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あなたのとりこ 265 [あなたのとりこ 9 創作]

「あっちで仕事もありそうだし、お母さんの傍で暮らせるのなら、それは夕美にとって今のところベストな選択と云うものだろうなあ」
 頑治さんは自分の主観よりも客観的妥当性に重きを置くような事をものすのでありましたが、それは夕美さんには嫌にクールな云い草に聞こえるかもしれないと、云いながら思うのでありました。決して頑治さんの心の内は穏やかな筈がないのでありましたが。
 結局のところ夕美さんは修士課程を終えた後、郷里に帰って仕舞うのだろうと云う予感は前からしていたのではありました。少し前に本郷の中華料理屋だったか、そこで二人で食事をしていた折にお母さんの病気の事を訊いて兆したその好ましからざる予感に、頑治さんは意ならずも妙なリアリティーを感じて仕舞ったのでありましたか。
 夕美さんとそんな形で別れたくなんかないのでありました。二人が互いを強く求め合っているならば、どんな障害も何とか乗り越えられると思いたかったのでありましたし、その誠心がありさえすれば、様々な不都合も好都合に変えて仕舞うに違いないと云う、何の根拠の無い確信も一方に強く保持していたのでもありました。しかしそう云う得体の知れない楽観は何時か必ず打ち砕かれるに違いないと云う悲観にも、リアリティーを感じて仕舞う自分が居るのでありました。頑治さんの不安はいや増すばかりでありましたか。

 それはこの日より少し前の、ちょっとした一人散歩の折りの事でありました。アパートに近い本郷給水所傍に在るなかなかに豪壮な邸宅の庭から、板塀を越して道の方に松の枝が伸びているのでありました。枝は少し高い位置にあるため通行の邪魔にはならないのでありましたが、手を上に伸ばせば針葉の塊に届くのでありました。
 道に延びた松の枝を何の気無しに見上げていた時に、頑治さんの頭の内に故郷の子供の頃に暮らした実家の庭がふと現れるのでありました。そう云えば一頃、庭の松葉を組み合わせて引っ張り合いをして、右手に持った葉が左手の葉を割いて棄損しなければ何やらの慶事がその日の内に身に訪れるし、格別の良き事が無くともその日一日が幸運に包まれる筈だと云う吉凶占いを、秘かに毎朝、熱烈に繰り返していたのでありました。
 その占いが当たっていたのか外れていたのか、今となってはもう有耶無耶なのでありましたが、今こうして将来の大望も無く、しがない安月給の体力仕事で口を糊しながらフラフラと、無意味と云うも疎かに生きているところを見ると、大方のところ、外れ、と云うべきが正しいのでありましょう。それにまあ、これ迄の己が生の時々のディテールに於いてもさしたる幸運な椿事なんぞは、そうは無かったようにも思えるのでありましたし。
 とまれ頑治さんは、片手を伸ばして二股の松葉を二葉、枝の先から摘み取るのでありました。右手に持った松葉が事後に健在ならば夕美さんは東京に残るし、その松葉が千切れたならば夕美さんは東京に見切りを付けて故郷に帰る、と頑治さんは左右に持った二股の葉を搦め合わせて、少年の頃と同じように念を送りながら心の内で呟くのでありました。その直後、意を決したように固く目を閉じて、息を詰めて左右の前腕を、出来るだけ公平に引く力を作用させるようにしながら外に引き放すのでありました。ゆっくり瞼を開くと左手の松葉の元は千切れ、右手の松葉は二股の姿を健在に保っているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 266 [あなたのとりこ 9 創作]

 思わず頑治さんはしたり、と笑むのでありました。天意は夕美さんが東京に残る事を示したのであります。天の意志ならば諸般の事情は屹度乗り越えられるでありましょう。
 いやしかし、ひょっとしたら微妙な力加減で右手の松葉の方が有利に作用したとも考えられるのであります。そうなるとこれはもう天意なんかではなく、単に頑治さんの願望に依る贔屓が働いた結果とも云えるのではないでありましょうか。
 頑治さんは再び松葉を取ると同じ事を繰り返すのでありました。前以上に慎重に、今度は松葉を掴む左右の親指と人差し指の力加減にも気を払って、公正無比に両腕を小さな振幅で引き離すのでありました。今度も右手の松葉は崩れないのでありました。
 これでも未だ確信が持てない頑治さんは三度目を試みるのでありました。そうして三度目も右手の松葉が強固に二股を保持しているのでありました。
 三度占って三度共に右手の松葉が勝利したのでありますから、これはもう、間違いのない天意がここに示されたのだと云えるのではないでありましょうか。そう考えて、或いはそれ以外の疑いを敢えて考えないで、頑治さんは暫し感奮に包まれるのでありました。
 しかしその感奮は俄に吹き過ぎて行った冬の夕風に、すぐに剥ぎ取られて仕舞うのでありました。頑治さんは苦く笑うのでありました。それから右手の松葉をぞんざいに前に放るのでありました。左手の松葉も同じように放るのでありました。道に落ちた松葉はまた吹き来った風に翻弄されながら、頑治さんの視界から消えるのでありました。

