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あなたのとりこ 317 [あなたのとりこ 11 創作]

 那間裕子女史は不承々々ながらも頷くのでありました。
「じゃあ、日取りとか決めちゃっていいかな、俺の方で」
「出来たら水曜日辺りが都合が良いわね」
 那間裕子女史が希望を出すのでありました。
「これ迄の経緯から、水曜日の夜だったら大方大丈夫そうかな?」
 袁満さんがこう確認するのは、これ迄ずっと組合結成の準備会議を水曜日に開催していたから、その流れで水曜日なら全員私用が無いと踏んだ故でありましたか。「じゃあ社長の方に今度か次の水曜日ならって申し出ておくよ」
 こういう訳で、社長と社員一同の宴会が催される次第と相なるのでありました。

 宴会は社長の馴染みの、地下鉄九段下駅に近い蕎麦屋の二階の一角を借り切って、次の週の水曜日の夜に挙行されるのでありました。因みに費用は社長のポケットマネーで支払われるのでありましたが、袁満さんに依ればあのケチな社長にしたら大層な奮発だと云う事でありました。社長も自分から云い出した手前、費用の出し惜しみは出来ないでありましょうし、あんまりちんけな酒席では沽券に関わるでありましょうから。
 土師尾営業部長はその日私用があると云う事で出席しないのでありました。甲斐計子女史も来ないのでありました。片久那制作部長と日比課長は来るのでありましたが、片久那制作部長は自分が場に居ない方が、あれこれ社長と他の社員が話し易いだろうと云う配慮からか、三十分くらい蕎麦屋の二階で一緒に飲んでから、その後馴染みにしている神田駅近くの居酒屋で一人ゆっくり飲みたいからと早々に退席するのでありました。
 社長と杯を遣り取りすると云っても、従業員は今迄滅多に一緒の卓を囲む機会が無かったものだから、何となく言葉の交換がぎごちなくて、四方山話しに花が咲くと云う訳にはなかなかいかないのでありました。一人日比課長だけが、前には社長とごく偶に飲む事もあったようで、他の従業員よりは随分と屈託なく話しをしているのでありましたし、社長と他の従業員との間を取り持つような役割りも熟してくれるのでありました。
「ほう、那間君はケニア旅行に行く計画があるのかね?」
 何かの折にそう云う話しになって、社長は卓の向い側に座っている那間裕子女史に徳利を差し出しながら言葉を向けるのでありました。
「ええまあ。何時になるかはまだ判りませんけど」
 那間裕子女史は猪口を押し戴くような格好で社長の酌を受けるのでありました。
「僕は毎年正月に、五日間のパック旅行だけど女房とハワイに行くのが恒例行事だよ」
「ああそうですか」
 那間裕子女史は愛想笑いながら社長から徳利を受け取って、社長が取り上げた猪口に酌を返すのでありました。那間裕子女史はあんまりハワイ旅行とかグアム旅行とかに興味が無い、と云うよりはそう云うパックの海外有名観光地旅行を軽蔑している節があるので、それ以上社長との会話を敢えて続ける気は無いようでありました。
「那間君は何回か海外旅行の経験はあるのかね?」
(続)
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あなたのとりこ 318 [あなたのとりこ 11 創作]

 社長は那間裕子女史の気分には無頓着にそう言葉を重ねるのでありました。
「いえ、未だ何処にも行った事はありませんが」
「最初の海外旅行がケニアと云うのはちょっと重たいように思うけど。まあ、ハワイとかグアムとか台湾とかで少し海外旅行慣れしてから、その後でケニアにでもエジプトにでも行けば良いんじゃないかねえ。どうしてもケニアに行きたい理由でもあるの?」
「学生時代からアフリカに興味があったもので」
 那間裕子女史はそれだけ大雑把に云って後は口を噤むのでありました。
「那間さんはそのためにスワヒリ語の勉強をしているんですよ」
 日比課長が横から社長にそんな事を云い出すのは、那間裕子女史の社長に対する態度がちょっとつれないように見えたので、その手当ての心算でありますか。
「ほう。もう自由自在に喋れるの?」
「いえ未だ全然です」
「英語が出来れば、大概の土地では何とかなるんじゃないのかな。最もその英語も、私はさっぱり駄目なんだけどね」
 社長は哄笑するのでありました。那間裕子女史も愛想で笑顔を作るのでありましたが、全く気持ちは籠っていないのが丸判りの笑いでありましたか。那間裕子女史としては、英語が喋れれば大方事足りるような土地なんか関心も無いと云ったところでありますか。
 そう云う那間裕子女史の、信念、をここで態々社長に表明する事も無いのにと、頑治さんは那間裕子女史の非寛容、或いは高慢ちきを大人気ないと見るのでありました。まあ尤も、ちゃらちゃらお追従的に調子を合わせるだけの態度と云うのも、何やら精神の卑しさを竟々曝け出しているようで感心は出来ないのでありましょうけれど。
 しかしながら、那間裕子女史を含めたここに集う全員は社長に酒肴を奢られている訳であります。依ってそこいら辺はちっとは弁えた謙譲の態度を崩さないのが大人たる者の嗜みと云うものであろうと、頑治さんは那間裕子女史の社長と話す様子を見ながらそんな事をつらつら考えつつ、目の前の揚げ出し豆腐遠に遠慮がちに箸を刺すのでありました。
「へえ、社長は、正月は毎年ハワイで過ごされているんですか。流石に優雅ですねえ」
 日比課長がちゃらちゃらとお追従の言葉を社長に向けるのでありました。と、頑治さんにはそんな風に聞こえたと、まあ、そう云うだけでありましたが。
「女房の姉の一人が向こうに嫁いでいるんで、正月はそこに招かれてね。まあ、毎年と云っても、それはこちらの用で行けない年もあるけど」
「へえ、奥様のお姉様はハワイにお住いなんですか」
 日比課長は何だか妙に大袈裟に感嘆して見せるのでありました。
「向こうで農園を経営している人に縁付いてね。詳しい経緯は知らないが、その連れ合いさんは元アメリカ海軍の軍人さんで、横須賀に勤務していた時に姉と知り合ったと云う話しだ。それでハワイに転属になってその後退役して、ハワイでコーヒー農園を始めて成功したんだよ。なかなかの遣り手で、人を使って結構大々的にやっているよ」
「へえ、そうですか」
(続)
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あなたのとりこ 319 [あなたのとりこ 11 創作]

