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あなたのとりこ 304 [あなたのとりこ 11 創作]

「俺としては複雑で面倒臭い仕事なんかよりは、物相手の単純労働の方が性に合っているけどね。従業員が少ないからそうも云っていられないと云うのが実情だよ」
「でも頑ちゃんには、これから先、色んな人と出会ってみたいと云う志望があるし、その志望のために、故郷に引っこむ事を潔しとしない訳だし」
 夕美さんはそんな事を別に恨みがましくも皮肉っぽくも無く、無表情に云うのでありました。ま、ほんの少しはそのような色が語調に含まれていたかも知れませんが。
「正確に云うと、出会ってみたいと云うよりは、単純に観てみたいと云う事かな」
「物を相手の仕事では、その志望も叶わないじゃない」
「それはそうだけど。・・・」
 確かに頑治さんは、どうせこの世に人間として生まれて来たからには、同時にこの世を生きる、出来るだけ多くの自己ならざる人供を実見したいと云うゆるぎない筈の願望があると当時に、煩瑣な人間関係とか、何かと生臭い人供の息の縺れ合いから遠く離れたところで、静謐一途に生きていたいと云う相反の願望も一方に持ち合わせているのでありました。そんな仙境のような処での生活なんと云うものは、夢のまた夢と何故か端から諦めているものだから返って雑多なる人混みの中に紛れ込もうとしているのかも知れません。
 ま、取り敢えず人間と云う動物が第一義的には情の世界で生きていると云う前提に立つといたしましょう。そうすると、こよなく人恋しい心情と人気の消えた無色無臭の世界に同時に魅かれる心情は、そんなに奇異なものでも不埒でも、不安定で落ち着きの悪いものでもないように思われるのでありますが、はてさて。・・・
「今ここでそんな事をあれこれ話していても始まらないけど」
 夕美さんはこの話しを切り上げようとするのでありました。それはその通りで、夕美さんが今正に東京での生活に区切りを付けて故郷に帰ろうとしていて、惜別の念を一方にそれを見送りに来ている頑治さんとのこの一場に於いては、これはどうしても話さなくてはならない話しと云うものでは確かにないでありましょうか。
「ゴールデンウィークには東京に来るんだろう?」
 頑治さんは冷めて仕舞ったコーヒーを飲み干すのでありました。
「そうね。四月の二十九日に来るわ。連休明けに大学の考古学の先生と打ち合わせがあっ
て、何だかんだで五月の十日くらいまでこっちに居る事になるかも」
「連休中は私用の旅行で、連休後は公用の出張と云う訳か」
「ま、そんな感じ」
「何だか帰ってから経費の清算が面倒臭そうだな」
 頑治さんは全く余計な心配をするのでありました。
「往復の旅費と五月六日からの宿泊費は経費で落とせると思うわ。五日までは叔母さんの家に泊まって、その後は御茶ノ水のビジネスホテルに泊まる心算よ」
「すると叔母さんの家に居る間は、俺のアパートには泊まらないと云う事かな?」
「ううん、何とでも理由を付けて泊まりに行くわよ。だって五月五日までがプライベートの遊びの時間なんだから、頑ちゃんとの逢瀬はその間がメインよ」
(続)
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