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あなたのとりこ 3 創作 ブログトップ

あなたのとりこ 61 [あなたのとりこ 3 創作]

「まあ、一面でそう云えなくはないわね」
「一面で、かい?」
「だって考古学専攻の学生では女子はあたし一人なのよ」
「良いじゃないか、男に囲まれてちやほやされて」
「誰もちやほやなんかしてくれないわ」
 いやそうでも無かろうと頑治さんは思うのでありました。夕美さんなら小煩く感じるくらい男達にモテるに違いないでありましょう。しかも紅一点となれば、余計周りの男共が夕美さんを放って置く筈がないと思われるのであります。
「発掘の仕事環境なんて、結構過酷なのよ」
 夕美さんは頑治さんの認識違いを正そうとやや真剣な目をするのでありました。
「要するに刷毛みたいな物で土の表面をチョロチョロ丁寧に掃いたり、十能みたいなヤツで海辺の潮干狩りか花壇の園芸仕事みたいな事をするんだろう?」
 頑治さんは全く揶揄が含まれてはいない、でもない云い方をするのでありました。
「潮干狩りとか園芸とか、唐目君はやった事ある?」
「いや、ない」
「やってもいないのにきつい作業かそうじゃないのか、どうしてって判るのよ」
「成程ね。それは道理だな」
「それに発掘はそんな事ばかりやる訳じゃないもの。もっと重労働が幾らもあるのよ。力仕事も、男に混じってあたしも同じ作業をしなければならないんだから、大変よ」
「そう云うものかね」
 頑治さんは鈍そうな語調で前言を繰り返すのでありました。頑治さんに発掘仕事の大変さがあんまり理解して貰えない様子に夕美さんは小さな溜息をつくのでありました。
「ああ、もうすぐ午後の講義が始まるわ」
 夕美さんは自分の左手の腕時計に目を落としながら云うのでありました。頑治さんの考古学の過酷さに対する鈍い反応にげんなりしたのか、これで、中学校以来の邂逅を夕美さんは切り上げる心算で講義の事を口にするのでありましょうか。若しも自分のつれない反応のために夕美さんの機嫌を損じたのなら、それは如何にも申し訳無い事であると頑治さんは慙愧の念を覚えるのでありました。慙愧の念と云うのか、勿体無さ、と云うのか。
「唐目君は、この後は?」
「講義は無いよ。もうアパートに帰るだけだよ」
「帰った後の予定は?」
「何も無い。今日はアルバイトも無い」
 頑治さんは首を何度か横に振って見せるのでありました。
「折角こうして逢えたのに、これでさようならするのは残念よね」
 夕美さんは眉尻を下げて眉根を寄せて少し悲しそうな表情をするのでありました。そんな事を云うところを見ると、機嫌が悪くなったと云う訳でもなさそうであります。
「講義が終わるまで待っていようか?」
(続)
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あなたのとりこ 62 [あなたのとりこ 3 創作]

「本当?」、
 夕美さんは如何にも大袈裟に嬉しそうな顔をして見せるのでありましたが、これは嬉しさの度合に於いてこの表情程の歓喜は無いのでありましょう。一般的に女性が無意識裡に放つ特有の、時として男を惑わし得るところの、科、と云うものでありましょうか。
「俺もこの儘さようならするのは何となく心残りだし」
 とは判っているものの頑治さんは思わず頬の筋肉が緩むのでありました。「一時間半くらいなら三省堂にでも行って一階から七階までうろうろしていればすぐに経つし」
「じゃあ、待っていてくれる?」
「講義が終わった頃に、またここのベンチに座っているよ」
「判った。終わったらすっ飛んで来るわ」
 夕美さんはそう云って頑治さんにバイバイと手を振ってからクルリと後ろを向いて、立ち上がった頑治さんの前を小走りに去るのでありました。頑治さんは公園から夕美さんの姿が消えるまでその後ろ姿を見送るのでありました。その後俯いて腕時計を見てから、今夕美さんが去った同じ出口から公園を後にするのでありました。

 頑治さんはゆっくりと箸を置いて夕美さんに向かって「ごちそうさま」とお辞儀をしながら云うのでありました。頭を下げた時にちらと腕時計に目を遣るのでありました。
「満腹した?」
 夕美さんが顔を起こした頑治さんを覗き込むのでありました。
「うん。それに美味かったし久し振りの豪勢な夕飯だった」
 頑治さんのその返事に夕美さんは満足そうに笑むのでありました。
「それから、・・・」
 夕美さんはそこで言葉を切って、傍らに置いていた赤いデーパックを膝の上に取り上げてからジッパーを開けるのでありました。頑治さんがその様子を覗き込んでいると、夕美さんは明渓堂の真新しいブックカバーに包まれた本を取り出すのでありました。
「これ、就職祝い」
 夕美さんは両手でその本を持って頑治さんの方に差し出すのでありました。
「へえ。有難う」
 頑治さんは受け取ってから表紙を開くのでありました。ウディ・ガスリーの晶文社版『ギターをとって弦をはれ』と云う自伝の翻訳本でありました。
「もっと高額で気の利いた物、とか考えたんだけど、それが一番喜ぶかと思って」
「よく見付けたなあ。ずっと探していたんだけど三省堂にも冨山房にも、神保町界隈の古本屋を回ってもなかなか見付けられなかったんだけどなあ」
「でも版元に問い合わせたら絶版になっている訳じゃなかったわ。で、明渓堂で取り寄せて貰って、今日入荷したって電話があったの」
「いやあ、本当にありがとう」
 頑治さんは嬉しそうに本を矯めつ眇めつするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 63 [あなたのとりこ 3 創作]

 頑治さんは高校生の頃から小説本を読むのが好きなのでありました。人間心理の探究とか異世界の風物に憧れるとか、或いはグッと実用本位のところで語彙の収集とか作文能力や文意理解能力の鍛錬とかそう云った向上心タップリの意識は更々無く、敢えて云えば、頁上に物語られる日本語の流れに自分の心の流れを同調させている時間がこよなく好きなのでありました。自分である事からの解放、等と云えば何とも大袈裟でありますが。
 しかしだからと云って頑治さんは別に文学少年、或いは文学青年と云った類の人種でも全くないのでありました。同じくらいの斤量で体を使って激しい運動をする事も好きなのでありました。小学生の頃から体育は得意科目なのでありましたし。
 しかし因みに、幾ら好きな体育とは云え、団体競技よりは個人競技のスポーツの方が好きではありましたか。他者との連携とか協調とかは苦手と云う程ではないにしろ、どちらかと云うと何となくまどろっこしくて大儀に思われるのでありました。
 小説好きは大学生になっても変わらないのでありましたし、専攻の地理学関連の本よりは小説本の方が蔵書としては遥かに多いのでありました。ならば地理学ではなくそちら方面の専攻を選べば良かったものでありますが、しかし専攻学問として小説本に向き合うと云う営為は、何処か自分の嗜好には合致しないような気がするのでありました。で、大学を卒業してからも国内外や時代を問わず小説好きは相変わらずなのでありました。
「さて、お腹一杯になって、これからどうしようか」
 夕美さんが本に目を落とした儘の頑治さんに訊くのでありました。
「そうねえ、居酒屋にでも行くかい?」
 頑治さんはそう云いながらちらと腕時計の方に目を移すのでありました。
「そこで祝杯、と云うのも悪くないけど」
 あんまり気が乗らないような夕美さんの口振りでありました。
「他に何か、これからやる事の候補はある?」
 頑治さんの目はそれとなく未だ腕時計に向いているのでありました。
「ワインでも買って頑ちゃんの家に行く、と云うのはどう?」
 頑治さんはそこで目線を上げるのでありました。
「それは構わないけど」
「その方が気兼ね無くゆっくりとお話しが出来るじゃない」
「ウチにはワインの当てになるような食い物が何も無いよ」
「それも一緒に買って行けば良いわ」
「そうだな、じゃあ、まあ、そうしようか」
 これは元々頑治さんの目論見でもあったから全く異存は無いのでありました。
 二人は中華料理屋を出ると地下鉄神保町駅近くのスーパーマーケットでワインと、幾種類かの調理の要らないツマミ物を買い込んで御茶ノ水駅の方に向かうのでありました。
「ここが頑ちゃんの今度の職場でしょう?」
 日貿ビル道向かいに在る贈答社の入る五階建てのビルの前を通る時に、夕美さんが足を止めて建物を眺め上げながら訊くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 64 [あなたのとりこ 3 創作]

「そう。ここの三階が事務所で一階の駐車場奥が倉庫」
 頑治さんは応えながら駐車場奥の倉庫の扉が少し開いていて、そこから灯りが漏れているのを見るのでありました。頑治さんが退社する時には製作部の山尾主任と均目さんが残っているだけで、倉庫の刃葉さんも他の社員も既に退社しているのでありました。山尾さんか均目さんが未だ残業していて倉庫で何か作業をしているのでありましょうか。
「倉庫に未だ誰か居るみたいね」
 夕美さんも長方形の灯りの方に視線を向けるのでありました。二人して何となく遠目に窺っていると、その内微かに人の声が灯火に混じって漏れ出て来るのでありました。
 それは言葉と云うよりも何やら呼気に乗せて単発音を発していると云った風でありましたか。剣道や柔道の試合の時に耳にするような気合の声のようなものであります。
 倉庫の仲でこんな声を発する人と云ったら、これはもう刃葉さん以外ではないでありましょう。勘繰るに、空手の突き蹴りの練習をしているか、或いは木刀で素振りでもしているのでありましょう。バレエではこんな気合の発声はしないでありましょうから。
 刃葉さんは五時になったら早々に退社した筈であります。あれこれやっている習い事に
早々に出向くためと思ったのでありますが、今日は何も無い日なのでありましょうか。しかしそれにしても退社後に会社の倉庫で仕事とは無関係な個人的な習い事の練習をしているとすれば、これは例によって慎に不謹慎と云う誹りは免れ得ないでありましょう。
 残業していた山尾主任と均目さんはもう帰ったのでありましょうか。未だ残っているとしてもこの事を知らないのでありましょうか。それとも知っていても刃葉さんに注意するのが億劫で、その儘目を瞑って放置しているのでありましょうか。
「ちょっと待っていてね」
 頑治さんは夕美さんにそう云い置いてビルの横手に回ってみるのでありました、ビルは東南の角地に立っていたから、東側の狭い道から見上げれば、三階の制作部スペースの窓に明かりが点いているかどうか確認出来るのであります。
 灯火は消えているのでありました。と云う事は山尾主任と均目さんはもう帰っていると云う事であります。依って二人が居なくなった頃を見計らって羽場さんは会社に戻って来て、誰憚る事無くこんな勝手な真似をしていると云う事でありましょう。
 折角倉庫の整理整頓を始めた自分の仕事がひょっとしたらこれで棄損される恐れもあると思うと、頑治さんは少し腹立たしく思うのでありましたが、しかし乗り込んで行って、昨日入ったばかりの後輩が先輩の所業を咎め立てする、と云うのも何やら了見違いの出過ぎた真似のようでもあります。取り敢えずここは堪えるのが上策かも知れません。それにここで刃葉さんと一悶着起こして、折角のこれからの、夕美さんと二人だけの楽しかるべき時間への突入を遅らせて仕舞うのも慎に惜しいと云うものではありませんか。
「さっき話しに出た羽場さんが、珍しく残業しているんだろう」
 頑治さんは夕美さんにそう云ってこの場を離れようとするのでありました。
「時々気合をかけるような声を出す残業仕事?」
 夕美さんが怪訝そうに首を傾げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 65 [あなたのとりこ 3 創作]

