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あなたのとりこ 228 [あなたのとりこ 8 創作]

 突然内線電話のブザー音が鳴るのでありました。袁満さんがそのブザー音に大袈裟に驚いてビクンと体を震わせるのは、先程頑治さんに漏らした、ちょっと息抜きに倉庫に下りて来たと云う言葉を、どう云う具合か、若しかして内線電話の受話器が外れているかして、上の事務所の土師尾営業部長に漏れ聞こえて仕舞ったのかも知れないと考えてたじろいだ故でありますか。まさかそんな事は無いでありましょうが、秘かに心疚しい事柄があると、夜風に靡く洗濯物も幽霊の姿に見えて仕舞うとか云うヤツでありましょうかな。
 頑治さんが丁度梱包の結束バンドを締めているところだったので、袁満さんが代わりに受話器に恐る恐る手を伸ばすのでありました。袁満さんは警戒するような声でもしもしと云ってから、やや緊張の面持ちで受話器を耳に当てて向こうの話しを聞いていたのでありますが、すぐに反応良くはいと小気味良い返答を返した辺り、懸念には及ばなかったのでありましょう。袁満さんは受話器を戻してから頑治さんの方を見るのでありました。
「唐目君、片久那制作部長が仕事を頼みたいから上がって来いってよ」
「ああそうですか」
 頑治さんは結束が終わった荷物を脇に退けて次の荷物の梱包に掛かろうとするのでありましたが、その段ボールの荷を袁満さんが受け取ろうとするのでありました。
「梱包は、後は俺が引き受けるよ」
 袁満さんは結束バンド締めの工具も頑治さんから受け取るのでありました。
「袁満さんは、上の仕事は大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。上の息苦しい陰鬱な空気の中に居るより、こっちで一人で呑気な梱包仕事をしていた方が余程気楽だしね。願ったり叶ったりと云うところだよ」
 頑治さんとしては、これでも一人呑気に梱包仕事している訳ではないのでありますが、まあこれは、そんな悪気があっての袁満さんの言辞ではないでありましょう。袁満さんはその辺にはあんまり気の回らない、鈍感と云うよりは大らかな人でありますから。
 頑治さんは発送指示書を示して発送物と荷作り個数と梱包上の注意点を口頭で袁満さんに引き継いで、予め書いていた運送会社への発送伝票を発送指示書と一緒に手渡してから、後事を丁重に託して三階の事務所に上がるのでありました。

 片久那制作部長が、何かの冊子の表紙であろう色指定原稿のコピーを頑治さんの前に差し出しながら云うのでありました。
「上野製版所に行って校正刷りを確認して来てくれるか」
 態々こちらから出向くと云うのは、単に校正刷りを貰って来ると云うだけのお遣い仕事と云う訳ではなさそうであります。
「その場で間違いが無いか自分がチェックするんですね」
「そうだ。指定原稿の本稿は向こうにあるから。で、間違いが無いようならそれをその儘綺麗堂印刷所に出来上がっているフイルムと一緒に持って行ってくれるか」
「自分が校了の最終判断をすると云う訳ですか?」
「そうだな。頼むよ」
(続)
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あなたのとりこ 229 [あなたのとりこ 8 創作]

「その役目は制作部の人間じゃない自分で良いのですか?」
「那間君も均目君も今、急ぎの仕事に掛かっているものだから唐目君に行って貰う事にしたんだよ。車でさっと行って用を済ませた方が早いし」
 つまり頑治さんが制作に関わる仕事を熟す上に於いても、片久那制作部長に大いに信頼されていると云う事になるでありますか。それに那間裕子女史も均目さんも運転免許を持っていないから、行くとしても電車と徒歩と云う事になって非効率でありますし。
「あたしなんかより色の目利きは唐目君の方が確かみたいだしね」
 那間裕子女史が多分にお世辞交じりではありましょうが、自席から振り返って頑治さんを持ち上げるのでありました。均目さんも振り向いて笑って頷くのでありました。
「上野製版所と綺麗堂印刷所は行った事があるよな?」
 片久那制作部長が頑治さんを見上げながら確認するのでありました。
「はい。上野製版所が新宿区の榎町の大日本印刷の近くで、綺麗堂印刷所が池袋の宇留斉製本所のもう少し先の方でしたよね」
 頑治さんはしかつめ顔で頷くのでありました。「ええと、綺麗堂印刷所にフイルムを持ち込むのは何時迄に、とかありますかね?」
「いや、今日の内に持って行って貰えば良い」
「渡すのは営業の基目小摩香さんで良いのですか?」
 基目小摩香と云うのは、綺麗堂印刷所で贈答社の仕事を担当する女性営業社員の名前であります。山尾主任よりも年上のようでありますが、グラマーでスタイル抜群でなかなかの美人でありましたから、頑治さんはすぐに顔を覚えたのでありました。
「そうね。居たら基目君に渡してくれ。居なかったら営業課長の荒井さんに」
「判りました。では行ってきます」
 頑治さんはそう云って均目さんの傍に行くと、カラーチャートと高倍率の拡大鏡を貸して貰って下の駐車場に向かうのでありました。カラーチャートと拡大鏡はフイルムに仕上げられた四色掛け合わせの配合が指定通りかどう確認するためでありますが、頑治さんはもう色の網点が何パーセントの網点であるか読めるようになっているのでありました。
 頑治さんは事務所を出際に応接ソファーの処で頭を寄せ合って、何やら会議らしきをしている土師尾営業部長と日比課長と出雲さんの方をちらと窺い見るのでありましたが、日比課長と出雲さんは陰鬱気な風情で身動きもしないで、土師尾営業部長が何やら独壇場に喋っているのを黙って聞いているのでありました。袁満さんが云ったように、そこには確かに気が滅入るような重い空気が淀んでいるような気配でありました。
 頑治さんは出掛ける前に自分の代わりに倉庫で梱包仕事をしている袁満さんに声を掛けるのでありました。こちらは一人で呑気に仕事に励んでいるようでありました。