 日比課長はここも大袈裟な驚嘆をして見せるのでありました。それに先程迄つれなく社長との会話を聞いていた那間裕子女史が、矢庭に興味を惹かれたような顔で社長を見るのでありました。これは屹度社長の正月のハワイ旅行が、その辺の小金持ち連中の見栄っ張り海外旅行とは些か趣が違ってきたのに反応しての事でありましょう。
「じゃあ、ハワイでは社長はそのお姉さんの家に滞在されるのですか?」
 日比課長のこの質問には別に、殊更の大袈裟な表情は付属しないのでありました。
「姉の家と農園はハワイ島に在ってなかなかの大邸宅なんだが、そこへは一泊だけさせて貰って、後はオアフ島のワイキキのホテルで過ごす事にしているよ。別に特段の気兼ねは無いんだけど、どう云うものか女房があんまりそこに居たがらないものだから」
 話しを漏れ聞きながら、頑治さんは社長の奥さんがあんまりお姉さんの豪邸に居たがらないのは、お姉さんの暮らしぶりのゴージャスさに対する嫉妬からかと、ふとそんな事を考えるのでありました。まあ、頑治さんにはどうでも良い事柄でありましたが。
 恐らく那間裕子女史もそんなような想像をしたのでありましょう。そうなると社長のハワイ滞在に対する那間裕子女史の興味はまた薄らいで仕舞うのでありました。何やら急に世間擦れした俗っぽい印象を受けたのでありましょう。
「ところで君は、一番新顔の、倉庫の仕事をしている人だよねえ?」
 社長が対面する側の一番端に座っている頑治さんに話し掛けるのでありました。
「はいそうです。唐目と云います」
 頑治さんはそう返事して目礼するのでありました。
「時々ビルの周りを箒で掃いているところを見かけるが、前に比べて倉庫や駐車場周りが綺麗になったような気がする。前は紙屑とか飲み物の缶とかが随分汚く散らかしてあったけど、最近はそんな事はないし車の駐車の仕方も乱暴じゃないようだね」
 これは前任者の刃葉さんと比較しての事でありましょう。刃葉さんの頭の中には、整理整頓、と云うのは生成する能わざる語句のようでありましたし、私物や自分が手に触る物とかに対しては妙に気を遣って綺麗にしているのでありましたが、自分の所有にならない物とか、所有物であっても大切と見做さない物、手や目に殆ど触れない物等に対しては驚く程ぞんざいでありました。まあ、人に対しても、同様のところがありましたか。
「唐目君は片久那制作部長に気に入られて、制作の仕事も手伝っているんですよ」
 日比課長がそんな事を社長に紹介するのでありました。
「ふうん、そう」
 この社長の返事はその辺の事情や経緯にはあんまり興味が無い、と云った風でありましたか。兎も角、社屋の周辺を繁く掃除している頑治さんの姿が、大いに印象的に映ったのでありましょう。その社長の印象の在り処を敏く察して日比課長はすぐに、前言に頓着しないで業務社員としての頑治さんの仕事振りについて話しを継ぐのでありました。
「唐目君が入ってから倉庫の中も随分綺麗になりましたし、物も良く整理してあって、出し入れが格段に効率的になりましたよ。発送する荷物の造り方も丁寧だし、時間の管理もちゃんとしているし、何に付け凡ミスなんか絶対しないし、大変頼もしいですよ」
(続)
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あなたのとりこ 320 [あなたのとりこ 11 創作]

 この日比課長の評言に頑治さんは些か尻の辺りがむず痒くなるのでありました。
「ほう。倉庫の仕事や商品管理、それに配達の仕事は、したたかな計算とか突飛な思い付きとか、或いは変幻自在の身の熟しとか、営業職のような派手な仕事振りは要求されないけど、何より篤実な人が向いている。君は真面目そうで几帳面でコツコツ仕事を熟すタイプの人みたいだから、屹度業務の仕事は適任と云うところなんだろうね」
「どうも恐れ入ります」
 社長の評言には、どうせ恐らく君に大それた仕事は出来ないのだろうけど、と云うような、端からの見縊りの前置きが省略されているように頑治さんは聞きながら感じるのでありました。篤実とか真面目とか几帳面とかコツコツとか、こう云い類の褒め言葉には、敬意が含まれているとは必ずしも限らないし、寧ろ往々にして或る種のおざなりと軽侮の気持ちを秘めているものであります。ま、しかしそれは兎も角として、頑治さんは愛想笑いなんぞを浮かべて社長に向かって篤実そうなお辞儀をして見せるのでありました。
 それを横目で見た均目さんが、社長に知れないように頑治さんに向かって吹いて見せるのは、頑治さんの人の悪さを然程敵意は無く笑ったのでありましょう。その笑いに対して頑治さんの方も笑い返すのでありましたが、この二人の隠れた笑いの遣り取りなんと云うものは、そうそう一筋縄ではいかないしたたか者振りと云うべきでありますか。

