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あなたのとりこ 253 [あなたのとりこ 9 創作]

 均目さんが頑治さんの傍に遣って来るのでありました。
「何だか急展開だな」
 均目さんはやや上擦った声で話しかけるのでありました。
「そうでもないだろう」
 頑治さんは陰鬱な声で応じるのでありました。「遅かれ早かれこうなるだろうとは予想していたじゃないか、均目君も俺も。違うかな?」
「まあ、そうだけど。・・・」
 均目さんは眉根を寄せて頑治さんから視線を外すのでありました。丁度そこで出入口のドアが開いて、袁満さんが慌てた様子で入って来るのでありました。
「いやあ、人身事故で電車が止まって仕舞って参ったよ。遅刻だ遅刻、・・・だ」
 袁満さんは自分の呑気そうな声が事務所内の重苦しい空気に溶けないのに気付いて、戸惑ったように語尾を窄めるのでありました。見ていると、席に着いた袁満さんに出雲さんが今ここで起きた事件について小声で説明をしているようでありました。
 電話が鳴るのでありました。
「ああ、日比さん」
 受話器を取った甲斐計子女史の声が妙に大きく響くのでありました。電話の様子で、得意先に直行した日比課長が、先方で待ち合わせる手筈になっていた山尾主任がちっとも現れないので、どうかしたのかと確認の電話をしてきたようでありました。こちらも甲斐計子女史が今さっきの事件について日比課長に説明しているのでありました。
「思っていたより追い詰められていたと云う事かな」
 均目さんが声を潜めて頑治さんに云うのでありました。
「まあ、そうかな」
 頑治さんは向かいの席の甲斐計子女史の手前、多くを語らず曖昧に返事するのでありました。そんな頑治さんの一種の用心を察して均目さんは頑治さんに、後で、と云うような目配せをしてからマップケースの向こうの制作部スペースに戻るのでありました。
 また電話が鳴って、今さっき日比課長からの電話を切った甲斐計子女史がまた受話器を取るのでありました。これは取引先からの仕事の電話のようで、土師尾営業部長が席を外しているので後程こちらから電話をかけ直すとか応答しているのでありました。立て続けにもう一本電話の呼び出し音が響くのでありましたが、これには袁満さんが出るのでありました。ようやく何時もの朝の事務所の風景に戻ったと云う感じでありますか。
 頑治さんは席を立って倉庫の方に向かうのでありました。事務所のドアを押し開けて前の階段を二階と三階の踊り場迄下りた時に、下から階段を慌てて駆け上がって来る那間裕子女史と出くわすのでありました。例に依って大幅な遅刻であります。
「お早いお着きで」
 頑治さんは冗談口調の皮肉を以って朝の挨拶に代えるのでありました。
「今日は珍しく早起きして家を出たんで間に合うと思ったんだけど、こういう日に限って人身事故で電車が遅れるのよ。全くついていないわ」
(続)
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あなたのとりこ 254 [あなたのとりこ 9 創作]

 擦れ違いざまに那間裕子女史はそんな事を云って事務所に急ぐのでありました。色んな鉄道路線で今日は人身事故流行りのようであります。
 途中、二階の社長室のドアを見るのでありました。勿論中の気配は窺えないのでありましたが、あの中で今恐らく陰鬱な話し合いが展開されているのでありましょう。