「まあ、良いじゃないか。あの人は何を考えているのか窺い知れない人なんだから」
 頑治さんがそう云うと夕美さんは「ふうん」と、何となく納得し難いような表情を浮かべるのでありました。しかし特段拘らない風に眉宇を広げて右手に持ったスーパーの紙袋を持ち直して、左手で頑治さんの右手の掌を握るのでありました。こういうところをうっかり刃葉さんに見付けられるのも詰まらないから、頑治さんは夕美さんの指に自分の指を絡めながら、その手を引くようにやや足早にその場を離れるのでありました。

 神保町の古書店で籠に入った廉価な文庫本を三冊買った勘定に思いの外手間取り、頑治さんは足早に夕美さんと先程待ち合わせを約した公園に戻るのでありました。夕美さんはもう既にあのベンチに座っていて、頑治さんが慌てながら駆け込んで来る様子が可笑しかったのか、口に手を当ててベンチから立ち上がって手を振るのでありました。
「計算がうっかり間違っていて、レジに行ったら十五円不足していたんだよ」
 頑治さんが傍まで来るなりそう云うものだから夕美さんは何の事だか判らずに、戸惑うように頬から笑いを消して首を傾げて見せるのでありました。
「十五円がどうかしたの?」
「で、あっちこっちポケットの中を探ったら十円はあったんだ」
「あと五円足りない訳ね」
 そもそもの事情がよく判らないながら夕美さんは話しの流れに乗るのでありました。
「そう。もうポケットからは一円も出てこない」
「それは困ったわね」
 夕美さんは眉宇を狭めるのでありました。そこで頑治さんは右手に持った輪ゴムの掛かった文庫本三冊の束を夕美さんの目の前に差し上げて見せるのでありました。それでようやく、どこかの本屋で文庫本を買っていざ勘定と云う段で所持金が十五円足らなかったのだろうと、夕美さんは頑治さんの今の話の大概を察したようでありました。
「で、ね、馴染みと云う訳ではないんだけど、向こうも名前は知らないけど俺の事を時々店に来る客だと認識が無い訳でもないみたいで、仕方が無いから今度来る時に五円を払ってくれればいいよとあっさり許してくれて、この三冊を売ってくれたんだよ」
 夕美さんは頑治さんが差し上げた文庫本を覗き込むのでありました。
「今のは古本屋さんでの出来事ね」
 表紙の少し古びている風情からそう判断したのでありましょう。
「そう。きっぱり五円負けてくれる訳じゃなくて、貸し、と云う事にしてくれる辺りが俺のその古本屋での在りようと云うところかな」
「ああ成程ね」
 夕美さんは二度程頷きながら頑治さんに笑みかけるのでありました。
「と云う事で、勘定に手間取って少し遅れた次第だ。ご免」
 頑治さんは頭を下げて見せるのでありました。
「なんて長い云い訳だ事」
(続)
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あなたのとりこ 66 [あなたのとりこ 3 創作]

 夕美さんは小さくてキュートな舌打ちの音を響かせるのでありました。勿論顔は笑っているからこれは一種の、決まり事としての合いの手みたいなものでありましょうか。
「さて、何処か喫茶店にでも行くかい?」
「そうね、コーヒー飲みながらこの六年半のお互いの出来事なんか話しましょうか」
 夕美さんが同意したので、二人は本屋の書泉グランデ裏のラドリオと云うちょっと古風な雰囲気の喫茶店に向かうのでありました。
「あんな一杯人が居る学食で、よく俺の事が判ったもんだなあ」
 頑治さんはウィンナコーヒーを一口飲んでから驚きの表情を作るのでありました。
「すぐ判ったわ。だって唐目君、高校生の頃とちっとも変っていないんだもの」
「ああそうかい」
 頑治さんはまたカップを取って口に近づけるのでありましたが、すぐにおやと云う顔をして夕美さんの方を上目に見るのでありました。「あれ、高校生の頃?」
「そう、高校生の頃」
「中学生の頃、の間違いじゃないのかい?」
「ううん、高校生の頃よ」
 夕美さんもカップを取り上げるのでありました。「あたし一度、増田押絵に誘われて東高の学園祭に行った事があるの。二年生の時だったかな」
 増田押絵と云うのは頑治さんと同じ東高に進学した中学時代の同級生であります。
「ああそうなんだ。そこで俺を見かけたと」
「そう。押絵に、ほらあれが唐目君の成れの果てよって教えられて、遠目から見たの」
「成れの果て、ねえ」
 頑治さんは別に高校二年生の時に中学生の頃に比べて落ちぶれたと云う実感は何も無かったものだから、夕美さんの、と云うよりは当時の増田押絵の云い草に大いに不満の表情をして見せるのでありました。落ちぶれるどころか、その頃が部活の剣道やらギターの練習やら友人たちとの冗談の云い合いやら、序に学業にも血を騒がせていた自分の一番溌剌としていた青春真っ盛りの時代であったと考えているのでありましたから。
「成れの果て、と云うのは勿論押絵のおどけた云い方よ」
「確かに増田は口の悪いヤツだったけどね」
「まあそれはそれとして、そう教えられて遠目だけど、仲間とワイワイやっている剣道の稽古着を着た唐目君を見たんだけど、なかなか凛々しくて格好良かったわよ」
「それは前言のフォローの心算かな」
「ううん、正真正銘の実感よ」
 夕美さんはそう云った後少しの間を空けて、俯いて頑治さんから目を逸らして恥ずかしそうに笑むのでありました。「で、学園祭の最終日だったから、夕方にキャンプファイヤーみたいに校庭の真ん中で盛大に井桁に組んだ焚き木を燃やして、その周りを生徒とか見に来た人皆で囲んで二列の輪になって、フォークダンス躍ったでしょう」
「ああ、そうだったなあ。東高の学園祭のフィナーレは何時もあれだ」
(続)
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あなたのとりこ 67 [あなたのとりこ 3 創作]

「押絵に強引に誘われて、あたしも参加したの」
「そう云えばミッションの女子高生も何人か輪の中に居たような気がする」
 頑治さんは遠くを見るような目付きをして往時を思い出すのでありました。「俺も剣道部の指令で参加していたんだ。学園祭が終わった後に運動部員は後片付けに駆り出されるんで、最後まで残っていなければならなかったからね」
 頑治さんは夕美さんに目の焦点を合わせ直してから云うのでありました。すると今度は夕美さんが頑治さんから微妙に目を逸らすのでありました。
「唐目君が参加していたのは知っていたわ。で、二重の輪が一人ずつずれながらグルグル回ってさ、唐目君とペアになったらどうしようって、あたし実は恐々として踊っていたのよ。多分押絵はそれが目的で、面白がってあたしを強引に誘ったんだと思うけど」
 この夕美さんの言葉の後段が少々気になるのでありましたが、頑治さんは敢えてそれを意に留めない風に、如何にも冗談めかした口調で訊くのでありました。
「何だよ、俺とペアになるのがそんなに嫌だった訳か?」
「ううん、勿論そう云うんじゃなくてさ」
 夕美さんはコーヒーカップを口元に運ぶのでありました。「だから詰まり、恐々としてって云うのか、ドキドキしてって云うのか、・・・」
「まあ、結果的には羽場の望み通りペアになる事はなかったよなあ、確か。・・・いやひょっとしてペアになっていて、でもそれを俺が判らなかったのかな」
 何やら話しの展開に妙にウキウキして来るのだけれど、頑治さんは舳先の進路を十四度程度、右か左かはこの際別として、敢えて微変更して見せるのでありました。
「そうね、ペアにはならなかったわね、残念だったけど」
「残念だった?」
 頑治さんは舳先を七度程元に戻すのでありました。
「まあ、いいじゃない」
 夕美さんは続けて二口コーヒーを飲むのでありました。「だから、あたしは高校生の唐目君を見た事があるの。それで、高校生の頃、って云ったの」
「ふうん。しかしそうなると俺も高校生になった羽場に逢ってみたかったな」
 頑治さんは郷里にある高校の中でも特にスマートなミッション高校の制服を着た夕美さんを思い浮かべているのでありました。さぞや可憐な姿であった事でありましょう。
「中学生の頃とそんなに変わらないわよ」
「いや、女子は一年逢わないと見違えるくらい変貌するって云うからなあ」
「それは高校を卒業してからの話しよ。制服も着ないしお化粧とかするようになるし」
「ふうん、そう云うものかね」
 頑治さんはその辺には疎いものだからあっさり納得の頷きをするのでありました。しかしこうして七年振りに逢った夕美さんはそんなに化粧っ気は無いのでありましたし、確かに中学生の頃の幼さが程良く消えているものの、面影はその頃その儘と云えば云えるでありましょうか。夕美さんはどうやら劇的な変貌はし損なったようであります。
(続)
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あなたのとりこ 68 [あなたのとりこ 3 創作]

 懐かしい様々な話しに現を忘れていたら喫茶店に入って二時間近くが過ぎているのでありました。頑治さんにしたら久しぶりの心躍る二時間でありましたか。
「せっかく逢えて、後は音沙汰無しと云うのも寂しいから、連絡先教えて置いてよ」
 そろそろ席を立とうかと云う時に夕美さんが、兎の絵の描いてある白地に細かいピンクのチェックの入ったメモ帳を取り出しながら云うのでありました。頑治さんが電話番号を知らせると夕美さんはそれを俯いてメモ帳に書き記すのでありました。
「俺も電話番号聞いて置こうかな」
 夕美さんは頑治さん同様、自分専用の電話をアパートの部屋に引いているのでありました。頑治さんと夕美さんが通っている大学では、一人暮らしで自前の電話を持っている学生なんぞは稀な存在でありましたか。これも、近くに叔母さんが住んでいるとは云え、東京で一人アパート暮らしをする娘への実家のお父さんの配慮からでありましょう。
「メモしないの?」
 頑治さんが聞きっ放しで、特段書き記す気配がない事に夕美さんは不安を感じたようでありましたし。お愛想で聞きはしたけど、実は聞きたいと云う肚は更々無いんじゃないかしらと、そんな落胆の気色も多少窺えるような顔付きでありました。
「もう覚えたよ」
「本当?」
「何なら復唱しようか」
 頑治さんは今聞いた夕美さんの電話番号を繰り返して見せるのでありました。
「ここを出たらすぐ忘れるんじゃないの?」
「そんな事は無いよ。一度聞いた、特に女子の電話番号を即座に暗記するのは、自慢じゃないけど俺の得意技の一つなんだから」
 頑治さんは柄にもない軟派な冗談を嘯くのでありました。
「ふうん」
 夕美さんは未だ疑いの色を眉宇に止めているのでありましたが一応納得するのでありました。本人がそう云う以上、書き記せと強要する訳にもいかないでありましょう。
 その日の夜に頑治さんは夕美さんの住まいの電話を鳴らすのでありました。ちゃんと覚えていた証しであります。夕美さんは安堵したような声で再度納得するのでありました。頑治さんはそれから序に、明日もあの公園で逢う約束を取り付けるのでありました。