 まあそんなこんなで、この、社長と従業員との蕎麦屋の二階での親睦会は恙無く終了するのでありました。これで今まで交流が殆ど無かった両者が打ち解けたかと云うと、それは何とも評する事は出来ないのでありました。同席して和やかに過ごした体裁ではありましたが、たった一度くらいの飲み会で満遍無い辺りまで互いの気心が知れると云う訳にはなかなかいかないのは、これはもう仕方が無いと云うものでありますか。
「いやあ、大いに楽しかったよ。また時々こうして皆で飲もう」
 これは社長の別れ際の言葉でありましたが、後日談として云うと、この後にこう云う機会が持たれる事は二度と無かったのでありました。
 社長としてはこの振る舞い酒の意義は、社員個々の気心を知りたいと云う健気な意図は二の次であったでありましょう。それより何より、自分が大いに物分かりと気前の良い話しの判る社長であるところを見せ付けようと云う、一種のエエ格好しいの意図が大本のところだったでありましょうし、それに依って向後組合が自分に対して遣る瀬無い程敵対的になるのを予防したい、と云う気紛れの一策以上では無かったでありましょう。
 社員の方も社長と飲むのは話題も噛み合わないし気疲れもするし、そんなに楽しい一時では内心無かったのでありました。確かに普段の宴会よりは美味で豪勢な肴と、生一本の上等な酒に自分の懐の痛み無しでありつけたのは幸いだったとしても。
 依って社長を九段下駅に見送った後、日比課長の提案で神保町の方に戻って、頑治さんが入社した時の歓迎会が開かれたあの居酒屋で、気疲れ解消に皆で気兼ねなく飲み直そうと云う算段がすぐに纏まるのでありました。矢張り社長との同席は気骨の折れる事態であり、幾ら只酒とは云え、じっくり賞味すると云う訳にはいかないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 321 [あなたのとりこ 11 創作]

「社長も、土師尾営業部長や片久那制作部長にだけじゃなく、新たにこれから組合の方にも気を遣わないといけなくなって、この先大いに大変な事だよなあ」
 飲み慣れた安酒に舌鼓を打ちながら日比課長が皮肉っぽく気の毒がるのでありました。社長の前では、見様に依っては太鼓持ち的なヨイショを連発していたくせに。
「社長も元々腹が座っていないから、何かオドオドしていたような印象だったなあ」
 袁満さんが先の宴会での社長の様子を振り返るのでありました。
「前からそうだったけど、土師尾さんにも片久那さんにもそう易々と気を許せないし、組合にも、下手な対応をすれば大袈裟に労働争議を起こされるかも知れないから、戦々恐々としているのよ。何かと云うと大物気取りするけど、気が小さいからね、あの社長は」
 那間裕子女史が袁満さんの社長評に続くのでありました。
「社長はウチの会社では孤立無援と云う立ち位置なんですか?」
 頑治さんが那間裕子女史と日比課長を交互に見ながら訊くのでありました。
「ま、そうとも云えるかな」
 日比課長は猪口の日本酒をグイと空けるのでありました。「両部長には実質的に会社を切り盛りしている俺達の待遇をもっと良くしろと、事あるに付けつっ突かれているし、それだけでも社長としては辟易としているのに加えて、今度は組合対応にも気を遣わなければならないとなると、もう投げ出したいくらいうんざりと云ったところだろうな」
「社長は両部長としっくりいっていないんですか?」
 頑治さんは空いた日比課長の猪口に酒を注ぐのでありました。
「結局会社の事より、自分達の待遇の方が第一番なんだろうと見做しているからね」
「両部長までも組合に入るんじゃないかと、屹度気を揉んでいるんだろうなあ」
 均目さんがそんな事を云い添えるのでありました。成程、両部長に自分の側に立つ人間として全幅の信頼を寄せていないとなると、それは確かに孤独でありましょう。
「それでも土師尾さんには片久那さん程の警戒心は無いんじゃないの」
 今度は那間裕子女史が猪口を空けてから云うのでありました。頑治さんは空かさず徳利を持つ手を伸ばすのであました。
「でもそちらはそちらで、取り入るような笑いをしながら、片久那制作部長の悪口もこっそり耳打ちしつつ、自分の方にもっと多く好待遇を寄越した方が得策だと、抜け駆けして強請っているに違いない。あの人はそう云う事を平気でする人だから」
 日比課長は酒臭い息と伴にそう吐き捨てるのでありました。
「確かに片久那制作部長の方はあの社長に対して、社長、と云う会社での立場に対する配慮はちゃんとしても、社長個人に対しては、単なる思慮の浅い俗物としか見做していないだろうし、人物を買ってもいないから、如何にも素っ気無い態度だよなあ」
 袁満さんが云いながら自分のウーロンハイのグラスを傾けるのでありました、こちらには未だグラスに半分以上中身が残っているような気配だし、抑々始めから酌の心配も無いので、頑治さんは何も手出しをしないのでありました。
「だから土師尾営業部長はその隙に付け込んで、こっそり自分を売り出している訳だ」
(続)
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あなたのとりこ 322 [あなたのとりこ 11 創作]

