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あなたのとりこ 149 [あなたのとりこ 5 創作]

「二人共社員歴も長いし、大日本地名総覧社時代からの人だから」
 つまり日比課長と甲斐計子女史は会社での年季が長い分、土師尾営業部長や片久那制作部長との関係の濃密さは自分達とは違うだろうし、年齢にしても日比課長は両部長より上で甲斐計子女史は同年齢でありますから、気分的な近しさは向こうの側にあるように思えると云う事を山尾主任は云っているのでありましょう。
「誼と云う点で俺達より両部長の方により近いと云う事か」
 均目さんがまるで独り言のような云い方をするのでありました。「だからここで話した内容が、後ですっかり両部長の耳に流れる危険があるって事だ」
「ま、その危険も無いとは云えないからね」
 山尾主任は警戒心を披歴しながらコーヒーを一口飲むのでありました。
「二人を呼ばなかった理由は判ったわ。それは良いとして早く本題に入りましょうよ」
 那間裕子女史が集まった本来の目的であるボーナス支給日の対応についての話し合いをせかすのでありました。この会合の後に、何か他の用があるのかしらと頑治さんは思うのでありましたが、それは特に訊く必要も無いのでありました。
「じゃあ先ず、幾つかのケースを想定して対応の仕方を決めて置こう」
 議長格の山尾主任が四人の顔を見渡すのでありましたが、四人は特段異議が無かったから夫々に頷いて見せるのでありました。その頷きを確認して、山尾主任は空気を改める心算か一呼吸置いてから後を続けるのでありました。
「先ず例年より少ないながら一応、二か月分と云う支給額があった場合だけど」
「まあ、額には不満はあるけど、でも通例に則った支給方法なんだから、それは納得するしか無いかな。今迄も額の多い少ないはその年に依ってバラついていたから」
 袁満さんが顰め面をして口を尖らせながら繰り言みたいに云うのでありました。
「そうね。二か月だった事も過去にあったかな」
 山尾主任が頷くのでありました。「じゃあ、この場合は特に何も対応しないで、一応素直に貰って置くと云う事で良いかな?」
 山尾主任が一同を右回りに見回すと、袁満さんと均目さんは渋面で頷いて見せるのでありましたが、那間裕子女史は目立って面白くなさそうに眉間に皺を寄せてゆっくりと首を横に何度か振るのでありました。しかしこの首の横振りは不同意を表明していると云うよりは、仕方が無いと観念する気持ちを力無く表する仕草でありましたか。
「じゃあ、一か月分だったら?」
 山尾主任がそう云いながらまた一同を見回すのでありました。
「これも支給方法は問題ないから、納得するしかないか」
 袁満さんがさっきより余程口を尖らせるのでありました。
「いや、一か月となると、おいそれとは納得し難いなあ」
 均目さんがすぐに声を上げるのでありました。
「そうね、一か月は少なすぎるわね。今までもそんな少額は無かったんだし」
 那間裕子氏が空かさず同調するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 150 [あなたのとりこ 5 創作]

「じゃあ、一か月分だったら皆で抗議する事になるかな。つまり抗議するかしないかの分かれ目は一か月以下と云う金額になる訳だな」
 別に態々そうする必要は無いと思われるのでありましたが、山尾主任は上着のポケットから手帳を取り出して念のためかその辺りをメモするのでありました。なかなか律義と云うのか、几帳面で手堅い性格なのでありましょう。
「そうじゃないわよ。二か月分を切ったら抗議すると云うことになるんじゃないの」
 那間裕子女史が慌てて訂正するのでありました。
「ああそうか」
 山尾主任は頷きながら手帳の記述を書き直すのでありましたが、ふと手を止めて那間裕子女史を見るのでありました。「一か月半とかだったら、抗議するんだよね?」
「一か月半も当然抗議よ」
 那間裕子女史は当たり前だと云った口調で応えるのでありました。
「一か月と半分を少し超えてと六分とか七分とかだったら?」
「抗議よ。当然じゃない」
 那間裕子女史は面倒臭そうに眉を顰めるのでありました。「二か月が限界よ」
「今迄の例からして一か月とか一か月半とか云う、ある程度切の好い額はあっても、六分とか七分なんて云う半端な数字は向こうも提示しないんじゃないですか」
 那間裕子女史の横に座っている均目さんが口を挟むのでありました。
「成程ね。それもそうだな。じゃあ、二か月を切ったら抗議、と」
 山尾主任はまた手帳に何やら書き入れるのでありました。その様子を見ながら那間裕子女史はげんなりの溜息を漏らすのを遠慮しないのでありました。