 那間裕子女史は態と、と云った風に少しばかり荒けない音を立ててコーヒーカップを受け皿の上に戻すのでありました。それから不機嫌そうに向いの席の山尾主任から目を背けて、これも態と小さな溜息を吐きながら横を向くのでありました。
 御茶ノ水駅近くの喫茶店で甲斐計子女史と日比課長を除く従業員で、定例の組合設立会議とは別に緊急に会合がもたれるのでありました。
「皆には本当に済まないと思っている」
 山尾主任が消えも入りそうな声で呟くように云うのでありました。
「全くよ。今こう云うのは酷かも知れないけど無責任よ」
 那間裕子女史がそっぽを向いたままで吐き捨てるのでありました。
「まあまあ那間さん、山尾主任にも止むに止まれない事情があったんだろうし」
 横に座っている均目さんが那間裕子女史の項に向かって宥めるのでありました。那間裕子女史を挟んで均目さんと頑治さんが横に並んで座っていたので畢竟、均目さんは那間裕子女史の項に話し掛けるような風になったのであります。と云う事は当然、那間裕子女史の顔は頑治さんの方に向いた訳であります。しかし女史の視線は頑治さんを遥か飛び越えて、そのずっと先の方に向いているのでありました。そこには那間裕子女史の目を惹くようなものは特に何も無い、と云うのは敢えて断わる迄も無い事でありましょうが。
「俺も悩んだんだ。でも、もうこれ以上堪えられなかったんだよ」
 山尾主任は眉根を寄せて、深刻そうにテーブルの上の自分のコーヒーカップに視線を落とした儘、身じろぎせずにカチカチに固まった様子で云うのでありました。
「新しく就いた仕事に、と云う事ですかね?」
 袁満さんが気遣うような声で訊くのでありました。
「それもあるし、プライベートでも、・・・」
 山尾主任の陰気な声がテーブルの上に蟠るのでありました。プライベート、と云うのは勿論、山尾主任が山に行っている間に新妻さんが家を出て実家に帰った経緯を差すのでありましょう。袁満さんはその事を未だ知らないようであります。
 那間裕子女史もプライベートと云われるとそれ以上の非難の言葉を重ねにくそうでありました。遠くに向いていた女史の視線が頑治さんの目に向けられるのでありました。その目が困惑を頑治さんに伝えようとしているのでありました。
「考え直す余地は無いでしょうかね?」
 袁満さんが山尾主任に問うのでありました。
「考えた末の事だし。それにもう辞職願を出してしまったし」
 山尾主任の決意は翻らないようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 255 [あなたのとりこ 9 創作]

「辞表を出す前に我々に相談する事は、考えの他だったのでしょうかね?」
 均目さんが遠慮がちに訊ねるのでありました。
「これは自分一人で考えて、考え抜くべき問題だからね」
 山尾主任は決然とそう云うのでありましたが、本当に考え抜いたのかどうか、頑治さんは山尾主任のその云い草を聴きながら少しく不審を覚えるのでありました。と云うのも、酷な云い方になるのかも知れませんが、山尾主任は一種の悲壮感とか潔さとか云う気分に酔っているのではないかと云うような気が、ふと兆したからであります。
 それに、考え抜く筈が途中で考えるのが億劫になってやけを起こして考える事を止めたがための短絡として、今の自分の抱え持つ状況を一切合切放擲して仕舞うと云う方法を選び取ったのではないでありましょうか。前に均目さんが、山尾主任の新妻さんが家を出て実家に帰ったのは山尾主任が山に遁走した故と云ったのでありましたが、あの時は山に、そして今度は会社を辞めると云う選択に只管縋り付いて、今の苦境を固く目を閉じて遣り過ごそうとしているちっとも潔くない営為と云う風に見えて仕方が無いのであります。まあそれは兎も角として、情に於いて色々と気の毒に思うのは勿論ではありますけれど。
「組合の方はどうなるのかねえ?」
 袁満さんが溜息を吐くのでありました。
「それは副委員長の袁満君を中心に、新しい体制でやっていって貰うしかないかな」
 山尾主任はか細い声で云って俯くのでありました。
「そこが無責任と云うのよ」
 那間裕子女史が俯いた山尾主任の旋毛に向かって云い立てるのでありました。「抑々と云うもの、労働組合を創ろうと云い出したのも、誰にも相談せずに独断で全総連に話しを持って行ったりしたのも、当の山尾さんじゃないの」
 那間裕子女史に詰られて山尾主任は痛々しそうに身を縮めるのでありました。
「今更それを云い出したって無意味じゃないか。それより、先を考えようや」
 均目さんが那間裕子女史の怒りの消火活動を担うのでありました。確かにこの期に及んで縷々、山尾主任に何時までも怒りをぶつけていても埒が明かないと云うのは判るので、那間裕子女史は不愉快そうな顔はその儘ながら嘴の方は噤むのでありました。
「山尾主任が抜けても、組合は創るんだよね?」
 今この状況で那間裕子女史に話し掛ける事に袁満さんは何となく及び腰になっているようで、均目さんの方に念押しするような云い草で確認するのでありました。
「事がここまで動き出して仕舞った以上、今更後には引けないでしょう」
「それはそうだよなあ。全総連との兼ね合いもあるしなあ」
 袁満さんはまた大きな溜息を吐くのでありました。
「矢張りここは、結成迄は袁満さんを新しい委員長として、新体裁で組合創りを継続する事になるでしょうね。結局それしか無いもの」
「どうしても俺が委員長になるのかい?」
「それが順当だし、そう云う不測の事態に備えての副委員長でもあるし」
(続)
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あなたのとりこ 256 [あなたのとりこ 9 創作]

