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あなたのとりこ 189 [あなたのとりこ 7 創作]

「入社して間もないと云うのに色々大変そうね」
 夕美さんはあんかけの蟹玉を自分の小皿に取り分けながら云うのでありました。
「そうね。ちっとも知らないで就職したけど、業績不振らしい」
「それで結局、暮れのボーナスは二万円ポッチしか貰えなかったのね」
「ま、そう云う事だね」
 頑治さんは細切り牛肉と苛の炒め物を頬張りながら頷くのでありました。「しかし例えば去年と同じに二か月半出たとしても、中途入社の俺は色々小難しい日割り換算をされた挙句に、まあ良くて五万円程しか貰えないと云う事になるらしいけどね」
 中途入社の社員の場合には、一年の就業日数からボーナス対象月迄の実働日数を算出してその後にそれを時間に換算して、例えば二か月半の支給ならばそれを計算した時給にするとどのくらいの額になるかを算定して、それからそれを、見習い期間と称する二か月分を差し引いた中途入社社員の実労働時間に見合った額に再計算して、それからそれから、・・・と云う具合の計算式を頑治さんは以前に均目さんから聞いた事があるのでありました。込み入った算数パズルのような余りと云えば余りの七面倒臭い計算式に、聞いている途中で頑治さんは頭の中に霞が兆して意識がクラクラとしてくるのでありました。
 実は均目さんも計算式の正確なところは知らないのでありました。入社して最初に貰ったボーナス額が思っていたより大幅に少なかったので、一体どういう計算をしたらこんな額になるのかとあれこれ自分で計算をしてみたのだそうであります。それで、貰った額に一番近い値になるのが頑治さんに示した先の計算式と云う事になる訳でありました。
「単純に実労働日数の割合を支給金額に掛ければそれであっさり済みそうなものを、なんでそんなにまわりくどい計算を態々するんだい?」
 頑治さんは首を傾げながら均目さんに訊くのでありました。
「如何に中途入社社員のボーナス支給金額を最少額に抑えるか、と云う了見からには違いないだろう。そんな面倒で複雑な計算式は社長や土師尾営業部長の頭では手に負えないだろうから、これは片久那制作の頭から捻りだされた計算式だろうな」
「何となく姑息な手口に思えるな」
「複雑なだけに迂闊なヤツにはなかなか後追い出来ないところがミソだな」
 均目さんはそんな事も付け加えるのでありました。
「どうして五万円程度になるの?」
 夕美さんがビールを一口飲んでから小首を傾げるのでありました。
「小難しい計算があるんだよ」
「どんな計算?」
「前に聞いたんだけど、小難し過ぎてものぐさの俺にはさっぱり理解出来ない」
 頑治さんは呑気そうに笑うのでありました。
「何か頑ちゃん、二万円ポッチの支給に対してあんまり悄気ていないようね」
「今まで遣って来たアルバイトじゃあそんな臨時収入は全く無かったから、二万円ポッチでも貰えるだけ儲けものと云った気分かな」
(続)
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あなたのとりこ 190 [あなたのとりこ 7 創作]

「頑ちゃんは相変わらず気楽ね」
 夕美さんが笑うのでありました。
「貰う時に他の連中は苦虫を噛み潰したような顔で受け取っていると云うのに、俺は竟々笑みが毀れそうになって仕舞って、少し困ったよ」
「それはそうよ。経緯から、嬉しがる局面じゃないもの」
「でもまあ、竟ね」
 頑治さんは海老のチリソースに箸を伸ばすのでありました。
「で、その二万円の臨時収入でこの食事を驕ってくれている訳ね」
「そう云う事。だから遠慮しないでどんどん食ってくれよ」
「でも話しを聞くと、何だか少し遠慮したいような心持ちになるけど」
「そんな事無いって。どうせ他には、数冊本を買うくらいしか使い道は無いもの」
「服とか買えば良いんじゃないの」
 そう云いながら夕美さんは少し目を動かして頑治さんの服装をチェックするのでありました。特に洒落た物を着ている訳ではないけれど、清潔ではある筈であります。
「でも、服装に気を遣うような仕事はしていないもの。不潔じゃなく小ざっぱりしていれば充分さ。元々俺は服装への執着心は特に持っていない方だから」
 聞き様によっては慎に愛想の無い頑治さんの応答でありますか。
「それなら正月飾りとかは? ・・・まあ、買わないと思うけど」
「買わない」
 慎に簡潔にしてきっぱりした返答であります。
「じゃあ、まあ、良いか。ここは素直に驕られておくか」
 夕美さんはもう一欠片、あんかけの蟹玉を取り皿に取るのでありました。
「どころで、正月は故郷に帰るの?」
 頑治さんはふと思い付いたように訊くのでありました。
「うん。お母さんがここのところずっと体の具合が良くないようだから」
 夕美さんはそう云いながら少し陰鬱な表情をするのでありました。
「ああそうなんだ」
 前にその事は夕美さんから触り程度は聞いているのでありました。急に物が食べられなくなって二週間程病院に入院して、退院後もあんまり捗々しく食欲は回復せず、何時か機会を見付けて精密検査する事になっていると云う事でありましたか。
「その事もあるし、県立博物館にもちょっと顔出ししておきたいし」
「それは就職の件で、と云う事かな?」
「まあ、はっきりそうと云う訳じゃないけど、一応顔繋ぎに」
「博士課程に進学するのは止したの?」
「未だ迷っているのよ」
「論文はもう片が付いたのかい」
「そうね。そっちは何となく目途は立ったわ」
(続)
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あなたのとりこ 191 [あなたのとりこ 7 創作]