 夕美さんがワインを入れたコップを口に運びながら頑治さんに訊くのでありました。
「そう云えば錦華公園が今工事中なのね」
 頑治さんの勤め始めた会社の横を足早に手を繋いで通り過ごして、本郷二丁目の頑治さんのアパートに向かうため錦華公園を横切って山の上ホテルの横に石段を登る時に見た、公園の一角が工事のためにテントで仕切られている光景を夕美さんはふと思い浮かべたのでありましょう。それからワインを一口飲んでコップを置くのでありました。
「ああ、何でも幼稚園を建てるために工事しているそうだけど」
(続)
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あなたのとりこ 69 [あなたのとりこ 3 創作]

 頑治さんは三角形に加工してあるチーズを齧りながら云うのでありました。
「錦華小学校の付属の幼稚園かしら」
「多分そうだろう。いや俺も良くは知らないけど」
 頑治さんはそこに何が建つのか殆ど興味が無いのでありました。「でも、そのために公園がちょっと狭くなるのは何となく残念かな」
 錦華公園は平日の昼休み時間等、学生やら近所で働くサラリーマンなんかでなかなかに混み合っていて、空いているベンチが見付けられないくらいでありました。そう云えば会社の刃葉さんなんかも、未だ就業時間中にも関わらず無為に時間を潰すため錦華公園のベンチで屡転寝をしているのを見かけると袁満さんが云っていましたか。
「そうね、狭いけどあれはあれでなかなか、憩いの公園と云った感じだからね」
 夕美さんも少し残念そうな顔をするのでありました。
「ところで博士課程に行かない場合、大学院を卒業したらどうする心算なんだい?」
 頑治さんは話しの舳先を大きく曲げるのでありました。先程中華料理屋で訊いた夕美さんの話しが、何となく気に懸かっていたからでありました。
「博士課程に残らないって決めた訳じゃないから、そうしなかった後の事なんか未だ何も具体的に考えてはいないし、決めてもいないわ」
「ふうん。でもまあ、夕美の事だからそうなったらそうなったで、抜かりなく何処かちゃんとしたところに就職を決める事が出来るか」
「中学校か高校の先生になるのも悪くないかな」
 夕美さんは頑治さんに笑いかけながら云うのでありました。
「そうか、大学の時に教職課程は取ったみたいだしなあ」
「それに何処かの博物館の職員になると云うのも良いかも知れない」
「学校の先生か、博物館の職員ねえ」
 頑治さんは夕美さんがそう云う職業に就くのが似合っているのかどうか考えてみるのでありました。まあ、似合っているようでもあるし似合っていないようでもあるし。
「もっとバリバリ、商社とか銀行とか保険会社とか、或いは新聞社とかテレビの放送局とかで働く、なんていう野心的な了見は無いの?」
「あたしどちらかと云うと性格がのんびりしている方だから、あんまりバリバリとか云うのは自分に合ってはいない気がする。まあ、学校の先生も博物館の職員も、だからと云ってのんびり勤められる訳じゃないのは判っているけどさ」
 確かに夕美さんは性格におっとりしたところがあると頑治さんは納得するのでありました。だから一種地道に腰を据えて、丹念に研究を進めていく考古学と云う学問に魅かれたところもあるのでありましょう。しかし若し夕美さんが大学院卒業後にバリバリの方を選んだとしても、夕美さんの事だからそこはそれなりに賢く順応して、そつなく自分の与えられた仕事を熟す事が出来るのであろうとも思うのでありました。
「考古学からあっさり離れるのかな、若しそうなったら?」
「全く離れはしないけど、でも少し距離を置く事になるかも知れないわ」
(続)
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あなたのとりこ 70 [あなたのとりこ 3 創作]

 夕美さんはまた一口ワインを飲むのでありました。「さっき食事していた時に頑ちゃんから、あたしの考古学に対する興味が少し薄れたんじゃないかって云われて、何かこのところずっと感じていた憂鬱の原因をはっきり言葉にされたような気がしたの。明らかに薄れたって実感する程の大きさじゃないんだけど、でも確かに前はウキウキして出掛けていた発掘助手の仕事も、何となく現場まで出かけるのが大儀に感じる場合もあったのね。それでも自分を鼓舞して出かけるんだけどね。出かけたら出かけたでそれは何時も通り楽しいんだけど、前よりも帰りにドッと疲れるの、体の調子がおかしい訳じゃないのに」
「ふうん」
 大した事を喋った訳ではないにしろ夕美さんの喋る低いトーンの言葉の連なりを聞きながら、頑治さんは不用意に余計な事を云ったのかなと少したじろぐのでありました。「でもあんまり深刻に考えない方が良いのかも知れないよ、今は。薄れた気持ちがまた元の濃さに回復する事もあるだろうし、今ほんのちょっと倦怠しているだけかも知れないし」
「でも、そろそろ博士課程に進むのかそれとも止すのか決めないといけない時期だし」
 夕美さんはまたワインを飲んでから小さな溜息をつくのでありました。夕美さんの持つコップの中のワインの朱色が少し揺らぐのでありました。
 ほんの暫くの間ではありますが会話が途切れるのでありました。
「今日、泊まって行こうかな」
 夕美さんがぼつりと云うのでありました。
「それは構わないけど、明日は朝が早いんじゃないの?」
「ううん、別に早くはないわ。頑ちゃんが出勤する時に一緒に出れば大丈夫」
 頑治さんとしては大歓迎な提案でありました。今夜は何となくずっと一緒に居てあげたいような心持ちがしていた矢先でありましたし。
「じゃあそうするかい?」
「うん、そうする」
 夕美さんは頑治さんの顔を見ながら笑むのでありました。心持ち頼り無さそうな沈んだ笑みに見えるのは、それはこれまでの会話の経緯からでありましょうが。

   去る人

 結局山尾主任も均目さんも当日都合が悪くなったものだから、翌週の月曜日に頑治さんを池袋の宇留斉製本所に連れて行ってくれるのは刃葉さんと云う事になったのでありました。尤も羽葉さんにとっては毎週決まった仕事の一つであったから、その序でに助手を兼ねて頑治さんを引き連れて行くと云った寸法になる訳でありますか。
 折角整理整頓した棚を刃葉さんに荒らされるのは叶わないから、頑治さんが持って行く材料類を棚から出して倉庫出入り口まで運び、それを羽葉さんが車に積み込んで出発の準備を整えるのでありました。なかなかきびきびと甲斐々々しく働く助手だと刃葉さんは思ったでありましょうが、それは頑治さんの了見を曲解しただけであります。
(続)
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あなたのとりこ 71 [あなたのとりこ 3 創作]

 白山通りを北上し講道館横を左折して車は春日通りを直進するのでありました。その儘池袋六ッ又交差点を超えて川越街道を進めば、目指す池袋四丁目に在る宇留斉製本所へは簡単なルートと思われたのでありましたが、なかなかそうは上手く問屋が卸さないのでありました。勿論この場合の問屋と云うのは運転手の刃葉さんであります。
 頑治さんは然程でもないと思ったのでありますが、刃葉さんは春日通りが渋滞していると感じたらしく車を横道に入れるのでありました。伝通院前を左折して安藤坂を越して首都高速池袋線に沿って目白通りから音羽通りを走行しようと云う魂胆のようであります。まあ、春日通りが渋滞していると羽葉さんが判断したのならこのルートも順当な選択の内ではありますが、しかしここからが刃葉さん問屋の本領発揮でありました。
 春日通りが混んでいるのなら目白通りも混んでいると見るのが順当な推測と云うものでありますし、案の定車は緩やかな走行と停止、それから程なくの発進を繰り返すのでありました。どちらかと云うと春日通りを真っ直ぐ進んでいた方がスムーズではなかったかと頑治さんは思うのでありましたが、それは口にするのを控えるのでありました。
 刃葉さんは焦れて路地に車を進入させるのでありました。路地をくねくねと曲がり進みながら護国寺まで出ようと云う目論見のようであります。
 しかしこの問屋さんときたらこの辺りの道にとんと不案内なのでありました。時々渋滞があれば前も屡こうして路地を抜けるルートを取っていたのだろうから、多分大丈夫と頑治さんも高を括っていたのでありましたがどうやら様子がおかしいのであります。羽葉さんはきょろきょろと前方広角度に首を回しながらハンドルを右に切ったり左に急転させたりで、車は阿弥陀籤のような進み方で目指すべき方向を探しているのでありました。
 頑治さんは竟に見兼ねて、脇のドアポケットに刺さっているA四判で一万五千分の一縮尺の東京二十三区道路地図帖を手に取るのでありました。
「この辺は前にも来た事があるんだけどなあ」
 刃葉さんがその頑治さんの所作に先回りの云い訳らしきを垂れるのでありました。
「さっき小学校を通り過ぎましたが、それが小日向台町小学校だと思います」
 頑治さんは地図から目を離さずに続けるのでありました。「今車は北を向いて走っていますから先を左に曲がってください。左折してその儘進むと音羽通りに出る筈です」
 頑治さんのその注進に刃葉さんは特に頷かないのでありましたが、困り果てて従う心算ではあろうと取ったのは頑治さんの早呑み込みでありました。而して何を思ったのか羽葉さんは前に現れた丁字路で右にハンドルを切るのでありました。頑治さんは思わず刃葉さんに聞こえないように小さく舌打ちするのでありました。
 案の定、車は暫し進んで丸ノ内線の線路に進行を阻まれるのでありました。
「なあんだ、だったら左に行けば春日通りに出ると思ったんだけどなあ」
 まるで頑治さんが丸ノ内線の線路の事を伝えなかったのが迂闊だったかのような口振りであります。頑治さんは、今度は少し高く舌打ちの音を立てるのでありました。それは刃葉さんも聞こえたようでありますが、頑治さんとしては刃葉さんの運転感覚に苛々していたところでありましたから、こうなればもう不謹慎も何も無いと云うものであります。
(続)
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あなたのとりこ 72 [あなたのとりこ 3 創作]

 結局車は、拓殖大学、跡見学園、お茶の水女子大学と大学巡りをした挙句に、当初のルートである春日通りに戻るのでありました。やれやれ、始めから素直に春日通りを進んでいれば無意味に時間を費やさなくとも済んだと云うものであります。漸くに宇留斉製本所に車が到着したのは通常の二倍近い時間を要して、と云う事になるのでありました。

