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あなたのとりこ 340 [あなたのとりこ 12 創作]

 頑治さんが控え目な声で返すのでありました。
「今日の朝、片久那さんから従業員の四月からの新しい給料額があたしの方に回って来たけど、それに依るとあたしが一番給料が上がるみたいね」
 ここで頑治さんの左隣りから徐に、甲斐計子女史がこちらの話しに加わってくるのでありました。と云う事は詰まり、日比課長の努力も虚しく、甲斐計子女史は日比課長とのお喋りにあんまり興味が喚起されなかった、と云う事でありますか。
「そうなるかな。甲斐さんの基本給は片久那制作部長や土師尾営業部長と同じになる筈だったからね。同一年齢同一賃金と云う原則に照らしてみると、あの二人に今まで随分差を付けられていたと云う事だよ。つまり甲斐さんは酷く冷遇されていた訳だな」
 甲斐計子女史の左隣りから袁満さんが話しに加わるのでありました。
「まあ、学歴も違うし仕事の難しさも違うから、それは仕様が無いと思っていたけど」
 甲斐計子女史は経営側から見ればある種のしおらしさを見せるのでありました。
「それは違うよ。基本的には同一年齢同一賃金なんだから」
 袁満さんが甲斐計子女史の心得違いを正す、と云った語調で云うのでありました。
「でも営業とか製作とかは会社の業績にすぐに響く仕事だけど、あたしは単なる会計係だから、売り上げに貢献する仕事をしている訳じゃないもの」
「でも営業とか製作とかと同じで、それと比較すると地味な仕事ではあるけど、でも、どんな会社にも必ず無くてはならない仕事には違いない」
 袁満さんは先程と同じで甲斐計子女史の認識を改めさせる語調ではあるにしろ、その中に些かの慰めと云うのか激励と云うのか、そう云う調子も込めて云うのでありました。
 その袁満さんの言葉を聞きながら、しかし社長はそうは考えていないらしいではないかと頑治さんは思うのでありました。甲斐計子女史の担当する会計と云う仕事が然程重要ではないと考えているから、甲斐計子女史に理不尽な選択を迫ったのでありましょうし。それにまた同じ意味で、社長は屹度、倉庫で荷造りとか商品管理をしている自分の業務仕事も、誰にでも代わりが出来る単純仕事だと恐らく思っているのでありましょう。
 確かにそう考えればその通りとも云えるかと頑治さんは考えるのでありました。だから単純明快で素朴な能力主義的賃金と云う考え方に立てば、会社が困窮した時には先ずは自分や甲斐計子女史が冷遇されたり馘首されたりするのでありましょう。
 まあしかしながら、それはこちらの方で端から納得済みの事柄だと云えなくもないのでありました。ある意味で賃金とか待遇面での好条件を掃って、そう云う気楽な身分を求めて頑治さんはこの会社に入ったと云う事も云えるでありましょうから。
 それが組合結成と云う退っ引きならぬ事態を受けて、この秘かな気楽さは隅に追い遣る羽目になったのでありました。待遇改善とか給料のアップと、それを望まない代わりの気楽な身分とでは、さて、どちらが頑治さんにとって好都合と云えるでありましょうか。

 頑治さんのコップに甲斐計子女史がビールを注ぎ入れてくれるのでありました。
「ああ、どうもすみません」
(続)
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