 均目さんが袁満さんの退路をやんわりと断つのでありました。
「でも、山尾主任がここで抜けるなんて思いもしなかったし、俺は元々そんな風に順送りに委員長になるなんて考えもせずに副委員長を引き受けたんだけど」
「それは色んな若しもの事態を考えなかった袁満君の迂闊よ」
 那間裕子女史が潔くない袁満さんに少し苛々したような口調で云うのでありました。
「そうは云われても、なあ。・・・」
「じゃあ、皆の決を採りましょう」
 均目さんも往生際の悪い袁満さんに少し焦れたようでありました。「出雲君は袁満さんが新しい委員長になる事に賛成かい、反対かい?」
「まあ、袁満さんで良いんじゃないっスか」
 出雲さんは袁満さんの心根を憚ってか、大賛成という訳ではないけれど、かと云って反対ではないと云った曖昧さを口調に籠めるのでありました。
「唐目君はどうだい?」
「袁満さんが委員長になるのが順当と云えば順当かなあ」
「那間さんは?」
「袁満君で問題無いと思うわ」
「俺も賛成だな」
 那間裕子女史の返答に頷いてから均目さんが最後に意志表明するのでありました。「これで当の袁満さんを除いて全会一致ですよ」
 均目さんが詰め寄るのでありました。
「俺なんかより弁の立つ均目君辺りが適任だと思うけどなあ」
 袁満さんはここに来て未だ気後れを表明しているのでありましたが、他の四人がそれを許してくれそうにない気配である事は重々判っているような口調ではありましたか。
「大丈夫ですよ。四人でしっかり支えますから」
 均目さんが受諾表明を迫るのでありました。「こうなったらもう、四の五の云わないで、きっぱりと引き受けてくださいよ、袁満さん」
 何となく有無を云わさない迫り方であります。下手をして自分にお鉢が回って来るのを避ける秘かな魂胆から、均目さんは少々強引にここで袁満さんに委員長就任を迫っているのだろうと、均目さんの様子を見ながら頑治さんは推察するのでありました。
「仕様が無いかなあ」
 袁満さんはようやく諦めたようでありました。「でも委員長になっても、何をやったら良いのか俺はさっぱり判らないんだからね」
「大丈夫ですよ。何もかも袁満さんに責任を押し付けるような真似はしませんよ。俺達全員でちゃんと支えます。一応の体裁として委員長と云う役目が必要なんだから」
 均目さんの口調はここで懇願の色を濃くするのでありました。
「じゃあ判ったよ。体裁として一応俺が委員長になるよ」
「よろしくお願いします」
(続)
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あなたのとりこ 257 [あなたのとりこ 9 創作]

 この遣り取りを山尾主任は全く無言で傍観しているのでありました。しかし自分の抜けた後の委員長ポストが決まった事に一先ず安堵したような様子でありました。

 那間裕子女史が舌打ちした後で、手に持ったグラスに残っていたジントニックを一息でグイと飲み干すのでありました。
「全く無責任で好い加減なんだから」
 那間裕子女史は飲んだ後の吐息に乗せてそう吐き捨てるのでありました。
「山尾主任も相当に追い詰められていたんだよ」
 均目さんが宥めるように話し掛けるのでありました。「仕事でもプライベートでも」
「自業自得でしょう」
 那間裕子女史は寸分の同情すら見せないのでありました。
 緊急の会合の後、例によって那間裕子女史と均目さん、それに頑治さんの三人で新宿の何時もの洋風居酒屋で飲むのでありました。
「山尾主任は明日から会社に出て来ないんだよね?」
 頑治さんが均目さんに確認するのでありました。
「明日は出て来るんだろうな。あれこれ仕事の引継ぎなんかもあるだろうし」
 均目さんはそう云ってから近くを通ったウエイターに、那間裕子女史と自分の分のジントニックのお代わりを注文してから先を続けるのでありました。「明後日からは有給休暇の残りを消化すると云う名目で出てこないという事だったよね。で、辞める一月二十日の日に私物の整理もあるから出社すると云う話しだったけど」
「仕事の引継ぎと云っても、それは殆ど必要無いんじゃないかな。日比課長と一緒に動いていたんだから、日比課長が大体は掌握しているだろうし」
「ま、それでも明日は出て来るんじゃないの」
「出て来ても居辛いし、周りもどう接して良いのか困るし、仕事の引継ぎも無いのなら、明日も出社する意味なんか実のところは無いのよ。まあ、新しい仕事になって早々に逃げ出して仕舞う会社への引け目があるから、一応来るのかも知れないけど」
 若し山尾主任が聞いたら立つ瀬も無い居た堪れないような事を口角に上せながら、那間裕子女史が話しに加わるのでありました。
「那間さんは山尾主任に対して優恤の気持ちは微塵も無いのかな?」
 均目さんが首を傾げるのでありました。
「ま、色々気の毒には思うけど、でも、結局自分で招いた結果だもの」
「仕事が替わったのは山尾主任のせいじゃないぜ」
「そう云うけどさあ、制作の仕事で片久那さんの期待に応えるような仕事振りじゃなかった事とか、気質や性格の不一致のために片久那さんに何となく疎まれたのは、半分くらいは山尾さんのせいだと云う云い方も、まあ、出来るんじゃないの」
 那間裕子女史はまるで、大いに曖昧且つ、世間で屡使用されるところの夫婦の離婚理由のような事をものすのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 258 [あなたのとりこ 9 創作]