「お早うございます、贈答社です」
 刃葉さんはそう家の中に声を掛けながら、宇留斉製本所のかなり年季の入った木造モルタル二階建ての、一階の、道路に面したアルミの引き戸を引き開けるのでありました。一階が広さ二十畳程の製本所の作業場で二階が居所と云う造作でありましょうか。
 暫くすると二階から、小柄で首が短いのがやけに目立つ太りじしの中年の女性が大儀そうな足音を立てながら作業場に階段を下りて来るのでありました。女性は引き戸外に立つ羽葉さんをジロリと見て溜息をつくのでありました。
「何時もながら遅いわねえ」
 のっけから到着の遅い事への文句であります。「何時も云っているけど、もっと早く会社を出れば少しは早く到着するんじゃないの」
「ああ済みません」
 刃葉さんは慎に儀礼的に頭を下げるのでありました。こう云ういちゃもんはしょっちゅう頂戴しているらしく、如何にも軽くあしらうような無精な謝り様でありました。
「出来上がったのはそこに積んであるから、勝手に持って行って」
 その中年女性は引き戸脇に積み重ねてある五つの段ボール函をぞんざいに指差すのでありましたが、その時羽葉さんの後ろで車の後部ハッチから荷を下ろそうとしている頑治さんを見付けて、ヒョイと両眉を上げるのでありました。「あれ、新人さん?」
 頑治さんはその言葉に反応して女性の方に顔を向けて目礼するのでありました。
「ええ新人です。俺の後釜で唐目と云う名前のヤツです」
 刃葉さんが頑治さんを紹介するのでありました。
「ふうん。そう云えばもうすぐ刃葉君は会社を辞めるとか云っていたわね」
「はい、来月一杯で」
「唐目です。宜しくお願いします」
 頑治さんは体ごと向き直って畏まったお辞儀をするのでありました。
「なかなか良い男じゃない」
 女性は口元を歪めて科のある流し目なんぞをして頑治さんに笑いかけるのでありました。その無遠慮にどう対応して良いのか判らなかったから頑治さんは無表情の儘で目を逸らして、また荷下ろし作業を再開するのでありました。
 勝手に持って帰れと指示した後は、女性はまた二階に引っ込むのでありました。頑治さんと羽葉さんは持ってきた材料類を引き戸脇に下ろして、今度は持って帰るべき段ボール函を車に積んでいる時に件の女性がまた下に降りて来るのでありました。今度はその後ろにもう二人、同じくらいの年頃の女性を引き連れているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 73 [あなたのとりこ 3 創作]

 一人は大柄で四角い顔に黒縁の、レンズの部分が細い眼鏡を掛けていて一番地味な服装をしていて、その故かこの三人の女性の中で一番年嵩に見えるのでありました。もう一人は最初に現れた女性に小柄で太りじしの体型も顔付きも歳頃も近似していて、この二人は如何にも姉妹であると明快に判る様相をしているのでありました。容貌にも年齢にも似合っていないと頑治さんには思われるのでありましたが、金赤色の地に大きなテディーベアの絵の入った派手なダブダブのTシャツなんぞを着ているのでありました。
 二人は如何にも好奇心たっぷりの目で頑治さんを見ているのでありました。新米の若いのが来たぞと教えられて、どれどれと値踏みに遣って来たに違いないと頑治さんは推察するのでありました。無遠慮を隠さない女性達の視線に頑治さんはたじろぐのでありましたが、素知らぬ風の無表情でそのネバつく視線を遣り過ごしているのでありました。
 荷も積み終えて刃葉さんと最初に現れた女性が納品書と受領書の遣り取りをしているところに、大柄黒縁眼鏡が言葉を発するのでありました。
「この前云って置いたビニール紐はちゃんと持ってきた?」
 刃葉さんはそう云われて口を開けて驚きの表情をして見せるのでありました。
「ああそうか。済みません、忘れました」
「矢張りねえ。そうだろうと思った」
 大柄黒縁眼鏡は嘆息するのでありました。「相変わらず抜けているんだから」
「済みません」
 刃葉さんは動揺を隠すためか愛想笑いながら深くお辞儀するのでありました。「若し足りなくなるようなら今日中に持って来ますが」
「いいわよ、またウチまで往復するのは大変でしょう。来週までは何とかなると思うからこの次で良いわ。でも来週こそ忘れないで持ってきてよ」
「判りました。必ず持って来ます」
 この返事を傍で聞きながら、刃葉さんの事だからせめてメモでもして置かないとまた屹度忘れるに違いないと頑治さんは思うのでありました。
「ところで新人さんは、歳は幾つ?」
 赤Tシャツが頑治さんの方に視線を向けるのでありました。
「二十三になります」
 後々の付き合いもあるから無愛想の儘だと拙かろうと考えて、頑治さんは頬の表情筋を緩めてそう応えるのでありました。
「ふうん。刃葉君と同い歳になるの?」
「いや、俺の方が一つ上です」
 刃葉さんが横から云うのでありました。すると赤Tシャツは急に不興気な面持ちになって羽場さんの方に黒目を動かすのでありました。聞いているのは頑治さんに、であるから羽場さんはお呼びじゃないと云う慎につれない興醒めの表情でありましょう。
「その前は何やっていたの?」
「はあ、まあ、学校に行っていました」
(続)
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あなたのとりこ 74 [あなたのとりこ 3 創作]

「専門学校、それとも大学?」
「大学です」
「態々大学出て最初にこの仕事に就いたの?」
「ええそうです。ま、卒業したのは去年ですが」
「最近は就職難だとテレビで云っていたけど、なかなか仕事が見つからないのかしら」
 赤Tシャツはどこか頑治さんに同情するような気色を見せるのでありました。
「選り好みしなければ何かしらの仕事は見つかります。それに僕はどちらかと云うと頭を使うより体を使う仕事の方が性に合っていますから」
「ふうん、体育会系な訳ね。で、選り好みしないでこの仕事に就いたって訳ね」
「まあ、そう云った風な按配ですかねえ」
「縁があって就職したんだから頑張ってよ」
 横に居た黒縁眼鏡が、多分然したる意味も無い愛想の心算でありましょうが頑治さんを励ますのでありました。頑治さんは黒縁眼鏡に笑いかけてお辞儀するのでありました。

 帰りの車の中で運転する刃葉さんが、前を向いた儘含み笑いを作って助手席に座る頑治さんに話しかけるのでありました。
「あのオバさん連中、唐目君を気に入ったみたいだな」
「ああそうですか」
 頑治さんも前を向いた儘無表情且つ無抑揚にそう応えるのでありました。
「俺なんかには何時でも、態とのように苛々してくるような口のきき方をするってのに、今日は何となくしおらしかったものなあ」
「宇留斉製本所はあのお三人でやっていらっしゃるのですか?」
 頑治さんは話題を少し逸らすのでありました。
「そう。三姉妹の中で一応、長女だから眼鏡のオバさんが社長と云う事になるのかな」
「地方別観光絵地図の製本がウチの仕事の中では主要なものと云う事ですか?」
「そう。あれはタイトルのある位置が各地方によって違うから、畳み方も夫々違うので機械で均一には折れないんだよ。だから宇留斉製本所で手仕事して貰っているんだ」
 地方別観光絵地図は日本を七地域に分けたA全判のイラスト地図で、表面をビニール加工してA五判に畳んで、口が玉取り加工してある厚手のビニール袋に価格等の書いてある短冊と一緒に入れた商品であります。袁満さんなんかが各地の観光地に出張して、そこのお土産屋さんとかホテルの売店とかに卸している主要な商品と云う事になりますか。
「地方別観光絵地図以外にも製本仕事を出しているんですか?」
「うん。ちょっと込み入った、機械ではなかなか出来ないような物を頼んでいるよ」
「お三人だけでやっていらっしゃるのですか?」
「いや、パートのオバさんが後何人か居るよ」
「今日はいらっしゃいませんでしたね」
「昼から来るんじゃないの」
(続)
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あなたのとりこ 75 [あなたのとりこ 3 創作]

 刃葉さんが急ハンドルでまた、行きがけ同様横道に入るのでありました。帰りも道に迷って無意味な時間を潰す破目になるのかと思って頑治さんは溜息を吐くのでありました。頑治さんとしてはそう云う危惧があったので帰りは自分が運転しようかと申し出たのでありましたが、羽場さんは何故かそれを断って再び運転席に座ったのでありました。
「まあ、パートの人も居なかったし仕事場が何時になくすっきりしていたから、丁度繁忙だった仕事が片付いて、一息と云うタイミングだったのかも知れないけどな」
 刃葉さんはそう憶測を述べながら細い道を右に左にハンドルを切ながら、行き道同様さして急ぐ風もなく帰りの経路を紆余曲折に取るのでありました。
 刃葉さんとしてはこうやって少しでも道程をショートカットしようと云う魂胆なのでありましょうが、結局は徒に時間を空費していると云った按配でありましょうか。この人は実はせっかちな人なのだろうと頑治さんは思うのでありました。しかしそのせっかちが多くの場合残念ながら空回りして仕舞うタイプの人なのでありましょう。
 そう云えば刃葉さんは運転中にカーラジオをかけているのでありますが、二分と同じ番組を聴かず引っ切り無しにチャンネルを変えるのでありました。少し聞いてつまらないと思ったらすぐにチューナーボタンを押して、受信出来る総ての放送局を落ち着き無く何度も渡り歩くのでありますが、これもせっかちな性分の為せる業でありましょう。
 考えてみれば柔道や合気道や剣道や空手やバレエと云ったその多趣味ぶりも、本人なりの目論見は別の処にあるにしろ、斜に視れば落ち着きの無い移り気な性格が結局のところ基になっていると思われるのであります。一つをじっくりと云う人ではないようでありますから、これでは万事が習熟の域まで達しない儘表面をつるりと撫でて終わるのかも知れません。ま、そんな事は余計なお世話だと云われればその通りではありますが。
「少し時間が早いけど、何処かで飯でも食って一時迄昼休みしていくか」
 紆余曲折の末に結局また春日通りに戻って、中央大学の理工学部近くに来た辺りで刃葉さんが頑治さんに提案するのでありました。
「未だ十一時半前ですから昼休みを取るには早過ぎじゃないですか」
 頑治さんがそう云うと、刃葉さんは頑治さんを不愉快そうな横目でチラと見て小さな舌打ちの音を立てるのでありました。
「唐目君は生真面目と云うのか、律義な性格なんだなあ」
 刃葉さんは頑治さん側の左頬に苦笑を浮かべて呟くのでありました。これは明らかに頑治さんに対する揶揄でありましょう。
「この儘走れば十二時頃に会社に戻れるじゃありませんか。態々早目に取らなくても昼休みはそれからでも構わないんじゃないですか」
「全く堅い事を云うヤツだな」
 頑治さんはその刃葉さんの言葉にカチンとくるのでありました。まるで融通の利かない朴念仁扱いであります。そうでは全くないだろうと熱り立つ気持ちを一方に、頑治さんは後々暫くの間の刃葉さんとの付き合いを考えてそこはグッと堪えるのでありました。ここで憤怒に任せて喧嘩を始めても何の得にもならない話しでありますから。
(続)
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あなたのとりこ 76 [あなたのとりこ 3 創作]

 明らかに頑治さん意見の方に正統性があるのは刃葉さんも判るようで、早目の昼休みは諦めたようでありました。しかし車が白山通りに曲がって後楽園遊園地の道向かいで、壱岐坂を越えた直ぐの辺りで刃葉さんは車を路肩に寄せて停車させるのでありました。
「ちょっと待っていてくれるかな」
 刃葉さんはそう云い置いて車を降りるのでありました。見ていると道沿いの武道具店の看板の下の引き戸を開けてその中に姿を消すのでありました。
 ははあ、ここに立ち寄りたいために帰り道の頑治さんの運転交代の申し出を断ったのであろうと合点がいくのでありました。頑治さんが運転していたらここでちょっと車を止めろと云うのも刃葉さんとしては気後れするでありましょうし、それなら自らハンドルを操作している方が自儘に、遠慮を感じる事少なく車を武道具店の横に停止させられると云うものであります。仕事では武道具店とは縁も所縁も無いのだから、これは刃葉さんの全くの私用と云う事になるでありましょうか。頑治さんはフロントガラス越しに武道具店のアルミサッシの引き戸を見ながらやれやれと声に出して独り言ちるのでありました。
 刃葉さんは二十分程して店を出て来るのでありました。手には細長い紙包みを持っているのでありました。何かは判らないけれどそれを買ったのでありましょう。
 車のドアを開けて運転席に座ると、刃葉さんは助手席に座っている頑治さんの方を向くのでありました。何か話し掛けるのかと思いきやそう云う訳ではなく、少し口を尖らせて見せてから紙包みを変速ギアと自分の左大腿の間の隙間に置くのでありました。助手席に頑治さんが座っているものだから、多分こんな場合何時もしているように、何の気無しに紙包みを助手席に放り投げる事が出来ないのを忌々しく思ったのでありましょうか。