 あの時の松葉占いでは夕美さんは故郷へ帰る事無く東京に残る、と天意が明快に示された筈なのに。・・・頑治さんは心の中で力無く笑みながら呟くのでありました。
「頑ちゃん、どうしたの?」
 夕美さんが頑治さんの顔を覗き込んでいるのでありました。
「夕美が故郷に帰る事になるかも知れないとは、一応覚悟はしていたんだけどさ」
「そんな悲しそうな顔をしないで」
 夕美さんが手を伸ばして頑治さんの頬を触るのでありました。
「でもまあ、この二年間は、まあ二年とちょっとだけど、兎に角楽しかったよ。大学の学食で思わぬ形で夕美と再会して、それから二人で色んな楽しい事をしたし」
 頑治さんがそう云うと夕美さんは頑治さんの頬に触っていた手を急に引っ込めるのでありました。如何にも唐突なその仕草の謂いが了解出来なくて、頑治さんは夕美さんの顔を戸惑ったような目容で見るのでありました。
「何だかこれで、あたしと頑ちゃんの永遠の別れ、みたいな云い方ね」
「永遠かどうかは判らないけど、でもまあ、重たい一区切りではある。少なくとも夕美はこれから先は、何時も俺の傍には居ない」
「確かに体は何時も傍に居ないけど、それでも何時も傍に居る事は、出来るわ」
 それはレトリックとしては成立しても、現実には、ほぼ永遠の別れではないかと頑治さんは首を傾げるのでありました。別れと云う現象は、大方は或る切っ掛けから関係が次第に希釈されていって、竟には跡形も無く解消するものではないでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 267 [あなたのとりこ 9 創作]

「頑ちゃんさえ、例え傍にあたしが居なくても、あたしの事を何時も大事に考えていてくれるなら、そうじゃない?」
 夕美さんはたじろぐ程強い眼差しで頑治さんを見るのでありました。
「それはそうだけど、・・・」
 頑治さんはオドオドと気圧されたように呟くのでありました。
「そんな自信が無い、って云う訳?」
「いやそうじゃないけど、でも、傍に居るか居ないかは重大な問題じゃないのかな」
「当人次第よ」
 夕美さんは力強く頷いて笑むのでありました。
「夕美の方はどうなんだろう。故郷に帰って新しい環境で色んな人と出会うだろうし、仕事を始めればあれこれこちらでは体験出来なかったような事も体験するだろうし、そんな事を押し退けて、遠く離れている俺の事を第一番に考え続ける事が出来るのかな」
「勿論よ」
 夕美さんはあっさりと請け合うのでありました。そのあまりのあっさりした云い草に頑治さんはほんの少しの疑義を感じて仕舞うのでありました。如何にも心強そうに請け合う手合いに限って、後日決まって断言した事とは違う結果を導き出すものであります。
「嫌に簡単に云うなあ」
「信用出来ない?」
「いや、そんな訳でもないけどね」
「そんな訳でもないけど、でも信用出来ない?」
「まあ、遠く離れた人を変わらず思い続けられるなんて、きっぱり請け合える程簡単な事じゃない、と云う事だよ。何と云っても生身の人間なんだから、了見が変わる事だって無いとも云えないし、それにこの世の中、先に何が起きるか判らないし」
「でも、あたしは大丈夫なの」
 夕美さんは子供のような天真爛漫さで云うのでありました。「色々考えも変わったし、色んな人とも出逢ったし、高校生になってからは頑ちゃんが傍に居た訳でもないけど、でもあたしの気持ちは中学生だった頃と何も変わらなかったわ、頑ちゃんの事に関しては」
「中学生の頃から?」
「そう。天地神明に誓って、それは本当の事よ」
 夕美さんはそう云った後で少し気恥ずかしそうに頬を赤らめるのでありました。「あたし中学生の時から、間違いなく頑ちゃんと将来一緒になるんだって信じていたの」
 頑治さんはこれ迄の生の中で、これ程熱烈で、排他的で、独りよがりの、しかも蕩けるように心地の良いお惚気を聴いた事が無いのでありました。しかも自分を対象として、と云うのでありますから、もう、どう云う言葉を返して良いものやらさっぱり見当も付かずに、当座の反応としては唸るしか手は無いと云うものでありましたか。そんなにっちもさっちも行かなくなった頑治さんを尻目に夕美さんは続けるのでありました。
「運命、とか云う感じよ。あたしは中学生にして将来の自分の運命を知っていたの」
(続)
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あなたのとりこ 268 [あなたのとりこ 9 創作]

「大学院で科学、しかも色んな史学の中でもとりわけ唯物的な考古学をやっている研究者にしては、嫌に観念論的な見解だな。何となく夕美から、運命、とか云う言葉を聴くのは、尻の辺りがムズムズするような気がするけど」
 自分の秘かな松葉占いの件はすっかりさて置いて、頑治さんとしてはそんな揶揄をものすのが精一杯というところでありましたか。
「だからさ」
 夕美さんは頑治さんの茶々を無視して続けるのでありました。「あたしは、頑ちゃんとどんなに遠くに離れていても、頑ちゃんの声が何時も間近で聞けないとしても、でもそんなのに関わり無く、将来必ず頑ちゃんと結ばれるの」
 夕美さんはそう云って、別に照れる風でも無く頑治さんの顔を一直線に見てニコニコと笑い掛けるのでありました。何と云うタフさ、そしてまた、可憐さでありましょう。頑治さんは全く以ってタジタジと、且つ恍惚となるのみでありました。