「それで、お母さんの件もあるからここはちょっと帰るか、と云ったところかな」
「そうね、そんな感じ」
 夕美さんは箸を置いて手をテーブルの下に隠すのでありました。恐らく別にどうと云う心算ではない何の気無しの仕草でありましょうが、頑治さんの目には何やら改まった風に映ったものだから、ふと心の中で小さな不安が閃くのでありました。
 ひょっとしたらこれから先に起こる諸々の経緯から、最終的に夕美さんは東京を離れて故郷に帰る決心をするのではないかしらと頑治さんは考えるのでありました。大学院に残るでもなく、在京の企業に就職するでもなく、それは頑治さんにしたら最悪の先行きであります。まあ、あくまでも特段の根拠もない予感だけではありますが。
 しかしこれ迄に自分のそう云った予感が、見事に当たったのはどのくらいの確立だったでありましょうか。当然ながら厳密な統計を取った訳ではないから、不明、と云う愛想もクソも無い回答が正解でありますが、しかし一端そう云った予見を頭の中に描いた以上、頑治さんの心根は波静かではいられないのでありました。
 好ましい予感は大体に於いて外れて、好ましからざる予感は往々にして当たって仕舞うものであります。世俗的にそう云う風に云われがちだと云うのは判っているのでありますが、しかし頑治さんの主観の上では結構リアリティーがあるのも事実でありました。
「頑ちゃんどうかした?」
 頑治さんが目を上げると夕美さんが覗き込んでいる目と出会うのでありました。
「いや、別に」
 頑治さんは取り繕うように苦笑うのでありました。「正月に帰った時、若し諸般の事情が許せば、お母さんに俺がお大事にと云っていたと伝えてくれるかな」
 夕美さんは頑治さんと同じように苦笑を浮かべるのでありました。
「うーん、頑ちゃんとの事は、お母さんにもお父さんにも実は喋っていないから。・・・」
「ああ、そう云う事なら今の俺の伝言は取り消しと云う事で」
「でも有難う。お母さんの事心配してくれて」
「病院の精密検査で、別に何でもないと云う診断が下される事を祈っているよ」
 その頑治さんの言葉に夕美さんはもう一度、有難う、と云って、テーブルの上に手を出して箸を取り、暫く休めていたその動きを再開させるのでありました。
「明日もゆっくり出来るのかな?」
 頑治さんが訊くと夕美さんはコックリと頷くのでありました。
「そうね。論文の目途も立ったしね」
「じゃあ明日は、新宿に出て映画でも見て、それから新宿御苑辺りを散歩するか」
「良いわね。ゆったりとした休日って感じ」
「末広亭で落語を聴くと云う手もある」
「じゃあ、映画を観て、その後御苑散歩で、夜は落語、と云うのはどう?」
「そんな予定満載じゃあ、ゆったりとした休日にしては目まぐるしい」
「そうだけど、久しぶりだから頑ちゃんと二人で欲張りに色々したいのよ」
(続)
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あなたのとりこ 192 [あなたのとりこ 7 創作]

 夕美さんはそう云って小首を傾げて笑い顔をして見せるのでありました。
「矢張り、映画とその後で新宿御苑散歩だけ、と云うプランにしよう」
「寄席はいいの?」
「是が非でも行きたいと云う訳じゃないし。夕美が行きたいのなら別だけど」
「あたしも、別にどうしても行きたい訳じゃないけど」
 夕美さんは落語とか漫才が殊更好きだと云う訳ではないのでありました。前に何度か頑治さんに連れられて新宿末広亭や浅草演芸ホールに行った事はあるのでありましたが、それはあくまでも物珍しさと付き合いと云う以上の意味は無いようでありました。
「じゃあ、映画と新宿御苑散歩に決定だ」
「それならあんまり早起きしなくても大丈夫よね」
「そうね。アパートでゆっくり朝寝もしていられる」
 頑治さんは先の夕美さんの身の振り方への不安を頭の中から掃って、取り敢えず明日の二人のデートと云う目先の歓楽のみを考えようとするのでありました。