 山尾主任の旅行中に一度、労働組合結成の準備会が開かれるのでありました。山尾主任が居ないなら流そうかと云う意見もあったのでありますが、都合を付けてくれている外部の横瀬氏や派江貫氏、それに来見尾氏に申し訳無いからと開催するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 230 [あなたのとりこ 8 創作]

 外部の三人も交えたその席では一応山尾主任の営業部への異動、それに袁満さんと出雲さんの仕事内容の変更も話題に上るのでありました。
「組合結成を準備している事が上にバレたんじゃないだろうな」
 派江貫氏がそんな懸念を表するのでありました。「その妨害工作として、そんな人事の変更や仕事の変更を向うは画策したとは考えられないかね」
「でもバレるとしたら、当該の五人か私等三人からと云うことになるでしょう」
 木見尾氏も深刻そうな顔をしてそう云うのでありましたが、それは派江貫氏のその考えに頷いた上でそう云う方向に話しを進めようとしてか、それともその意見に否定的な意を表そうとしての発言なのか頑治さんには判断出来ないような云い方でありましたか。
「そうね。全総連の方からと云う線は先ず無いだろうね」
 この横瀬氏の発言も派江貫氏の意見を踏まえたもののようでもありましたか。
「私等三人も、全総連内の他の、この組合結成を承知している者も、お宅の社長や二人の部長とは接点が何も無いからなあ」
 ぐるりと出席者を見回しながらの横瀬氏のこの言は、バラした犯人はお前等当該の誰かに違い無いと云っているようでもありましたか。
「俺達がそんな事を噯にも出す筈がないじゃないですか」
 均目さんが早速反論するのでありました。
「そうよ。一番バレて困るのはあたし達だもの」
 那間裕子女史が均目さんに同意するのでありましたが、ほんの少し意に引っかかるところがあるのか袁満さんと出雲さんの方に横目をくれるのでありました。「若しかして袁満君か出雲君か、日比さん辺りに組合の件を迂闊に漏らしたりしていないわよね?」
 名指しされて袁満さんはたじろいだのか慌てて首を横に振るのでありました。
「いや、日比さんには何も云っていないですよ」
「飲んだ席か何かでうっかり、なんて事も無いでしょうね?」
 那間裕子女史が怖い顔で追及するのでありました。
「無いです、無いです」
 袁満さんは、今度は首ではなく両の掌を横に大袈裟に振るのでありました。「それは確かに何度か居酒屋で一緒に飲む機会もありましたけど、組合の件は冗談にも日比さんの前では口にしてはいけない事だと、無神経な俺にもそのくらいの警戒心はありますから」
「ああそう」
 那間裕子女史は疑いを未だ二分程残したような云い方をするのでありました。
「俺も何も云っていませんよ」
 続いて出雲さんが真顔で発言するのでありました。「俺は一緒に飲んでもいませんし」
「制作部の三人から片久那制作部長に漏れたと云う事は無いのですかね?」
 袁満さんが逆に那間裕子女史に訊くのでありました。
「それは有り得ないわ」
 那間裕子女史はすぐさま断言するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 231 [あなたのとりこ 8 創作]