「それはマッチングのミスみたいなもので、山尾主任が悪い訳じゃない」
「じゃあ、奥さんに逃げられた点は?」
「それも山尾主任が一方的に悪い訳じゃないし、これも云ってみればマッチングのミスと云う事も出来るさ。ま、山尾主任が結婚を焦り過ぎたのもあるかも知れないけど」
「山尾主任は屹度、愛妻家になったと思うけどなあ」
 頑治さんが独り言のように呟くのでありました。
「確かに。でもちょっと重たい愛妻家かな」
 均目さんが首を傾げる動作を加えた曖昧な頷きをするのでありました。
「そうね。山尾さんの愛妻家振りは多分妙に鯱張っていて気が滅入るかもね。それに間違い無く、その当分の見返りを奥さんに心根の内で期待するだろうしね」
 那間裕子女史が賛同するのでありました。「あたしはそう云うのはまっぴらご免だわ」
「確かに那間さんに山尾主任は向かないだろうな」
 均目さんが笑うのでありました。
「こっちの方で始めからお断りよ」
 那間裕子女史はジントニックをグイと煽るのでありました。
「労働組合の方はどうなるんだろう」
 頑治さんが会話の流れの分岐を左に曲がるのでありました。
「さあ、どうなるのかねえ」
 均目さんが力なく笑ってまたもや首を傾げるのでありました。
「袁満君が委員長となると大分頼りなくなるわね」
 那間裕子女史がまたまたグラスを唇の上で急角度に傾けるのでありました。先程、八割くらいグラスの中に残っていたジントニックが、これで一気に残量五割を切るのでありました。何時もながらになかなかのハイペースであります。
「そう云うけど、那間さんは山尾主任もそんなに買ってはいなかったじゃないか」
 均目さんが未だ口を付けていないお代わりしたジントニックを持った手の人差し指のみをピンと伸ばして、那間裕子女史の方を指差して見せるのでありました。
「それは確かにそうだけど、でも未だ袁満君よりはマシかな。袁満君は労働運動に付いて基本的な知識すらとんと無いようだからねえ。山尾さんも認識が浅かったけど、自分が労働組合を率先して創ろうとした分、あれこれ学ぼうとする姿勢はあったみたいだし」
「そう云う那間さんだって労働組合とか労働運動に対して、大して深い認識を持っているとは云えないような気がするんだけど」
「そりゃあ、あたしも大した認識は持っていないわ。未だにあんまり関心もないし。だから間違いなく、あたしが委員長と云う線は無い訳よ」
「まあ俺も大して認識も興味も無いから、そんな七面倒臭い役割はご免だけどね」
「それで無責任に、袁満さんに委員長就任を何とか押し付けようとしたんだな」
 頑治さんが指摘すると均目さんは苦笑ってそれを肯うのでありました。
「そう云う億劫の前に俺は第一、全総連と云う組織に全くシンパシーを感じないんだ」
(続)
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あなたのとりこ 259 [あなたのとりこ 9 創作]