 夕美さんはまた指先でヘアピンを弄ぶのでありました。
「今ね、県立博物館とウチの大学の考古学教室が協力して、田舎にある弥生遺跡の大掛かりな共同発掘調査の話しが進んでいるの」
「ふうん、そうなんだ」
 急に夕美さんがそんな話しを始めたものだから、頑治さんは恍惚の上の空から現実の夕美さんとの炬燵の差し向かいの場面に引っ張り戻されるのでありました。
「あたしが県立博物館でこの四月から働き始めると、その共同発掘調査の仕事に回される事になる筈よ。これはほぼ間違いないの」
「そりゃそうだろうな。夕美は博物館に就職する迄ずっと、共同調査する相手の大学の考古学教室に在籍していたんだから、博物館にとっても大学にとっても、他の誰よりも打って付けの担当と云う事になるになるだろうしね」
「そうね。そう云う点もあたしが博物館から期待されている部分でもある訳よ」
「また良いタイミングで博物館は夕美と云う人材を獲得したものだな」
「そうなるとね、・・・」
 夕美さんはヘアピンの尻で炬燵の上板をワルツのリズムのような三連打で、複数回軽く叩きながら続けるのでありました。「あたしは発掘調査が終わるまでこれから屡、多分年に二三回は、大学や文部省とかの担当課に、出張する機会があると思うの」
「へえ。それなら時々はこっちで逢える訳だ、上手くすると」
 頑治さんは指をパチンと鳴らすのでありました。
「そう云う事。だから例えばゴールデンウィークとか夏休みとかお正月とかにも、プライベートであたしが東京に出て来るとして、そうすると頑ちゃんとは少なくとも三か月に一回くらい、ひょっとすると二か月に一回くらいの割合で逢えるって云う算段になるんだけどね。そのくらいのペースで逢えるのなら、それは今迄のように逢いたい時に何時でも会える、という訳じゃないけど、でも、そんなに寂しくないかなって思うのよ」
(続)
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あなたのとりこ 269 [あなたのとりこ 9 創作]

「夕美が故郷に帰ったら、それで二人の仲は事切れと云う事じゃないんだ」
「勿論よ、少なくともあたしは」
「俺だってこれですっかりさようならと云うのは絶対嫌だし」
「だったらそうやって、この後もずうっと二人の関係を続けて行こうよ。この世の中には電話と云う利器もあるんだし、手紙と云う手段だってあるし、遠くに離れていたって二人が繋がる手立ては幾らでもあるわ、少しの不自由を我慢すれば」
 夕美さんの目に懇願の色が浮くのでありました。こうなると頑治さんとしては益々夕美さんへの愛おしさが募り募ると云うものでありますか。
「遠距離恋愛、と云うやつだな」
「そうね。そう云う仲も世の中では普通に成立しているようだし、そんなに稀な例でもなさそうだしね。でもそれがずっと続くのはちょっと困るけど」
「何か急に展望が開けたような気がする。そうやって離れても、俺達の仲が途切れる事はなさあそうだし。夕美が帰郷して、それが二人の別れだとばかり考えていたから」
「そんなヤワな関係を創って来た心算はないもの」
 夕美さんは頼もしそうに頷くのでありました。こうなるとあの松葉占いは無意味な仕業であったなと、頑治さんは心の内でニンマリと笑いながら舌打ちするのでありました。
 夕美さんは頑治さんなんかよりも遥かに大度で、柔構造の、しなやかで且つ強靭で、したたかでもある芯を持った人間のようであります。頑治さんとしては完全に畏れ入ったと云うところでありますか。大きくて強固そうに見えていた懸念がみるみる薄まったと云う少なからぬ安堵で、夕美さんの事を大いに見直している頑治さんでありました。
「頑ちゃんは、東京の生活を切上げて郷里に帰る、と云う選択肢は持っていないの?」
 夕美さんがほんの少しの間を取ってそんな事を訊くのでありました。
「そう云う事も考えない訳じゃないけど、でも現実感は無いかな」
「無神経な云い方になるけど、こっちに留まっている明快な意味はあるのかしら?」
「今ようやくこっちで仕事にありついたばかりだしねえ。・・・」
 頑治さんはそう云いながら夕美さんの質問にたじろいでいるのでありました。そんな事を云ってしがみついている程今の仕事が自分にとって、天職とは云わないまでも、やりたかった仕事でありましょうか。これ迄口に糊するためだけでやってきたその場凌ぎのアルバイトと、一体どれくらいの違いがあると云うのでありましょう。
「頑ちゃんはこっちで何がやりたいの?」
「何だろうかなあ」
 頑治さんの応えは曖昧にしかならないのでありました。
「こっちに居ないとやりたい事がやれない、という訳じゃないのなら、こっちでの生活をきっぱり清算して、向こうに帰って仕事を新たに見付けても良いんじゃないかしら?」
「それはまあ、そうだけど」
「ならばどうして、帰郷すると云う選択肢に現実味を感じないのかしら?」
 夕美さんは頑治さんの困じた顔を覗き込むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 270 [あなたのとりこ 9 創作]

