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あなたのとりこ 162 [あなたのとりこ 6 創作]

「へえ、そう。頑ちゃんの初ボーナスね」
 夕美さんの声が弾むのでありました。
「まあ、そう云う事になるんだけど。・・・」
「だったら丁度良いじゃない。初ボーナスを祝って何処かでお食事しましょうよ」
「いやまあ、ちゃんとボーナスが出るのなら、ここが一番日頃の恩返しの総決算、と云う感じで得意になって驕るんだけどね」
「と云う事は、ちゃんと出ないの?」
 夕美さんの声の勢いが萎むのでありました。
「その可能性が大かな」
「そう云えばそんな事云っていたわね。業績不振で冬のボーナスが出ないかもって」
「今、従業員の間で、その件について色々騒然としているんだよ」
「ふうん。色々大変なんだ」
「尤も何時もの年通りに支給されたとしても、俺は算定される就業日数が少ないから皆と同じ割合では貰えないらしいけどね」
 これは前に均目さんから聞かされた事で、何でも四月から九月迄の六か月が暮れのボーナスの算定対象月数と云う事であります。頑治さんの就業日数はその期間の内にほんの少し掛かる程度でありましたから、依って慎に微々たる額になる計算であります。均目さんもそうであったし他の従業員もそう云う按配であったと云う話しでありました。
「でもまあ良いじゃない。恩返しの総決算は後日と云う事して、初ボーナスには違いないんだから、ちょっとお祝いしても罰は当たらないわよ、屹度」
「と云う事は、ひょっとしたら罰が当たるかも知れないと云う事か」
「大丈夫。そんなちっちゃな事で罰を当ててやろうとか、秘かに頑ちゃんを付け狙っている程、神様は暇じゃないと思うから」
「それはそうだ。俺もそんなに神様から目の敵にされるような覚えは、今のところ無いと思うもの。でもまあ、お祝いの件は置くとしても、支給日当日はひょっとしたら対策を話し合うために、仕事が終わってから従業員の会合があるかも知れないから、矢張りその日は外して置いた方が無難かも知れないな。逢えないのは残念なんだけどね」
「ああそう」
 夕美さんの声には大袈裟な落胆の響きが籠るのでありました。
「何とも申し訳無い」
 頑治さんは思わずお辞儀をしているのでありました。
「でも良いわ。それなら土曜日に行く」
「土曜日なら大丈夫だと思うよ」
「尤も昼間は学校と千葉の市川に行く用事があるから、その帰りに寄るわ」
「市川と云うと、遺跡かな?」
「そう。多分夕方の六時頃になると思うわ」
「夕方六時ね。ちゃんと家に居るようにするよ」
(続)
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あなたのとりこ 163 [あなたのとりこ 6 創作]

「時間とか変更があるようなら電話するわ」
「判った。まあ、その前にもこっちから特に用は無くとも電話すると思うけどね」
 頑治さんは自分のこの云い草が、その気は特に無かったのに甘えた調子になったような気が、云った直後にして少しきまりが悪いような心持ちがするのでありました。
「うん。じゃあ、土曜日」
 夕美さんはそう云ってから、切るのを躊躇うようなほんの少しの間を置いた後に、耳にしていた受話器を静かに掛け台の上に置くのでありました。
 考えてみればこの暮れのボーナスてえものは、通常通りに支給されたとしても、元々頑治さんはほんの少ない額しか貰えない筈であります。或いは規定によりひょっとしたら頑治さんにボーナスは出ないかも知れないのであります。出ないか、或いは出ても皆と違ってほんの少額であろうと云うのに、満額を貰えないと憤る山尾主任以下の従業員達と一緒になって憤怒する謂れ等は、自分には無いような気がするのでありました。
 頑治さんが他の先輩従業員達との会合に顔を出すのは、まあ、云ってみればお付き合いと云う以上の意味は見出せない訳でありますか。自分の益にもならないものに意に背いて時間を割かなければならないと云うのは、慎に以って不条理と云うものであります。しかも夕美さんとの逢瀬の時間を割かなければならないとなれば、これはもう、不条理中の不条理、不条理の主席代表みたいなものと云うべきではありませんか。
 電話を終えた後に頑治さんはそんな事を考えるのでありました。頭の中に陰鬱な霧が立ち込めるのでありました。しかしまあ、それを力を奮って何が何でも振り払おうとする程に、頑治さんは我利優先の人でも尊大な人でもないのでありましたけれど。