 結局猿楽町に在る会社の倉庫前駐車場に車が滑り込んだのは、十二時を十五分程回った頃になるのでありました。羽葉さんは引き取って来た荷を車から下ろしもせずに運転席のドアを外からバタンとぞんざいに閉めた後、そそくさと昼食を摂るために何処かに行って仕舞うのでありました。頑治さんは刃葉さんから託された、宇留斉製本所から受け取った納品書を山尾主任に渡すために三階の事務所への階段を上るのでありました。
「おや、今日は割と早かったなあ」
 制作部の自分の机で弁当を食していた片久那制作部長が頑治さんの姿を見て声を掛けるのでありました。遅かったなあと苦言を呈される方が妥当と思われるのに、そんな逆の言葉を掛けられると頑治さんとしては少し調子が狂うと云うものであります。
「山尾さんは昼食ですか?」
 頑治さんが訊くと片久那制作部長の代わりに、これも自分の机でこちらはようやく午前中の仕事が片付いたと云った風情の均目さんが応えるのでありました。
「印刷所に出掛けていて、未だ戻ってないよ」
 頑治さんはふうんと云った具合に頷いて、持って帰って来た宇留斉製本所の納品書を山尾主任の机の上に置くのでありました。
「刃葉君はどうした?」
(続)
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あなたのとりこ 77 [あなたのとりこ 3 創作]

 片久那制作部長が頑治さんに訊くのでありました。
「昼食に行かれました」
「唐目君に納品書を渡して、自分は仕事完了の報告もしないでかい?」
 はいそうですと応えるのも何となく憚られるので、頑治さんは頷かずに口元に笑いを作って返答の代わりとするのでありました。
「相変わらず無責任だなあ」
 片久那制作部長は舌打ちしてからまた弁当の方に取り掛かるのでありました。
「昼飯は当然未だだろう?」
 均目さんが立ち上がりながら頑治さんに話し掛けるのでありました。
「ええ、未だです」
 頑治さんは竟々丁寧語で応えるのでありましたが、均目さんには同い歳なのだからお互いざっくばらんなため口でいこうと云われているのでありました。しかし態々もう一度ため口で言い直すのも間抜けな振る舞いと云うものでありますか。
「じゃあ、一緒に何処か食いに行こうか?」
 頑治さんは頷いて二人で事務所を出るのでありました。
 お茶の水、神保町、それに猿楽町近辺は昼食時はどの飲食店も混んでいて、十二時を少し出遅れただけでも行列に並ばないとなかなか食事にありつけないのでありました。入社して一年の均目さんよりは頑治さんの方がこの界隈に詳しかったものだから、ちょっと汚い店だけどと断って、頑治さんは均目さんを以前から偶に利用していた常時人影もあまり無いような路地裏に在る、暖簾も目立たない小さな定食屋に案内するのでありました。
「へえ、こんな店があったんだ」
 均目さんは初めて入ったその定食屋のカウンター席だけの狭い店内を珍しそうに眺め渡しながら、頑治さんと出入り口近くの椅子に並んで座るのでありました。
「それに他の店に比べると値段も安いよ」
 頑治さんはここは少しぞんざいなため口を使うのでありました。
「流石に大学時代からこの辺をうろついているだけの事はあるなあ」
「神保町郵便局とか運送屋の集配所は迂闊にも全く知らなかったけどね」
「そう云う所は学生には縁が薄いだろうしね」
 二人揃って塩鯖切り身の焼き魚定食を食いながら、均目さんは味もなかなかいけるし、良い店を教えてくれたと頑治さんに畏まらない謝意を表するのでありました。
「宇留斉製本所に行った時、刃葉さんは何時もは何時頃帰って来ていたのかな?」
 頑治さんは口から離した味噌汁碗を置きながら訊くのでありました。
「そうねえ、昼休み明けの午後一時頃かな」
「ああ、今日みたいに帰ってすぐに、何はさて置いても昼休みを取って、それで仕事復帰するのが午後一時と云う事になる訳だ」
「いや、午後一時頃に駐車場に車が帰って来るんだよ。それから遅い昼休みと云う事になるから、仕事復帰は午後二時からと云うのが今までの大体のパターンかな」
(続)
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あなたのとりこ 78 [あなたのとりこ 3 創作]

 そう聞いて頑治さんは呆れ顔を均目さんに向けるのでありました。
「実は今日の宇留斉製本所行きだけど、多分近道をしようと考えたのか羽葉さんが、池袋方面に向かう表街道じゃなくて裏道に途中でハンドルを切ったんだよ。すると進路に迷って街道を行くよりかなり無駄に時間が掛かって仕舞ったんだ」
 均目さんは喋り始めた頑治さんの顔を上目に見ながら一つ頷くのでありました。
「ああ、よくあるあの人の無意味な行動の一つだね。屡そうやって無駄な時間を使っているよ。何時も道に迷っているんだから好い加減道路事情に詳しくなっても良さそうなものだけど、上の空で運転しているからちっとも道を覚えない。相変わらず同じ道で迷っている。近道をしようと云うせっかちだろうけど、近道になった例がない」
「あれがなければ三十分は早く宇留斉製本所に着いた筈だな」
 頑治さんは顰め面をして見せるのでありました。「帰りも同じ轍を踏んで時間をロスするし、それは未だ百歩譲って許そうと思えば許せるけど、十一時半には、就業時間内だと云うのに何処かで昼休みをして行こうと提案されたんだ」
「誰かの監視の目が無いと、あの人はそう云う緩々なところがある」
「律義とかそう云う気持ちは俺も特には無いんだけど、流石に三十分も早く昼休みに入るのは気が引けたから、そこは少し抗弁したんだ」
「五分前ならまだしも、三十分前となると正真正銘のサボりだもんなあ」
 均目さんは口に入れた鯖の切り身に小骨が付着していたらしく、暫し口をモグモグとさせてからその骨を指で唇から摘み出すのでありました。
「まあ、そうしたら俺が生真面目なヤツだとか皮肉を云ってそれは諦めたようだけど、今度は明らかに私用で後楽園近くの武道具店に立ち寄って買い物だ」
「まあ、公私の区別に全く無頓着なあの人らしい行動だな」
「それで許されるのかな」
「許される訳じゃないけど」
 均目さんは味噌汁を一口飲むのでありました。
「いや俺も、ここで刃葉さんを糾弾しようという魂胆は無いんだけど、あんな仕事振りを会社はずっと許しているのかと思ってさ」
「別に許してもいないけど、刃葉さんは注意されても上の空だから云っても無駄と云うところかな。山尾さんなんかは時々注意しているようだけど、改める気も更々無さそううだしね。羽葉さんは心根の内では山尾さんの事を侮っているようだしね」
「片久那制作部長はそんな刃葉さんの不届きを知らないのかな」
「まあ、気付いてはいるだろうけど、億劫なのか知らん振りだな」
「土師尾営業部長は?」
「あの人は自分の体面とか損得以外は何に付けても無関心だから」
「でも、刃葉さんの直接の上司だろう?」
「要するに怖いんだろうな、刃葉さんの事が。何を考えているのか知れないところがあるから、ひょっとして刃葉さんのご機嫌に障ったりしたら殴られるかも知れない」
(続)
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あなたのとりこ 79 [あなたのとりこ 3 創作]

「殴られる?」
 頑治さんはその言葉の不穏さに目を剥くのでありました。「刃葉さんが土師尾営業部長を気に障ったから殴る、或いは殴る素振りをすると云った事が前にあったのかな?」
「いや、それは全然無いけど」
「じゃあ、どうして土師尾営業部長は刃葉さんを恐れているのかな?」
「土師尾営業部長は部長としてのプライドとかの点には執拗に拘る割に、実は全く肝っ玉の小さい臆病な人だからね。だから結局、一種の的外れの怖気と云うべきかな」
 均目さんはそう云って皮肉っぽく笑うのでありました。

 定食屋を出た後未だ少し午後の仕事開始まで時間が有ったから、かと云って喫茶店に腰を据える程には無かったから、頑治さんと均目さんは会社近くの立ち飲みコーヒー店で紙コップに入ったコーヒーを飲みながらもう少し話しをするのでありました。ここの紙コップは時々会社の倉庫にも転がっていて、刃葉さんも愛用している店のようであります。
「土師尾営業部長の事、今迄観てきてどう思う?」
 均目さんは椅子が無いものだから立った儘でやや前屈みにカウンターに片肘を突いて、紙コップのコーヒーを一口啜った後に訊くのでありました。
「そうねえ、この前の飲み会とかその後の話しとかであんまり良い評判は誰からも聞かないけど、でも喋り方は穏やかそうな印象だけどね」
 頑治さんも隣で同じ姿勢をして顔を均目さんに向けるのでありました。
「あれが穏やかかい?」
「まあ、言葉遣いに限ってはね。言葉の端々とかに、何故かちょっと苛っとさせるような棘々しさみたいなものは感じる時はあるけどね」
 頑治さんとしてはそんな事を訊いてくる均目さんの底意への少しの警戒から、大方の評判に阿ていきなり批判的な言葉を口に上せて見せるのも憚られると思ったものだから、先の、喋り方は穏やか、と云う無難な辺りを先ず口にしたのでありました。しかし実のところは土師尾営業部長と言葉を交わすのは妙に苦手に感じていたのでありました。
 確かに彼の人は大体に於いてぞんざいな言葉遣いをするところは全く見受けられず、一方的に言葉を投げ付けてくるような押し付けがましさみたいなも無く、穏やかと云えば実に穏やかな喋り方をするのでありました。しかしその穏やかそうな言葉には温感が全く無いのでありました。隠しても現れて仕舞う圭角が忍んでいるような感じと云うのか。
 それに云い回しが妙に間怠っこいとも感じるのでありました。ズバリと要点を極力少ない言葉で示すと云う風な喋り方ではなく、例えて云えばまるで、さして必要とも思われない余計な機能を多く付加して単価を吊り上げてやろうと云う魂胆が見え々々の、最新モデルのテレビのような喋り方と云うのか、何と云うのか。・・・
 あれま、何と云う間怠っこい例えである事か。頑治さんは今思った自分の例えに自分でうんざりするのでありました。均目さんの前にそれを言葉にして開示しなかったのは幸いと云うものであります。まるで間抜けの見本みたいな具合でありますから。
(続)
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あなたのとりこ 80 [あなたのとりこ 3 創作]