 週に一度、水曜日の就業時間後の労働組合結成に向けての会議は定例化するのでありました。基本的には経営側に出す労働組合結成通知書と春闘で提出する要求書案の捻出と作成と云う事になるのでありますが、全総連が開催する春闘セミナーとか、小規模単組連合の集まり等にもオブザーバー的な立場で参加を求められたりもするのでありました。
 均目さんはその手の集会にはほとんど興味を示さず、それどころか全総連と云う組織自体に批判的な立場を社員の間で明確にしているものだから、仕方なくそう云った会合への出席は殆ど山尾主任と、出張に出ていない場合は袁満さんが担当する事になるのでありました。もう一人の執行委員である出雲さんは、出張先が北海道や東北と云う事で冬場は比較的暇になるのでありますが、何となく労働組合結成と云う事項全般に疎くて鈍そうな反応しか示さないものだから、隅に置かれていると云った印象でありましたか。
 那間裕子女史はあれこれと私事多忙なようで、こちらも集会参加とかには消極的、と云うよりは冷淡な反応でありました。本人が冷淡なのを敢えて命じて出席させる程の威厳や影響力、それにお願いする勇気も山尾主任にも袁満さんにも無いようでありましたから、畢竟この委員長と副委員長の出番が俄然多くなると云った按配であります。
 どうしたものか頑治さんには殆ど、会計以外の面倒臭い仕事の依頼とかお声掛かりは無いのでありました。出雲さん同様で、あんまり頼りにならないと値踏みされているからかも知れません。まあ、頑治さんにしたら勿怪の幸いと云うものではありましたが。
 山尾主任は労働組合創設活動に結構燃えているのでありました。袁満さんもそれに引っ張られるようになかなか積極的な様相でありました。まあ、袁満さんの本心なんと云うものが奈辺に在るかと云うところは良くは判らないのでありましたが。
 袁満さんは人から何かを頼まれたら、断固として断り切れない人の良さと八方美人的な優柔不断さがある人で、出来るならそう云った活動なんぞは敬遠したい方の口なのかも知れませんが、山尾主任を前にするとなかなか云い出せないでいるのかも知れませんが。
(続)
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あなたのとりこ 193 [あなたのとりこ 7 創作]

 まあ、袁満さんは楽天的な人柄なのでそれを苦にしているようには見えないのでありました。案外この活動に、自分の本来の居場所を見つけた心地なのかも知れませんし。
 と云う事で、メンバーの中では山尾主任と袁満さんが突出して活動に積極的な風情でありました。しかし山尾主任は年が改まった早々に結婚を控えているのでありますが、こちらの方は一体どのような具合になっているのでありましょうや。全くの他人事には違いないのでありますが、頑治さんは少し心配になるのでありました。
 聞けばご両人とその家族でグアム島に行って結婚式を挙げると云う事でありますが、式の準備や渡航の手続き等、今が一番ウキウキしていて忙しい時でありましょうに。春闘に向けての労働組合結成と云う、あんまり色艶の無い用事にかまけている場合ではないのではありませんかしら。ま、典型的な余計なお世話の内ではありましょうが。
 山尾主任の結婚相手の女性から会社に電話がかかって来る事は全く無いと、前に均目さんから頑治さんは聞いた事があるのでありました。顔も声も雰囲気も知らないからどんな感じの女性なのか均目さんは全く知らないと云う話しであります。余程の用が無い限り山尾主任がその女性に会社への電話を禁じてでもいるのでありましょうか。
 大体に於いて山尾主任本人もその女性の事を話題に上げるのは皆無のようであります。均目さんがそれとなく話しを向けてもはぐらかされるのが常だそうであります。会社の連中にはあんまり相手の女性の事を喋りたくないと云う考えでありましょうか。それともその女性の方が自分の事を色々喋られたくないと云う意向なのかも知れませんが。
 尤もこんな事は山尾主任の気持ちの問題でありそれ以外では全くない話しであります。山尾主任が惚気の一つも云わないのをとやこういう筋合いは、他の誰にも無いと云えば無いのであります。まあ、愛想の無い事で、と云う印象は抱く事が出来るとしても。
 そう云えば日比課長が酒の席だったか、悪意ではないにしろちょっとからかってやろうとして、冗談口調でちょっかいを出したのを頑治さんは目撃した事がありましたか。その折も山尾主任はあからさまではないながらも、いなすように一言二言返しただけで如何にも迷惑そうな表情で、それ以上あれこれ聞いてくれるなと云ったような慎につれない風情でありましたか。ひょっとしたら自慢も出来ない、或いは人には云えない事情を抱えた相手じゃないのかと、後で日比課長は下卑たにやけ顔で詮索しているのでありました。
 日比課長の下卑た詮索は脇に置くとしても、確かに山尾主任に結婚を間近に控えた浮付きはあんまり見られないのでありました。結婚と云う儀式に対してクールであると云うよりは、結婚する事そのものが何処か大儀そうにも見えるのでありました。慶事であるにしても愈々事が差し迫って来て、待望の反動で気重が頭を擡げて来たと云うところでありましょうか。まあ、余計なお世話序の、頑治さんの些細な気掛かり事であります。