 この会合の次の日、どうしたものか山尾主任は会社を休むのでありました。朝一番に本人から有給休暇申請の電話が入って、それを早く来ていた甲斐計子女史が受けて、出社して来た片久那制作部長に伝えるのでありました。片久那制作部長は全く事務的にそれを聞いて、一つ頷いてからその後は昨日来の自分の仕事に取り掛かるのでありました。
 昨日の会合で山尾主任なりに疲かれ果てて、ストレスから体調を崩したのでありましょうか。いやしかし、あんなくらいで精魂尽き果てる筈はないでありましょう。若しそう云う事であるのなら、それは幾ら何でも余りに頼り無さ過ぎると云うものであります。
 と云う事はその日の終業後に予定していた従業員会合はお流れになるのかしらと頑治さんは内心ホッとするのでありました。しかしそうは問屋が卸さないのでありました。
 そろそろ昼休みと云う時間になって今度は袁満さんから電話が入るのでありました。袁満さんはその日は信州出張の代休を取っていたのでありましたが、夕方からの従業員会合には億劫でありましょうが出て来る予定になっているのでありました。
 その電話には偶々均目さんが出たのでありました。袁満さんに依れば、何でも山尾主任から袁満さんの家に午前九時頃電話があって、その日の従業員会合は予定通り開催してくれとの指示を伝言されたと云う事でありました。袁満さん同様、山尾主任も議長格の責任から、体調不良を押して喫茶店での従業員会合には出て来る了見のようでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 164 [あなたのとりこ 6 創作]

 袁満さん経由の山尾主任の指示はすぐに均目さんから那間裕子女史に、それから倉庫で仕事をしている頑治さんにも齎されるのでありました。内心の安堵も午前中だけで、矢張りその日の従業員会合は開かれると聞いて頑治さんは少しの落胆を覚えるのでありました。別に流れたからと云って夕美さんと逢える訳ではないけれど、秘かな億劫であるのは間違いの無い事でありました。前日考えたように特段の益も無いのでありますし。
 仕事が終わってから頑治さんが均目さんと那間裕子女史と三人で揃って事務所を出て、重くなりがちの足取りを隠しながら、件の御茶ノ水駅近くの喫茶店に到着すると、既に山尾主任と袁満さんは来店しているのでありました。それにその席には、二人に挟まれて真ん中にもう一人、白と茶色のチェックのセーターを着たなかなかに体格の良い、山尾主任よりも年嵩に見える見知らぬ男が一緒に着席しているのでありました。
 遅れて到着した三人は夫々座席に腰を落しながら、その、四角い顔で密集した強そうな短い縮れ毛を頭に載せた、髭剃り跡も青々しい、やや強面の男を気後れがちに窺い見るのでありました。頑治さんが学生時代にアルバイト先の建設現場でよく見かけた事のある、肉体労働専一に今迄仕事をしてきたと云ったようなタイプの男でありますか。
「紹介しておくよ。この方は全国労働組合総連盟の横瀬兼雄さん」
 山尾主任が横に居る男を、掌を上にした手で遠慮がちに指し示しながら紹介するのでありました。強面の男は「よろしく」と云って小さく頭を下げながら、向かいの席に並んで座った均目さんと那間裕子女史、それに頑治さんに、膝の上に置いていた黒皮のコートのポケットから取り出した名刺を順に手渡しながら小さく頭を下げるのでありました。
 受け取った名刺には上部左に空押しのマークとその横に続けて、全国労働組合総連盟、とあって、その下に当人の名前が少し大き目の明朝体文字でほぼ真ん中に記してあり、名前の上には、小規模労組・組織部担当委員、と云う肩書きが小さなゴシック体で書いてあるのでありました。右下には組合の郵便番号と所在地、それに電話番号がこれも肩書きと同じゴシック体文字でやや小さく書かれているのでありました。
 恐らくボーナス支給日の当日に、土師尾営業部長の前に並べるべき文句の数々を考えていて、考えに窮した山尾主任が些か早手回しの誹りは免れないかも知れないけれど、電話かそれとも態々訪ねて行ってか、労働組合に助言を求めたのであろうと頑治さんは推測するのでありました。それを受けて速やかに労働組合総連盟が動いたのでありましょう。
 その男の不意の出現で那間裕子女史は屹度、山尾主任の早手回しを早速誹りたそうに眉根を寄せているのでありましたが、当の男の手前、それは流石に憚るのでありました。頑治さんもその出現の唐突感と、事が急に大袈裟になったような雲行きに驚きを覚えるのでありましたし、均目さんの方も頑治さんと同様でありましょう。
「昨日の話し合いで、俺達だけで何やかやと話していても始まらないように思ったから、独断だったけど全国労働組合総連盟に相談を持ち込んだんだよ」
 山尾主任が経緯を語るのでありました。
「袁満君と一緒に?」
 那間裕子女史が眉根を寄せた儘で袁満さんの方に小首を傾げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 165 [あなたのとりこ 6 創作]

