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あなたのとりこ 305 [あなたのとりこ 11 創作]

「ああ成程。それは道理だ」
「でもまあ、五月六日から先も、多分毎日、夜は頑ちゃんと逢うでしょうけどね」
 夕美さんはそう云ってニンマリと笑むのでありました。
「お茶の水のビジネスホテルに泊まるのなら、逢うには好都合かな」
 頑治さんも笑み返すのでありました。
「あたしが東京を引き払った後も、一か月後にはまたすぐに逢えると云う事ね」
「今迄だって一か月くらい逢えない時もあったし、そういう意味では今後も二人の逢瀬に関しては、少し不自由にはなるけれど今までとあんまり変わらないって事になるかな」
 頑治さんが云うと夕美さんは頷くのでありました。しかしそれは、矢張りこれ迄とは決定的に違う状況が二人の間を隔てる事になる、と云う儘ならなさを何とか二人して認めたくないものだから、多少無理な理屈で以って現実の無聊を糊塗しようとしているようなものかなと、頑治さんは気持ちの底の方でそこはかとなく考えるのでありました。何とも潔くない二人でありますが、ここでは潔さなんか糞喰らえ、と云う心境でもありましたか。まあ要するに、二人共後少しに迫った別れの瞬間が怖くて堪らないのであります。

 列車がホームにゆるりと滑り込んで来ると、夕美さんは一旦車内に入って自分の指定席に旅行カバンを置いてから、頑治さんが扉の外で待っている車両の出入り口に戻って来るのでありました。未だ発車迄少しの余裕があるのでありました。
「一か月後にまたすぐ逢うんだけど、でもまあ、これで取り敢えずお別れね」
 夕美さんは車内から車外に居る頑治さんの手を取って固く握るのでありました。
「一か月後にまたすぐ逢うんだけど、でもまあ、取り敢えずそれ迄元気で」
 この今の別れに然したる意味は無いと云う事を、こう云う軽口めいた云い方でお互いに強調しながら念を押すのでありました。と云う事は、認めはしないものの実は矢張り思いの外、しめやかな心のダメージがあると云う事の左証でもありますか。それはそうでありまっしょう。これからは逢いたい時すぐに逢う事は叶わないのでありますから。
 発車のベルが鳴り響いて、扉から離れろと云うアナウンスが流れると頑治さんは握っていた夕美さんの手を離すのでありました。その離れる頑治さんの手に縋るように、少し夕美さんの手は前に伸びるのでありましたが、発車のベルが止むとその手はそれ以上の伸長を思い止まって、未練がましい素振りで夕美さんの胸元に戻るのでありました。
 無情に閉じた扉の小窓の向こう映る夕美さんの顔が歪んで、頑治さんに何やら切羽詰まった視線を送る両目から涙が一筋零れるのでありました。それを見て、矢張り、別れは別れなんだと頑治さんは思い知るのでありました。
 どうせ一か月後には逢う事が出来るのだし、その後もなるべく頻繁に会う了見ではあるけれど、しかし矢張り間違い無く夕美さんは東京から居なくなるのでありました。二人の間を隔てる気の遠くなるような現実の粁程の、何と忌々しい長さである事か。
 実に呆気無く、頑治さんの前から夕美さんを乗せた列車は消えるのでありました。そのあまりの呆気無さが、頑治さんの喪失感を妙に混乱させるのでありました。
(続)
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