「この不況下、向こうの方がこっちより仕事が無いだろう」
「まあ比較すればそうだろうけど、でも頑ちゃんなら屹度、上手く何処かの会社に就職出来るわよ。今の頑ちゃんがやっているような仕事なら、向こうにだってあれこれあるだろうし。何ならウチのお父さんに就職の事頼んであげても良いわよ」
「いやあ、それはどうかなあ。・・・」
 頑治さんとしては選りに選って夕美さんのお父さんに就職斡旋を頼むと云うのは、何とは無しに後ろめたい気がして及び腰になって仕舞うのでありました。
「それは別としても、頑ちゃんが向こうに帰ってくれると、あたしとしてはこんなに願ったり叶ったりの事は無いわ。まあ、全くあたしの勝手な希望だけどさ」
「敢えて向こうに帰らない理由を云うとすれば、・・・」
 頑治さんは夕美さんの持つアピンを見ながら云うのでありました。「向こうよりこっちの方が様々な人間が蠢いていて、そんな様々な人間達を見る事が出来るから、かな」
「何、それ。良く判らないけど」
 夕美さんはヘアピンを弄ぶ指の動きを急に止めて、頑治さんが云わんとしているところが上手く解せないと云うような困惑顔になるのでありました。「様々な人間性達が蠢いている様を見るために、頑ちゃんはこっちに残るって云う訳?」
「まあ、折角この世に人間として生まれたんだから、この世に居る色んな人間をより多く見てみたいと云う事だよ。何か茫漠とした理由にしか聞こえないかも知れないけど」
「向こうにだって色んな人達が居るじゃない」
「でもその、色んな、の辺りが、街が小さい分、こちらよりも限定的かな」
「それは人の多さから考えてそうかも知れないけど、でもこっちに居たって、出会う事の出来る人間達と云ったら、結局矢張り限定的にしかならないんじゃないの」
「現実はそうかも知れないけど、でも可能性として、ね」
 頑治さんは云いながら如何にも自分の言葉は歯切れが悪いと思うのでありました。
「でも、地球という視点に立てば」
 夕美さんは云った後、その自分の言葉が如何にも大袈裟過ぎると思ったようで、少し照れるような、恥じ入るような弱気な表情をするのでありました。「こっちでの可能性もあっちでの可能性も、殆ど無意味な程の僅差で、大した違いにはならないと思うわよ」
「そう云って仕舞えば、それ迄だけど」
 まあ、夕美さんの云っている事は間違いは無いのでありました。「でも中途半端でちゃらんぽらんで、嫌に楽天的かも知れないけど、向こうよりはこっちの方が色んな人間達と出会えるチャンスが大であると云う前提は、俺としてはなかなか捨て切れないんだよ」
「だったらいっその事、放浪者にでもなれば良いのよ」
 夕美さんの言葉には頑治さんの考えに対する揶揄が込められているのでありましたが、頑治さんは腹は立たないのでありました。慎に得たり、と云う指摘でありますから。
「尤も、そう云ってみれば確かに、頑ちゃんには放浪者の雰囲気があるにはあるわね」
 夕美さんはその後に付け加えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 271 [あなたのとりこ 10 創作]