「いや、俺もここで初めて知ったんですよ」
 袁満さんが那間裕子女史の些かきつそうな視線に怖じたのか、慌てて両手を横に何度も振って見せるのでありました。
「もう明後日がボーナス支給日なんだから、早く対策を決めて置かなければならない。昨日の話し合いで俺達だけではとても手に負えないような感じだったから、その道の専門家に助けて貰うしかないと思うんだよ。そうじゃないかい、那間君?」
 今度は山尾主任が小首を傾げるのでありました。
「それはそうかも知れないけど、・・・」
 那間裕子女史は俄には頷かないのでありましたが、その何の断わりも無い独走は許し難いけれど、山尾主任のお先走りも無愛想に鮸膠も無く隅に片付けて仕舞う訳にもいかないかと、内心の逡巡を言葉尻に垣間見せるのでありました。
「すぐに労働組合を結成しなさいと云う心算は無いですよ」
 横瀬氏が横から言を挟むのでありました。「色々と、労働組合と云うものに対して皆さんの考えもあるでしょうからね」
 その言葉を聞いて那間裕子女史は首を傾げた儘で視線を山尾主任から横瀬氏に移すのでありました。警戒心から眉間の皺もその儘刻んであるのでありました。
「取り敢えず今日のところは、直近のボーナス支給日の対応についてアドバイスを貰うだけだよ。労働組合結成の問題はまた後の話しだし、それは横瀬さんも承知の上だよ」
 山尾主任が云うと那間裕子女史の視線はまた山尾主任の顔に戻るのでありました。
「じゃあ、今回の件に対してどのようなアドバイスがいただけるんでしょうか?」
 那間裕子女史の言葉に籠る棘が未だ丸まっていないのを見ると、何時もの女子の性向に鑑みて、女史はこの横瀬氏が直感としてあんまり好きになれないようでありますか。
「何でも山尾さんの話しに依れば、何時もの暮れの一時金が今年は出ないか、或いは出ても極めて少額の可能性があると云う事ですけどね」
 横瀬氏は少し前屈みに、つまり身を乗り出すのでありました。「会社の業績だけでそれが決まるのなら、それは仕方が無いと云う事になります」
 聞いていた頑治さんは横瀬氏のその言辞に意外の感を抱くのでありました。労働組合関係の人であるなら、それは労働者の生活を考慮だにしない慎にけしからん事だから、大いに団体交渉で反駁しろと嗾けるものと思っていたのでありましたが、会社の業績が不振ならボーナスが出ないのも仕方が無いと云う事のようであります。ボーナスを、一時金、と云い換える辺りは、如何にも労働組合的な人であるとは感じるのでありましたが。
「じゃあ、ボーナス無し、或いは微々たる額を受け入れろとおっしゃるのですか?」
 那間裕子女史が労働組合関係者にあるまじきその言葉に気色ばむのでありました。無責任に一体何のアドバイスをしに遣って来たのか、と云ったところでありましょうか。
「まあまあ、そう早とちりしないで」
 横瀬氏は掌を那間裕子女史に見せて女史の苛々を制するのでありました。この手合いと話しをするのは慣れている、と云った余裕が感じられるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 166 [あなたのとりこ 6 創作]

 横瀬氏は少し間を取るためかコーヒーを一口悠長に啜るのでありました。那間裕子女史の方は何を勿体付けているのかと云ったような、苛々を隠さない目でその様子を睨み付けながら氏の次の言葉を待つのでありました。
「無い袖は振れない、と云う事は至極尤もな理屈ですよ」
 横瀬氏はコーヒーカップを小さな音を立てて受け皿に戻すのでありました。「しかしその理屈を覆させるためにはあれこれ手が必要なのですよ。一つは、一般的に会社にはいざと云う時のために一定の資金が必ず蓄えられている筈です。ですからそれを一時金に当てて貰う事は交渉次第で可能です。まあ、何だかんだと尤もらしい理由を云い連ねて抵抗するでしょうがね。しかしながら先ずはそれを踏まえた上で交渉すると云う事です。必ず原資は有るのだと云う、こちらが揺るがないだけの確信と情報と気概が必要ですな」
「気概、ですか?」
 那間裕子女史は落胆と懐疑の色を言葉に載せるのでありました。「心構えと云うのか、絶対ぶん取るぞと云う気持ちがこちらにあればボーナスが必ず出ると云う事ですかね」
「そうです。先ずはそれが一番大事です」
 横瀬氏は那間裕子女史の揶揄的な云い草をあっさり往なすのでありました。「もう一つ私は、情報、と云いましたが、どのくらいの留保金があるのかを知っておいた方が良い。交渉で向こうが出せるギリギリの線を予め決めておくためにね」
 それは尤もな事であろうと、頑治さんは横是氏にも那間裕子女史にも、それに袁満さんにも山尾主任にも均目さんにも気取られない程度に小さく頷くのでありました。
「甲斐さんに訊けば知っているだろうな」
 山尾主任が頑治さんとは違って皆にはっきり知れるように頷くのでありました。
「でも、おいそれと教えてくれますかね」
 均目さんが首を傾げるのでありました。
「自分の貰うボーナスにも絡む訳だから、訊けば俺達にも教えてくれるんじゃないの。甲斐さんも土師尾営業部長の事は嫌っているし、社長とべったりと云う事でもないから」
 袁満さんが楽観的な推測をものすのでありました。
「そんなに都合好く教えてくれるかなあ」
 均目さんは首を傾げた儘薄笑いを浮かべるのでありました。
「その、甲斐さんと云うのは?」
 横瀬氏が均目さんの方を向いて訊くのでありました。
「会社の会計を担当している女性ですよ」
 山尾主任が代わって応えるのでありました。
「そう云う人は必ず味方に付けておいた方が良いですね」
 横瀬氏が云うと山尾主任は律義そうな顔でこっくりをするのでありました。
「明日、俺の方からそれとなく聞いてみますよ」
 山尾主任の言に横瀬氏は満足気に頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 167 [あなたのとりこ 6 創作]