 日比課長が云い募るのでありました。「全くとことん見下げ果てたヤツだぜ、あの営業部長さんは。まあ、もう疾うに判ってい事だから、今更怒る気も無いけど」
 と云いながらも、結構な怒気ではないかと頑治さんは思うのでありました。
「そう云う日比さんも、今日の社長に対するお追従満載の遜り方を見させて貰うと、あんまり人の事は云えないと思うよ。実に格好良くなかったなあ今日の日比さんは。まあ、何時も万事にそれ程格良いと云う訳じゃないけどね、念のために付け加えると」
 袁満さんが狎れた口調でからかうのでありました。
「片久那制作部長と同じで、俺も社長と云う立場に敬意を表しているだけだよ」
「あのおべんちゃらたっぷりの話し振りは、それ以上の、卑屈さすら感じたけど」
「別に卑屈になんかなっていないよ」
 日比課長は憮然とするのでありました。「第一俺はあの営業部長さんのように、自分を社長に売り込もうなんて云う下心なんか毛程も無いし」
「どうだかね」
 袁満さんはあくまで皮肉っぽい云い方を止めないのでありました。
「勝手にそう思いたければ思えば良いさ。袁満君の心根なんか、俺にはどうでも良い」
「まあまあ日比課長」
 均目さんが両掌を日比課長に向けて、ゆっくり数度、低振幅で日比課長の前の空気を押すような手真似をするのでありました。「袁満さんも本気で日比さんを悪く云っているんじゃないし。ところでそれはそうと、日比課長は組合に入る気は無いのかな?」
 均目さんから急にそんな話しを振られたものだから、日比課長は瞠目して唇の前迄運んでいた猪口をその位置で止めるのでありました。
「俺が組合に、かい?」
「そうですよ。従業員なんだから組合に入った方が何かと有利だと思うけど」
「課長でも入れるの?」
「勿論です。部長でも多分大丈夫なんだから」
「とすると、土師尾営業部長と片久那制作部長も組合に入る心算なの?」
 若しも両部長迄もが組合に入ると云う事になっているのであれば、自分だけ置いてけ堀を食らうと云うのは何とも困ると思ったのか、日比課長は均目さんの言葉の、部長でも大丈夫、と云うその部分にちょいと引っかかってそう訊くのでありましょう。
「いや、流石に社長の手前、両部長は組合には入りませんがね」
 均目さんが片手を何度か横に振るのでありました。
「ああそう」
 日比課長はそれを聞いて何となく安堵したような顔をするのでありました。「俺も組合に入るのはちょっと躊躇うなあ、社長や両部長との腐れ縁もあるし」
 この、腐れ縁、とは、単に五人の組合員よりも前に社長や両部長と出会っていると云う程度の意味合いでありましょうか。自分が迂闊に組合に入れば、その腐れ縁の社長や両部長の機嫌を損ねるようで、何とはなしに及び腰になっていると云う事でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 323 [あなたのとりこ 11 創作]

「でもこの先全国組織に加盟している労働組合員にはなかなか、妙な手出しをするのは控えるだろうけど、組合の後ろ盾が無い日比課長には、社長や両部長が過酷な労働条件を課してきたり、待遇面でも色々無体な事を云ってくるかも知れないですよ。それを防ぐ手だてが、腐れ縁、だけと云うのならそれは如何にも頼りない気がするけど」
 均目さんがそれとなく脅すのでありました。
「新年早々の社員全員での話し合いでも、日比さんはこれ迄やって来た特注営業の実績を簡単に無視されて、将来の、海の物とも山の物とも未だ全く判らない地方特注営業とやらに回されそうになったんだから、社長や両部長は日比さん程にその腐れ縁とやらを大事には思っていないよ、屹度。そんなものをのんびり頼りにしているよりも、ここはちゃんと組合に入った方が、会社に於ける日比さんの身のためだと俺も思うけどね。」
 袁満さんも調子を合わせるのでありました。
「まあ、そうかも知れないけどね」
 日比課長は猪口をグイと傾けるのでありました。「でも何となく俺は、考え方が根っからの保守で、労働組合に入ると云うのは何となく抵抗があるし、・・・」
「労働組合は左翼的で、どうにも好きになれない、と云う事?」
 均目さんが首を傾げて日比課長の顔を覗き込むのでありました。
「ストライキとか座り込みとか街頭デモとか、そんなイメージか強いのかな?」
 袁満さんも日比課長の顔に視線を向けるのでありました。
「まあ、そうかな。俺はそんなの好きじゃないしね」
「俺だって好きじゃないですよ」
 均目さんが徳利の酒をテーブルの上の日比課長の猪口に注ぐのでありました。「でも、全総連は組合員個人の政治的な考え方や心情にはタッチしないのが原則ですよ。支持政党も自由だし。会社での労働環境と待遇の改善が組合活動の第一番目の目的だし」
 そんな事を云う均目さんその人が、実はこの組合員五人の中で一番、全総連の強い政治性に対して身を斜にしているのではなかったかしらと、頑治さんは日比さんへの均目さんの説得の言葉聞きながら思うのでありました。これはちょっと調子が良すぎると云うものだし、大いに無責任な云い草と云うべきでありましょう。
「まあそうかも知れないけど、・・・」」
 日比課長はそれでもなかなか頑ななのでありました。「俺は今の段階では組合に入るのは遠慮しておくよ。この先何か妙な事があったら考えても良いけどね」
 日比課長は先程均目さんが日本酒をなみなみと注いだ猪口を取り上げて、一定程度の高さで止めて、零さないように口で迎えに行くのでありました。

「今の話しの流れから云うけど、甲斐さんはどうするのかしらね?」
 那間裕子女史が袁満さんも均目さんも出雲さんも、それに頑治さんも気が利かないものだから手酌で酒を自分の猪口に注ぎ入れながら、社内に居るもう一人の非組合員である甲斐計子女史の名前をここで出すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 324 [あなたのとりこ 11 創作]