 手帳上で動いていた小振りの鉛筆の動きを止めると、山尾主任は目線を上げてまた皆を見渡しながら次の話しに移ろうとするのでありました。
「じゃあ、抗議の仕方の方に話しを移すけど」
「誰に抗議するんだろう?」
 袁満さんが山尾主任に、と云う風ではなく、誰にともなく問うのでありました。
「そりゃあ当然、先ず土師尾営業部長に、と云う事になるだろうな。実質は別にして一応体裁上は会社の中で社長に次ぐ地位なんだから」
 山尾主任が小振りの鉛筆を弄びながら応えるのでありました。
「片久那制作部長は無視ですか? ボーナスを出すとか出さないとか、その額については片久那制作部長の方がより強く関与している筈なのに」
「無視と云う訳じゃないけど、先ずは土師尾営業部長の方に、と云う事だよ」
「土師尾営業部長に何か云っても暖簾に腕押しか、そうじゃなかったら自分だけが責められていると早飲み込みして、いきなり錯乱して怒り出したら話しにも何もならないんじゃないですかね。細かな、個々に対する支給額とか実際の数字に関しては、あの人は殆どタッチしていなくて、すっかり片久那制作部長に任せ放しでしょうからね」
(続)
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あなたのとりこ 151 [あなたのとりこ 6 創作]

「確かにそう云うところはあるか」
 山尾主任はしかつめ顔で頷くのでありました。
「でも、土師尾営業部長を差し置いて先ず片久那制作部長を取り囲んだら、土師尾営業部長の事だからそれも面白くないんじゃないかな」
 均目さんが言葉を挟むのでありました。「なかなか嫉妬深いですからね。実質は別にして体裁上は自分が社長に次ぐナンバーツーだと手前勝手に思っているんだろうし、それを無視して片久那制作部長の方に全員集まれば、自尊心を傷付けられるだろうな」
「会社経営の定見も手腕も無くて、何かと云うと片久那制作部長におんぶに抱っこなんだから、自分をナンバーツーだとお目出度く勘違いしている方が間抜けなのよ」
 那間裕子女史が手厳しい事を云うのでありました。
「でもあの人の嫉妬心は性質が悪いよ。ねちねちと執拗に報復されそうだ」
「こっちが本気で怒れば、根が小心者だからたじろいですぐ腰砕けになるわよ」
「でも、先ずは土師尾盛業部長に不満をぶつけるのが筋だろうな。と云う事で、・・・」
 山尾主任が那間裕子女史と均目さんが繰り広げる土師尾営業部長の人物鑑定に待ったをかけるのでありました。「具体的に、どんな抗議の仕方をするのが良いんだろう?」
「さっき、皆で取り囲むとか云っていたよね?」
 袁満さんが均目さんの方を見るのでありました。
「そうですね。ボーナス袋の中の明細表を確認して、二か月分を切っていたらすぐに全員で土師尾営業部長の席に集まって、取り囲んで、こんな額じゃ飲めないと文句を云う」
 均目さんはボーナス袋を机に叩きつける真似をするのでありました。
「誰が抗議の口火を切るの?」
 那間裕子女史が隣の均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「それはこの中で一番年季の古い山尾さんと云うのが順当なところでしょうね」
 均目さんは那間裕子女史ではなく山尾主任の方に目を向けるのでありました。まあ、心根の中ではそうなるだろうと予想はしていたのであろうけれど、自分の名前が出たので山尾主任は驚いたような顔を均目さんに向けて、自分を指差して見せるのでありました。
「年季と云っても高々五年とちょっとで、那間さんより一年早いだけだよ」
 山尾主任は一応躊躇いを見せるのでありました。
「でも、一番古いと云うのは事実だもの。それに一番年嵩だし」
 那間裕子女史は山尾主任の躊躇いに一瞥もくれないのでありました。判っていたくせに勿体ぶって一応そんな真似をして見せているのだろうと云う読みでありましょう。
「それに主任と云う肩書きもあって、この中では一番偉いんだしね」
 袁満さんが冗談めかした云い方をするのでありました。
「じゃあ、判ったよ。そう云う事なら俺が先ず口を開くよ」
 山尾主任は不承々々に同意するのでありました。「こんな額じゃ到底年が越せないじゃないかって云うんだな、最初に俺が」
 山尾主任はやけに古風な云い草を口先に上せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 152 [あなたのとりこ 6 創作]