「甲斐さんとやらの事はそのくらいにして、・・・」
 横瀬氏は先程の話しに戻ろうとするのでありました。

 横瀬氏はコーヒーをまた一口飲んで続けるのでありました。
「会社に少し無理をさせるためには、実は企業内だけで交渉しても弱いのです。留保金の事にしても、云ってみれば社内の事情ですから、切り崩すとこの先経営が困難になると云われれば、こちらの根拠よりも向こうの経営的根拠の方が切迫感に於いて些か優る。一時金が出なければ、それで明日即刻こちらが飢え死にする訳でもないでしょうからね。精々家のローンの支払いのために預金が減るとか、買おうと思っていた洋服が買えないとか、予定していた旅行の資金が足りないとかですからね、こちらの要求の主たる拠点は」
「ああ、昨日話しに出た、ええと何だっけ、可処分所得、だっけ。それの事ね」
 袁満さんが頑治さんの方を見て笑うので、頑治さんも笑い返すのでありました。
「そうなると企業を越えた横の繋がりが、大いに意味を持ってくるのです」
 横瀬氏は袁満さんと頑治さんの笑い顔に一顧も無く話しを続けるのでありました。「同業他社に比べてウチの待遇は、と云った話しが出来るようになります」
「それはそうでしょうけど、会社の大きさも違うだろうし、業態も売り上げもバラバラでしょうからね、一概に同列で比較する事は出来ないですよね」
 均目さんが疑問を投げるのでありました。
「確かにその通りです。しかし全総連、つまり全国労働組合総連盟には同業他社の賃金や一時金の実績が情報として共有されていますから、同じ程度の業績で他社がどのくらい出しているか、と云ったところを交渉に於いて経営側に示す事は出来ます。他がこのくらい頑張って一時金を出しているんだから、ウチももう少し頑張って貰わないと、とかね」
「それでも、他とウチとでは事情が全く違う、と一蹴される場合もある」
 均目さんはなかなか折れないのでありました。
「それは経営側が良く使う科白です。特に従業員二十人以下の小規模企業では、経営側の典型的常套句となっています。しかし個別の事情を多少は考慮するにしても、業績や営業規模が他の会社と同程度なら、その個別性が従業員の賃金や一時金を決める決定的条件にはならない。ウチとほぼ同規模、同業績の会社がこれだけ頑張って従業員を待遇しているのだから、ウチも決して出来ない筈はないし、どうしても出来ないと云うのなら、それは経営側に何か問題があるのではないか、と畳みかけられると云う事ですよ」
「まあ、交渉術としてはそうですかね」
 均目さんは納得しないような顔で一応納得するのでありました。
「それに全総連では産業別の賃金や一時金の達成目標、獲得目標を前面に打ち出しますから、全総連加盟労働組合ならその絡みも交渉に於いて使えます。産業の枠を超えた働く者総ての権利とか団結とか、そう云ったものは結構初心な経営側には利きますよ。企業を越えて団結していると云うのは、一企業の経営にとっては大いに脅威ですからね」
「つまり、鉄道の統一ストライキ、とかですかね?」
(続)
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あなたのとりこ 168 [あなたのとりこ 6 創作]