「放浪して、行く先々でいろんな人に出会うと云う事か。それも悪くないかな」
 自分が云った不用意な一言で頑治さんが満更でもない気になった様子に、夕美さんは少したじろぐような表情をするのでありました。
「あ、だめよ、本当に放浪になんかに出ちゃ。ほんの冗談で云っただけなんだからね。頑ちゃんに放浪に出られたら、益々二人が一緒になるのが遅くなっちゃうんだから」
「まあ、俺もそれ程能天気なヤツと云う訳でもないよ」
 頑治さんはふと前に会社に居た刃葉さんの事を思い浮かべるのでありました。刃葉さんもある種の放浪者の一人なのかも知れません。
「それなら良いけど。頑ちゃんならやり兼ねないと思って心配になっちゃって」
 夕美さんは決まり悪そうに笑うのでありました。「でもまあ、良いわ。放浪に出て音信不通にならないで、あたしが時々東京に出てき時には必ず会えると云うのなら」
「それは保証する。俺も夕美に逢いたいし」
「でも頑ちゃん、・・・」
 夕美さんはまた頑治さんの顔を覗き込むのでありました。「色んな人達と知り合いになったり友達になったりして、頑ちゃんはその先に何をしたいのかしら?」
「別に友達になると云う訳じゃないよ。敵対する知り合いと云うのもあるし。ただ要するに色んな人間を実見してみたいんだよ」
「つまり観察者、ね」
「まあ、そっちの方が近いのかな。そう云うヤツは如何にも人が悪そうで、あんまりスカッと爽やかで格好良い存在、という感じじゃないだろうけど」
「で、結局、色んな人達を観察して、その後に頑ちゃんは何をしたいの?」
「いや別に、・・・後の事は何も考えていないよ」
「壮大な人間ドラマを書く、とか云う野望でも、ある訳?」
「いやあ、それはどんなもんかなあ。第一俺には物語なんかの構成力とか、大した文才なんと云うものはからっきし無いからねえ」
 頑治さんは情けなさそうな顔をして見せるのでありました。
「そうでもないんじゃないの。本とかあたしなんかより一杯読んでいるし」
「それとこれとは全く違うものか、或いは無関係な嗜好に属する話しじゃないかな。まあ精々ずうっと先に、歳を取ってから、世の中の色んな機微に生半可に通じている、落語の横丁のご隠居さん程度になれれば、それはそれで御の字と云う辺りだな。まあこれは一種の比喩で、別に将来、本気で落語のご隠居さんを目指している訳じゃないけど」
 ここで夕美さんは今の頑治さんの言葉に触発されて、頑治さんのご隠居さん姿を頭の中でふと想像したのか、クスッと吹くのでありました。
「頑ちゃんがこっちに居る事に拘る理由は、あたしには今一つ理解できないけど、でもその志望が一区切り付くまで、頑ちゃんの意向を尊重して黙って見守る事にするわ」
 夕美さんは意外にあっさりとそう云って笑うのでありました。勿論その笑いには諦めと寂しさの色合いも濃く含まれている事を、頑治さんは充分感知するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 272 [あなたのとりこ 10 創作]

 その日は池袋で友達と会う約束になっているからと、夕美さんは夕方に頑治さんのアパートを出るのでありました。頑治さんは地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅まで送っていくのでありましたが、改札を入ってホームに降りる階段に向かう夕美さんの背を見ながら、夕美さんがこっちを引き払う三月下旬まで、あと何回逢う事が出来るのだろうかと考えるのでありました。頑治さんは急に寂しさがこみ上げて来るのでありました。
 思えばそれ程迄に頑治さんが東京に残る事に拘る理由は、何処にも無いような気がするのであります。自分も夕美さんと一緒に故郷に戻る事が出来ない筈はないのであります。まあ、一つあるとすればそれはゴタゴタとしている会社の事でありましょうか。
 山尾主任が辞めてその後の展開も未だ不透明で、会社の形態がこれからまた大きな変更を迫られるのは必至であります。労働組合結成の事もこの先どうなるのか全く見当もつかない在り様でありますし。そんなタイミングの今、帰郷するからと自分もスタコラ会社を辞めるとなると、これはもう身勝手との誹りを免れ得ないでありましょう。
 駅から一人アパートに戻ってみると、炬燵の上に先程夕美さんがしきりに弄んでいたヘアピンが残されているのでありました。特段髪を留めるのに必要無かったから、その儘忘れて行ったのでありましょう。頑治さんはそれを取り上げると、暫く掌の上に載せて眺めるのでありました。それから大事そうに握り拳の中に仕舞うのでありました。

 山尾主任が辞表を出した後の最初の神保町の貸会議室での組合結成会議での議事は、新しい人事案の承認から始まるのでありました。これは当然の事でありますか。
 その前に山尾主任も同席して全総連の横瀬氏と派江貫氏、それに来見尾氏の三人に山尾主任自ら会社を辞めるに至った経緯を説明し、途中退場する無念を表し、無責任を重苦しい口調で詫びるのでありました。三人は先ず驚きを表明すると共にその後の山尾主任の口述を、山尾主任の重苦しい口調に同調したかのように苦虫を噛み潰したような表情で聞いているのでありました。山尾主任の個人的な切羽詰まった事情がその辞意の根っ子であるために、三人は口を挟まず只管黙して、視線の遣り場に困っている風でありましたか。
 挨拶を済ませた山尾主任が帰って後に袁満さんが最初に口を開くのでありました。
「と云う訳で、山尾主任が抜けた後の役員ですが、俺が新しく委員長に就任して、書記と会計、それに執行委員は元の儘と云う事に決めました」
「と云う事は、副委員長は居ないのかな?」
 袁満さんの言葉を受けて横瀬氏が袁満さんにだけにと云うよりも、社員五人総ての顔を順送りに見渡しながら訊ねるのでありました。
「そうですね。一応そう云う風に決めました」
 この袁満さんの言の後に均目さんが空かさず云い足すのでありました。
「少人数ですから、態々副委員長と云うポストは必要無いと思いますので」
「執行委員が二人いる訳だから、その内の一人を副委員長にして、役職を全員で分担する方が何となく落ち着きが良いのじゃないかな」
「いや、副委員長職を省く方が格式張らないであれこれと機能的になると思います」
(続)
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あなたのとりこ 273 [あなたのとりこ 10 創作]