「年が越せない、なんてそんな古めかしい云い方は芝居の紋切り型の科白で、あたし達の切羽詰まった心情をリアルに表せていないわよ」
 那間裕子女史が眉根を寄せて舌打ちするのでありました。
「確かに、本当に年を越せないかと云うと、そうでもないし」
 均目さんが同調するのでありました。「今時のサラリーマンの、総収入の中に占める可処分所得の割合から見ても、リアリティーに欠ける大袈裟過ぎる云い方だな」
「何だい、可処分所得って?」
 袁満さんが困惑顔で均目さんに訊くのでありました。
「生きていくのに絶対必要な、食う分とか寝る場所とか最小限の衣服とかにかかる費用を総収入から差し引いた自由に遣える所得の事です。経済学で出て来る用語ですよ」
「ふうん、ちいとも知らなかった。俺、大学は経済学部だけど。まあでも、俺の出た三流大学では俺の不真面目もあるけど、そんな難しい言葉なんか教えてくれなかったかな」
 袁満さんは屈託無さそうに笑うのでありました。「しかし俺は年中ピーピー云っていて、年が越せない、とか云う言葉にも結構リアリティーを感じるけどなあ」
「そんな事も無いでしょうけど」
 均目さんが苦笑いを返すのでありました。「因みに袁満さんは貯蓄がありますか?」
「うん。まあ、恥ずかしいくらいの少額だけど」
「本とか雑誌とか、それから袁満さんはお酒とか購入しますか?」
「そうね、時々エッチな雑誌とか買うね。それに俺は甘党だから酒よりもチョコレートやら饅頭やらはちょいちょい買うけどね。この前友人にゴディバのチョコレートを貰って初めて食ったけど、あれは甘くて上手かったなあ。均目君は食った事ある?」
「いやまあ、ゴジラだかゴディバだかのチョコレートの話しはこの際脇に置くとして、つまり食う事と寝る場所、それに最低限の衣服に掛かる費用に収入の総てをつぎ込んで全く余りも出ない、と云う状態ではないんですよね?」
「そりゃそうだ。テレビも持っているし洗濯機もある。少し高いオーディオセットもこの前買ったし、偶には映画も見に行ったりもする。至って文化的な生活をしているよ」
「それに聞くところに依ると、若い女の子が大勢居る変な酒場なんかにも結構足繁く出入りする、と云う噂も俺の耳に届いていますよ」
「そんな事云いふらすのは屹度日比さん辺りだろうけど、まあ、偶には行く」
 袁満さんの、そんな事を抜け々々とほざくニヤニヤ笑いを一瞥して、那間裕子女史が露骨に嫌な顔をしてソッポを向くのでありました。
「要するに、そう云うお金があるんだから、年も越せない、とか云う時代劇の科白みたいなのはリアリティーが無いと云う事ですよ」
「ふうん、そう云うものかな」
 袁満さんは一応納得するのでありました。その二人の遣り取りを聞きながら随分長々しい可処分所得の説明だったなと、頑治さんは少しげんなりするのでありました。
「俺が年を越せないと云ったのは本当にそんな科白を吐く心算で云ったんじゃないよ」
(続)
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あなたのとりこ 153 [あなたのとりこ 6 創作]

 山尾主任が不興気に呟くのでありました。「均目君はどんな云い方をすれば、俺達の心情が上手く向うに伝わると思うんだい?」
「そうですねえ、・・・」
 均目さんは腕組みして片方の手指で自分の顎を撫でながら暫し考える風の顔をするのでありました。ここでようやく、話しは本筋に帰って来たようであります。