 袁満さんが何となくイメージしたのかそんな事を云うのでありました。
「まあ、それも闘争手段の一つではありますね。一企業を越えて団結していると色んな交渉戦術があると云う事ですね、つまり」
 そう云って横瀬氏はここでコーヒーを飲み干すのでありました。
「矢張り全国組織下の労働組合を創るしかないかなあ」
 山尾主任もまるで横瀬氏を真似るように自分のコーヒーカップを空けて、独り言のように呟きながら首を何度か縦に振るのでありました。この山尾主任の言に誰も即座に何の反論も口にしないのを見定めて、横瀬氏は空かさず言葉を重ねるのでありました。
「若し労働組合を結成すると云う事であれば、この暮れの一時金に対する対応も、その何とか云う営業部長を取り囲んでただ繰り言をぶちまけると云うやり方ではなく、もう少し労組結成と云う路程の上に戦略的位置付けられた闘争であるべきでしょうね」
「土師尾営業部長です」
 山尾主任が、何とか云う営業部長、のその、何とか、の部分を補うのでありました。
「そうそう、その土師尾と云う名前の営業部長、に対する対応ですね」
 この辺の山尾主任と横瀬氏の何となく呼吸の合った言葉の遣り取りを聞いていて、労働組合結成と云う既定路線が二人の間でもう出来上がっていて、そう云う方向にこの場の話しを持って行こうとしているような作為を頑治さんは感じるのでありました。
「じゃあ、どう云う方法が良いのでしょうかね?」
 山尾主任が予め決められていた、ような、科白をここで発するのでありました。
「何もしないのです」
 横瀬氏があっさりと云うのでありました。
「何もしない、のですか?」
 山尾主任が少し驚いて見せるのでありました。その山尾主任の反応に同調するように、皆の視線が横瀬氏の顔に向かうのでありました。
「そうです、何もしないのです」
 横瀬氏はここに居る全員の興味が集まったのを見定めるように夫々を見回してから、その先を続けるのでありました。「組合結成を画策している、或いは未だ画策はしていないけれど、そう云う方向に皆の気持ちが向かうかも知れないと云う懸念を全く抱かせないために、気落ちはするけど恭順する、と云う態度を一先ず装っておくのです」
「何もしない、と云う芝居をするのですね」
 山尾主任が感心したような顔で頷くのでありました。
「後日の組合結成の成功を考えるなら、ここはその何とか云う営業部長の前ではそれを噯にも出さない方が賢明な対応と云う訳です」
「土師尾営業部長、です」
「ああそうそう。その土師尾と云う名前の営業部長の前では」
 山尾主任と横瀬氏はまた先程の遣り取りを繰り返すのでありました。頑治さんはこの二人の様子に些かげんなりするのでありましたがそれは噯にも出さないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 169 [あなたのとりこ 6 創作]

 横瀬氏は土師尾営業部長の事をこの段階では殆ど何も知らない筈であります。その為人も風貌も、社員からどのように思われているかも。依ってその人の事を語るのに、この段階ではある種の敬意を払った云い方をするのが普通の感覚でありましょうか。
 しかしその物腰からはそんな気配は微塵も感じられないのでありました。寧ろ社員から全く疎んじられていると云う予備知識のためにか、一定程度軽侮したような云い方をしても構わないし、或いはその方が返って受けが良いかも知れない、と云う心根の中の臆断が仄見えるのでありました。勿論その予備知識は山尾主任から得たものでありましょう。
 更に山尾主任と横瀬氏の間では、既に全総連に加盟する労働組合の結成、と云う見取り図が描かれ共有されているのかも知れません。眼前で展開されている二人の掛け合いを見ていると、そこにはこの目的達成のための大まかな台本が用意されていて、二人で今、それを忠実になぞり演じているような気も頑治さんはしてくるのであります。いやまあ、これとても、頑治さんのふと感じた印象からの勝手な臆断かも知れませんけれど。

 店内の談笑する声や流れる音楽、それにカップやグラスが立てる音のざわつき中で、ほんの暫くの間、座の空気は沈黙の谷間に揺蕩うのでありました。
「ではこの暮れのボーナスに対して我々が何もアクションをしないとなると、その先に描くべきシナリオと云うのはどうなるのですかね?」
  均目さんが身を乗り出してやや下方から横瀬氏に視線を向けるのでありました。
「それは、春闘、と云う焦点に事になりますね」
 横瀬氏は均目さんの目は特に意識しないで、席に座っている夫々の顔をどこか値踏みするような目で眺め回すのでありました。
「春闘、ですか?」
 那間裕子女史が横瀬氏の言葉を繰り返すのでありました。
「そうです。これからは組合結成準備と内部の団結強化、それに他の全総連加盟単組との連携と云うところに力を傾注して、統一要求とは別に貴方達の独自闘要求も練り上げて、春闘時に組合結成を公然化して、要求を経営側に突き付けると云う事になりますかな」
「春闘で突然組合結成通告して、暮れのボーナスの仕返しをしようと云う訳だ」
 袁満さんが如何にも痛快そうに云うのでありました。
「いやまあ、意趣返しとは少し意味合いが違いますが、春闘と連動した方が闘争効果やらあれこれの面で好都合なところ多々でしょうからねえ」
「我々が創る労働組合が春闘の統一要求にコミットしていれば、全総連が我々のバックに付いている事も明確に示す事にもなるから、確かに会社側には脅威だろうな。下手な対応や回答だと全総連が許さないぞと云うメッセージになるだろうし」
 山尾主任の言は、もう組合結成が既定路線であるかのような、お先走りの科白に頑治さんには聞こえるのでありました。これは頑治さんだけではなく均目さんもそうであるようで、均目さんは山尾主任の前のめりの姿勢に水を差そうとするのでありました。
「未だ労働組合結成を、我々が正式に決定した訳でもないですけれどね」
(続)
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あなたのとりこ 170 [あなたのとりこ 6 創作]