 新宿の件のジャズ酒場で頑治さんは均目さんと那間裕子女史とグラスを傾けているのでありました。このジャズ酒場に限らず時には近くの居酒屋や小さな小料理屋で、水曜日の労働組合結成準備会議が終わった後にこの三人で屡酒を飲むようになるのでありました。他のメンバーはどうしたものか殆ど誘わないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 194 [あなたのとりこ 7 創作]

 それは明快にそうだと云う訳ではないにしろ、那間裕子女史の意向に沿っての事でありました。那間裕子女史は頑治さんと均目さん以外の会社の連中と酒席を同じにする気は殆ど無いようでありました。これは那間裕子女史の人の好き嫌いに依るのでありました。と云っても、他の連中を那間裕子女史が忌み嫌っていると云う訳では全くなくて、一緒に酒を飲みながら談笑の時間を共有したいとは敢えて思わないと云う、好き嫌い、と云うよりは、好き、の濃淡の差に依っていると云うべきところでありましょうか。
「あの全総連の派江貫って人はどこか信用が置けない感じがするわ」
 那間裕子女史が例に依ってジントニックを飲みながら云うのでありました。
「そうかな。俺は何方かと云うと無口な木見尾さんの方を警戒するけど」
 均目さんが飲んでいるのは同じジントニックながら意見の方は那間裕子女史と違うのでありました。この二人は息が合うのか合わないのか、頑治さんは未だに良く判らないのでありました。まあ、全く息が合わない同士合ならこうして屡一緒に酒を飲む事も無いでありましょうか。当座の息は合わないけれど基本的な馬は合うのかも知れません。
「でも派江貫さんが初めて現れた会議で、均目君は喧嘩していたじゃないの」
「そうだったけど、話してみるとそんなに嫌な人じゃなさそうだし」
 何度目かの会議の後に全員で親睦を深めようと、神保町駅近くの居酒屋で酒杯を酌み交わした事があったのでありましたが、そこでどう云う風の吹き回しかか均目さんが派江貫氏と二人で、妙に深刻顔で何事か話し込んでいる光景を頑治さんは目撃するのでありました。そうやって差しで話してみて、何を話したのかは不明ながら均目さんは派江貫氏に対する認識を改めた模様で、初会議の席での氏に対する蟠りを薄めたのでありましょう。
「そう云えばあの居酒屋での飲み会の時、均目君は派江貫さんと何を話していたの?」
「まあ、労働運動全般とか、全総連の支持する政治政党の話しとか、あれこれ様々」
 均目さんは世の中の諸事に対する認識、と云うのか関心と云うのか、そういうものが頑治さんなんかよりも遥かに深いようであります。
「それで均目君は派江貫さんと意見が合った訳だ」
「いや、俺は何方かと云うと組合運動とか左翼的考え方には批判的な方だから意見はさっぱり合わなかったけど、派江貫さんの人柄と云う点では、なかなか情熱を持った人だなと思ったんだよ。政治性は別にして、人としてはそう云う人は嫌いではないからね」
「で、派江貫さんの方も均目君を見直したと云う訳ね、親密に話す事に依って」
「俺が派江貫さんに対する認識を改めたとしても、派江貫さんの方が俺を見直したかどうかに付いては全く俺には判らないよ。俺がその時に持った一時的な感触はそうであったとしても、派江貫さんと云う人の本心の部分はおいそれとは誰にも窺い知ることは出来ないものだし。早とちりにお人好しな誤解を下すのも、全くいただけない話しだからね」
 均目さんは何やら小難しい事を云いつつジントニックを一口飲むのでありました。
「来見尾さんと云う人は、何となく雰囲気が片久那制作部長に似ていませんか?」
 頑治さんがウィスキーソーダを飲みながら那間裕子女史に訊くのでありました。
「イカさないロングヘアーとイカさないファッション、それに無口なところだけはね」
(続)
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あなたのとりこ 195 [あなたのとりこ 7 創作]