 均目さんは少し体を前に乗り出すのでありました。
「ボーナスも生活給の一部として予め見込んでいる訳だから、それが無いとなると生活に支障をきたす、とかはどうです?」
「それも、年が越せない、と云うのと訴えに於いて、然して変わらない気がするわね」
 那間裕子女史が首を傾げるのでありました。
「じゃあ、ボーナスが少ないと俺達の士気に関わるぞ、と云うのは?」
「それ、脅しになる?」
 那間裕子女史が先程よりもう少し大きく首を傾げるのでありました。「それなら夏のボーナスに向けて、もっと奮起しろと云われたらそれ迄のような気がするけど」
「その奮起する意気込みのためにも、冬のボーナスをもう少し奮発してくれ、と訴えている訳だよ、この科白の謂わんとするところは」
「要するに、さっきの可処分所得の領域で出せ出せないの話しをしても、結局こちらには切迫感が無いんじゃないかしら。当面無い袖は振れないし、精々仕事に励んで夏のボーナスを楽しみにしていろと云われて、それでもう言葉に窮するような気がするのよ」
「まあ確かに、あれこれ文句を云い募ってもそれは夏のボーナスの時に考慮する、と押し切られてそれでお仕舞いと云う感じもするか」
 山尾主任が口を挟むのでありました。
「あたし達の単なる不満表明に終わって、それで増額があるとは思えないわね」
 那間裕子女史は、今度はさっき傾げたのと同じ振幅程度で項垂れるのでありました。
「なら結局、ボーナスが出ない事、出ても少額である事に甘んじるしかないと云う事で話しは終わるなあ。態々今日集まった我々の結論がそれで良いのかねえ」
 均目さんが鼻を鳴らすのでありました。
「こうなりゃ、ストライキでもやるか」
 山尾主任が云うと袁満さんが怯んで及び腰を見せるのでありました。
「え、ストライキ、ですか。・・・」
「労働者の権利だ」
 山尾主任は袁満さんの顔に少し強い眼光を向けるのでありました。
「しかしストライキを打つならそのための、例えば労働組合か何かの我々の参集軸が無いと、単なる個々人のサボタージュと云う意味しか持たなくなるんじゃないかな。そうなるとその分、賃金から差し引かれてそれではいお仕舞い、と云う無意味な行動で終わる」
 均目さんが瞑目して首を傾げながら山尾主任の意見に疑問を呈するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 154 [あなたのとりこ 6 創作]

「文句は付けるけど、それでもボーナスの増額は結局無いと云う事かしらね」
 那間裕子女史が溜息を吐くのでありました
「俺達が待遇に大人しく従うだけじゃないと云うところを見せるのも、今後の事を考えると無意味ではないように思うけど」
 山尾主任が云うのでありましたが、そう云うところを見ると山尾主任もこの暮れのボーナスの支給、或いは増額を実は殆ど諦めていると云うところでありましょうか。
「結局、腹いせをするだけか」
 均目さんが皮肉っぽい云い草をするのでありました。
「腹いせでも、やるだけの事はあると思うよ、今後の事を考えると」
 山尾主任が少し悲壮な顔でそう云い募るのでありましたが、その、今後の事、と云うのが頑治さんには今一つ茫洋としてよく判らないのでありました。
「やるだけの事はある、と云うのは、自分達が従順なだけの従業員ではないと向こうに思われる事に依って、今後のボーナス支給や賃金の面でこちらの意を多少は向こうが酌むようになる、と云う点を期待しておっしゃっているんですかね?」
 殆ど言葉を発しなかった頑治さんが云うと皆の視線が集まるのでありました。
「まあ、そうかな」
「でも、何だかんだと文句は云うけど、結局従うしか術の無い連中だと、返って向こうに甘く見られて終わる可能性もあるんじゃないですかね」
「それはそうね、確かに」
 那間裕子女史が即座に頷くのでありました。「抗議するなら、向こうの決定をほんの少しでも変更させなければ、唐目君の云う通り、逆に侮られるだけかも知れないわ。文句は付けるけど始めから変更を期待しないと云うのは、感傷的な一種の敗北主義ね」
「じゃあ、どうするのが良いと那間さんは思うの?」
 山尾主任は自分の考えが敗北主義と云われたのが気に障ったのか、それとも感傷的と云われた方により強く反発したのか、やや興奮した口調で云い返すのでありました。
「それを話し合うためにこうして集まっているんでしょう」
 那間裕子女史も対抗上尖った口調になるのでありました。
「まあまあ、二人共もう少しクールに」
 均目さんが双方を宥めるように、両手を胸の前に挙げて掌で前を小さく何度か押すような仕草をするのでありました。「ここで紛糾したら話しが前に進まない」
 しかしながら紛糾しなくとも、この場での話し合いは前には進まないように頑治さんには思えるのでありました。策に於いては全く手詰まりと云う観でありますか。
 どだいボーナスの支給に文句を云えるような社内の空気はこれ迄造成されてはいなかったのでありましょうし、抑々待遇に対して文句を付けるような局面も今迄は発生しなかったのでありましょう。あれこれ不満はあったとしてもそれを社長や両部長に臆せず、且つものぐさがらずにぶつけるような意気も、云い包められないだけの自信も、或いは前提として両部長に劣らないだけの仕事上の実績も社員の間には無かったのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 155 [あなたのとりこ 6 創作]