 山尾主任がその均目さんの言に少し不愉快そうな顔をするのでありました。
「それはそうです」
 横瀬氏の方は均目さんのような意見に大いに配慮しているところを見せるためか、静穏な顔で頷くのでありました。「それは貴方達がこれから決める事ですから、私は口を差し挟みません。今日は請われて単にアドバイスにしゃしゃり出て来ただけですからね」
 横瀬氏のこの辺の腰の引き方なんと云うものは、身熟しが臨機応変で老獪なのか、それとも徒に敬遠されないようにするためのこの場に於ける単なる見え透いた控え目なのか、頑治さんは俄に判断に迷うのでありました。この横瀬氏と云う仁が食えるか食えないかの判断は、未だもう少し先と云う事になるでありましょうか。
「しかし、ボーナス支給日までもう日も無いんだから、ここは春闘睨みの組合結成、と云う事に速やかに決めた方が良いんじゃないかな」
 山尾主任がやや焦ったように云い添えるのでありました。
「でもそれは少し強引でしょう。組合結成と云う件はここで唐突にではなく、もう少し時間をかけて話し合って決めた方が良いんじゃないですかね」
 均目さんが異を唱えるのでありました。
「でも均目君、さっきから何度も云っているけど、春闘迄時間が無いんだぜ」
 山尾主任が少し焦りを強めて云い募るのでありました。
「確かに、組合を結成するのが今の段階では一番妥当な選択かも知れないわね」
 那間裕子女史がふと言葉を漏らすのでありました。
「俺もどんな手を遣ってでも土師尾営業部長に吠え面かかしてやりたいなあ、何とか」
 袁満さんも遠慮がちに私憤混じりのような賛同を表明するのでありました。
「唐目君はどうかな?」
 山尾主任が頑治さんの顔を見るのでありました。
「まあ、俺は新参者で今度のボーナスに関しては蚊帳の外に居ますから、無責任のようですが殊更の意見は無いです。でも皆さんが組合結成と決めるのなら俺も従いますよ」
 明言を濁した立場表明回避の、ある意味で卑怯な云い草でありあますが、明言しないところに頑治さんの消極的な気配を汲んで欲しいものでありましたけれど。
「そうすると組合結成賛成が三に棄権が一、反対が一と云う事になるかな」
 山尾主任がそんな集計をして見せるのでありました。
「ここに居ない出雲君の意見は判らないわね」
 那間裕子女史が不在の出雲さんの存在を気遣うのでありました。
「そうだけど、出雲君が反対か棄権だとしても、賛成多数と云う事にはなる」
 山尾主任がここでもやや強引な断定をするのでありました。
「まあ、俺もはっきり反対と云う訳じゃないけど。・・・」
 均目さんが立場をぐらつかせるのでありました。
「と云う事は絶対反対じゃないんだね」
 山尾主任は何とか組合結成をここで決めてしまいたいような意気込みであります。
(続)
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あなたのとりこ 171 [あなたのとりこ 6 創作]

「それはそうですけど、でも上部組織になる全総連の事も詳しく知らないし」
「全総連は日本に在る労働組合連合組織の中では二番目に大きい組織です」
 横瀬氏がここで全総連について解説を始めるのでありました。「一番大きな組織は全日本労働組合総協議会、所謂労総協で、これは皆さんご存知でしょう?」
「良く春闘の時期やメーデーでテレビに取り上げられる組織ですよね」
 袁満さんがあっけらかんとした笑みを浮かべて応えるのでありました。
「そうですね。これが組織的には一番大きい。その次に大きいのが全総連です。尤も三番目以下はそんなに大きな組織ではないので、今の労働界は労総協と全総連が二大組織と云う事になりますか。我々もテレビに屡登場しますよ」
 横瀬氏はここで自信有り気に頷くのでありました。
「勿論その名前を聞いた事はあるわね」
 那間裕子女史が頷き返すのでありました。
「どちらかと云うと全総連は政治絡みの活動が多いような印象だなあ」
 均目さんは頷かないで云うのでありました。
「いや、特にそんな事はありませんよ。寧ろ既成の左翼政党に深くコミットしているのは労総協の方ではないでしょうかね。実際我々は加盟の組合員がどの政党を支持しようとも何も干渉しませんし、それは至って自由ですから」
「ああそうですかね」
 均目さんはこの横瀬氏の言に対して懐疑的な心根を表明する笑みを浮かべるのでありました。少しは全総連に対して知識が有るようであります。
「まあ、強い労働運動を展開するためには、場合に依ってはどうしても既存の野党勢力と共闘する事も必要ですからね、しかし政党支持とか政治思想に関しては原則自由です」
「でも全総連の活動方針に異を差し挟まない限り、と云う事ですよね」
「それは勿論、組織防衛と団結を維持するためにはそうなります。しかしそれは組織である以上当たり前の事で、全総連に限らず色んな組織は一般的にそうですよ」
「一方では全総連は組合員への政治的縛りが一番きついと聞きますが?」
「いやそんな事はありませんよ。団結力の強さから、外からはそう見えるとしても、全総連はどの労働組合連合組織よりも民主的に運営されていると明言しておきます」
 横瀬氏は別に慌てた風でも急に興奮した風でもない物腰ながら均目さんを見据えて、ここは有無を云わさないような迫力を言葉に籠めて断言するのでありました。
「ああそうですか」
 その迫力にたじろいで及び腰になった訳ではないでありましょうが、均目さんは一先ずそれ以上の言を重ねないのでありました。