 那間裕子女史は鮸膠も無いのでありました。
「片久那制作部長の方が未だシャープな感じがするかな」
 均目さんも頑治さんの意見に不同意のようであります。「陰気さはそっくりだけど」
「来見尾さんは片久那制作部長と違ってお酒もあんまり飲まないようだし、話しをしても冗談も云わないし、ちょっと気の利いた云い回しもしないし、全般に当り障りのない返事しかしないものね。如何にも頼りない感じがする。でもああ云う人は自分がこうと思ったら、それを絶対に変えないような結構頑固なタイプなのよね」
「確かに頑固は頑固そうだな。何となくあしらい難い人かも知れない。と云っても、前に会社に居た刃葉さんみたいなあしらい難さではないけれど」
「でも刃葉君はあれで、なかなか可愛いところもあったわよ」
 那間裕子女史は俄には頷かないで異見をものすのでありました。
「可愛いところなんかあったかねえ」
 均目さんは疑わしそうに笑うのでありました。
「やる事ががさつで間抜けなところが多かったし、それに結構自信家で、多分秘めた劣等感も一緒にあって、自分以外の人間は皆下らんヤツだと思っていた節が随所に見られたけど、でもそれだからこそ考えている事は単純明快と云うのか、判り易かったわ」
「それを可愛いと評価するのには那間さんが異性だからかな。同性からすると、やっている事と根拠の無いあの鼻持ちならなさとのギャップは、唾棄に値すると云うものだよ」
 均目さんはそう云って頑治さんに同意を求めるような目を向けるのでありました。頑治さんは八割方同意ではあるものの、頷かないで笑って返事を誤魔化すのでありました。
「元帳が判ったら、案外可愛いものよ。そんなに狭量にカリカリする事無いじゃない」
 那間裕子女史は余裕の笑みを浮かべてジントニックを一口飲むのでありました。
「いや、そうじゃないよ」
 均目さんは那間裕子女史に自分の男としての器量が疑われたと思ったためか、尚も反駁を企てるのでありました。「自己省察が甘いヤツは何かをやらせても結局、使いものにならないし、そんな自分を変えたいと云う気も無いとなると、それはもう救い難い」
「ご立派なご意見だけど、そう云う均目君はどうなのよ。均目君のプライドの高さとか人を侮って止まない目付きなんて云うのも、時々度し難いと思う場合もあるわよ」
「まあ、異性の那間さんとしては、そう云う均目君も可愛いと云う事になりますかね」
 何となく、二人の会話がこれ以上変な方向にエスカレートしないように、頑治さんは妙な仲裁を試みるのでありました。しかしこれは、余計なお節介、或いは無用な危惧と云うものかも知れないと、云いながら頑治さんはそこはかとなく思うのでありました。
「あたしと均目君が急に険悪な口論なんか遣り始めたと思って、オロオロたじろいで慌てて宥めに掛かろうとする唐目君も、なかなか可愛いわよ」
 那間裕子女史が先ずは頑治さんをからかってから、ジントニックを二口程飲んで口調を改めるのでありました。「ま、刃葉君の事は横に置くとして、来見尾さんは、未だそんなに話しをしたわけじゃないけど、何処か薄気味悪いところがあるのは確かね」
(続)
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あなたのとりこ 196 [あなたのとりこ 7 創作]