 それがここに来て怒りに任せて急に会社と対峙するような術等、従業員の誰もが持ち合わせている筈が無いのであります。精々不満表明するのが関の山でありましょう。それも個々でやるには荷が重いから皆で肩を寄せ合って声を併せて、と云う具合に。
「話しが壁にぶつかったようだし、今日はここまでとしますか」
 均目さんが主に山尾主任に向かって提案するのでありました。「ボーナス支給無しなら当然として、額が二か月を切っても取り敢えず抗議のために土師尾営業部長を取り囲む、と云うところ迄は何となく決まったようだし」
「ボーナス支給日まで後三日しかないのに、そんな大筋だけが決まっても具体的な抗議の仕方が何も決まらないと云うので大丈夫かしらね」
 那間裕子女史が懐疑的な事をものすのでありました。
「今日家に帰ってから少しクールに、夫々が策を考えて後日持ち寄ると云うところ迄しか今日はもう、話しが前に進まないでしょう。ここであれこれ話すにはこの後の時間がかかり過ぎると思うし、それじゃこの店も迷惑だろうし、それに腹も減ったし」
 均目さんはそう云って自分の腹を擦って見せるのでありました。
「支給日迄の三日間は会合を重ねないといけないと思うけど、袁満君は明日と明後日は出張に行っていた分の代休を取るとか云っていたんだよね?」
 山尾主任が袁満さんの方を見るのでありました。そう云う口ぶりから察すると、山尾主任もここ迄で今日はお開きとするのに反対と云う事ではなさそうであります。
「そうですね。若し何なら俺抜きで今後の話しを進めて貰って構わないですよ。ボーナス支給日当日は、俺は決まった事に従いますから」
「そんな訳にはいかないわよ」
 那間裕子女史が袁満さんのこの、一種横着にも聞こえる発言を咎めるような目付きをするのでありました。「俺はもう知らないから後はよろしくって云っているのと同じじゃないの、そう云う事を云うのは。それはちょっと無責任だと思わない?」
「ああいや、俺はそんな心算で云ったんじゃないのですけど」
 袁満さんはたじろいで慌てて両手を横にせわしなく振るのでありました。
「袁満君、代休は後にずらせないかな?」
 山尾主任がそう云うと那間裕子女史も均目さんも、それから頑治さんも一斉に袁満さんの顔に視線を釘付けるのでありました。
「そう云う事なら、明日も明後日もちょっと昼間に外せない用があるから、若し話し合いがあるようなら、夕方その時間に顔を出しますよ」
 袁満さんはおどおどと譲歩するのでありました。その様子が、何となく気の毒なように頑治さんには見えるのでありました。
「じゃあ、申し訳無いけどそうしてくれるか」
 山尾主任が頷くのでありました。袁満さんは大いに不満がありそうな面持ちをして、山尾主任の方に目を向けずに俯きがちに頷き返すのでありました。
「明日また仕事が終わったらこの喫茶店に集まると云う事で良いかな?」
(続)
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あなたのとりこ 156 [あなたのとりこ 6 創作]