 この二人の遣り取りの間、頑治さんを含めて他の連中は口を挟む期を逸して、戸惑ったような表情でダンマリを決め込んでいるのでありました。何やら自分達には埒外の、小難しい話しが展開されているようだと云った心持ちでありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 172 [あなたのとりこ 6 創作]

「さて、どうだろう、全総連加盟の労働組合結成、と云う事に決定して良いかな」
 山尾主任が話しを進めようとするのでありました。
「それしか手は無いかな、社長や土師尾営業部長を慌てさせるには」
 袁満さんが頷くのでありました。
「そうね。個々や、何もバックが無い状態で騒いでいても無力だもんね」
 那間裕子女史も二回頷くのでありました。
「均目君は?」
 山尾主任は均目さんを見るのでありました。
「流れとしてはそのような形勢ですから、俺も敢えて反対はしませんよ」
「唐目君はどう?」
「さっきも云ったように皆さんの決定に従います」
 頑治さんはここでも卑怯な云い草をしている自を潔くないと思うのでありまいた。何ともイカさない見てくれではありますが、まあ、仕様が無いでありましょうか。
「じゃあ、そのように決めるとして、そうなれば今後の手順としては、・・・」
 山尾主任は横の横瀬氏を見るのでありました。
「そうですね、春闘迄、結成準備会会議を重ねると云う事になりますが、取り敢えず近々全員揃ったところで会議を開いて正式結成までの暫定的な役員を決めて、それから闘争方針を採択して、春闘迄の日程を確認して、統一要求に加えて当該の独自要求を準備すると云うところになりますね。全総連としても正式にバックアップ体制を組みます」
「よろしくお願いします」
 山尾主任が横瀬氏に頭を下げるのでありました。それに倣って皆も軽くお辞儀するのでありましたが、均目さんは伏し目をするものの殆ど頭を動かさないのでありました。
「なあに、それが仕事ですから」
 横瀬氏はそう云って如何にも頼もしそうに笑うのでありました。それが仕事、と云うのでありますから改めて云う迄もなく、この人は何処かの全総連加盟の単組の組合員と云うのではなく、全総連本体の組織部に属する専従職員と云う事になるのでありましょう。
「じゃあ最初の会議は何時に設定するかな」
 山尾氏が全員を見回すのでありました。「木曜日のボーナス支給日は結局何も抗議とかしないと云う事なら、その日の退社後と云う事でどうかな」
「皆で土師尾さんに文句を付けるなら、どうぜその後で会合するだろうと思っていたから、その日は何も予定を入れないで空けてあるわよあたしは。学校の方も無いし」
 那間裕子女史が賛意を表わすのでありました。
「俺も、そうすると明日は丸々一日休めるなあ」
 袁満さんも都合が好いようであります。
「そう云う事ならボーナス支給日に、と云う事で俺も都合を付けるよ」
 均目さんもものぐさそうな言葉つきながらも同意のようであります。勿論頑治さんも、どうせ夕美さんとの逢瀬は土曜日だから大丈夫と云った按配でありますか。
(続)
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あなたのとりこ 173 [あなたのとりこ 6 創作]