「片久那制作部長と一緒に飲む機会も全く無いし、余計な話しは控えろって無言のオーラが片久那制作部長の全身から何時も出ているし、うっかり軽口も云えない雰囲気だし」
 均目さんが続くのでありました。
「ほら、確かあの陰鬱な話しが出た初出社の日に、山尾主任と片久那制作部長が終わってから二人だけで居酒屋に飲みに行った事がありましたよね」
 袁満さんが少しの疑いを秘めた目で那間裕子女史を見るのでありました。
「あれは片久那さんが山尾さんに営業部移動を納得させるためだったろうけど、まさかそこで、一番組合結成に傾斜している山尾さんが、幾ら傷心と動揺の中にあるとしても、それを漏らしたら拙いと云う事くらい、ちゃんと弁えてはいるでしょうし、・・・」
 そう語尾を曖昧にするのは、那間裕子女史自身も山尾主任に対して全服の信頼を置いている訳ではないと云う意のやんわりとした表明にもなりますか。
「はっきりそう云う話しをしなくても、片久那制作部長は勘の良過ぎるくらいの人だから、ちょっとした会話の機微で察すると云う恐れもあるじゃないですか」
 袁満さんが山尾主任犯人説に拘るような素振りを見せるのでありました。
「そんな事を云うと、それは確かに、その懸念は拭えないけど。・・・」
 那間裕子女史の言葉から力強さがすっかり影を潜めるのでありました。
「まあまあ、未だ組合結成の件が会社に漏れたと決まった訳では全く無いのですから」
 頑治さんが話しの雲行きが険しくなるのを恐れて宥めに掛かるのでありました。「業績の悪化に狼狽えて、こうなったのは自分のせいではなく社員の仕事振りが悪いためだと云う点をアピールするために、土師尾営業部長辺りが責任を転嫁する魂胆で急に考え出した事なんじゃないですかね。そう考える方が文脈が乱れないように思いますけど」
「ま、実際のところはそうだよな」
 均目さんが同調するのでありました。「偶々向こうのあたふたが、こちらが組合結成の準備をしているタイミングと重なったと見る方が妥当かな。揺さぶりをかけて妨害してきたとか考え過ぎないで、こちらは粛々と準備をしていけば良い。ひょっとして組合結成がバレたからだとしても、それはこれからの展開を見てみないとはっきりしないしね」
「それは確かにその通りだ」
 横瀬氏がすっかり納得したのではないにしろ、そう頷いて見せるのでありました。それに依ってバレたバレないの話しは、一旦脇に置く事になるのでありました。
「ところで皆さんは、提示された配置転換をすんなり受け入れるお心算かな?」
 来見尾氏が袁満さんと出雲さんを交互に見ながら訊くのでありました。二人はお互いに顔を見合わせながら、どう返事して良いものか戸惑っている様子でありました。
「出張日数が減るかも知れないと云う点では、好都合と云えば好都合かなあ」
 袁満さんが、こういう返答はこの場に於いて不謹慎と思われるかそうでないか、やや及び腰を見せながら呟くように云うのでありました。
「それが労働強化にはならないのかな?」
 来見尾氏が重ねるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 232 [あなたのとりこ 8 創作]

「袁満さんの出張日数を減らすのも経費削減策ではあるけど、出雲君のこれまでの出張との兼ね合いでひょっとしたら、返って袁満さんは日数が増える可能性もあるんじゃないのかな。二人の日数の合計が少しでも減れば、それは経費削減策としては成立するし」
 均目さんも袁満さんの見解に懐疑的な事をものすのでありました。
「出雲さんの方はどう思っているのかな?」
 来見尾氏が出雲さんの方に目を向けるのでありました。
「俺っスか? 俺はその、未だ良く判らないっスねえ」
 出雲さんは少したじろいだように来見尾氏と目を合わせないで俯くのでありました。
「俺は今迄の仕事とすっかり変わる訳じゃなくて、仕事の要領みたいなものは何となく判るけど、出雲君の場合はこれまでの仕事と全く違う仕事になるしなあ」
 袁満さんが出雲さんの、未だ良く判らない、と云う感想を擁護するような、或いは補うような発言をするのでありました。
「出雲さんの仕事と云うのは、今迄に無い新しい分野の仕事なのかな?」
 これは横瀬氏の言であります。
「まああっさり云うと、土師尾営業部長とか日比さんがこれ迄やっていた都内営業の地方版、と云った感じになるのかなあ」
 袁満さんが出雲さんの代わりに応えるのでありました。
「さっきの話しに依ると、日比課長と云う人もそっちに移るみたいだよね?」
 横瀬氏が重ねて問うのでありました。
「そんなような気配かなあ」
 袁満さんが曖昧な頷きを返すのでありました。袁満さんも出雲さんの新しい仕事に関しては未だ今のところ茫洋とした景色しか見えないようであります。
「で、その日比さんと云う人が今迄やっていた営業を山尾さんが引き継ぐ訳だ」
「まあ、そんなような土師尾営業部長の腹みたいですかね」
「山尾さんは自身で納得して、意欲的な気持ちで営業に移るの?」
 それ迄黙って話しを聞いていた派江貫氏がここで口を挟むのでありました。
「それは山尾主任に直接聞いて貰わないとここで断言出来ませんけど、まあ、片久那制作部長に諄々と説得されたのもあるし、丁度タイミングとして自分が結婚すると云う事もあって、心根の内では納得はしていないところもあるけど、だかと云って思い切って会社辞める訳にもいかないし、そうなると結局、会社の示した方針を受け入れるしかないと云う気持ちになっているんじゃないですかね。何となくそんな事を仕事の引き継ぎの話しの折に本人からちょろっと聞きましたね。内心、忸怩たるものはありそうではあったけど」
 均目さんがそんなエピソードを紹介するのでありました。「それに、最近自分は制作部の仕事に向いていないと感じるところがある、なんて了見も漏らしていましたね」
「だから丁度、好都合と云えば好都合だったと云う事かい?」
 派江貫氏が均目さんの話しに多少の疑いを仄めかすような目をするのでありました。
「その点は本人に直接聞いて貰わなければ断言出来ないと始めに云ったでしょう」
(続)
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あなたのとりこ 233 [あなたのとりこ 8 創作]