 均目さんは即座に反論するのでありました。
「弁も立つようだし、均目さんが副委員長と云う事にすれば?」
 横瀬氏がどう云う心算か半笑いの顔でそう促して見せるのでありました。
「いやいや、俺は執行委員の儘の方が良いですよ。会社での年季や年齢から見ても、俺が副委員長と云うのは僭越と云うものですし」
 均目さんとしては自分がここで副委員長に就任ずるとなると、ひょっとして若しまた袁満さんが抜けるような事があった場合、今次の人事の前例からしても自分がその次の委員長に就任する羽目になると云う事で、それはまっぴらご免蒙りたいと云う目論見から副委員長就任を回避したいのでありましょう。均目さんの副委員長就任と云う案も悪くはないと頑治さんは思うのでありましたが、当の均目さんが、その秘かな魂胆の正統性は置くとしても、固辞の意向であると云うのなら、竟々出て仕舞う苦笑は禁じ得ないとしても、敢えて頑治さんが進んで副委員長に推挙する気も謂れも無いというものでありますか。
「委員長と副委員長は製作と営業からと云う当初の意向だったけど、均目さんの固辞でそれが崩れたとなると、それでは出雲さんはどう?」
 横瀬氏が出雲さんの顔を見るのでありました。
「えっ、俺っスか?」
 急にお鉢が回って来た出雲さんはたじろぐのでありました。「俺は一番歳が若いし、組合活動に関して、この中で誰よりも疎い人間っスから、絶対ダメ、っスよ」
「まあ、当該の中で袁満さんが新委員長で他は現職に留任と一決したんですから、それを尊重して貰って、当面はそう云う事で行きましょうよ」
 これ以上副委員長ポストの件で揉めるのは自分に不都合と恐らく踏んだものだから、均目さんが横瀬氏にそれを黙って呑むように言葉を押し込むのでありました。
「愈々組合が発足となった時に正式な人事を決めれば良い事なんだから、当面は当該の決定を尊重する事にした方が何かと無難でしょうねえ」
 派江貫氏が横瀬氏に横から進言するのでありました。
「それもそうかな。組合結成公然化と春闘要求提出までもう間が無いから、ここで役職の件で時間を使うのも確かに勿体無いし、無意味な気もするかなあ」
 横瀬氏も同意のようでありました。恐らく横瀬氏も派江貫氏も山尾主任が抜けて組合結成そのものが空中分解しなかった事に、秘かに安堵しているのでありましょう。依ってここで変な横槍を入れるのは避けた方が賢明と云う判断でありましょうか。
「ではこの前までの会議で要求の大まかなところは決まったので、それを詰めていきましょうか。ええと、新たな全従業員に適応される賃金式を導入するんでしたよね」
 横瀬氏が議事進行を促すのでありました。
「そうですね。では早速」
 ここで袁満さんが口調を改めるのでありましたが、初の進行役と云う事で多少の緊張と気負いがあるせいか、何時ものくだけたもの云いではなく格式張った物腰であります。「ええと、書記の那間さん、新しい賃金式の案をここでもう一度浚ってください」
(続)
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あなたのとりこ 274 [あなたのとりこ 10 創作]

「そんなに形式張って改めて繰り返す事も無いと思うけど、・・・」
 那間裕子女史は少し面倒臭そうにそう独り言ちてから続けるのでありました。「ええと基本給は十四万円プラス、年齢マイナス十八に五千円掛けたもの。で、この式に全従業員の賃金が当て嵌まるようにすると云う事がほぼ決定事項ね。五千円と云うのが定昇分で、ウチでは誰も関係ないけど十八歳の人が十四万円と云う事になる訳ね。それで以って現状の賃金がその式に満たない場合はその分を各自に補填する、と云うのがあらましと云う事になるわね。その補填分は人に依ってばらつきがあると云う事になるわ。小規模単組連合の要求式とは違うウチ独自の要求だけど。まあ、来年からは小規模単組連合に合わせる事になるわ。これが、全員がこれまでの話し合いの中でほぼ納得しているところだわね」
 那間裕子女史はそこ迄云って一息吐いてまた続けるのでありました。「それと夏の一時金要求は、基準内賃金の三十割に一律五万円プラス。で、保留になっていたのが基準内賃金の内容で、基本給に役職手当を加えるかそれとも家族手当を加えるか、或いはその両方入れるかで意見が分かれている、と云うのがこれまでの経緯と云う事になるかしら」
「役職手当にしろ家族手当にしろ、山尾主任が居なくなったんだから、現組合員の中では該当者は誰も居ない訳だけどね」
 均目さんが茶々のようなそうでないような事をものすのでありました。
「でも全従業員に適用するんだから、片久那さんや土師尾さん、それに日比さんの事も考慮しないとね。甲斐さんは独身で無役だから関係無いけど」
「役職手当を外すと土師尾営業部長や片久那制作部長の反発が屹度あるよなあ」
 袁満さんが悩ましそうに呟くのでありました。
「土師尾さんはどうでも良いけど、片久那さんの反感を買うのは得策じゃないわね」
 那間裕子女史が頷くのでありました。
「片久那制作部長が今現在貰っている額と、俺達の新しい賃金式で計算した額とではどっちが多くなるんだろうかな」
 袁満さんが首を傾げるのでありました。
「はっきりは判らないけど、役職手当と家族手当、それに勤続手当や毎月の残業代とかあれこれ含めると、年収ベースでトントンか少しアップと云うところじゃないかな」
 均目さんがそんな推察を述べるのでありました。
「そんならあんまり問題は無いか」
 袁満さんが少し口元の緊張を緩めるのでありました。
「いやあ、なかなかの業突く張りだからそれじゃ全く不本意かも知れないわよ」
 袁満さんのこの甘い観測に対して、那間裕子女史は不同意のようでありました。
「でも、俺達従業員の賃金の底上げと云う辺りに、少しは義侠心を働かせるのじゃ?」
 袁満さんは聞きように依ってはより甘い呑気な観測を披露するのでありました。
「そりゃあ、自分の取り分に満足した上でなら、義侠心も発揮するかも知れないけど」
 那間裕子女史の方は皮肉な笑いを披露するのでありました。
「でも、抑々組合結成は片久那制作部長のためにやる訳じゃないし」
(続)
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あなたのとりこ 275 [あなたのとりこ 10 創作]