 山尾主任が皆を見回しながらそう続けると夫々は個々に頷くのでありました。その頷き方は一様に袁満さんと同じで陰鬱気でありましたか。

 喫茶店を出ると山尾主任は地下鉄丸ノ内線で、それに袁満さんは神保町駅まで歩いて戻って都営三田線で帰宅の途に就くのでありました。頑治さんと均目さんと那間裕子女史の三人は、那間裕子女史の提案で前に行った新宿のバーでちょっと飲みながら腹拵えをすると云う事で何となく一決して、西口改札から駅構内に入るのでありました。
「頼り無いったらありゃしないわね、山尾さんは」
 那間裕子女史はバーの四人掛けの席に落ち着いて、ジントニックで唇を湿らせながらぼやくのでありました。「何が、今後のため、よ」
 隣の椅子に座る頑治さんはミックスピザの一片を取ろうとして、自分に話し掛けられたのかと思って、手の動きを止めて那間裕子女史の顔を見るのでありました。
「確かに、今後のため、とか嫌に綺麗に締め括られてもなあ」
 那間裕子女史の向いに座る均目さんが同調するのでありました。
「この暮れのボーナスの確保とか増額なんて事、山尾さんは本当は始めから諦めているのかしらね。今度のボーナスはありませんと云われてそれを納得したり、微々たる額を支給されても結局その儘受け取ったりしたら、要するに全く向こうの思う壺じゃない。そんなんじゃあ今後のためにも何もなる訳が無いわよ。そう思わない、唐目君?」
 那間裕子女史は頑治さんの太腿を軽く叩きながら云うのでありました。嫌に狎れ々々しい仕草だと頑治さんは思うのでありましたが、酒豪の筈の那間裕子女史にしては未だ酔うにはちと早過ぎると云うものでありましょうか。
 しかもそうやって頑治さんの太腿の上に置いた手を、那間裕子女史はなかなか離そうとしないのでありました。これは一体どういう了見なのでありましょうか。向かいに座っている均目さんもその女史の手が気になっているらしく、頑治さんの太腿の上に載せられた女史の手甲をそれとなく窺い見ているようでありました。
「那間さんは何か案があるのですか?」
 頑治さんはなるべく、何となく不自然に自分に触れた儘の那間裕子女史の掌を気にしないような素振りで、横の女史の方に顔を向けるのでありました。
「そう改まって訊かれるとあたしにも妙案は無いんだけどさ」
 那間裕子女史はそう云いながら口元に手を添えてあっけらかんと笑うのでありました。その口元に添えるために動かした手が頑治さんの太腿の上の手であったから、そこでようやく頑治さんの太腿は那間裕子女史の手の重量から解放されるのでありました。
「まあ、対応としては難しいよなあ。そんな事今迄無かったんだから」
 均目さんの視線もここでようやく頑治さんの太腿から離れるのでありました。
「でも、あたしは大人しくボーナス無しの宣言に頷いたり、微々たる額を受け取ったりなんかしないわね。突っ返して再考してくれと云って会社を出て行くわ」
「那間さんならやりかねないかな」
(続)
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あなたのとりこ 157 [あなたのとりこ 6 創作]

 均目さんが笑うのでありました。
「ウダウダと出るとか出ないなんてところをあれこれ話していないで、支給額が二か月を切っていたら一斉にボーナス袋を土師尾さんに叩き返して会社を出て行くって、そうはっきり決めておけば、それで今日の話し合いは済んだ筈よ。何も明日また会社帰りに集まる必要なんて無かったのよ。そうは思わない、唐目君?」
 那間裕子女史の手が再び頑治さんの太腿の上に載るのでありました。ズボンを通してその掌がさっきより熱を帯びているように頑治さんには感じられるのでありました。
「でも、ボーナスを叩き返して会社を出て行った後はどうするの?」
 均目さんが訊くのでありましたが、その目も再び、目立たないようにではありますが、頑治さんの太腿の上の那間裕子女史の手の甲に向くのでありました。
「別にどうもしないわよ。その儘家に帰るだけよ」
「ふうん。後の事は考えていないと云う事ね」
「不満をきっぱり表明するだけよ。それから次の日は普通通り会社に来て、普通通り仕事をするだけ。何か物欲しそうに振る舞うより、その方が向こうをたじろがせるには効果的だと思うわ。たじろがせれば向こうも色々考えるわよ。ねえ、唐目君」
 那間裕子女史は頑治さんの太腿の上の手で、軽くそこを叩いて見せるのでありました。それは賛同を求めるための動作のようでありました。
 しかしそんなように同意を求められてもおいそれとは首肯出来ないように思えたから、頑治さんは頷かないで、少し冷えを籠めた笑い顔を向けるのでありました。
「向こうも色々考えて、次の日は増額して再度出してくる、と云う読み?」
 均目さんが那間裕子女史と頑治さんの視線の交差に割り込むのでありました。
「そうね。そうなれば御の字ね」
「そう上手くいくかな。そんなに甘くはないと思うよ」
 均目さんは懐疑的な意を表するためか椅子の背凭れに身を引くのでありました。「そんな不穏な真似をされたら、土師尾営業部長の事だから逆に怒り心頭に発して、ボーナスなんか要らないんだなと陰湿に開き直るかも知れないよ」
「怒りか動揺かは知らないけど、まあ、対抗上大いにひねくれるでしょうね」
 那間裕子女史はその時の童顔の土師尾営業部長が、興奮して赤くなってまるで臍を曲げた子供のような顔になるのを想像したのか、冷笑を漏らすのでありました。
「それに片久那制作部長も、そんな高飛車な態度に俺達が出たら怒るだろう」
「でも、片久那さんはボーナス支給派でしょう」
「幾らボーナス支給派でも、俺達の挑戦的な態度にはムッとするさ」
「別にムッとしても構わないじゃない」
「何かそうなると、制作部の雰囲気が次の日から一挙に悪くなるのは億劫だな」
「片久那さんが不機嫌になるのが均目君は怖いの?」
 那間裕子女史は少し軽蔑するような目を均目さんに向けるのでありました。
「だってそうなると、ボーナス支給派を降りるかも知れないじゃないか」
(続)
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あなたのとりこ 158 [あなたのとりこ 6 創作]

