・・」
 段々袁満さんの口から出る言葉が曖昧の色を濃くするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 120 [あなたのとりこ 4 創作]

「そこが曖昧なままで、これから一体何の話し合いをするの?」
 那間裕子女史はそう云って小さく舌打ちをするのでありました。この会合の抑々の辺りを無効にするようなこの発言に、山尾主任が嫌な顔をするのでありました。
「まあそうだけど、出ない可能性があるんだから、その場合も考えて今から対策を話し合って置くのも決して無駄じゃないだろう」
 まあ、呼び掛け人としてはそう云って会合の意義を強調するしかないでありましょう。この時点で会合を持つ事自体が間抜けな事と断じられたようなものでありますから。
「無駄よ」
 那間裕子女史は鮸膠も無いような云い草で決めつけるのでありました。「だって出る事がはっきりしたなら全くの無駄じゃないの」
「出ないかも知れないんだからね」
「先ずは土師尾さんにちゃんと確認する方が先よ」
 何となく二人の意地の張り合いみたいな雲行きであります。袁満さんを始め均目さんも出雲さんも、それに頑治さんも、山尾主任と那間裕子女史の掛け合いに口を挟む余地も気持ちも無くてダンマリを決め込むと云った按配でありました。
 どうやら山尾主任と那間裕子女史は、普段から余り反りが合わない同士なのでありましょう。確か山尾主任の方が一つ二つ歳上でありますが、そんな歳の差を那間裕子女史は全く問題にしていないようであり、それを問題にしようとしない女史に対して山尾主任としては内心、少しは歳上の俺を敬ったらどうだと云った苦々しさがあるようであります。
「じゃあ、もう、今日の会合はこれで打ち切るか」
 山尾主任は短気を起こしたようでありました。
「山尾さんなり袁満さんなりが先ず、明日にでも土師尾さんにちゃんと確認を取るって、そこを確認したら、取り敢えず今日集まった意味はある事になるじゃない」
「俺が確認を取るのか?」
 山尾主任が少したじろぐのでありました。それに突然ここで名前の出てきた袁満さんの方は「え、俺?」と小声で呟いて、自分の驚いたような顔を自分で指差して見せるのでありました。こちらも明らかに及び腰のようであります。
「そうよ。この中では一番歳上だし古株だし、主任と云う肩書きもある山尾さんが六人を代表して訊くのが妥当でしょう。それに後は、営業部繋がりでは袁満さんよね」
 こういう時だけ歳上扱いかい、と云う山尾主任の不満の声が聞こえてきそうでありましたが、膨れっ面をするだけで山尾主任はそう云う事はものさないのでありました。これは案外、ここで那間裕子女史に歳上と認められた事が満更でもないのかも知れません。袁満さんの方は只管山尾主任の方にお鉢が回る事を祈るような顔付きでありましたか。
「じゃあ判ったよ。責任上俺が明日確認を取るよ。そう云う事でお開きとするか」
 山尾主任は怒ったように云って席を立とうとするのでありました。
「待ってよ、そんなにカリカリする事は無いじゃないの」
 ここで那間裕子女史は急に顔と言葉から無愛想色を消すのでありました。
(続)
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