 均目さんは派江貫氏の眼色に対してさも煩そうに眉根を寄せるのでありました。
 この二人てえものは、最初の会合で目を合わせた時から、何となく剣呑な空気を間に挟んだ間柄のようでありましたか。全然馬が合わない辺り恰も天敵の如く、或いは前世からの因縁を引き摺ったような仇敵の如くであると云うのか、何と云うのか。・・・
 先に一端仲を仕切り直した様子も窺えたのでありましたが、なかなかどうして、そう簡単にはいかない模様であります。ひょっとたら見てくれは異類ながら互いに同じ気質を持っている同士である事が判るものだから、反発し合っているのかも知れませんけれど。
 結局この日の会議は山尾主任の不在もあって、雑談ばかりで大して実りある会合とはならないのでありました。山尾主任と同程度の温度で組合結成に意欲的で積極的な人間が居ないし、外部の三人への義理立てで取り敢えずこうして参集したような按配でありますから、これはもう全く以って仕方が無いと云うものでありますか。

 その山尾主任が会社に復帰したのはそれから三日後でありました。
 さぞや晴れやか且つ照れ臭そうな顔をして現れると頑治さんは思っていたのでありましたが、頑治さんと殆ど前後して会社の扉を開けた山尾主任の顔は、思いの外無表情なのでありました。これは竟々表に現れて仕舞う気分の高揚を無理に隠そうとしての無表情と云うよりは、何処かしら沈んだ気配が潜んでいるような様子でありました。山尾主任は均目さんのように普段から分別臭い顔をしていると云うのではないのでありましたが、何やらちょっと白けたような、無愛想で投げ遣りな風情なんぞもチラと窺えるのであります。
「グアム島の結婚旅行から帰って来たにしては、何か浮かない顔付きだなあ」
 これは昼休みに那間裕子女史と均目さんと三人で、会社近くのビジネスホテル一階にあるバイキング形式で供される昼食を摂りに行った時の均目さんの感想でありました。
「そうだね。隠そうとしても隠せない筈の、弾んだ胸の内が見られないかな」
 頑治さんは同感の頷きを返すのでありました。
「単に照れているだけじゃないの」
 那間裕子女史は山尾主任の意中とか機嫌とかには、と云うよりは山尾主任の結婚そのものに対して無関心だと云った風に云うのでありました。
「いや、照れているだけなら、それはすぐに察する事は出来るさ」
 均目さんがいやいやをするように首を横に振るのでありました。「見様に依っては冴えない表情、と云う風にも見えると云えば見えるし」
 均目さんは頑治さんの顔に視線を向けるのでありました。
「まあ、浮付いた顔付きとかじゃ、確かにないなあ」
 ここでも頑治さんは同意の頷きをするのでありました。
「グアムへの結婚旅行中に、彼女さんとの間に何かあったんじゃないの」
 那間裕子女史が然して心配しているような風にではなくそう云うのでありました。
「そう云えば今売り出し中の噺家の何某とか云うヤツが、新婚旅行から帰って来た途端に離婚した、なんてこの前テレビのワイドショーでやっていたなあ」
(続)
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あなたのとりこ 234 [あなたのとりこ 8 創作]