 要点ズバリの口は片久那制作部長の方でありましょう。依ってこちらは如何にも愛想の無い、時に辛辣に聞こえて仕舞うような物云いでありますか。
「何か、無駄にくどいと思うだろう、土師尾営業部長の話し振りは」
 均目さんがコーヒーの紙コップを口から離しながら云うのでありました。
「そうね、確かにくどい。仕事の指示にしても同じ事を何度も云うね」
 頑治さんは苦笑しながら応えるのでありました。
「自分が頭が悪くて物事を一回で理解出来ないものだから、他人もそうだと思っているんだろう。だからうんざりするくらいくどくどと何度も念を押そうとするんだ」
「今まで別に込み入った仕事を頼まれた事が無いし、実際そんな込み入った梱包仕事も無いんだろうけど、確かに細々と、云わずもがなの指示が多いね」
「要するに他人をまるっきり信用していないんだろうな。それと、自分が頭が悪いと云う事が自分で判っていないから、余計人を苛々させるようなもの云いをする」
 均目さんは端から土師尾営業部長を侮っているようでありました。
「人を信用しないのは、こう云うのも何だけど、主に指示する相手が刃葉さんだからと云うのも、ひょっとしたらあるんじゃないかな」
「いやいや、刃葉さんが入社する以前からあんな調子だったようだぜ」
「ふうん。じゃあ、元々の性質と云う事か」
「いくら人材が居ないとは云え、あの人が云ってみれば形式的にはトップなんだから、ウチの会社も先が見えているかも知れない」
「形式的なトップ?」
 頑治さんはその言葉が上手く呑み込めないので、繰り返してから困惑気な目をして均目さんの顔を見るのでありました。「それなら実際のトップは?」
「実質上のトップは片久那制作部長に決まっているよ」
「形式的とか実質上とか、その別はどういう事なんだろう?」
「会社の収支の状態やら従業員各個の仕事振りやら、そう云った管理については片久那制作部長が全部掌握しているから、実質的に会社のトップと云う訳だね」
「土師尾営業部長は部長として、どの方面の管理の仕事をしているのかな?」
「何もしていないよ」
 均目さんは毛程も遠慮の無いきっぱりとした云い方をするのでありました。
「でも眺めていると会社の代表格は土師尾営業部長と云った感じだけど」
「ま、代表は社長と云う事になるけど、社長は会社の運営に特に口出しも方針を示す事もないからね。黒字か赤字か気にしているだけのお飾り社長と云ったところかな」
「お飾り社長、ねえ」
 またもや頭に妙な修飾語の付いた役職が聞こえて来るのでありました。
「社長の事は今は置くとして、実際のところ土師尾営業部長は何の管理の仕事もしていないよ。単なる営業社員以上じゃないね、あの仕事振りは」
「じゃあ、何を以って部長と云う役職を拝命しているんだろう?」
(続)
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あなたのとりこ 81 [あなたのとりこ 3 創作]

「給料に高額な役職手当を付けるためさ」
 均目さんは鼻を鳴らすのでありました。
「そんな理由かい」
 頑治さんは少し呆れ顔をして見せるのでありました。
「そう云うけど、これは正真正銘の理由だぜ」
「聞いてもまあ仕様が無いけど、役職手当は幾らなんだい?」
「前に何かの折に経理の甲斐さんから聞いたところに依れば、営業部長が十万円で制作部長が九万円、課長手当が二万円で、それに主任手当が五千円と云う事だ」
「何か妙に等比性が無いね、その金額の数列は」
「それはそうさ。役職手当は土師尾営業部長と片久那制作部長のためのもので、他の人はまあ、云い訳のためにつけ足ししたような按配だもの」
 均目さんはコーヒーを一口啜るのでありました。
「片久那制作部長の方が会社の実質上のトップだと云うのなら、どうして土師尾営業部長より一万円少ない額なんだい?」
「そこが片久那制作部長の、云ってみれば小狡い目論見と云うところかな」
「小狡い目論見?」
「一万円の格差で土師尾営業部長を奉って置けば、自分は社長との折衝とか同業他社なんかとの付き合いとか色んな制作仕事以外の煩わしい仕事を免れるし、何かあった時に矢面に立つのを避けられると云う魂胆なんだろうな」
「ふうん。で、その役職手当の額は詰まり片久那制作部長が決めたのかい?」
「そうらしいな。実質上のトップだからね。土師尾営業部長は片久那制作部長を畏れて止まないからそう云われれば何も逆らえないし、自分の方が一万円多い訳だから不満を云う筋合いも無い。寧ろ片久那制作部長から社員の中の主席だとお墨付きを貰ったんだと、都合の良い勘違いが出来るんだから、全く以って満更でもない心地がしたろうよ」
 何やらちょっとした通俗喜劇によくある配役設定のようで、頑治さんとしては俄かには信用も出来ないような気がするのでありましたが、まあ、あんまり興味を惹く内容でも無いものだから敢えて異を差し挟むような真似は慎むのでありました。
「会社の賃金体系は大方片久那制作部長が決めているのかな?」
「そうだね。土師尾営業部長にはその辺の定見や能力は無いからね」
 頑治さんは誰がどのくらいの賃金を貰っているのかが気になると云うより、賃金体系に一定の整合的基準があるのか、それとも片久那制作部長の恣意に依って決められているのか、その辺に多少の興味はあるのでありました。まあ、新米の自分が一番低い給料であるのは当たり前でありましょうし、制作とか営業とか経理とか業務の職種によって賃金が異なると云う事も多分あるとしても、まさか露骨に久那制作部長の人の好き嫌いが基準になっていると云うのは幾ら何でも考え辛い事ではあります。ならば曖昧であれ社員間の納得が前提にあるとすれば、その辺の機微をちゃんと片久那制作部長が考慮の上で各々の賃金を決めているのかどうかは、片久那制作部長の人となりを見る材料にはなりますか。
(続)
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あなたのとりこ 82 [あなたのとりこ 3 創作]

「その体系は皆が納得出来るものかな?」
「ま、一応はね。文句を付けるような隙はないかな。でも喜んで復すと云う感じではないなあ。何せ両部長を除いて安月給には違いないから」
 確かに頑治さんの給料にしても、これまでのアルバイトの賃金に比べれば多少は厚遇ではあるけれど、決して高いとは云えないものでありましたか。
 ただ文句を付けるような隙が無いと云う事は、給料が片久那制作部長の恣意に依っていると云う訳でもないのでありましょう。一種の平衡感覚は持ちあわせた人のようであります。土師尾営業部長に比べれば格段に信頼は置けると云う事でありましょうか。

 金曜日午前の定期便である本郷の大木目製本所へは山尾さんが連れて行ってくれるのでありました。山尾さんの運転は刃葉さんとは違って脇道への侵入も無く決まり切ったルートを無難に走行すると云った具合で、二十分程で目的地へ到着するのでありました。
 倉庫での材料積み込みも、大木目製本所での出来上がり製品引き取りも、それから工場長に頑治さんを紹介するのも、些か愛想が無さ過ぎるくらい至って事務的に山尾さんは処理するのでありました。山尾さんと工場長の間には軽口や冗談の遣り取りも顔馴染み同士の気安い雰囲気も無く、余りに事務的過ぎて、頑治さんは四十年配の作業服を着た工場長に自分を頭の片隅にでも覚えて貰えたかどうか心配になるくらいでありました。
 さっさと辞す、と云った感じで大木目背本所を出た車は、行きがけ同様のルートであっさり猿楽町の会社に戻って来るのでありました。山尾さんは引き取って来た製品の荷下ろしを頑治さんに任せて、自分はそそくさと三階の事務所に戻るのでありました。
「やけに速かったなあ」
 倉庫内で梱包仕事をしていた刃葉さんが頑治さんに声を掛けるのでありました。
「道に迷うようなルートじゃありませんから」
 頑治さんは多少の揶揄を込めてそう返すのでありましたが、刃葉さんはそれには無反応と云った顔で、眉根を寄せる事も頑治さんを睨む事もしないのでありました。
 例によって刃葉さんの梱包仕事のために倉庫内は散らかり放題になっているのでありました。頑治さんはやれやれと云った顔をして作業台の辺りを一瞥し、今引き取って来た荷を車から下ろし、自分が整理した棚への積み上げ作業を開始するのでありました。
 午前中の仕事が終わる十二時近くになって新の段ボールを納品に来たトラックが駐車場前に停車するのでありました。その日段ボールの納品があると云う事は、大木目製本所に向かう車の中で山尾さんから頑治さんは聞かされて承知しているのでありました。
 頑治さんは駐車場に停めてある車を一旦出して通路を開けてから、トラック運転手が荷下ろしして倉庫扉前まで折り畳まれた段ボールの束を運ぶ作業を手伝うのでありました。その後に納品書にサインをしていると運転手が頑治さんに訊くのでありました。
「何時もの倉庫の人は居ないの?」
「いや居ますが他の仕事中です」
「あんたはアルバイトの人?」
(続)
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あなたのとりこ 83 [あなたのとりこ 3 創作]

「いや、社員です。尤も未だ入り立てのホヤホヤですが」
「ああそう。新人さんか」
 運転手はそう納得気に頷いて人懐っこい笑みを浮かべるのでありました。「俺は大元紙加工の箱部と云う者だけど、時々段ボールの納品に来るから、以後よろしくね」
 大元紙加工と云うのは段ボールを納品して貰っている会社の名前でありました。
「こちらこそよろしくお願いします」
 頑治さんは少し丁寧にお辞儀するのでありました。
「いやね、今迄ずっと納品に来ていて、親切にも荷下ろしを手伝ってくれたのはあんたが初めてだったから、ちょっと驚いたんだよ」
 箱部さんは頑治さんに誠に親愛感の籠った視線を送るのでありました。頑治さんも笑いを返すのでありましたが、そう云うところを見ると今迄、刃葉さんは箱部さんが荷下ろしをしていても無愛想にも決して手を貸さなかったと云う事でありますか。
「ああそうですか。新人の俺が云うのも何ですが、どうも不調法で済みません」
「いやいや、別に文句を云っている訳じゃないんだけど」
 函部さんは恐縮して見せるのでありました。「そう云う社風かなと思っていたけど」
 函部さんの口調は決して当て付けを云っている風ではないのでありました。

 頑治さんと刃葉さんの間には日毎に険悪な雰囲気が泥んでいくのでありました。
 刃葉さんよりは頑治さんの方が万事に察しが良いし気が利くし仕事の手際も良いものだから、土師尾営業部長も山尾さんも刃葉さんをさて置いて頑治さんに先ず指示を出すようになるのでありました。先輩たる自分よりも昨日今日入った新米が重きを置かれていると云うのは、まあ自業自得ながら、刃葉さんとしては面白くないでありましょう。
 しかしまたそれを良い事に、刃葉さんは益々怠惰な仕事振りに磨きをかけるのでありました。自分はどうせもうすぐこの会社を辞めて仕舞うのだしと云う思いも、刃葉さんの投げ遣りに拍車をかける一因でもありましたか。
 去り際にその人の日頃の心胆が現れる、なんと云う言葉に弱い頑治さんとしては、こういう刃葉さんの在り様に義憤のようなものを少なからず覚えるのでありました。様々な武道の修業も情熱も、刃葉さんの人格止揚には全く無関係な戯事の領域にしか無いものなのでありましょう。まあそれは頑治さんが容喙するところでは無いのでありましょうが。
 屡ある都内の配達仕事も刃葉さんの主要な仕事の一つでありましたから、場所の確認や先方との顔繋ぎのために頑治さんが同行する場合もあるのでありました。羽場さんは例に依って運転中の頻繁なラジオチャンネルの切り替えで助手席の頑治さんを苛々させて、懲りない脇道指向運転で時間を無意味に費やすのでありました。
 そればかりか刃葉さんは或る時、運転中にそれまでの沈黙を破って全くの出し抜けに「下らん!」等と言葉を発する事があるのでありました。何かしらの思念の内に思わず発した独り言ではあろうけれど、不意に不愉快そうな顔でそんな言葉を現されると、頑治さんとしては反射的に険しい顔を運転中の刃葉さんに向けざるを得ないではありませんか。
(続)
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あなたのとりこ 84 [あなたのとりこ 3 創作]