「あの人はどういう仕事をしているんだったっけ?」
 均目さんが先ず那間裕子女史を、それから頑治さんの顔を見るのでありました。
「会社の本業は工作機械を作っているメーカーらしいけど、一方で王様のアイデアとか玩具屋なんかで売っている、知恵の輪みたいなものとか、トランプとか花札とかいろはカルタとか、卓上将棋盤とか囲碁盤とか、そんな風な小玩具も製造している、浅草の方に在る会社の社員だと仰っていたんじゃなかったかな」
 頑治さんが応えるのでありました。
「ふうん。遊び道具を造っている会社の社員にしては、遊びとは縁遠い風貌よね」
 那間裕子女史が意外そうな表情で云うのでありました。
「得てしてそんなものさ」
 均目さんは皮肉を云う時の笑いを浮かべて頷くのでありました。
「あの人はその会社でどんな仕事をしているのかしら」
「営業回りだとか聞きましたよ」
 頑治さんが応えるのでありました。
「どう見ても、新しい玩具のアイデアを出したりするような仕事とは思われないわね」
「本業の工作機器の営業の方だそうです。お菓子メーカーとか缶のジュースやお茶、それにコーヒーとかの飲料品メーカーがお得意先だそうです」
「唐目君は結構来見尾さんの事を知っているのね」
 那間裕子女史は改めて頑治さんの顔をまじまじと見るのでありました。
「あの居酒屋の宴会の席で偶々隣に座ったから、ちょこちょこっとそんな話しをしただけですよ。何となく手持無沙汰そうにしていらしたから」
「その会社、従業員はどのくらい居るの?」
「確か二十五人程とか聞きましたね」
「うちなんかの倍以上ね」
「メーカーだから何やかやでそのくらいの社員は居るだろう。それでもまあ、町工場と云った感じだろうから、製造業としては小規模と云うところかな」
 均目さんが解説を差し挟むのでありました。
「来見尾さんは結婚していて、小学校三年生のお子さんが居て、安月給だからこの先中学高校と、教育費の事を考えると頭が痛いとかおっしゃっていましたよ」
「へえ、結婚しているんだあの人」
 那間裕子女史はまたもや意外だと云う顔をするのでありました。
「この先、その辺りはウチの山尾主任とも色々話が合うんじゃないかな」
 均目さんがここで山尾主任の結婚の方に話しの舳先を曲げるのでありました。組合関連の諸事よりもそちらの方に均目さんとしては関心がある風でありますか。

 そうこうしている内に歳は改まり、六日間の年末年始休みもあっという間に過ぎるのでありました。頑治さんは特に何する事も無く一人で正月を過ごしたのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 197 [あなたのとりこ 7 創作]

 年末も三十日までは三日間程、寒風の吹くどんよりとした天候で時折冷たい雨もしと降っていたのが、大晦日と正月三が日は打って変わってうららかな日和が続くのでありました。そう云えば子供の頃迄は東京よりは暖かな郷里でも冬には冷たい雨や雪の翌朝には、必ず軒先から氷柱が下がって居たりしたものでありましたが、東京に来て以来氷柱等と云う冬の季題のような代物は見た例が無いのでありました。こう温暖になると歌詠みの人も顰め面をするしかないであろうと、頑治さんは余計な心配をするのでありました。
 暮れの二十五日に夕美さんは帰省したのでありました。夕美さんが乗る新幹線は頑治さんの出勤前の早朝便であったから、頑治さんは発奮して東京駅の新幹線ホームまで見送りに行くのでありました。歳が明けて四日には戻ると云う事だから、その日にまた頑治さんは今度は出迎えに来ると出発前の列車の出入口で夕美さんに約すのでありました。
 大晦日の夜は本を読みながら歳を越し、布団に潜り込んだのは四更を過ぎてからでありました。依ってすっかり朝寝をして起き出したのは元日の昼頃でありましたか。
 近くの商店やら食い物屋はほぼ総て正月休みでありました。依って昨年から残っていた食パンにこれも昨年買った苺ジャムをぬたくって腹を満たし、湯を沸かしてインスタントコーヒーで口を漱ぐと、頑治さんは正月早々特段に遣る事も無いからと、酔狂から人並みに湯島天神に散歩がてらの初詣と洒落込むのでありました。
 湯島天神は大層な人混みで鳥居の外まで長い行列が出来ているのでありました。拝殿迄辿り着くのには相当の時間を要するであろうと恐れ戦いて、あっさりと初詣を諦めるとその儘上野方面へ向かって歩を曲げるのでありました。
 鈴本演芸場で正月興行でも観るかと算段したのでありましたが、大体正月の寄席は看板どころの勢揃いではあるものの、あくまで顔見せ程度の短い高座となるため、噺をじっくり堪能すると云う風にはいかないものだから止すか、と不忍池の畔で変心して、その儘浅草方面へと爪先の向く方角を変えるのでありました。
 勿論浅草寺も湯島天神と同様、それに演芸ホールも鈴本演芸場と同様の様相であろうからこれは端から頭には無く、新仲見世か六区辺りでは元旦から営業している食い物屋もあろうから、そこで夕飯にあり付こうと云う目論見であります。こうなるとこれはもう敢えて元旦に敢行するべき外出ではなく、普段のうろちょろとちっとも変わらないと云うところに落ち着く訳でありますが、まあ、土台正月行事なんと云うものとは頑治さんは縁遠いと云えば慎に縁遠い気儘暮らしであります故、宜なる哉と云うべきものでありますか。
 二日になると初売りと意気込む訳ではないようながらも、ぼつぼつ近所の商店も店開きを始めるところが出て飯に困る事は無いのでありました。お茶の水や神保町界隈の本屋や古本屋、それに食い物処等も出入口の鍵を開けるところもあって、普段と比べると街の人通りや車通りは嫌に疎らであっても相応の賑わいも戻って来るようであります。
 この二日の昼近く、未だ布団の中に居た頑治さんは電話の呼び出し音に惰眠を破られるのでありました。受話器を取る前に夕美さんからだろうとピント来たのでありましたが、果たして夕美さんの声が寝覚め遣らぬ耳の洞穴に流れ込んで来るのでありました。
「明けましてお目出とう。何していたの、朝寝?」
(続)
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あなたのとりこ 198 [あなたのとりこ 7 創作]