「そう云えば確かに、均目君の態度はそんな風だよなあ」
 頑治さんは納得する風を見せるのでありました。
「何でそんなに全総連が嫌いなの?」
 那間裕子女史が多少興味があるらしく均目さんの表情を窺うのでありました。
「あそこは何だかんだと抗弁していても、或る左翼政党と全く一体なんだよ」
「ふうん、そうなの?」
 那間裕子女史が少し口を尖らすのでありました。
「確かにそれは良く聞く話しではあるな」
 頑治さんが頷くのでありました。戦後すぐに出来て状況がその頃と一変しても未だにその頃の理念とかを振りかざす、国会でそこそこの勢力を誇る万年野党である事に甘んじている老舗政党とか、無節操なくらいに離合集散を繰り返すだけの自分達の都合最優先の政党ではないけれど、そういうのとは一線を画した事を売り物にしている、発する理念や政策が如何にも左翼的でげんなりするくらい潔癖で頑なで、それ故妙に胡散臭い印象のある政党の事を均目さんは云っているのでありました。その政党の政策とか在り方の良し悪しとは別に、好き嫌いで云えば頑治さんも好きな方とは云えない政党でありましたか。
「あそこは世間に売り出す目的で如何にも民主的で、正義と弱い者の味方として戦っていると云う表の顔と、俺に云わせれば、典型的に排他的で攻撃的で権力主義的な裏の顔があって、正体であるその裏の顔を隠すための方便として表の顔を技巧的に遣っているとしか思えないんだよなあ。お前等、実はそんなヤツ等じゃないんだろう、って云う感じ」
「それはどんな政治政党だってそうなんじゃないの?」
 那間裕子女史が首を傾げて見せるのでありました。
「そりゃあ確かに政党ならそう云う面も大なり小なり持っているし、それがある意味でその政党の奥深さにもなる訳だけど、あそこはちょっと度が過ぎているように思える」
「度が過ぎているって?」
「これは片久那制作部長が云っていたんだけど、例えば色んな集団が同じ目的の闘争を展開していたとしても、いざ共闘と云う話しになるとあそこは必ず裏切るらしい。それは同じ考えの様々な集団の中で、自分達がその運動のヘゲモニーを絶対握らないと気が済まないと云った邪な狙いがあって、他の集団を蹴落としに掛かろうとする了見らしいんだな。そのやり方がこれまた露骨で冷血で狡猾で、一片の愛嬌も愛想も無いと云う事らしい」
「それは片久那さんの学生時代の話しかしら」
「そうだね。闘争の中で主導権を握るためにはどんなことだってやるし、敵方に覇を争っている集団なり人間なりを売り渡すことだって平気でやりかねないみたいだぜ」
「それは悪辣だなあ」
 頑治さんが呟くのでありました。
「正義は自分達だけにあると云う考えに凝り固まっているから、自分達以外の仲間への裏切りを平気でやらかすし、それを屁とも思っていない。闘争によって何かを実現する事じゃなくて、その闘争の主導権を握るのがアイツ等の第一の行動目的なんだ」
(続)
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あなたのとりこ 260 [あなたのとりこ 9 創作]

「要するに盟主になりたい訳ね。でもなんでそんなに盟主になりたがるのかしら?」
 那間裕子女史が先程より少し角度を増して首を傾げるのでありました。
「反対派を自分達の下に纏める事で敵と取引するためさ。その取引に於いて仲間から出る否を強圧的に封じ込められるし、益々ヘゲモニーは強化されると云う寸法だ」
「取引、って何?」
「条件闘争の条件取引さ」
「何だか良く判らないわね。条件取引、って?」
「色んな政治課題の中で、ここは譲るから見返りにこれを寄越せとか、反対デモを終息させて反対派を封じ込めるから代わりに、こちらの出した条項を法案の中に盛り込めとか、まあ、そう云った条件の売り買いみたいな事だよ」
「それは政治の中では良くある事じゃないの?」
「確かにね。でもあそこの政党は自分達の利益最優先で、反対派の中の他の会派に涙を飲ませるような事を強圧的にやるんだ。若し内部で自分達の意向に背く団体や個人が在ったら、それを徹底的に弾圧する。本来の敵よりも酷薄にね。そのために主導権闘争には何をさて置いても全力を傾けるんだ。盟主の座を断固守るためなら何でもする」
「ふうん。そんなものかしらね」
 那間裕子女史は半信半疑と云った顔つきで頷くのでありました。
「そいで以って自分達の努力で、これこれこう云う成果を立派にかち取ったのだと意気揚々と喧伝するんだ。そのために犠牲にした仲間に一顧も与える事無くね」
 均目さんはそこで如何にも嫌悪丸出しの表情をして見せるのでありました。