 均目さんが不穏な事をものすのでありました。
「今までそんなには気にならなかったけど、結婚して一夜を伴にしてみたら何となくがっかりして仕舞ったとか、朝になって相手の寝顔を見た時にふと、前に感じた嫌なところが急に鼻に付き出した、なんて事を世間では時々聞くわね」
 那間裕子女史が聞き様に依っては露骨な事をあっさりケロッとした顔で云うのでありました。均目さんが那間裕子女史の顔を見てニヤリと笑うのでありました。
「若し仮にそう云う風な事情だったと仮定するとしても、それは山尾主任の心情がそう云う事なのかな、それとも彼女さんの方の心情なのかな」
 均目さんがこの話しを敷衍しようとするのでありましたが、これは均目さんのある種の人の悪い面白がりからでありましょう。
「彼女さんの為人とか顔付きなんかをさっぱり知らないから何とも云えないけど」山尾さんにその手の陰影に富んだ感受性は無いんじゃないのかな」
 那間裕子女史はあくまで山尾主任の事を、一本調子の底の知れた単純明快な男と考えているようであります。「まあ、冗談や洒落の判らない陰気な人でもあるし」
「じゃあ、彼女さんの方の心情を那間さんは推し量った訳ね」
「まあそうだけど、でもあたしに云わせればそれは、今まで自分自身に白を切るために、気にならないような振りをしていただけね。本当は目を瞑る事が出来ない程嫌だったくせに、無理に目を瞑っていただけ。それが一夜を過ごしてみてはっきりしただけよ」
「破局を元々孕んでいたけど、これまで見て見ない振りで誤魔化していたから、当然の帰結として破局したという訳か。ま、那間さんが最初に云っていた、一夜を伴にしてみたら、フィジカルな点でがっかり、と云う明快なパターンも考えられるけど」
「あたし別に、フィジカルな点で、とか全然云っていないけど」
 那間裕子女史は均目さんの如何にも下卑た思惟に対して、一応念のためにつれない目容で否を発語して見せるのでありました。
「抑々、破局したと決まった訳じゃなくて、単に山尾主任から新婚さんの浮かれた様子が窺えないと云う、ただそれだけの不思議でしかないけれどね、今のところは」
 頑治さんが二人の論の展開に水を差すのでありました。
「それはそうだけどさ」
 均目さんが白けた目を頑治さんに向けるのでありました。この場の話しの展開を面白くしようとして云っているだけの戯れ言なのに、そう云う足払い的な水差しは反則だろうと云う抗議が語調に籠められているのでありました。均目さんに云わせればこの頑治さんの意見てえものは、那間裕子女史が山尾主任に抱いている思いと同様、冗談も洒落も解さない野暮で無粋で、ある意味卑怯な意見と云う事になるのでありましょう。確かに体裁上人の悪さは無いにしろその分余計に、反則の度合いが重いと云う判定のようであります。
「ま、山尾さんの今後の展開が見ものではあるわね」
 那間裕子女史も人の悪さの方に足場を置いているようであります。「でもそれは、どうでも良いと云えば確かにどうでも良い事だけどね、実際あたしにとっては」
(続)
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あなたのとりこ 235 [あなたのとりこ 8 創作]

 那間裕子女史の言動は人が悪いのに加えて、あくまで身も蓋も無くつれないのでありました。まるで山尾主任の一身上のあれこれに関してはとことん関心が無いと云った按配であります。均目さんも実はそう云うところではありましょうが、那間裕子女史程露骨ではないのでありましたし、頑治さんとしても均目さんと同じ心地と態度でありましたか。

 山尾主任が帰って来て最初の組合結成会議の席で、全総連の横瀬氏から山尾主任に配置移動の件と待遇の変更について確認があるのでありました。
「山尾さんは今次の配置移動を、充分納得して受け入れたのかな?」
「喜んで、と云う訳ではありませんが、まあ、一応納得しています」
「何かしらの報復人事という事ではないんだね?」
「それはまあ、大筋では違うと考えています」
「大筋では、と云うのはどういう意味かな?」
「片久那制作部長は前から俺を、自分の部下として物足りなく思っていたような節があったから制作部から出したかった、と云う側面の意図はあったんだろうけど、でもそれは報復とは少し違うでしょうしね。俺にとって全くの寝耳に水の配置転換で、受け入れる余地も無いと俺が考えたのなら大いに恨みにも思うだろうけど、俺の方も最近、制作部の仕事に何となく限界を感じていたんで、丁度良かったと云う面もありはしますしね」
「制作部長が、自分が気に入らない人を配置転換で自分の下から追い出すと云うのは、私的な好悪からの明らかなハラスメントだと云うニュアンスも窺えるけど」
「ハラスメント、と云うのは何だい?」
 と、これは縁満さんが偶々隣に座った頑治さんに小声で訊く言葉でありました。
「要するに、嫌がらせ、とか、虐め、とか云う意味ですよ」
 頑治さんがこれも声を潜めて応えると、袁満さんは口を尖らせて納得したと云う頷きを何度かして見せるのでありました。
「ハラスメントって何ですか?」
 袁満さんと同じ事を山尾主任が、これは大っぴらに横瀬氏に質問するのでありました。それに対して横瀬氏が頑治さんと同じ応えをするのを見てから、袁満さんが頑治さんの顔に視線を移して無邪気な笑いを投げるのでありましたが、これは一種の愛嬌がありはするけれど無意味と云えば無意味なこの場での所作と云えるでありましょうか。
「嫌がらせと云うよりは、お互いの幸せのための配慮とも云えるかも知れない」
 山尾主任が少し考えてからそう呟くのでありました。
「お互いの幸せ?」
 横瀬氏が首を傾げるのでありました。
「一緒に居て不愉快なら、別の処に居る方がお互い気楽で好都合じゃないですか」
「成程ね。それは確かに」
 横瀬氏は別にその山尾主任の応えで納得した訳でもないようでありますが、一応頷いて見せるのでありました。「山尾さんにとって、不本意な配置転換ではない訳だね」
(続)
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あなたのとりこ 236 [あなたのとりこ 8 創作]