「ご明算」
 頑治さんは寝惚け眼を擦りながら少し掠れた声で肯うのでありました。
「寝正月なんて羨ましいわね」
「正月は寝る以外に遣れる事があんまり無いからね」
 頑治さんはここで欠伸をして見せるのでありました。「どうだいそっちは?」
「何時ものお正月より暖かいみたい」
「こっちも温かくて寝正月日和だね」
 頑治さんはもう一度欠伸するのでありました。
「今お父さんと兄は夕方迄あっちこっち年始回りに行っているのよ」
「お母さんは?」
「何となく気分が優れないからって、部屋で寝ているわ」
「どんな具合だい、お母さんの様子は?」
 この辺から頑治さんは頭の中の霞が晴れてくるのでありました。
「六日に精密検査で市立病院に入院する事になっているの」
「食事が儘ならないとか云っていたけど」
「そうね、夏に見た時より大分痩せたわね」
「心配な事だなあ」
「まあ、精密検査で色々はっきりするんじゃないかしら」
「そうだな、精密検査待ちって感じかな」
 ほんの少しの間が空いた後、頑治さんは話題を変えるのでありました。「ところで、そっちの友達には、もう何人かと逢ったのかな」
「今晩、高校の時の同窓会があるの。と云っても、三年の時の同じクラスだった六七人でお食事会って感じなんだけどね」
「学校全体の行事、と云う訳ではないんだ」
「そう。何となく仲間内で声かけて集まるって云う感じ」
「ミッション卒業の女子ばかりだから、大勢で酒喰らってドンチャン騒ぎは無い訳ね」
「まあ、そう云うのも全くしない訳じゃないけど」
「ま、お母さんの事はあるけど、楽しんでおいで」
「うん、楽しんでくる」
 夕美さんの声の調子は特段楽しみにしているようではないのでありました。
「四日の新幹線の指定席はもう取れているのかな?」
 頑治さんはまた話しの舳先を曲げるのでありました。
「うん。昼の三時に東京駅到着のひかり」
「判った。ホームまで迎えに行くよ」
「正月休みでのんびり朝寝したいだろうから良いわよ、態々来なくても」
「どんなにダラダラ朝寝したとしてもその頃には起きているよ。それにもう、朝寝、じゃないし。腹も、減るし。基本的に一人暮らしは正月には特に何もやる事が無いもの」
(続)
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あなたのとりこ 199 [あなたのとりこ 7 創作]

「そう云う事なら」
 夕美さんはあっさり頑治さんの厚意に甘える気になったようであります。「多分東京の叔母の家とかその他に、こっちの親類から預かったお土産とか届け物があれこれあると思うから、荷物が多くて大変になると思っていたの。来てくれたら本当は大助かりよ」
「そう云う事なら張り切ってお迎えに参上いたしますぜ」
 頑治さんはここが忠義の見せどころと意気込みを見せるのでありました。
「頑ちゃんにもお土産買って行くけど、何か希望はある?」
「夕美が無事に戻って来るのが何よりのお土産かな」
 頑治さんはそんな冗談を調子良く飛ばすのでありましたが、まあ、冗談は二分で八分方は本心ではありましたか。「そいで以って序に、玉川デパートの中に在る甘屋本舗のカルメ焼きでも貰えたらこんなに嬉しい事は無いかなあ」
「そんなので良いの?」
「小学校の頃からあれが何より好きだったんだよ」
「ふうん。判ったわ、カルメ焼きね」
「そう。甘屋本舗の」
「はいはい。甘屋本舗のカルメ焼きを買ってくるわ」
 電話越しにそんな他愛もない会話を交わしながらも、頑治さんはふと懸念を抱くのでありました。それは夕美さんのお母さんの病気が、ひょっとしたら夕美さんの今後の進路を決定する重大な要因になるのではないかというものであります。何やら事態は少し複雑な陰影を増し始めたような気配がするのでありました。