 ジントニックを一口飲んで、均目さんは続けるのでありました。
「片久那制作部長なんかはあの政党が大嫌いだよ。名前を聞いただけで何か天敵を思い浮かべるみたいに憎悪を剥き出しにするな。さっき云ったような遣り口で学生運動のヘゲモニーを握ろうとしてくるから、色々煮え湯を飲まされたんだろうな。インチキ左翼と詰るのはその時の経験があるからだろうな。あの政党は右翼よりも憎いという感じだな」
「それは要するに左翼同士の内ゲバみたいな感じ?」
「いや、片久那制作部長に依ると路線とか闘争方針の違いとかじゃなくて、もう、裏切り者と云う規定じゃないかな。最も不謹慎で陰湿な贋左翼、と云ったところかな」
「ふうん。あたしにはそんなの、何となくピンとくる話しではないけど」
 那間裕子女史はここで手にしていたグラスをグッと空けるのでありました。「ところで均目君は、嫌に片久那さんの事についてあれこれ詳しいのね。あたしは片久那さんの大まかな経歴とかしか知らないけど、そんな話しを何時片久那さんとしているの?」
 那間裕子女史がそう聞いた時、一瞬均目さんがたじろぐような色を眼中に浮かべたのを頑治さんは見逃さないのでありました。
「ほんの偶に皆で飲む時があるだろう、その折にちょっと話すだけだよ」
 均目さんの口調は多少しどろもどろに聞こえない事も無いのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 261 [あなたのとりこ 9 創作]

「皆で飲む時って、片久那さんと均目君が二人で何やら話し込んでいるところなんか、あたしは見た事が無いように思うけどね」
 那間裕子女史は均目さんの言に疑わし気な気配を見せるのでありました。那間裕子女史も均目さんのたじろぐ眼容を見逃さなかったようでありました。
「後は会社で、山尾主任も那間さんも偶々外に出ている時に、とかさ」
「片久那さんは、自分からそんな事を均目君に話し掛けるような人ではないでしょう。会社では仕事と無関係の事は、なるべく喋らないでいるタイプの人よ」
「片久那制作部長も大概は無愛想にしているけど、あれでなかなか冗談を云ったりお喋りになる時があるんだよ。どういう気紛れからかは判らないけど」
「あたしや山尾さんにはそう云うところは見せた事が無いわね。均目君だけにそんなところを見せると云うのは、均目君が気に入っているからかしらね」
「那間さんや山尾主任は、政治性のある話は全く無関心だと思っているんだろう。俺は多少はその辺の興味もあると思われているんだろう」
「ふうん、そうかしらね」
 那間裕子女史は何となくの疑問をその今の均目さんの説明からは未だすっかりは拭えない、と云ったような色を濃厚に眉宇に残留させた儘、一応頷いて見せるのでありました。これはこれ以上片久那制作部長と均目さんの関係に興味が無いためでありましょうか。
「ところで山尾主任が抜けた後、特注営業はどうなるのかねえ」
 この均目さんの話題転換は、片久那制作部長と自分との関係に付いてこれ以上の追及を免れようとの魂胆からだと、取ろうと思えば取れなくもないのでありました。
「また前みたいに、土師尾さんと日比さんで受け持つんでしょう」
「そうすると出雲君と日比課長の新しい仕事の、地方特注営業はどうするんだろう」
 均目さんが渋面を作って見せるのでありました。
「都内営業と掛け持ちで、日比さんが面倒を見るんじゃないの。要するにその分、土師尾さんが前より少し多めに働けば良いのよ」
「あの人は余計な口出しはするけど、結局自分が楽をする事ばかり考えているんだから、少し多めに働くなんて、それは望むべくも無い要望と云うものだな」
 均目さんが失笑するのでありました。
「じゃあ、日比課長は益々大変だ」
 頑治さんが話しに加わるのでありました。
「そうだね。出雲君は特注営業はやったことが無いから、そっちの方面に関しては全くの素人だし、出雲君一人であれこれ考えてやるには荷が重過ぎるかな」
「今迄の出張営業にしても、そんなに意欲的に取り組んでいた風でも無いし」
 那間裕子女史が溜息を吐いてその後ほんの少しの間を置いてから、声を落として語調を変えて続けるのでありました。「でも、それより何より、あたしはここ最近、今度の人事異動にはもっと別の意図があるんじゃないかって考えているのよ」
 この女史の言に頑治さんは頷くところ大なのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 262 [あなたのとりこ 9 創作]