「ええまあ、そんな感じでもあります」
「組合結成の事がバレたんじゃないだろうね」
 横瀬氏の横に居る派江貫氏が云い出すのでありました。「そのために経営が、見せしめのために画策した予防上の報復措置、とは考えられないのかな」
 そう云われて外部の三人以外の一同は互いの顔を見合わせるのでありました。
「いや、バレてはいないでしょう。我々もその点は気を付けているし」
 山尾主任が外部の三人以外を代表するような形で応えるのでありましたが、それはやや力強さに欠ける云い方ではありましたか。
「本当に大丈夫なんだろうね?」
 派江貫氏は少々脅迫的な物腰で念を押すのでありました。
「仕事中は組合の、く、の字も口にしないようにしていますから」
「それはそうかも知れないけど、何かの拍子にうっかり、とか無いだろうね?」
「それは、大丈夫だと、思いますよ」
 この山尾主任の応えも確信を持ってと云う風ではないのでありました。
「山尾さんはそうかも知れないけど、他の人は大丈夫なんだろうね?」
 派江貫氏は山尾主任以外の一同に疑いの視線を投げるのでありました。那間裕子女史はその視線を煩そうに無視するためかそっぽを向くのでありましたし、袁満さんはおどおどと目を逸らすのでありました。出雲さんも袁満さんと同様の反応を見せるのでありましたし、頑治さんは無表情に派江貫氏をぼんやり見ているだけでありましたが、一人均目さんだけが眉間に皺を寄せて派江貫氏に挑むような目を向けるのでありました。
「そう云う疑いは心外ですね」
 均目さんは不機嫌に云うのでありました。「俺達が組合に関してド素人だからって信用していないんだろうけど、云って良い事と悪い事の判断くらいは付きますよ」
「いや、信用していない訳じゃないよ」
 派江貫氏は均目さんの剣幕に少したじろぐのでありましたが、意地っ張りだからすぐに体勢を立て直して均目さんを逆に見据えるのでありました。
「組合結成前に経営側にこの事が知れると、経営側は決まって潰しにかかって来る。先ずは人事で威嚇するのが連中の常套手段だからね」
「それはちょっと考え過ぎでしょう」
 均目さんは決然と首を横に振るのでありました。「土師尾営業部長と社長辺りが経営不振からジタバタ足掻こうとして発動したと云うのが、今回の人事異動の目論見の実際でしょう。連中は我々が組合結成を画策しているとは全く気付いていないでしょうね」
「そう断言出来るんだな?」
「世の中に、絶対、なんて云うのは存在しないものですよ」
 均目さんはからかうような余裕の笑みを片頬に浮かべるのでありました。「でも、俺の観測に先ず間違いはないと思いますね。第一、社長や土師尾営業部長が従業員の言動や心根に殊更の関心があるとは思えないし、あの二人は迂闊な人達ですから」
(続)
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あなたのとりこ 237 [あなたのとりこ 8 創作]

「じゃあ、ええと、確か片久那とか云う名前だったかな、そのもう一人の部長の方はどうなんだ? これ迄の話しに依るとなかなかのキレ者で迂闊なところは全く無くて、諸事勘も察しも良くて、その上結構剛腕だと云う事だったけど」
「片久那制作部長、ねえ」
 均目さんはそこで少し考える風の顔になるのでありました。「片久那制作部長はひょっとしたら何か感付いているかも知れないかなあ」
 ここで派江貫氏の表情の険しさがいや増すのでありました。
「その片久那とか云う部長が策動したんじゃないのか、今回の人事は?」
「いやしかし我々が労働組合を創ろうとしているとは知らないでしょうよ」
「勘が良いと云う事だから、気付いているかも知れないじゃないか」
「それはどうかなあ」
 均目さんは懐疑的な顔をするのでありました。「我々の不愉快の度合いが上って、前より親密に寄り合って、愚痴を零し合ったり憂さ晴らしをする連帯感みたいなものは強くなったと感じているかも知れないけど、でも我々の事を、それがより嵩じて労働組合結成と云う選択に走るような連中だとは考えてもいないんじゃないかな」
「そうね。片久那さんの頭の中では、あたし達と労働組合結成と云うものがそうすんなりと結びつかないでしょうね。それはあたしもそう思うわ」
 那間裕子女史が均目さんの意見に同調するのでありました。
「でも、勘が良いんだろう?」
 派江貫氏が未だ嫌疑を長引かせるのでありました。
「それに第一、片久那制作部長は社長や土師尾営業部長と折り合いが悪いから、社員を差し置いて向こう側に加担する気は先ず無いと俺も思いますね」
 これは山尾主任の意見でありました。
「折り合いが悪いと云うか、片久那制作部長は社長の事を経営者としては小者扱いしているところがあるし、況してや土師尾営業部長なんか歯牙にもかけていないだろうな」
 袁満さんも続くのでありました。
「だからって組合結成を妨害しないと云う保証はないじゃないか」
 派江貫氏はなかなか疑いを解かないのでありました。
「まあでも、あの人は学生時代は全共闘学生運動の闘士だった人ですからね」
 山尾主任がそんなところに根拠を求めるのでありました。
「そう云うヤツの方が往々にして、学生運動から足を洗った後はとんでもない程変貌して仕舞って、左翼的なものに対して始末の悪い強い敵意を向けたりするものだ」
「でも、矢張り今回の人事異動は、片久那制作部長の目論見ではないでしょうね」
 均目さんが結論的な云い草をするのでありました。
「絶対そうだと断言出来るか?」
「何度も云うけど、世の中に、絶対、なんて云うのは存在しないものですよ」
 均目さんはあしらうような笑みを浮かべて派江貫氏を挑発するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 238 [あなたのとりこ 8 創作]