 こういう場合では大概頑治さんが酌の手を伸ばすのでありましたが、うっかりして仕舞ったと頑治さんは反省するのでありました。だから那間裕子女史の猪口が空くと今度は空かさず両手で持った徳利を女史の方に差し向けるのでありました、
「甲斐さんは俺以上に、組合に入るのは抵抗があるんじゃないかな」
 日比課長がそう云って猪口を空けたので、頑治さんは那間裕子女史の猪口に差したその流れで、すぐに今度は日比課長の方に徳利を翳して見せるのでありました。
「どうして?」
 袁満さんが訊くのでありました。
「甲斐さんはそう云うのには今迄全く縁遠かったし、ストとかデモとかに対して生理的な嫌悪感と云うのか、アレルギーがあるみたいだしなあ」
「そう云えば鉄道とかバスのストライキがあった時なんか、如何にも迷惑そうに労働組合の事をすっかり悪者扱いして口汚く罵っていたっスからねえ」
 出雲さんがそんな事を云って笑いながら頷くのでありました。「俺なんかはストがあるとか聞くと、何とはなしにウキウキしたりする方ですから。公然と会社に遅れて行っても構わないし、ひょっとしたら欠勤してもお咎め無しっスからねえ」
「そのへんによく居る不良社員の考えだな、それは」
 袁満さんが咎めるような口振りで云うのでありました。「ま、気持ちは判るけどね」
「甲斐さんは、まあ確かに、組合に誘うのは妙な憚りを感じて仕舞うなあ。何となくあの人のキャラクターと組合と云うものが上手く結びつかない感じだし」
 均目さんが話しを甲斐計子女史の事に戻すのでありました。
「若い演歌歌手の追っかけをしているんだろう、甲斐さんは」
 日比課長が時々テレビの音楽番組やバラエティー番組に出て来る或る歌手の名前を出すのでありましたが、袁満さん以外は、その話しは初めて聞いた、と云うような顔をするのでありました。袁満さんは前に日比課長から聞いていたか、それとも甲斐計子女史本人から直接聞いたか、その件は疾うに知っていると云うような素振りでありました。
「ああ、どちらかと云うと若い女性よりは、主婦とか一定以上の年齢の女性に熱烈な人気のあるあの歌手ね。あたしなんか、何だかそう云う層に巧妙に阿ているのが、嫌に気持ち悪いと思って仕舞うけどね。ま、第一あたしは演歌なんか全く聴かないし」
 那間裕子女史がその歌手当人に対してか、それとも甲斐計子女史を含むその歌手を取り巻いて大騒ぎするファン連中に対してか、多少の軽侮を込めて云うのでありました。
「甲斐さんはジャスボーカルやっているから、アイツの歌は下らないと思うかな?」
 日比課長がそう云う事を云う那間裕子女史の、一種の高尚気取りを皮肉るような感じを、ほんの少し言葉の尻に交えて訊くのでありました。
「別にジャスボーカルは関係ないわ」
 那間裕子女史はそんな日比課長の云い草に不愉快を覚えたようで、そっぽを向きながらぞんざいに冷えた口調で返すのでありました。日比課長は那間裕子女史の不興を買った事に、そうと判っていながら云ったくせに、少しの狼狽を見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 325 [あなたのとりこ 11 創作]

「確かに甲斐さんのキャラクターと労働組合には、全く接点が見付けられないように思うけど、それでも一応、全くけんもほろろの返事が返ってくるとしても、組合加入を誘ってみる必要はあるかな。今この席で日比課長に、まあ断られたけどオルグを掛けたんだから、甲斐さんにも声を掛けないと何だか釣り合いが取れないように思えるからなあ」
 均目さんが何だか変な均衡意識を持ち出して甲斐計子女史をオルグする理由とするのでありました。「甲斐さんのオルグは、委員長である袁満さんにお願いしますよ」
「え、俺が声を掛けるの?」
 袁満さんが持っていた徳利を机上に置いて自分を指差すのでありました。
「まあ、甲斐さんと一番親しく口を利けるのは袁満君だものね、この中では」
 那間裕子女史が均目さんの提案に賛同するのでありました。
「じゃあ、判りましたよ。俺の方から一応声は掛けてみますけどね」
 袁満さんはあんまり期待しないでくれと云うような気後れの返事を以って請け負うのでありました。存外あっさり請け負ったのは、日頃から偶に冗談なんかも交わしている甲斐計子女史にオルグを仕掛ける事を、そんなに苦にしていないためでありましょうかな。