「ああ済まんね。今のは独り言で、別に唐目君に対して云った訳じゃないよ」
 刃葉さんは助手席の頑治さんが自分を険しい目で睨んでいるのに気付いて、そう笑いながら云い繕うのでありました。突然頑治さんを驚かせた自分の不調法を恐縮している風の云い方でも無いのでありましたし、思わず独語した自分を恥じているようでも照れているようでも無いのでありました。この人のごく普通にやらかす癖なのでありましょう。
「何か思い出しての独り言ですか?」
「うん、まあ」
「それにしてはきっぱりとした云い草でしたね」
「気にしないでくれ」
「唐突に何の脈絡も無く、下らん、等とはっきり口に出して、横に座っている者がそれを聞いたらムッとするとは考えないんですか?」
 頑治さんは今までの刃葉さんに対する積もり積もった鬱憤があるものだから、思わず知らず執拗になって仕舞うのでありました。
「悪かったよ。独り言は俺の癖なんだ。そんなに怒るなよ」
「人に無用な誤解を与えるようなそんな迷惑な癖は、癖だからってあっけらかんと開き直っていないでさっさと改めたら良いじゃないですか」
 こんな云い方をしたら刃葉さんは屹度怒り出すだろうと思いながらも、頑治さんは買い言葉、いや、この場合売り言葉の方になるのかも知れませんがそれは兎も角、自分の言辞の棘を丸める事が出来ないのでありました。
 刃葉さんは柔道と合気道の黒帯所持者でしかも最近空手とかバレエも、まあ、バレエに関してはこの際あんまり関係無いでありましょうけれど、習い始めたと云う事でありますから、若し殴る蹴るの愁嘆場に移行するとすれば自分なんか敵ではなかろうと頑治さんは考えるのでありました。しかしこうなったらもう引くに引けないではありませんか。
 刃葉さんは思わずと云った風に、運転中にも関わらず頑治さんの方に顔を向けて険しい目付きをして見せるのでありました。しかし頑治さんの目付きが思いの外腰が据わっているようだと感じたのかどうか、刃葉さんの眼光の中にふと怯みが射したのを頑治さんは確かに認めるのでありました。さぞや腕っ節には自信がある人だろうと思っていたのでありますが、これは頑治さんにしたら慎に意外な眼色の変貌と云うものでありました。
「悪かった」
 刃葉さんは先の言葉を繰り返すのでありました。「以後気を付けるよ」
 ここで遜って見せるのは刃葉さんにしてはなかなかに大人の対応と云うべきでありましょう。この人は案外隅に置けない人かもしれないと頑治さんは思うのでありました。
「唐目君はいざとなったら無茶苦茶をやるヤツのようだから、怖いな」
 しかしその後こう云う言葉を余裕綽々に冗談交じりの口調で、自分の怯みを糊塗せんとして吐く辺り、そうでもないなとも頑治さんは思い直すのでありました。頑治さんの事を自分の勝手都合に誤解して見せて、それで自分の及び腰を或る意味正当化する目論見の一種でありましょうが、要するにこの人は実は思いの外小心者なのかも知れません。
(続)
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あなたのとりこ 85 [あなたのとりこ 3 創作]

 この後車の中は気まずい空気に満たされるのでありました。お互いそれ以降一言も言葉を交わさないのは当然の成り行きと云うものであります。

 会社近所の中華料理屋で昼食を摂った後、頑治さんと均目さんは三年坂途中に在る一階がスポーツ用品店になっている雑居ビル地下の狭い喫茶店に入るのでありました。このところ時間が合えば頑治さんは均目さんと一緒に昼食を摂り、その後この喫茶店で午後の始業時間まで過ごすのが恒例となっているのでありました。
「ああ、羽葉さんの独り言ね」
 均目さんは手にしていたコーヒーカップをテーブルの受け皿に戻して、苦笑を片頬に浮かべながら何度か頷くのでありました。
「この前の事だけど、運転中に突然、下らん! とか吐き捨てるように云うもんだから、咄嗟に喧嘩を売られているのかと思ってびっくりしたよ」
「あれはあの人の子供の頃からの癖みたいだね」
「当人も後でそう云い繕っていたけど」
「俺も会社に入ったばかりの頃、その洗礼を受けた事があるよ。何だか知らないけど不本意な事があって、運転中にその事を考えていて、で、思わずそう口走ったんだね」
「それにしても傍迷惑な癖だな」
 頑治さんはあの時を思い出しながら不機嫌な声で云うのでありました。
「あの人は周りに人が居ようが居まいが関係ないんだ。その場の状況とかに全く意識が向かわない人だから、何時でも何処でも衝動的に何でも口走る。本人には悪気は無いようだけど、よく誤解されてプライベートでも色んな人の不興を買っているらしいよ」
 均目さんはまたカップに手を掛けるのでありました。「で、喧嘩にでもなったの?」
「いや、刃葉さんがすぐに気が付いてあっさり謝ったからそうはならなかったけど」
「それは良かったな。でも前に山尾主任にもそれをやらかして仕舞って、その時は喧嘩になったらしいよ。丁度山尾主任が運転していて、助手席の刃葉さんが、冗談じゃない、とか云う言葉を口から零したらしい。山尾主任は短気で直情的なところがあるから聞き流したり出来なくて、すぐに路肩に車を止めて、何か云いたい事があるのならはっきり云ってみろ、とか助手席の刃葉さんの胸倉を掴んで詰め寄ったみたいだ」
「へえ、山尾主任も柔道と合気道の有段者に対してたじろがない人だなあ」
 あの時の自分も、若し殴り合いの喧嘩になっても引くに引けないと即座に覚悟したのはさて置いて、頑治さんは山尾主任の無謀に批判的な言辞を被せるのでありました。
「自分の方が先輩でもあるし、山尾主任も興奮したら後先考えない人みたいだからね」
「それで修羅場が現出したのかい?」
「刃葉さんはムッとして、胸倉を掴んでいる山尾主任の手を逆に取って引き離したようで、そこまでは修羅場へ一直線に向かう途上の経緯だと云える」
 均目さんは勿体を付けて一呼吸置くのでありました。「でも結局その後すぐに刃葉さんが謝って、事無きを得たと云う顛末だったようだね」
(続)
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あなたのとりこ 86 [あなたのとりこ 3 創作]

 そう云えば頑治さんの時も何故か刃葉さんは勝手に怯んで、頑治さんに対してすぐに自分の非を認めたのでありましたか。
「俺の時も、まあ当然ながら非は自分にあると認めてすぐに謝ったけど、なかなか大人だと、その一瞬は思ったよ。ま、多分そうでもないみたいだけどね」
「刃葉さんは、本人は必死に隠しているけど実は気の弱い人なんだ。だから相手の怒りが混じりっ気無しに本気だと判ると、急にたじろいで腰砕けになって仕舞うんだよ」
「自分の無調法から招いた緊張だとは判るんだろう。だからその負い目のために自分の方は混じりっ気無しの憤慨とはいかない。だから気概に於いて何時も負けている」
「ま、そう云う事かな。なかなかの分析だ」
 均目さんはふざけて拍手する真似をするのでありました。
「そう云う人とこれから先、短い間だけど、何も無くやっていけるかどうか俺は自信が無いなあ。何時か我慢出来なくてぶつかって仕舞うような気がする」
「確実に俺なんかよりは刃葉さんとの接触は長いだろうからなあ。でもまあ穏便にな。もうすぐ会社を辞める人と喧嘩をしても何の得にもならないし」
 頑治さんはカップに残っているコーヒーを一口で飲み干すのでありました。すっかり冷めて仕舞った故か苦味が強調されて頑治さんの喉を通過していくのでありました。

 その日もどうやら以降の仕事は無いようだからと、終業時十五分前に簡単に倉庫内の掃除をして頑治さんは三階にある事務所へと戻るのでありました。事務所のドアを何気無くに開けると、先に上がっていた刃葉さんと土師尾営業部長が何やら云い争いをしている場面でありました。頑治さんは戸惑って、入り口近くの自分の席に座った袁満さんに視線を送ると、袁満さんはその云い争いに関わらないようにするためか、机の上に広げた書類に顔を近付けて我関せずの態でありましたが、頑治さんの視線に気付いて、盗み見るように少しばかり顔を起こし向けて、やれやれと云った笑いを送って寄越すのでありました。
 席に座った儘の土師尾営業部長はやや背凭れに体を引いて、傍らに立つ刃葉さんの体越しに頑治さんの方を見るのでありました。その困惑したような目が、不意に現れた頑治さんに助けを求めているようにも見えるのでありました。
 その時ドアが開いて、大きな旅行カバンを肩に掛けた男が「ただいま」等と呑気そうな声で云いながら中に入って来るのでありました。これは出雲依奈造と云う名前の、袁満さんと同じ出張仕事を専らにしている営業社員でありました。頑治さんが就職面接に訪れた時に、ノックに反応してドアを開けてくれた男でありました。
 関東や中部、それに関西地方辺りを主に回っている袁満さんは一年の半分くらい出張に出ているのでありましたが、この人は担当する地域が東北や北海道方面と遠いためか、袁満さんよりももっと多い日数出張しているようでありました。入社以来頑治さんとは一週間だけ社内で一緒に仕事をしただけで、後はもうこの日迄顔を合わせた事は無かったのでありました。歳はこの会社で一番若くて、頑治さんや制作部の均目さんより一つ下になるのでありましたが、それでも会社では頑治さんより半歳くらい先輩なのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 87 [あなたのとりこ 3 創作]