「実際の話しとして、もう既に人事異動が発令されてしまったんだから、その片久那と云う名前の制作部長の動向は気にはなるにしろ、この確定した異動を、皆さんが受け入れる心算なのかどうかと云う点に話しを進めた方が良いんじゃないかな」
 ずっと無言で控えめにしていた来見尾氏が、眼鏡の奥の目を瞬かせながらこれ迄の話しの流れに一段落を設けようとするのでありました。確かに確証も無くこの話しをこれ以上続けるのは無意味と云えば慎に無意味と云うものでありますか。

 来見尾氏は鼻梁の上を少しずり落ちた眼鏡を、右手の人差し指を遣って元の位置に摺り戻しながら続けるのでありました。
「山尾さんはさっきも聞いたけど、この人事異動に概ね異存は無いんですね?」
「それは、不満はあれこれありますけど、一応受け入れる心算でいます」
「待遇が落ちると云う事も無いのかな?」
「今迄貰っていた主任手当もその儘付くと云う事だし、総額で減額される事は無いようですから、賃金面では額が減ると云う事はありませんね」
「残業手当なんかは?」
「それも認めると云う片久那制作部長の話しです」
「へえ、営業なのに残業手当が認められるんだ」
 袁満さんが驚きの表情をするのでありました。「俺なんか全く付かないけど」
「俺も付きませんね」
 袁満さんに顔を向けられた出雲さんが同調するのでありました。
「日比さんも付かないようだしね」
「ところがちらっと聞いたところに依ると、土師尾営業部長には付くようだよ」
 山尾主任が結構あっさりとそう云う事を云うのでありました。
「え、そうなんですか?」
 袁満さんがさっきよりもう少し驚きの度合いの強い表情をするのでありました。「一体誰に聞いたんですか、そんな事」
「片久那制作部長だよ。あの人事異動の話しがあった初出社の日に、二人で居酒屋に一端に行ったけど、異動した後の待遇面の話しになった時にちらっとそんな事を聞いたんだ。営業に移ると残業手当が付かないようだけどって水を向けたら、土師尾営業部長には付いているからとか云って、俺にも制作部に居た時と同じように付くように計らうとかね」
「それは酷いなあ」
 袁満さんが大いに憤慨するのでありました。「他の営業の人間は誰も貰っていないと云うのに、臆面も無く自分だけ残業代を貰っているんだ、あの狡賢い業突く張り野郎は」
 竟に誹謗中傷添えの野郎呼ばわりであります。おっとりした性格の袁満さんがこんなに不愉快そうに、舌打ちなんぞも添えて口汚く人を謗るのは珍しい事でありました。余程腹に据えかねたのでありましょう。それも尤もな事と頑治さんは思うのでありましたが。
「確かに酷いな。まるで自分一人やりたい放題、と云った印象だ」
(続)
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あなたのとりこ 239 [あなたのとりこ 8 創作]