   止まぬ激震

 三月末の春闘の妥結から新年度初めの四月一日迄の一週間程が、前年暮れの一時金の件から続いた社内のゴタゴタの中で、ほんの暫し訪れた麗らかな日和のような時間でありましたか。しかし全総連小規模単組連合加盟の他の分会に於いては、未だ期日ギリギリ迄の賃金闘争が続いている組合もあって、贈答社の五人は闘争中の単組の社前集会やら街区デモなんかに、内心の終息感を脇に置いて駆り出されたりするのでありました。
 それでも自分のところは既に、概ね満足出来る妥結に至っていると云う気楽さが気持ちの底にあるものだから、五人の風情にはどこか緊張感が欠けているのは仕方の無い事でありました。まあ、他社の事はあくまで他社の事でしかないのでありましたし。
 大体がそれ程に労働運動に熱心、と云う連中ではないのでありまして、この間何やかやと大いに世話になったと云う浮世の義理から、仕方なく全総連の動員に嫌な顔を隠して付き合っている、と云った無精な気分が五人の共通の本心でありましたか。ま、頑治さんにはこういうデモや集会が物珍しくて些か興味津々なところもありはしましたか。
 集会ではハンドマイクを使って自分達の切羽詰まった窮状や自社経営陣の悪辣非道振りが縷々、声高に叫ばれるのでありました。しかし結局その窮状も生きるに困る程の悲惨さは無いから、些か迫真力に欠けるような気が頑治さんはするのでありました。経営陣の悪辣非道振りも、もっと落ち着いてクールに観察すれば、そんなに口汚く罵る程の非道と云うものでは無いようにも思われるのでありました。詰まり悪辣なるべき経営者の紋切り型のイメージを想起させるための、大袈裟な誇張と演出と云う事なのでありますか。
 ハンドマイクを持つ人の演出力と演技力の勝負と云う事であります。要はプレゼンテーション能力とかの、云わばセールスのような腕前が必要のようでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 326 [あなたのとりこ 11 創作]

 まあ、こんな事を云うと派江貫氏辺りに不謹慎千万だと怒られそうでありますが、それでも頑治さんは何となく、労働組合側の演説の中に嫌に古典劇的に悠長でありながら、それでいてかなり好い気で、如何にも狡賢そうな底意をどうしても聞き取って仕舞うのでありました。それに定式化されて今となっては少々綻びも目立ち始めた、典型的な労働者と経営者との対立構図を未だに使用している辺りが手腕として白々しく、寧ろそう云うステレオタイプは窮状を訴える迫力に欠けるようにも思えて仕舞うのでありました。
 まあ要するに、春闘、と云う賃金を改定するに当たっての祭儀と云うのか、定例儀式なのでありましょうから、このお祭りを盛り上げるためにはこう云う決まり事は労使共に尊重すべきものなのかも知れません。勿論、深刻な雇用の危機にある人達とか、決まった賃金さえ長く受け取る事が出来ない人達とか、会社が倒産の危機にあって先の目途も立たない人達とか、本当に酷薄な境遇も一方にある事は理解した上での感想でありますが。

 社長は労働組合が出来たとしても、それでも社内の人間関係を妙な波風が立たないように、なるべく良好に保とうとする気があるのであろうとばかり組合員は推察していたのでありますが、その当の社長発信になる不穏な策謀が急に明らかになるのでありました。それは非組合員である甲斐計子女史に向けられたものでありました。
 贈答社の春闘が一応の妥結を見て、件の社長の奢りになる酒席が設けられた日か然程経っていない或る日の昼前でありましたか。何の用事に行ったのか判らないけれど外から戻って来た土師尾営業部長より、今社長が呼んでいるから、との伝達があって土師尾営業部長共々甲斐計子女史は特に疑念も無く二階の社長室に向かったのでありました。
 普段甲斐計子女史は会計仕事上の必要から社長に印鑑を貰いに行ったり、事務処理のための社長の指示や裁可を受けに社長室に赴く事は偶にあるのでありました。この時も後の甲斐計子女史の言に依れば、土師尾営業部長の同伴と云うのは何時もと違って少し胡散臭いところもあったけれど、億劫ながらも特に強い引っ掛かりも無く、社長から仕事上の何かの指示があるのだろうと考えて社長室に向かったと云う事のようでありました。
 勿論袁満さんも、この日は未だ外回りに出ないで偶々事務所に居た出雲さんも日比課長も、別に何ら異変らしき気配なんぞは感じなかったし、単なる何時も通りの甲斐計子女史の社長室詣でであろうと思ったようでありました。頑治さんにしても、この時は倉庫ではなく制作部スペースにある自分の机で在庫帳を記入していたのでありましたけれど、何やらの異変の匂いは営業部スペースからは何も漂ってはこないのでありました。
 これは後に判明した事でありますが片久那制作部長にしても、甲斐計子女史がこの時どうして社長室に呼ばれたのかは関知の外であったようでありました。つまり片久那制作部長は、この策謀に関しては何も加担してはいないと云う事のようでありました。
 ぼちぼち昼休み時間になるほんの少し前に、甲斐計子女史は社長室から戻って来るのでありました。先ず甲斐計子女史に依って、事務所のドアがやけに荒々しく引き開けられたのに袁満さんが驚くのでありました。そう云うのは何時もの甲斐計子女史には無い所行でありましたし、甲斐計子女史の顔は憤怒に依って赤味を帯びているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 327 [あなたのとりこ 11 創作]