 均目さんが袁満さんと那間裕子女史の間に割り込むのでありました。「まあ、片久那制作部長の気分には戦々恐々、と云ったところは俺達全員に、あるにはあるけれども」
「そんなに恐れているのなら役職手当を基準内に入れて置く方が無難じゃないの」
 派江貫氏が揶揄するような云い草をするのでありました。
「まあ、従来から役職手当を加えた額でボーナス、じゃなかった一時金を計算していたんだし、役職手当を加えると云う事で纏めた方が良いんじゃないの、ここは」
 袁満さんが大した問題じゃないんだからと云った一種野放図な感じで、さっさと結論を付けて仕舞いたそうにそう提案するのでありました。
「家族手当はどうするんですか?」
 均目さんがその野放図さに少し苛々したような口調で訊ねるのでありました。
「役職手当も家族手当も、となるとなかなか社長は呑みにくいでしょうね。片久那さんと土師尾さんにしたら、内心その方が嬉しいかも知れないけど」
 那間裕子女史が難色を滲ませるのでありました。
「何れにしても現在の俺達には役職手当も家族手当も関係無いんだから、態々ここでああだこうだと議論をするよりは、簡単に役職手当にしといて良いんじゃないのかな」
 袁満さんはこれまた呑気な意見をものすのでありましたが、これは一時金なるものがどのような性格を持つのかその意味に関わる事で、面倒臭いからと議論を打ち切るのは、何やら労働組合の会議にしては軽率なような気が頑治さんはするのでありました。
「要求提出迄そんなに時間がある訳じゃないから今紛糾するよりはその問題は今後に、と云う事にして今回は基準内は基本給プラス役職手当と云う線で行く方が良いかな」
 来見尾氏が誘導的に操提案するのでありました、労働組合の元締め側の人が一時金なるものの性格をはっきりささるよりは、ここは袁満さん同様、先を急ぐ方が得策と考えるようでありますから頑治さんの一言の出番は消滅するのでありました。
「じゃあ、決を採ろう」
 袁満さんが提案するのでありました。「役職手当を加算する方に賛成の人は挙手」
 真っ先に勢い良く手を挙げたのは決を採ろうと発議した当人たる袁満さんで、その後に出雲さん、那間裕子女史、均目さんと続き、最後に頑治さんが、敢えてここで反対の声を挙げても仕方が無いだろうと、皆よりは威勢悪くじわりと挙手するのでありました。
「全会一致で基本給プラス役職手当を一時金や時給算定の元になる基準内とします」
 袁満さんが宣すると空かさず派江貫氏と来見尾氏が、良し、と小声で発声するのでありました。この手の会議での労働組合的合いの手に未だ慣れていない初心な従業員五人は、声を出す期を逸してモジモジと居心地悪そうに居住まいを正すのみでありました。

 会議の後、外部の三氏を除いた社員五人で、那間裕子女史の発案に依り神保町駅近くの居酒屋に立ち寄るのでありました。誰も明快にそう云いはしないものの、山尾主任が欠けた後の初会議が滞りなく終了した事の祝杯、と云う意味合いでありますか。それに山尾主任の居ない五人で酒席を囲むのはひょっとしたら初めての事でありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 276 [あなたのとりこ 10 創作]

