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あなたのとりこ 272 [あなたのとりこ 10 創作]

 その日は池袋で友達と会う約束になっているからと、夕美さんは夕方に頑治さんのアパートを出るのでありました。頑治さんは地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅まで送っていくのでありましたが、改札を入ってホームに降りる階段に向かう夕美さんの背を見ながら、夕美さんがこっちを引き払う三月下旬まで、あと何回逢う事が出来るのだろうかと考えるのでありました。頑治さんは急に寂しさがこみ上げて来るのでありました。
 思えばそれ程迄に頑治さんが東京に残る事に拘る理由は、何処にも無いような気がするのであります。自分も夕美さんと一緒に故郷に戻る事が出来ない筈はないのであります。まあ、一つあるとすればそれはゴタゴタとしている会社の事でありましょうか。
 山尾主任が辞めてその後の展開も未だ不透明で、会社の形態がこれからまた大きな変更を迫られるのは必至であります。労働組合結成の事もこの先どうなるのか全く見当もつかない在り様でありますし。そんなタイミングの今、帰郷するからと自分もスタコラ会社を辞めるとなると、これはもう身勝手との誹りを免れ得ないでありましょう。
 駅から一人アパートに戻ってみると、炬燵の上に先程夕美さんがしきりに弄んでいたヘアピンが残されているのでありました。特段髪を留めるのに必要無かったから、その儘忘れて行ったのでありましょう。頑治さんはそれを取り上げると、暫く掌の上に載せて眺めるのでありました。それから大事そうに握り拳の中に仕舞うのでありました。

 山尾主任が辞表を出した後の最初の神保町の貸会議室での組合結成会議での議事は、新しい人事案の承認から始まるのでありました。これは当然の事でありますか。
 その前に山尾主任も同席して全総連の横瀬氏と派江貫氏、それに来見尾氏の三人に山尾主任自ら会社を辞めるに至った経緯を説明し、途中退場する無念を表し、無責任を重苦しい口調で詫びるのでありました。三人は先ず驚きを表明すると共にその後の山尾主任の口述を、山尾主任の重苦しい口調に同調したかのように苦虫を噛み潰したような表情で聞いているのでありました。山尾主任の個人的な切羽詰まった事情がその辞意の根っ子であるために、三人は口を挟まず只管黙して、視線の遣り場に困っている風でありましたか。
 挨拶を済ませた山尾主任が帰って後に袁満さんが最初に口を開くのでありました。
「と云う訳で、山尾主任が抜けた後の役員ですが、俺が新しく委員長に就任して、書記と会計、それに執行委員は元の儘と云う事に決めました」
「と云う事は、副委員長は居ないのかな?」
 袁満さんの言葉を受けて横瀬氏が袁満さんにだけにと云うよりも、社員五人総ての顔を順送りに見渡しながら訊ねるのでありました。
「そうですね。一応そう云う風に決めました」
 この袁満さんの言の後に均目さんが空かさず云い足すのでありました。
「少人数ですから、態々副委員長と云うポストは必要無いと思いますので」
「執行委員が二人いる訳だから、その内の一人を副委員長にして、役職を全員で分担する方が何となく落ち着きが良いのじゃないかな」
「いや、副委員長職を省く方が格式張らないであれこれと機能的になると思います」
(続)
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