 頑治さんもこの、今年に入って早々の人事異動にはどことなく胡散臭さがあると思っていたのでありました。何としても売り上げを伸ばすための思い切った人事異動と云う触れ込みでありましたが、その唐突感も然りながら、新方策とやらとそのためのロスとの兼ね合いを、然程深く考察されたものとは思えないのであります。当初からそんな事とは全く別の、何やら隠された目論見が実はあるように思えて仕方が無いのでありました。
「要するに、山尾さんと出雲君を切り捨てようとしたんじゃないのかしら」
 那間裕子女史はそう云って頑治さんと均目さんを交互に見るのでありました。
「それでその二人に先ず、無理難題を押し付けたと云う事か」
 均目さんが興味を惹かれたように少し身を乗り出すのでありました。
「那間さんは何故その二人が選ばれたと考えたんですか?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「山尾さんは片久那さんに疎まれていたし、出雲君は一番若手で袁満君の二番手に自分でも甘んじていたから、切り捨て易いと考えたんじゃないかしら」
「では山尾主任は片久那制作部長の意図から、それに出雲さんは土師尾営業部長の意に依って、この二人が選ばれたと云う訳ですかね?」
「まあ、要するにそうなるかしらね。山尾さんも出雲君も、会社にとって絶対掛け替えのない人材、と云うのではなさそうだから」
 那間裕子女史はその後に慌てて付け足すのでありました。「勿論これは、片久那さんと土師尾さんが心根の内でそう見做しているだろうと云う意味で、だけどね」
「しかしそんな云い訳しても、両部長の了見とは云うものの、那間さんがそう推察する訳だから、那間さん自身もそう云う風に見做していると云う事になるよね」
 均目さんが少し意地悪そうに指摘するのでありありました。
「客観的に見て、そうじゃないの。均目君もそう思わない?」
 これには均目さんは無応答を決め込んで態度を曖昧にするのでありました。
「しかし片久那制作部長が、山尾主任を自分の配下から外す意図はあったとしても、土師尾営業部長と結託して、会社を辞めさせようとまでするとは考えられないですがね」
 頑治さんが那間裕子女史の説に異論を挟むのでありました。
「確かにね。山尾主任は、一応は今迄自分の配下の人間だったんだからね」
 均目さんが頑治さんの考えに同調するのでありました。「あれで片久那制作部長は男気とか義理人情を結構気にするタイプだから、土師尾営業部長と一緒になってそんな陰湿な悪企みはしないだろう。土師尾営業部長の方はやりかねないけど」
「山尾さんと出雲さんの二人を切ると云うのは、人件費の点を考慮して、先ずは切り易い二人を切ろうとした、という事になりますかね?」
 頑治さんが那間裕子女史の顔を見て質問を進めるのでありました。
「そうね。人件費の削減と云う意味が濃厚よね」
「だったら、どうせ切るのなら出雲さんじゃなくて、日比課長の方が効果は大きいんじゃないですか? 日比課長が我々従業員の中では一番人件費が高いでしょうから」
(続)
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あなたのとりこ 263 [あなたのとりこ 9 創作]

「それはそうだけど」
 那間裕子女史は少し応えに窮するような表情をするのでありました。
「確かに日比課長も、二番手と云う意味では土師尾営業部長の二番手には違いないけど、日比課長を辞めさせると土師尾営業部長は楽が出来なくなるじゃないか。日比課長を目一杯働かせて自分は楽をしようと云う心算なんだから、それでは困るだろう」
 均目さんが首を傾げるのでありました。
「だから制作部の山尾主任を営業にコンバートしたしたんじゃないのかな、要するに日比課長の挿げ替え要員として。つまり両部長の魂胆としては山尾主任じゃなくて、日比課長と出雲さんを狙った首切りを目論んだと云う風にも思えるんだけど」
「ああそうか。配下である山尾主任の切り捨ては片久那制作部長の義理人情が許さないけれど、日比課長となるとその辺は自分に云い訳が立つ。序に連動して出雲君も辞めて貰えれば、二人の二番手が居なくなる訳だから慎に好都合と云う判断か。山尾主任が営業に移れば、少し時間が掛かるとしても、土師尾営業部長は相変わらず楽が出来そうだし」
 均目さんが頷くのでありました。
「それで新規の地方特注営業とか云う仕事に二人を配置したと云う訳ね」
 那間裕子女史も納得気に頷くのでありました。
「と云う事は、地方特注営業と云う仕事は、始めから新規の営業として力を入れる心算は無かったと云う事か。目論見としては二人を辞めさせる事が狙いで、そのための口実としてそんなまことしやかな新規営業形態を思い付いたと云う事になるな」
 均目さんが義憤に駆られたような云い草をするのでありました。
「若しそれが本当なら、陰険な遣り口ね」
 那間裕子女史が顔を顰めるのでありました。
「しかしこれはあくまで想像だから、実のところは確とは判らないけど」
 頑治さんが二人の義憤に少し水を差すのでありました。
「でも片久那さんならそんな手の込んだ事も遣りかねない、かも知れないわね」
「それに社長も一枚噛んでいるって事も考えられる」
「そう云う事なら日比さんも組合に入って貰ったらどうかしら。その辺りの社長と片久那さん土師尾さんの悪巧みから自分の身を守るためにも」
「でも、繰り返しますがあくまでも推察の域を出ない話しですから、日比課長がその辺の事情にリアリティーを感じてくれるかどうか判りませんよ」
「そうだよなあ。日比課長はあの通り呑気な人だから、まさかそんな事がある筈がないと一笑に付す可能性の方が大きいかな。それに日比課長に組合結成の件を話したら、それこそ間違いなく両部長にあっさり筒抜け、と云う事になるだろうな」
「あたし達の中で組合結成の話しが進んでいる、と云う事を早速ご注進に及んで、その律義な忠義立てを以って保身を図るかも知れないと云う事ね。有り得なくも無いわね」
 那間裕子女史が眉根を寄せるのでありました。どうやら日比課長の事を那間裕子女史も均目さんも、その人間性の辺りではあんまり信用してはいないようであります。
(続)
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あなたのとりこ 264 [あなたのとりこ 9 創作]