「じゃあ、木曜日の午後六時から、と云う事で決めて大丈夫かな?」
 山尾主任がまたもや夫々の顔を見渡すのでありました。皆も再度頷いて見せるのでありました。特段の異議無しというところでありますか。
「那間さんは残業しないで良いの?」
 均目さんが念のために訊くのでありました。
「大丈夫よ。仕事は遅れているけど未だ尻は先だから、どうしてもその日に残業しなければならないと云う謂れはないわ。ご心配の段は深く感謝しますけどね」
 那間裕子女史のその返事は、均目さんの心配を揶揄と取ったためでありましょう。
「出雲君は欠席になるなあ」
 袁満さんが出雲さんの事を気に懸けるのでありました。
「出雲君には、出張から帰って来てから俺の方でしっかり話すよ」
 山尾主任が請け合うのでありました。
「それに日比さんと甲斐さんには組合結成の件は内緒にして置くんですかね?」
「まあ、今の段階ではちょっと外れて貰うかな。土師尾営業部長にこの俺達の計画が漏れるのは拙いからなあ。日比さんは迂闊なところがあるからから、何かの拍子に両部長に、本人はその心算が無くてもうっかり漏らして仕舞う心配があるし、甲斐さんは向こう側の人とは思えないけど、かと云ってこちら側の人と云う感じでもないからね」
 山尾主任がまたもや皆を見渡すと、袁満さんも均目さんも那間裕子女史も、それは尤もだと云う顔付きをするのでありました。頑治さんはその辺りの人間関係の機微やら二人のパーソナリティーやらが未だ良く呑み込めていないので、無表情なのでありました。
「ええとそれから、最初の会議を開くに当たっては、喫茶店とか居酒屋とかではなく、ちゃんとした会議の体裁が取れる場所の方が良いですよ」
 横瀬氏がアドバイスするのでありました。
「じゃあ、何処か会社近くの貸会議室を借りる事にします」
「そうですね。多少お金が掛かってもその方が無難でしょうね」
 横瀬氏はその山尾主任の応えに満足そうに頷くのでありました。
「横瀬さんも出席していただけるんですか?」
 那間裕子女史が訊ねるのでありました。
「勿論です。それに組合結成までを支援するスタッフとか、皆さんの会社と似たような業態や規模の既成の組合の人を一緒に連れて来るかも知れません」
「それは何人くらいになりますか?」
 山尾主任は貸事務所の手配の関係からかそんな事を訊くのでありました。
「まあ、私も入れて三人、と云うところですかね」
「判りました。じゃあ俺達が五人で、加えて全部で八人と云う人数ですね」
「そうですね。ひょっとしたらもう一人くらい増えるかも知れませんが」
「それから、その日迄にこちらで用意する事はありますか?」
「まあ、特にはありません。具体的な作業はその会議の後と云う事になりますから」
(続)
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あなたのとりこ 174 [あなたのとりこ 6 創作]

「判りました。それでは今後共よろしくお願いします」
 山尾主任が横に座る横瀬氏の顔を見ながらお辞儀するのでありました。それを見て他の四人も銘々に頭を下げるのでありました。
「こちらこそよろしくお願いします。伴に頑張りましょう」
 横瀬氏も丁寧に五人の顔を夫々見ながら五回浅いお辞儀を繰り返すのでありました。

 一日置いた木曜日、結局ボーナスは形式通りには出ず、慰労金と云う名目で、日比課長に十万円、山尾主任に七万円、頑治さんを除いたその他の社員には五万円の支給があるのでありました。新参の頑治さんには二万円と云う額が渡されるのでありました。
 退社時間間際に下の倉庫から上の事務所に戻った頑治さんは、土師尾営業部長から角形八号の白封筒を差し出されるのでありました。
「本来は入社一年未満の新入社員にはボーナスは出ない決まりなんだけど、今期は格別の計らいと云う事で少ないけど唐目君にも慰労金を出す事にしたよ」
 土師尾営業部長はそう前置きして白封筒を頑治さんに手渡すのでありました。「新人にしては前の刃葉君なんかよりも良く働いてくれているし、それに報いるためにも特別に配慮したんだ。そこのところを心に留めて、これからもよろしく頼みます」
「有難うございます」
 頑治さんは頭を下げて白封筒を押し戴くのでありましたが、土師尾営業部長のその恩着せがましい前置きに少々げんなりするのでありました。それに均目さんから聞いたところに依ると入社一年未満の新入社員にボーナスが出ない事はなく、均目さんも那間裕子女史も袁満さんも、それに出雲さんも込み入った日割り計算で少額ながら入社一年未満でもボーナスは貰ったと云う事でありました。頑治さんがその辺の事情に無知だと思ってそんな事を云っているのでありましょうが、明らかに虚言と云う事になる訳であります。
 これは、そのような無用な嘘まで弄して、恩着せの嵩増しをしようとする浅ましい魂胆からでありますか。こんなところが、この人が社員から心服されない要因の一つでありましょう。自分の言葉や行為のより大きな効果を狙ってしているのでありましょうが、意に反して逆に軽侮を頂戴する羽目になると云う、実に間抜けな遣り口であります。
 それに後で知ったところに依るとこの、格別の計らい、なるものも土師尾営業部長の計らいと云うのではなくて、片久那制作部長の配慮と云う事のようでありました。元々社長や土師尾営業部長は頑治さんの慰労金に関しては一顧も無かったようでありますが、それでは頑治さんの勤労意欲が下がると片久那制作部長が反論して、それで結局支給する事になった模様でありました。これは均目さんが教えてくれたのでありました。
 云ってみれば出す心算も無かった慰労金を特別に出してやるのだから有難く頂戴しろ、と云う一方的な思いが、あの嘘も動員して恩着せがましさを増幅させようとした云い草になったのでありましょう。何ともちんけな話しでありますが、まあ、それはそれとして、予て申し合わせていた通り社員の誰もが特別のリアクションを示さないのでありました。至って静穏にこのボーナス代わりの慰労金支給は執り行われたのでありました。
(続)
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