「そんな感情的で単純な反応をするかしら、片久那さんが」
 那間裕子女史は首を傾げて頑治さんの方にゆっくり顔を向けるのでありました。頑治さんの太腿の上に載っている女史の手が一つ、拍子を打つように軽く弾むのは頑治さんに何か意見を云えと促すためのようでありますか。
「こう云うのは何だけど俺は制作部の人間じゃないから、制作部の雰囲気が悪くなろうとどうなろうとあんまり関係無いけど、でも片久那制作部長は大人の趣があるから、確かに不愉快を露骨にするような真似は取り敢えず控えるような気もするなあ」
 頑治さんが、那間裕子女史の手の拍子打ちに早速反応した故と云う訳ではないのでありましたが、そんな言葉を口角に上せるのでありました。
「そうね、元々が陰気な観察者のタイプだしね、片久那さんは」
 この那間裕子女史の言葉てえものは、頑治さんの言に頷く心算なのかそれとも無関係に発せられたものなのかどうか、頑治さんにはよく判らないのでありました。
「でも、苛々していたり機嫌が悪い時は結構露骨にそう云う態度や言葉遣いをするぜ」
 均目さんが反論するのでありました。「俺は片久那制作部長に大人の趣なんかちっとも感じないよ。ぐっと感情を押し殺して平静を装う、とか云った様子なんか、これ迄も殆ど見た事が無いね。結構表に出すよ、自分の気分や好き嫌いを」
「そうねえ。まあ、そう云うところも確かにあるわね」
 ここで那間裕子女史は均目さんの方にも同調の態度を見せるのでありました。しかし頑治さんの太腿の上の手はそこから動かないのでありました。
「それにあの人が不機嫌になると、その不機嫌には結構迫力みたいなものがあって、こっちとしては反発したり興醒めしたりと云うよりは、ちょっとビビッて仕舞うんだよな。こっちに関係無い事で不機嫌であっても、どうしたものかオドオドして仕舞う」
 均目さんはそう云いながら苦笑って見せるのでありましたが、その苦笑なんてえものは如何にも小心な自分に対する嘲りのようでありましたか。
「だから、片久那さんの機嫌を損ねるような真似はしたくない、と云う訳ね均目君は」
 那間裕子女史は、頑治さんの太腿の上に置いた手ではない方の手でテーブルの上の自分のグラスを取って、そんな皮肉を交えたような交えないような言葉をものしながらジントニックをグイと一口飲むのでありました。
「暮れのボーナスの確保より片久那制作部長の機嫌を損ねない方が大事なのかって、次にそう俺を問い詰めたいんだろうな、那間さんは」
 均目さんは再び苦笑を浮かべて先回りするのでありました。
「普段は多分そう訊くんだけど、でも止すわ。何かそんな事をグダグダ議論し続けるような気分じゃないからね、今は」
 那間裕子女史は未だ手に持った儘にしていたグラスをもう一口煽るのでありました。それから空にしたグラスを差し上げて、近くにいるウエイターにお代わりを注文するのでありました。その折、頑治さんの太腿の上に載せていた手の指が動いて、そこを判るか判らないか程度の力で掴んだような気がしたのは頑治さんの思い過ごしでありましょうや。
(続)
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あなたのとりこ 159 [あなたのとりこ 6 創作]

 グラスを差し上げる時の無意識の体の反動として手指が動いたのか、それとも意識的な掴む動作だったのかは頑治さんには判然としないのでありました。しかしどこか意志的な挙動だったようだと云う思いが六分四分で優るのでありました。
 では何のために那間裕子女史は頑治さんの太腿を掴んだのでありましょうや。何かのサインでありましょうや。そうなら何のサインでありまじょうや。・・・

