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あなたのとりこ 306 [あなたのとりこ 11 創作]

 ホームに一人取り残された頑治さんは、夕美さんを乗せた列車の後尾がみるみる遠ざかるのを虚しく見送っていたのでありましたが、遂に車両の一点の欠片も視界から消え失せて仕舞うと、もう春だと云うのに、急に辺りの空気の冷たさが全身に染みてくるのでありました。その寒さに同調して、頑治さんが立っているホームの気配が、嫌に他所々々しい顔をするのでありました。早々にここから立ち去れと促されているようでありますか。
 夕美さんがもう東京から居なくなったのだと云う喪失感は、東京駅から自分のアパートに戻って来て、一人で座布団の上に座っていると余計に重く肩上にのしかかって来るのでありました。一か月後にはまたすぐ逢えるんだと何とか意を励ましても、寂しさは一向に収まらないし、寧ろ益々増幅してくるようでありました。
 本棚から夕美さんが残していったネコのぬいぐるみが、頑治さんを無表情に見下ろしているのでありました。それは夕美さんから頑治さんを監視する役目を仰せつかっているのでありましたから、頑治さんにとっては何となく鬱陶しい存在の筈でありました。
 しかし居なくなった夕美さんの名残りのネコだと思えば、寧ろ愛おしくもなると云うものであります。頑治さんはこの部屋に残った夕美さんの痕跡をあれこれ考えてみるのでありました。このネコもそうだし、野呂邦暢の小説と伊東静雄の詩集、それから何冊かの料理本や英語の童話とかもそうであります。それにヘアドライヤーもあるし、数枚の衣類も残っているのでありあます。考えてみればなかなかに豊富と云うものであります。
 そう考えると頑治さんは幾分気持ちが和らぐのでありました。夕美さんの遺していった痕跡に囲まれてこの一か月を遣り過ごすのは、芯に虚しさはあるものの、何とか出来なくもない気がするのでありました。当面、そうっするしか術は無いのでありますし。

 春闘要求に対する二次回答は少しの進展があるのでありました。夏季一時金が基準内の二か月分に一律二万円プラスと云うその一律のところが、三万円のプラスと増額されているのでありあました。それから就労時間に関して、完全週休二日制にする代わりに、月曜から金曜までの終業時間を三十分延長すると云う件が、それより六分短くして、二十四分の延長とし、終業時間を十七時二十四分とするとされているのでありました。
「十七時三十分が十七時二十四分と云う半端な時間になったのはどう云う事ですか?」
 袁満さんが片久那制作部長の意図が読めないと云う顔をして訊ねるのでありました。
「週に三十分、更に労働時間を短縮するためだ」
 片久那制作部長が無愛想に応えるのでありました。
「週にたった三十分ですか!」
 袁満さんはその渋ちん加減に呆れたように云うのでありましたが、片久那制作部長が眉根をピクリと動かして、なかなかに迫力満点の不愉快を表明するのでありました。袁満さんは怯んで片久那制作部長から外した目をオドオドと宙に泳がせるのでありました。
「そう云うが、週に三十分が限界だ」
 片久那制作部長は鮸膠も無い云い方をするのでありました。「大体週休二日にした時点でもう既に時短になっているんだからな」
(続)
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