 土師尾営業部長は甲斐計子女史と一緒には帰って来ないのでありました。恐らく社長室に居残って社長と今後の事をあれこれ打ち合わせしているのでありましょう。
「どうしたんだい、甲斐さん?」
 日比課長が自席に座った甲斐計子女史の方を振り向いて気後れ気味に声を掛けるのでありましたが、甲斐計子女史からは何の返答も返ってこないのでありました。
「甲斐さん、社長室で何かあったの?」
 妙に重苦しい空気である事を心配して、袁満さんが席から立ち上がって甲斐計子女史の方に近寄りながら、やや深刻そうな声音で訊くのでありました。
「あたしは馘首なんだってさ!」
 甲斐計子女史が普通に返答をする間としてはやや不自然に長い間を空けて、嵩じた声で如何にも捨て鉢でありながら無理にあっさりを装って吐き捨てるのでありました。
「馘首、って、そのう、・・・」
 袁満さんは一瞬、甲斐計子女史が今発したその言葉が上手く呑み込めないと云う困惑顔をして、つんのめるようにその場に居竦むのでありました。それから暫しの後、深呼吸してから甲斐計子女史の傍まで進み寄るのでありました。日比課長もいきなり生じた異様な緊張感に気圧されながらも、甲斐計子女史の横に進むのでありました。
 制作部スペースにもマップケース越しこの甲斐計子女史の言葉が聞こえて、片久那制作部長を始め、そこにいた均目さんと那間裕子女史、それに頑治さんもほぼ同時に俯いていた顔を起こすのでありました。頑治さんが片久那制作部長の方を見ると、その視線に気付いて片久那制作部長も頑治さんの方にチラと顔を向けるのでありました。
「社長にそんな事を云われたの?」
 袁満さんがそう訊いているのでありましたが、制作部の四人もその袁満さんの質問と、その後に発せられる筈の甲斐計子女史の返答に耳を敧てるのでありました。
「今度から新しい賃金体系になるんだけど、その適用外を納得すれば今まで通り働いて貰うけど、そうじゃないなら辞めて貰いたいんだってさ」
 甲斐計子女史の声は大袈裟に云えば泣き声に近くなっているのでありました。
 そこ迄聞いてから片久那制作部長が椅子から立ち上がるのでありました。それから急ぎ甲斐計子女史の机の方に姿を消すのでありました。
 これは仕事どころではないと、均目さんが片久那制作部長の後を追うのでありました。那間裕子女史もすぐに均目さんの行動に倣うのでありました。頑治さんは、一緒になってそちらにガヤガヤと全員押しかけるのは、何だか必要以上に事を騒然とさせて仕舞うような気がしたのでありましたが、しかしここでのんびり座しているのは同僚に対する情義に欠けると思って、少し遅れて甲斐計子女史の机の方に向かうのでありました。
「ひどいなあ、それは」
 日比課長がそう云ったところに片久那制作部長が現れたので、日比課長と袁満さんは片久那制作部長に甲斐計子女史に一番近い位置を譲るために脇に退くのでありました。ここは一番、自分達よりも片久那制作部長の出番と見取った故でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 328 [あなたのとりこ 11 創作]

 出雲さんは自席から動かずにこちらに視線を投げているのでありました。何となく出遅れたようでありますし、自分迄もが事態の深刻さを内心面白がりながら、甲斐計子女史を取り囲んで必要以上に騒ぐのはどう云うものかと尻込みしたのでもありましょう。
「さっき云った事をもう少し正確に云ってくれるか」
 片久那制作部長は立った儘で甲斐計子女史を見下ろして、なるべく穏やかな口調で女史を徒に威迫しないように、しかしながら厳とした物腰で云うのでありました。厳とした云い草は勿論、甲斐計子女史ではなく社長に向けている事を滲ませながら、であります。
「あたしがやっている仕事に、この四月分から適用する事になったお給料は見合わないと云うのよ、あの社長は。でも組合員には約束だから払わなければならないけど、組合に入っていないあたしは、その適用外で構わないと云うの。だからあたしは賃上げは無しで、今貰っているお給料の儘で我慢しろって。それが嫌なら会社を辞めろってさ」
 甲斐計子女史は激した気持ちを何とか抑えてここ迄云うと、後は声を詰まらせて、悔しさに堪え切れなくなったようにハンカチで目頭を押さえるのでありました。
「ひでえな、それは」
 袁満さんが唇の端からそう漏らすのでありました。
「俺もこの後呼び出されて、同じ事を云われるのかな」
 日比課長が心配そうに片久那制作部長を見るのでありました。片久那制作部長はそんな日比課長に視線を向ける事無く唇を引き結んだ儘、迫力満点に目元を怒らせて事務所から急ぎ足に出て行くのでありました。社長室に談判に向かったのは明白であります。
「袁満さんも一緒に行った方がいいんじゃないですか?」
 均目さんが茫然として動かない袁満さんを促すのでありました。
「そうね。社長のルール違反の目論見は組合としても看過出来ないわね」
 那間裕子女史も均目さんに同調するのでありました。
「それはそうだけど、・・・」
 袁満さんが躊躇いを見せるのでありました。
「ほら、袁満君、あたしも一緒に行くから」
 気後れて袁満さんが動きを失くしているのに焦れて、那間裕子女史が袁満さんの腕を取って決然たる行動を促すのでありました。「全従業員の待遇に関して、組合が一元的に会社と交渉すると云う事は向こうも認めたんだから、組合も今すぐ社長室に行くべきよ」
「でも確かに甲斐さんは組合員じゃないし」
 袁満さんはなかなか決然たる意気込みを見せないのでありました。
「全従業員、というのは、組合員と非組合員に限らず、と云う事よ」
 那間裕子女史は焦れったそうに続けるのでありました。
「ああ、確かにそれはそうだよな。じゃあ、判りましたよ」
 袁満さんがやっと頷くのを見て、那間裕子女史はその腕を取って先導するようにそそくさと事務所を出るのでありました。余計事ながら、袁満さんの日頃の弱気と那間裕子女史の強気が見事に対照された一場面だなと頑治さんは秘かに思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 329 [あなたのとりこ 11 創作]

 急場に於いては那間裕子女史の方が袁満さんより頼もしく見えるのでありました。より行動的だし、滅多に怖気付かず豪胆だし勇気もあるし、ひょっとしたら野間裕子女史の方が委員長として相応しいのかも知れません。いや、リーダーは一人先走るタイプよりは、多少呑気に構えている方が良いと云う意見もありましょう。どちらが良いのかは組織の性格にも依るでありましょうし、他の組合員との兼ね合いもあるでありましょうが。