「これからウチの会社はどうなるんだろうな」
 均目さんが嘆息するのでありました。
「会社の先行きとか組合結成の事を考えるのも、何となく億劫になってきたわね」
 那間裕子女史も溜息を吐くのでありました。頑治さんも二人に同調して力無い呼気に及ぶのでありましたが、実は頑治さんは、恐らくこの二人よりももっと無惨な推移を考えているのでありました。しかしこの席で酒の肴にそれを口にしようとは思わないのでありました。酒の肴にするには少々腹凭れが過ぎるように思われたからでありました。

 夕美さんは前髪が額に落ち掛かるのを留めていたヘアピンを外して、それを両手で弄びながら頑治さんの顔色を窺うのでありました。
「そうなる可能性の方が、今のところ高いと云う事ね」
 そう云ってから夕美さんは頑治さんから目を逸らすのでありました。
「矢張りお母さんの病気が一番大きな理由かな」
「そうね。でもまあ、それだけじゃないけど」
 食欲を失くして久しい夕美さんのお母さんは、精密検査の結果、胃に悪性腫瘍が見つかったのでありました。二月の下旬には市立病院で手術と云う段取りのようであります。
「大分悪いのかな?」
「そうね。お兄ちゃんに依ればかなり進行していると云う話しね」
「お母さんご本人は自分の病気の事をちゃんと知っているのかな?」
「ううん。当然本人には知らせてはいないの。胃潰瘍とか云ってあるみたい」
「そうか。まあ、一般的な対応としてはそうだよなあ」
 頑治さんは陰鬱な顔をして俯くのでありました。
「手術が成功しても大体は一年で、別の部位に転移したのが見つかって再入院、と云う事になるだろうって、お父さんとお兄ちゃんはお医者さんから告げられているらしいの」
「ああ、そうなのか。・・・」
 頑治さんと夕美さんが差し向かいで座っている炬燵の上に、重苦しい空気が泥むのでありました。その気圧に手指の自由を奪われたせいでもないでありましょうが、夕美さんが弄んでいたヘアピンが、竟うっかりと云った風情で夕美さんの指の間から毀れて炬燵の上に落下するのでありました。ヘアピンはほんの小さな落下音を立てるのでありました。
 そう云うお母さんの状態、それにその先行きがあるものだから、夕美さんは博士課程への進学か在京企業への就職と云う選択を諦めて、故郷に帰る心算になったようでありました。そう云う可能性の方が高い、等と未だはっきりと決断した訳ではないような話し振りではあるけれど、夕美さんの気持ちはもう既に大方のところは決しているように見えるのでありました。頑治さんにとっては全く好ましからざる事態の推移でありました。
「じゃあ、故郷に帰った後は県立博物館の研究員になるのかな?」
「そうね。そのために帰ると云う体裁の方が、お母さんに変な憶測をされないで済むだろうし。まあ、これはあたしが余計な気を回しているだけかも知れないけど」
(続)
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