 出雲さんは肩に担いでいた旅行カバンを、袁満さんの隣にある自分の机の上にドサリと置くのでありました。それから重い荷から解放された肩を上げ下げしたり、二三度腕や首をグルグル回したりして血行促進を図るのでありました。
 そうしている内に室内に漂う何やら不穏な空気を察知したようで、何となく場違いで呑気な血行促進のためのその仕草を尻窄みに収めて、興醒めの態ですごすごと椅子に尻を落とすのでありました。座って仕舞うと、机の上に置いた大きな旅行カバンが土師尾営業部長や刃葉さんの方から出雲さんの姿を綺麗に隠蔽するのでありました。
 出雲さんは横の袁満さんを土塁に隠れた兵士が隣の味方の兵士を窺うような様子で見るのでありました。袁満さんは顰め面を以ってそれに応えるのでありました。
「それじゃあ話しが違うじゃないですか」
 これは刃葉さんが土師尾営業部長へのいちゃもんを続ける言葉でありました。
「いや、その方が刃葉君の次の仕事探しにも好都合だろうと思って」
「好い加減なお為ごかしを云わないでくださいよ」
 刃葉さんは声を荒げるのでありました。土師尾営業部長はその声音にたじろいで思わず目を伏せるのでありましたが、それでは部長としての沽券に関わると考えてか、すぐに頭を起こすと刃葉さんを睨み上げるのでありました。大いに不穏な雰囲気であります。
「こっちだって色々都合があるんですよ」
 刃葉さんは荒げた言葉つきを其の儘に云い募るのでありました。「唐目君が入ってもう用済みになったからとっとと出て行けって云われても、それは勝手過ぎますよ!」
 土師尾営業部長は刃葉さんの剣幕から少しでも距離を置こうと云う心算か、身を思わず背凭れに退避させるのでありました。なかなか沽券が保てない模様であります。
 この遣り取りから、刃葉さんが会社に留まる向後の時間の短縮を土師尾営業部長から提案されたのだと頑治さんは推測するのでありました。頑治さんが入社したのでもう用済みになったから、等と刃葉さんが云っているところを見ると、この云い争いには自分の存在が介在しているようでもあります。全く頑治さんには無関係な事由での云い争いでもなさそうな辺りに、頑治さんとしては多少胸奥のざわつきを感じて仕舞うのでありました。
「そうかも知れないけど、一応提案してみた迄だよ」
 土師尾営業部長がそれでは沽券が保てないであろうと思われる弱気な物腰で云うのでありました。「刃葉君が嫌だと云うのなら、まあ仕方が無いけど」
 この、仕方が無い、と云う云い草が火に油のようでありました。
「俺が給料をもう一か月分余計に貰う事が部長にはそんなに仕方が無い事なんですね」
「給料の事を云っているんじゃないよ」
「いや、一か月余計に俺の給料を払うのが惜しくて云っているんでしょうが、実際は」
「そうじゃないよ!」
「いいや、大方そんな程度の了見に決まっている」
「そうじゃないって云っているじゃないか!」
 こうなったらまるでもう子供同士の喧嘩であります。
(続)
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あなたのとりこ 88 [あなたのとりこ 3 創作]

 事態が全く以って険悪になったところで、事務所入り口のドアが少しの軋みの音を立てながらまたも開くのでありました。入って来たのはブリーフケースを下げた日比課長でありました。外回りの営業を終えて帰社したのでありましょう。日比課長はすぐに事務所内の不穏な空気を察して表情を強張らせるのでありました。
 日比課長の席は、土師尾営業部長のデスクの横に立っている刃葉さんのすぐ後ろでありましたが、そこに戻るのを何となく躊躇するような物腰で、こちらも袁満さんに視線を送るのでありました。袁満さんは先程の出雲さんの時と同じように顰め面をして、げんなりと云った感じで首を数度ゆっくり横に振って見せるのでありました。
 土師尾営業部長は頑治さんの時に見せた助けを求めるような表情を日比課長にも送るのでありましたが、日比課長は刃葉さんに臆してかそれに応える気は更々無いようで、入り口に一番近い出雲さんの机の、出雲さんが置いた旅行カバンの横に自分のブリーフケースを置いて、それに手を掛けてその場から動かずに経過を見る構えのようでありました。
「早く辞めろと云うのは部長命令ですか?」
 刃葉さんは先程の悶着の続きを再開するのでありました。
「命令と云うのじゃないんだ。提案のようなものだけど」
「じゃあ、拒否出来るんですね?」
「それはまあそうだけど、・・・」
 土師尾営業部長はやや口籠もるのでありましたが、ここで引き下がれば自分が刃葉さんに蔑ろにされたのを皆に態々披露したような按配になると判断したのか、少しの間を置いてから体裁上決然と、と云った具合に顔を起こして睨み付ける、と云うには少し弱い目付きで刃葉さんを見上げるのでありました。「でもまあ、もう一考えて見てくれよ」
 決然と云い放つと云うよりは懇願するような具合のその科白に、聞きながら頑治さんは心の内で小さくずっこけて見せるのでありました。
「さっきからそれは困るって云っているでしょう!」
 刃葉さんはまたもや熱り立つのでありました。あまりに諄いと堪忍袋の緒も竟には切れるぞと表明するようなやや恫喝的な荒けない言葉でありました。若し刃葉さんが暴力に訴えるような事態になれば、他の人は手出しをする気が全く無いようでありますから、仕方なくここは自分が止めに入るしかあるまいと頑治さんは臍を固めるのでありました。
 しかし頑治さんの出番は、営業部と制作部の仕切りになっているマップケース横に立った片久那制作部長の一言に依って、幸いにも潰えるのでありました。
「刃葉君、好い加減、そのくらいにして置けよ」
 思わぬ仲裁者の出現に刃葉さんと土師尾営業部長は同時に顔をそちらに向けるのでありました。その顔てえものは、刃葉さんは熱り立った表情の儘であり、土師尾営業部長はやっと現れた助け舟に縋るような、見ように依っては情けない表情でありましたか。
 刃葉さんは何か言い返そうとするのでありましたが、片久那制作部長のクールでありながらも問答無用な言葉付きに気勢を削がれたのか、口元をモグモグと動かすのみでありました。畏怖から、刃葉さんは片久那制作部長を苦手にしているようであります。
(続)
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あなたのとりこ 89 [あなたのとりこ 3 創作]

「会社の中で憚りも無く大声を出すのは迷惑だ。やるんなら外でやれ」
 片久那制作部長が厳めしく続けるのでありました。これは聞き様に依っては外でなら云い争いをしても構わないと云っているようにも取れる訳で、その辺りに片久那制作部長の突き放したような自分に対する冷たさを感じたのか、土師尾営業部長の顔から表情が抜けて、その瞼が何度か戸惑いの瞬きをしているのでありました。
 刃葉さんの熱り立ちは沸点に達したのか、顔色が赤から赤紫色に変わったように頑治さんには見えるのでありました。血圧急上昇の気配であります。
 じっと自分を見据える片久那制作部長の目に負けまいと、刃葉さんは勇気を奮って懸命に目に力を籠めて見返えそうと努めるのでありましたが、肝心の目の方が遠泳の選手のように泳ぎを止めてくれないのでありました。この儘だとすっかり動揺したその態が刃葉さんの体面を台無しにして仕舞うでありましょう。そう判断して刃葉さんは如何にも意志的に、と云った体裁でプイと横を向くのでありました。まあ、片久那制作部長の厳めしい表情と視線に竟に耐え切れなくなったと云うのが本当のところでありましょうか。
 刃葉さんは土師尾営業部長の机の傍らを離れるのでありました。それから自分の、と云うのか、頑治さんと共有しているデスクの上に置いていたリュックサックを荒々しい手つきで取ると、退去の挨拶も無く事務所を出て行くのでありました。恐らく憤懣を発散するためであろう、廊下に出た刃葉さんの何やら叫ぶ奇声が、ストッパーが付いているためにゆっくり閉まりかけたドアの隙間から漏れ聞こえて来るのでありました。

 ようやく事態が片付いたのにほっとして土師尾営業部長は溜息を吐くのでありました。それから片久那制作部長の方に愛想笑いを浮かべた顔を向けるのでありました。
「どうも有難う」
 これは片久那制作部長へのお礼の言葉でありました。片久那制作部長はそれを不機嫌に全く無視するかのように、土師尾営業部長に目を向ける事も無く制作部スペースの方に姿を消すのでありました。別に礼を云われる筋合いは無い、と云う態度でありますか。
 頑治さんはようやく刃葉さんのリュックサックが無くなった席に座る事が出来るのでありました。日比課長も自席に戻ってブリーフケースを傍らに置くのでありました。それから出雲さんが机の上の旅行カバンのそのまた上から顔を覗かせるのでありました。
 息を殺してそれまで全く気配すら見せなかった甲斐計子女史が、立ち上がって書類棚から不愉快そうな顔を頑治さんのすぐ前に現すのでありました。ようやく家に帰る事が出来ると云った様子で机の上を片付けると、手提げバッグを手に持って自分のロッカーまで早足に進んで、中から上着をひったくるように取って、後ろ向きにお先にと小声で云って事務所を出て行くのでありました。まるで怒っているような風情でありました。
 まあ、甲斐女史が怒っているとすれば殺伐とした緊張感を作った刃葉さんにと云うのも然る事ながら、主には無用で無意味なゴタゴタの種を態々蒔いた主犯たる土師尾営業部長にでありましょう。選りに選って自分が帰ろうとしている間際に、刃葉さんを怒らせるような事を云い出す必要なんか無いではないか、と云ったところでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 90 [あなたのとりこ 3 創作]

 暫くして土師尾営業部長が事務所を後にするのでありました。暫しの時を置いたのは、先に帰った刃葉さんと外で鉢合わせする危険を考慮した故でありましょう。ひょっとして待ち伏せでもされていたら拙いと取り越し苦労したのでありましょうが、この人にそんな小心さがあるのは今までの付き合いから頑治さんは察する事が出来るのでありました。
 日比課長も袁満さんも出雲さんも帰り支度を始めるのでありました。
「ちょっとこんな事やっていく?」
 日比課長が向かい側の席に座っている袁満さんに、猪口を持つ手付きをしてそれを口の前で傾ける真似をして見せるのでありました。
「ああ、いいよ」
 袁満さんが同意するのでありました。
「出雲君も大丈夫だろう?」
 袁満さんの隣の出雲さんにも日比課長は同じ仕草をして見せるのでありました。
「ええ、お付き合いしますよ」
「唐目君はどうだい?」
 日比課長は頑治さんの方に顔を向けるのでありました。
「はい。俺も付き合います」
 その日は夕美さんとの逢瀬の約束も無かったから頑治さんも同意するのでありました。勿論夕美さんとの逢瀬が頑治さんにとっては何より優先であります。
 三人は、大概の日は残業している制作部の四人にお先にの挨拶をしてから会社を出るのでありました。行った先は前に頑治さんの歓迎会が催された居酒屋でありました。
 今回も座敷に上がって座卓に着くと、夫々先ず生ビールの大ジョッキを注文してから、後は適当に袁満さんが持って来る料理を店員にあれこれ指示するのでありました。
「いやいや、営業部長にも参るよなあ、毎度の事だけど」
 日比課長が運ばれて来たビールを取り上げてげんなり口調で云うのでありました。
「あの人は何をやらかすにも、絶妙に、タイミングが悪いからねえ」
 袁満さんはそう皮肉っぽい口調で受け応えてから大ジョッキを手にして一口煽るのでありました。「しかも前々から云おうと思っていたんじゃなくて、さっき急に思い付いて、刃葉さんの反応とかは端から考えもしないで、あのタイミングで云ったんだろうしね」
「営業部長は刃葉さんに何を云ったんですか?」
 出雲さんが横の袁満さんに訊くのでありました。出雲さんは土師尾営業部長と刃葉さんの揉め事の経緯に無関心なのか、あんまり想像力が働かないようでありました。
「刃葉さんは来月の二十日まで働くことになっているんだけど、その必要も無さそうだから今月の二十日で辞めてくれないかって営業部長が唐突に云い出したんだよ」
「それで刃葉さんが、それは困るとゴネていた訳ですか」
「そうそう、そう云う経緯」
 袁満さんは頷きながらもう一口ビールを飲むのでありました。贈答社は賃金に関しては毎月二十日が締め日で、二十五日が給料支払い日になっているのでありました。
(続)
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