 片久那制作部長を追うように出て行った袁満さんと那間裕子女史は、何故か程なく二人だけで事務所に戻って来るのでありました。
「二人で社長室に駆け付けたら、片久那制作部長から、取り敢えず社長と両部長の三人だけで話しをさせてくれって云われてね」
 袁満さんがあっさり戻って来た理由を説明するのでありました。
「なんだかお呼びでないって雰囲気だったわ」
 那間裕子女史も先程の勢いは何処にいったのか、何となく冷めた云い草でそんな事をものすのでありました。調子が狂ったと云う按配でありましょうか。
「それで云われる儘に帰って来たんだ」
 均目さんが少し呆れたように呟くのでありました。「しかし、従業員の賃金とか解雇に関する問題を提起された訳で、そうなら組合も当事者なんだから、袁満さんも那間さんも、あるいはどちらか一人でも、そこに立ち会うべきだったんじゃないのかな」
「後で片久那さんから組合の方に説明すると云う話しよ。それで納得出来ないようなら、改めて組合との団交の場を設けると云う片久那さんの意向みたいね」
 那間裕子女史が説明するのでありました。
「ここは先ず経営陣の会議、と云うのか、話し合い、だと云う位置付けみたいかな」
 袁満さんの弛緩した表情には立ち合いを免れた安堵が見て取れるのでありました。
「ふうん、そう云う事かねえ」
 均目さんは納得はしていない様子ながら、腕組みして一先ず首を縦に小さく一度動かすのでありました。「まあ、今更また向こうに戻っても如何にも間抜けな感じだけど」
 それから均目さんは甲斐計子女史の方を向いて語調を変えるのでありました。「こうなったら甲斐さん、今すぐ組合に入った方が良いよ」
「そうね。その方が良いわね。組合に入れば一人で対処するより遥かに心強いし」
 那間裕子女史も賛意を示すのでありました。「組合員じゃない事が、こんな理不尽な目論見の根拠らしいから、組合に入ればたちまちその根拠は消滅するわ」
 那間裕子女史はその後頑治さんの顔を窺うのでありました。頑治さんも賛同の言を発しろしろと云うサインがその目から頑治さんに向かって射られているのでありました。
「そうですね。こうなったら社長や両部長とのこれ迄の経緯もあるでしょうけど、組合に入った方が会社の中では何かと心強いですよね」
 頑治さんは那間裕子女史に促されたからと云うだけではなく、会社に長く居る先輩に対して不謹慎な云い草かも知れませんが、そう自分の意見を述べるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 330 [あなたのとりこ 11 創作]

「俺もその方が良いと思うっスね」
 この間漸く自席を立ってこちらに来ていた出雲さんも、別にこちらは那間裕子女史から何かサインを送られたのでもないのに、自ら賛意を表明するのでありました。
「別に社長なんかに遠慮する義理は何も無いけど、・・・」
 甲斐計子女史はそう云ってから少し思い煩うような表情をするのでありました。
「何となく組合と云うものに胡散臭さとか警戒心を抱いているのかな?」
 袁満さんが甲斐計子女史の心の内を察するのでありました。
「そう云う訳じゃないけど、今迄そんなものに縁遠かったから少し抵抗があるのよ」
「社長や両部長の横暴に対して、一人一人で個人的に文句を付けるのはしんどいから、従業員全員で当たろうと云う趣旨で組合を創ったんだよ。だからさっき唐目君が云った通り何かと心強いよ、今回みたいな問題が起こったりした時には」
「デモとかやるんでしょう?」
「まあ、場合に依っては、ね」
「あたし嫌いなのよね、そう云うのって」
「デモとか決起集会とか、そんなに頻繁にやる訳じゃないし」
「でも、最終的には共産主義運動なんでしょう?」
「そんな事はないですよ、全く」
 これは均目さんの言葉でありました。「どこの政党を支持しようと、どんな政治信条を持っていようとそんなのは個々人の自由ですよ。そこ迄組合は干渉しないし。ただ会社の中で弱い立場の者が団結して強い者の横暴に立ち向かおうと云うのが主旨ですよ」
 この均目さんの云い草を聞きながら頑治さんは、これは日頃の均目さんの組合に対する了見とちと違うんじゃないかなあと首を傾げるのでありました。
 均目さんは全総連の濃厚な政治性とか、後ろに付いているであろう政治政党に対して大いに批判的な事を常々云っていた筈であります。それをここではさて置いて、幾ら甲斐計子女史をオルグするためとは云え、こう迄も横瀬氏や派江貫氏のコピーみたいな言辞を弄して憚らないのは、些か不謹慎、或いは軽佻浮薄と云うものでありましょう。
「そうだよねえ、唐目君」
 頑治さんが自分に対して呆れたような笑いを送っているのを見咎めて、均目さんは頑治さんに向かってそんな同調を求めるようなもの云いをするのでありました。
「ま、建前としてはそうには違いないけどね、一応は」
 頑治さんは苦笑いながら皮肉っぽく返すのでありました。
「変な心配しなくても大丈夫よ。組合は会社の事だけをあれこれ対策するだけで、会社を離れた私生活には全くタッチしないものだから」
 那間裕子女史も甲斐計子女史の説得に掛かるのでありました。
「組合に入らないと、孤立して社長の云いなりになるしかないよ」
 袁満さんが半分脅しに走るのでありました。自分に向けられる諸々の説得や脅しや宥め賺しに、甲斐計子女史は悩まし気な表情で身を縮めているのでありました。
(続)
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