 横瀬氏が同調するのでありました。「袁満さんが土師尾営業部長に吠え面をかかしてやりたい、と云う気持ちが判るような気がする」
「そうだな。実質的に経営を任されていて、それに人事権も持っている者として、それはちょっと悪質と云うしかないな」
 派江貫氏も怒りを見せるのでありました。
「まあ、実質としては土師尾営業部長は会社の経営に関しては何も判っていないし、すっかり片久那制作部長におんぶに抱っこと云う調子ですけどね」
 均目さんが派江貫氏の怒りの表出にほんの少し水を差すのでありました。
「それならもっと悪質と云うものだ。それ以上に片久那と云う部長も性質が悪そうだ」
 派江貫氏は吐き捨てるのでありました。
「袁満君と出雲君、それに日比さんにも、これから先は残業手当が付くように計らってくれと、今度俺の方からも片久那制作部長に云って置くよ。不公平は良くないから」
 山尾主任が、この営業の三人を差し置いて自分に残業手当が付くと云うのが少し申し訳無いのか、そんな申し出をするのでありました。
「いや、そう云う交渉としてではなくて、その件も春闘のウチの要求として出すのが筋じゃない。従業員の賃金体系に関わる事なんだから」
 那間裕子女史がまるで窘めるように山尾主任の発言に異を唱えるのでありました。
「そうだな。製作とか営業とかに関わり無く、残業したらその分の残業代は誰にでも付くようにするのが原則だよな。勿論、業務の唐目君にも」
 均目さんが那間裕子女史の発言に賛同の意を示して、言を収めようとする辺りで頑治さんの方に顔を向けるのでありました。そう云えば頑治さんには残業手当が付いてはいないのでありました。これは慮れば業務の前任者の刃葉さんのせいでありますか。
 刃葉さんのがさつでちゃらんぽらんな仕事振りに残業手当を付けられないと、これは土師尾営業部長や片久那制作部長だけでなく他の従業員の総意でもありましたし、依って業務職には残業手当は付けないと云う前提が頑治さんにも適応されて仕舞ったと云う経緯でありますか。この点、頑治さんは刃葉さんの被害者でありますかな。ま、要は、残業手当が付くか付かないかは恣意的で、ちゃんとした取り決めは無いと云う事であります。
「袁満さんと出雲さんは仕事の変更を納得しているのかな?」
 横瀬氏が話頭を変えるためかそんな事を訊ねるのでありました。訊かれた袁満さんと出雲さんは、二人で戸惑ったような顔を見合わせるのでありました。
「俺の方はまあ、今迄やってきた仕事の、やり方の変更と云う事だから、勝手とか手際は判っていますよ。でも出雲君の担当地域も含めてだから相当きつくはなるだろうけど」
 袁満さんが云った後にげんなりと云った顔をして溜息を吐くのでありました。
「俺の方は未だ曖昧模糊とした感じっスかねえ」
 出雲さんは横瀬氏の質問にちゃんと答えられない事を申し訳無く思うような物腰でありました。遣れと云われた新しい仕事のイメージが全く湧いてこないと云ったところでありましょうか。それに日比課長との絡みもある事 でありますし。
(続)
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あなたのとりこ 240 [あなたのとりこ 8 創作]

「成程ね」
 横瀬氏は二人の意向に一応頷くのでありました。「袁満さんに目途が立っているようなら、当面の売り上げは心配ないのかな?」
「いや、目途が立っていると云う程じゃなくて、なんとなくやり方は判っていると云った程度ですよ。それに売り上げに関してはおいそれとは保証出来ないですね」
 袁満さんは気後れの物腰で慎に消極的な言を返すのでありました。
「でも、要は効率化と云う意味で、袁満君に今までの出張営業が一元化して業態が変わるのは、あたしは良い事だと思うわよ」
 那間裕子女史が前に聞いた事のある持論から、そんな事を云い出すのでありました。
「那間さんは制作だからそう云うけど、これから先俺一人で今までの出張営業のエリアを全部カバーする事になるんだから、とんでもなく大変になるんですよ」
 袁満さんが遠慮がちながら不満気に反駁するのでありました。
「心配しなくても大丈夫よ。電話を駆使すれば今迄よりも楽に仕事が出来るわよ」
 那間裕子女史はつれない言葉を返すのでありました。判っていないなあと云う意を表するために袁満さんは顰め面で小さな舌打ちをして見せるのでありました。
「袁満君にしても出雲君にしても、今の段階では未だ何とも云えないか」
 山尾主任がそう云って横瀬氏を見るのでありました。
「成程ね」
 横瀬氏は先程と同じ頷きをするのでありました。「労働強化になるかどうかが一番の問題だけど、これから先の様子を見るしか今のところは動き様が無いと云うところかな」
「ま、そうですね、俺の件も含めて」
 山尾主任がそう締め括ってこの話しは一応収束と云う事になるのでありました。
 業績不振である事から、社員一同は今迄より多少は労働強化になると云う認識を共通に持ってはているのであります。しかし、それが許容範囲に収まるのかそれとも到底耐えられない程の強化になるのか、その辺の不安は大いに抱いているにしろ、未だ具体的な動きが始まっていないから良くは掴めないと云うのが正直なところでありますか。
 全総連の横瀬氏としても、既に組合が結成されているのならその問題を集中的に取り上げるところでありましょう。しかしながら未だ、愈々春闘時に旗揚げしようかと云う段階でその事ばかりを議論している訳にはいかないと判断したのか、意外にあっさり引き下がって、今次の人事異動の件を深く掘り下げようとはしない意向のようでありました。
 労働組合の結成が当面の最重要課題であります。だから当面、その障りになるような事象はなるべくさらりと流す見切りが肝要と云うところでありましょうか。

   旗揚げ

 先ず山尾主任の顔が少しずつ変貌していくのでありました。結婚旅行から帰って以来、どこか冴えない顔色であるかと頑治さんは気にはなっていたのでありありました。
(続)
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