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あなたのとりこ 282 [あなたのとりこ 10 創作]

 この間約三十分くらいでありましたか。社長室では未だ団体交渉が続いているでありましょう。社前集会が散会になった後、頑治さんは派江貫氏に付き添われて演説してもらった全総連の中央委員の仁とか、その他主立った人達に挨拶をするのでありましたが、夫々から激励の言葉を掛けられるのでありました。これは素直に有難くはありましたか。
 団交が終了して皆が社長室から出て来る迄、頑治さんは派江貫氏と二人で前以ての打ち合わせ通り近くの錦華公園で待機しているのでありました。
「外からのシュプレヒコールが屹度社長室にも届いただろうから、経営にとってはかなりのプレッシャーになった筈だな」
 ベンチに並んで腰を下ろすと派江貫氏が頑治さんに語りかけるのでありました。頑治さんは返事の代わりに愛想笑って腕時計に目を遣るのでありました。団交は一時間程を予定してあるのでありました。要は通告と要求書提出を済ませたらあっさり引き上げると云う態度で、大まかな組合結成についての経緯と要求書の読み上げはするとしても、要求内容についてあれこれ踏み込んで経営陣と議論する事はその日は避ける手筈でありました。
 しかし一時間を経過しても未だ誰も現れないのでありました。頑治さんは少しそわそわ気を揉むのでありましたが、それから二十分を過ぎた頃になって、会社のビルから皆がゾロソロと連れ立って駐車場前に出て来るのが見えるのでありました。
「いやあ、結構面白かったよ」
 公園に一番に入って来た袁満さんが頑治さんと派江貫氏を見付けて、そう声を掛けながら近付いて来るのでありました。後に続く皆も些か興奮気味の上気した顔をしているのでありました。察するに、先ずは上首尾、と云ったところでありましょうか。
 公園で落ち合った後は、全員で全総連のお茶の水分室に向かうのでありました。そこで総括と云う予定であります。もう敢えて必要無いからか横瀬氏が腕章を外すと皆もそれに倣って、歩きながら夫々腕に付けた赤い布を外しつつ歩を進めるのでありました。
「一先ず、出だしは上首尾と云うところかな」
 分室内の会議スペースに落ち着いて横瀬氏がそう感想を述べるのでありました。
「いやあ、目玉をひん剥いて驚いていた社長の顔は見ものだったなあ」
 袁満さんが痛快そうに笑いを漏らすのでありました。
「社長が一人で対応した訳じゃないんでしょう?」
 現場に居なかった頑治さんが訊くのでありました。
「勿論。慌てふためいて内線で上に電話して片久那制作部長を呼んだよ」
「土師尾営業部長は来なかったのですか?」
「土師尾営業部長は生憎、得意先と打ち合わせ称して十時前から外に出ていたんだ。例に依って本当に仕事なのか、それとも実は私用なのかは知れないけどね」
「まあ、団交が始まって三十分くらい経ってからのこのこ現れたけど」
「と云う事は、帰って来た時に社前集会は目撃したんですかね?」
「見たみたいよ。何か怯えたような顔で社長室に現れたもの」
 これは那間裕子氏が応えるのでありました。
(続)
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