 新年早々に会社の中で人の配置を変える提案が持ち上がるのでありました。それは降って湧いたような唐突な提案で、労働組合結成にかまけていた社員の間に少なからず動揺が起こるのでありました。その中でも一番動揺したのは山尾主任でありましょうか。
 五日の初出社日の終業一時間程前に倉庫で梱包作業をしていた頑治さんは、土師尾営業部長から上に上がって来るようにとの指示を内線電話で受け取るのでありました。急ぎの発送仕事が出来たのかと思って事務所に上がると、出入り口奥の応接ソファーの辺りに社員全員が集合しているのでありました。何やら妙に深刻な雰囲気であります。
 二つ並んだ一人掛けのソファーに土師尾営業緒部長と片久那制作部長が座り、対面する長ソファーに日比課長、真ん中に山尾主任、それから袁満さんと窮屈そうに三人並んで腰をかけて、どこか居心地悪そうな面持ちで畏まっているのでありました。袁満さんと出雲さんの机は応接ソファーを背後にする位置にあるのでありますが、袁満さんの席に那間裕子女史が座り、出雲さんの席には均目さんが座っていて、椅子をくるりと回してソファーの方に体を向けているのでありました。出雲さんと甲斐計子女史は出雲さんの机の横の通路スペースにどこか体を斜にしたような雰囲気で無表情で立っているのでありました。
 立っている出雲さんの横に頑治さんが並ぶと、土師尾営業部長が社員全員打ち揃ったのを確かめるように一同を見回すのでありました。こちらも嫌に深刻顔であります。
(続)
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あなたのとりこ 200 [あなたのとりこ 7 創作]

 片久那制作部長はソファーに深く背を凭せ掛けて不機嫌そうに腕組みしているのでありました。片久那制作部長が口をへの字にして全く開かないものだから、ここは自分の出番と思ってか土師尾営業部長が小難し気な顔で重々しく喋り始めるのでありました。
「新年の仕事始め早々、こうして全員に集まって貰ったのは、これから会社の将来とか喫緊の人員配置なんかについて話すためです」
 一応丁寧な物云いはしているもののその実、問答無用と云ったような高飛車な調子に聞こえるのでありました。「昨年の暮れに支給されたボーナスでも判ると思いますが、最近に無い業績不振で、今会社は大変な岐路にあります。この儘何も方策を講じないで手をこまねいていれば、会社の存続が不可能と云う状態にまで陥るのは明らかです」
 それから土師尾営業部長は手元の紙に目を移すのでありました。「出張営業の売り上げが毎年々々じり貧になっているのは云う迄も無いですが」
 ここで土師尾営業部長は袁満さんと出雲さんの顔を挑むような目で交互に見るのでありました。出雲さんはオドオドと目を伏せるのでありましたが、袁満さんはそう云う土師尾営業部長の云い草に不満があるように口を尖らせるのでありました。
「でも、まあ、確かに売り上げは落ちていますけど、去年は一昨年と比べてそんなに極端な落ち込みと云う訳ではないと思いますがね」
 袁満さんは後ろ目たそうにではあるにしろ異議を唱えるのでありました。
「袁満君はそう云うけど、出張営業全体の売り上げで云うと十五パーセントの減少になる。袁満君は自分の仕事だから勿論その数字は掌握している筈だろう」
「そう、なりますかねえ。・・・」
 袁満さんは何となくたじろいだような表情で曖昧な返事をするのでありました。ひょっとしたら袁満さんはちゃんとした数字を持っていないのかも知れないと、頑治さんはその顔色からふと不安になるのでありました。数字に関してはすっかり甲斐計子女史に任せきりなのかも知れません。現場に居るから売り上げが減少していると云う実感はあるのだとしても、しかしそうなら、怠慢の誹りを免れ得ないと云うべきでありましょうか。
「まあ、出張営業の不振は恒例の事だから、十五パーセントと聞いてもそれ程驚く事はないけど、問題は特注営業の方の売り上げの落ち込みが深刻です」
 袁満さんとの個別の遣り取りの時にはそうではなくなった言葉が、また丁寧さを取り戻すのでありました。特定の個人ではなく全員に話す時には丁寧な口調になるよう変化を付けているようでありますが、それがどのような判断からかは頑治さんには良く判らないのでありました、殆ど意味の無い区別だとしか思えないのでありますが。
「確かに今年は、毎年受注している大口が二件ありませんでしたからねえ」
 日比課長があっさり同調するのでありましたが、当の特注営業を担当している人の言と云うよりはどこか他人事のような無神経な、呑気そうな云い様でありました。
「そう。日比君が担当している二社からの発注が無かった」
 土師尾営業部長は例に依って年上の日比課長を君付けにするのでありました。役職の上ではなく自分より格下の営業マンとして日比課長を見ているためでありましょう。
(続)
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