「初めての議長役にしては、なかなか手際が良くて堂に入っていたわよ」
 生ビールで乾杯の後那間裕子女史が袁満さんを持ち上げるのでありました。
「いやあ、あたふたしていましたよ」
 袁満さんは満更でも無い顔で照れるのでありました。
「いやいや、見ていて心強かったですよ」
 均目さんが敬服の一礼を冗談交じりながらして見せるのでありました。
「何とか今日で提出する要求の具体的な内容は大概決まったから、後は清書して正式な要求書を作る作業と云う事になるかな。ようやくこぎつけたと云う感じだよね。でも未だ色んな仕事が残っているから、提出日迄それを着々と熟していかないといけない」
 袁満さんは今日の自分の振る舞いの成功に驕らないで次を見据えるのでありました。山尾主任が欠けた事によって袁満さんも急に頼もしくなったと頑治さんは感心するのでありました。新しく作ろうとしている労働組合の、未だ暫定的ではあるものの、リーダー格になった事実への自覚と云うのか覚悟と云うのか、それが生まれたのでありましょう。
「労働組合結成に一人だけ突出して前のめりだった山尾さんが抜けた後、どうなる事やらって思っていたけど、まあ、袁満君が頑張ってくれそうだから安心したわ」
 那間裕子女史は袁満さんのグラスにビールを注ぎ入れるのでありました。
「そう云いますけど、俺の力量は山尾主任に遠く及ばないんだから、那間さんを始めとして皆が一緒に助けてくれないとどうにもならないですよ」
「でも袁満君には山尾さんみたいな狭量さとか、人に対する時の身構えとか、棘みたいなものが無いから、今考えると委員長と云う役職に適任なのかも知れないわ」
「でもそれが労働組合の委員長たる者の資質として、適当かどうかは判りませんよ」
「少なくとも内部を纏めると云う意味では適当と云う事じゃないですかね。まあ、外に向かっては多少物足りないところもあるかも知れないけど」
 均目さんが持ち上げるような持ち上げないような事を云うのでありました。
「その辺、唐目君はどう思うかな?」
 袁満さんが頑治さんの顔を見るのでありました。
「袁満さんは穏やかな人柄ですし、そう云う人がリーダーなら端から相手の反発を生まないと思いますね。そう云うのは、交渉事に於いてはプラスに働くんじゃないですかね」
「出雲君はどう思う?」
 袁満さんは今度は出雲さんの方に顔を向けるのでありました。
「俺も唐目さんと同意見っスよ。始めから天敵みたいだと話しが進まないだろうし」
 出雲さんは口に付けていたグラスを少し離して云うのでありました。
 袁満さんは皆の評価を聞く事に依って要するに自己確認したいのでありましょう。これは逆に云えば自信の無さが心根の奥に蟠っているためでありまあしょうが、それは未だ仕方の無い事でありましょう。袁満さんにしたら組織のリーダーと云う仕事は、恐らくは初めての経験なのであろうし、今後にあれこれ実績を積んで貰うしか無いでありましょう。まあ、でも、取り敢えず滑り出しは大いに無難に熟したと云うところでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 277 [あなたのとりこ 10 創作]

「ところで袁満君、仕事の方はどうよ?」
 那間裕子女史が話題を変えるのでありました。
「全国の得意先を掌握して去年の売り上げとか、どの商品がどのくらい動いたかをちゃんと整理するだけでも大変ですよ。今の内は出雲君が未だ新しい仕事に動き出していないから、色々手伝って貰えるけど、一人で全国を熟すとなると見通しも立ちませんね」
「二人で回っていたところを一人でやる事になったんですからね」
 出雲さんが労うような云い方をするのでありました。
「出雲君の方は未だ全く動き出していない訳?」
「日比課長が未だ新しい仕事で動けないようですから」
「日比課長にしたら山尾主任が抜けて目算違いが生じたから、到底新しい仕事どころではないだろうな。もう一人の営業担当は相変わらずちっとも仕事をしないし」
 均目さんが敢えて土師尾営業部長への皮肉を込めるのでありました。
「そう云えば何か最近頓に、直行直帰が増えたよなあ、土師尾営業部長は」
 袁満さんが鶏の唐揚げに箸を伸ばすのでありました。
「一生懸命忙しくしている振りをしているんでしょう」
 均目さんが苦笑するのでありました。
「あの人の直行直帰は正真正銘のサボリだからなあ。前からそんな風だったけど」
 袁満さんも唐揚げの入った頬を膨らませて苦笑うのでありました。
「急用で連絡を取ろうと直行先に電話を入れたら、今日は来る予定は無いと云われたり、「上野の得意先に行った筈が、今上野駅だけど遅くなったので直帰すると云う電話がホームの公衆電話から入って、偶々後ろに流れている場内アナウンスを聞くと築地駅のものだったり、とか云う類の話しは袁満君からも甲斐さんや日比課長からも間々聞くわね」
 那間裕子女史が鼻を鳴らすのでありました。
「あの人はよく築地に行っているけど、築地に何の用があるんだろう?」
 袁満さんが疑問を呈するのでありました。
「本願寺があるからそこにでも行っているんでしょうね」
 均目さんが推察を述べるのでありました。
「ああ成程ね」
 袁満さんが納得するのでありました。「と云う事は、全く仕事とは関係ない訳だ」
「そうなりますねえ」
「俺も直帰の電話を貰って、浅草駅からだと云う事だったけど、矢張り丁度ホームのアナウンスが入って来て、それを聞くと市川とか云っていたっスよ」
 出雲さんも土師尾営業部長の疑念の多い行為を披歴するのでありました。
「市川と云うと、あの人の自宅のあるところだな」
「それは偶々、うっかり市川に帰って来てから電話をしたと云う事もあるだろう」
「そんなら今市川だけど、と云えば良いし、終業時間の一時間も前に、もう自宅のある市川に居るとなると、これは一時間以上サボっていると云う事でしょう」
(続)
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