 この後はまたもや山尾主任の頼り無さとか会合の進行役としての手際の悪さ、それに短気さ、延いては短慮である事とか融通の利かない一本調子の思考法である点とか、偶に口にする冗談の陳腐過ぎる事とか、生真面目に務めようとしているくせにどこかがさつな仕事振りとか、何かと云うと山男を気取って見せる野暮とかに那間裕子女史の舌鋒は向かうのでありました。那間裕子女史は山尾主任の事を嫌っているようでありますし、侮っているようでありますし、同僚としてかなり物足りなく思っているようであります。
「そう云えば本人もあんまり話さないから話題に上る事は殆ど無いけど、山尾主任はこの暮れだったか年明け早々だったかに結婚するんじゃなかったっけ?」
 均目さんが那間裕子女史の舌の回転が一休みしたところで訊ねるのでありました。
「ああそうね。そう云えばそうだったわね。すっかり忘れていたわ」
「結婚の準備も佳境に入っているだろうに、ボーナスの事で余計な悩みが増えたかな」
「結婚式とかは挙げられないのかな?」
 頑治さんがそう訊くのは、もしそうならひょっといて那間裕子女史も均目さんも招待されているかも知れないのに、この二人は式の日取りもよく知らないような気配である点を少し訝しく思ったからでありました。まあ、会社関係の人は招待していない結婚式かも知れないし、抑々山尾主任は結婚式を挙げない心算なのかもしれませんけれど。
「確か信州の軽井沢だったかハワイだったかに向こうの両親と山尾主任のお母さんと五人で行って、そこで内輪だけの結婚式を挙げるとか前に聞いたような気がするなあ」
「軽井沢とハワイじゃあ随分落差があるようだけど」
 那間裕子女史が均目さんの記憶のあやふやさをやんわり詰るのでありました。
「何となく上の空で聞いていたから俺も何処だったか忘れたんだよ。ひょっとしたらオーストラリアかも知れないし熱海かも知れないし」
 均目さんは面白がりで那間裕子女史の云う落差をより強調するためかどうかは知れないながら、また新たなその二つの地名を並べるのでありました。
「じゃあ、招待客を呼んで、と云うような良くある風の結婚式はされないんだ」
「そうね、山尾さんらしいと云えば山尾さんらしいけど」
「山尾さんの事だから新婚旅行に山登りするんじゃないかしらね」
 那間裕子女史の云い草はどこか揶揄するような調子が潜んでいるのでありました。
「それは大いに考えられるね。嫁さんも山登りする人のようだから」
「山登り趣味の二人の結婚、と云う訳ね」
 ここでも女史の言葉にはからかうような色が混入されているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 160 [あなたのとりこ 6 創作]

「ハワイで山登りと云うのもちょっとピンとこないから、矢張り結婚式は軽井沢かな」
「ハワイで結婚式を挙げて、その後日本に帰ってから山登りに行けば良いんで、それは別にどっちだって構わないんじゃないの」
「ハワイじゃないとしても、何処か外国の山と云う手もある訳で」
 頑治さんが一応愛想から話しに参加するのでありました。
「それはそうだわね。でもエベレストに登るとか云う事はないでしょうね。山尾さんもそこまで本格的な山登りの人じゃなさそうだし」
 那間裕子女史はジントニックを一口飲んでから気分を改めるような口振りでその後を続けるのでありました。「もう、山尾さんの話しはここまで。あたしにとって山尾さんが結婚しようとどこに新婚旅行に行こうと、そんなに興味ある事柄でもないし」
 那間裕子女史は慎につれない云い方で話しを打ち切ろうとするのでありました。
 この後は、山尾主任と同様に袁満さんが諸事あんまり頼りにならない事、日比課長の那間裕子女史を見る目がいやらしい色を帯びていて気持ちが悪いと云う事、那間裕子女史だけではなく経理の甲斐計子女史に対してもそのような目を屡向ける時がある事。それから土師尾営業部長が如何にも小者で、片久那制作部長が居なければ今の地位に就く事等はあり得なかったと云う事、片久那制作部長が社長と折り合いが悪いらしく事あるにつけ対立していると云う事等々、那間裕子女史の話しは社内の人物評に移るのでありました。
 頑治さんとしては今後の人間関係に於いて多少参考になるかも知れないと半ば考えながら、その話しに相槌を打ったり首を傾げたりしているのでありました。話が佳境に入ると那間裕子女史の頑治さんの太腿に載せている手も、そこを打ったり撫でたりするのでありましたが、これは頑治さんとしたら何となく居心地のよろしくない感触でありました。
 十一時を回った辺りで均目さんがそろそろのお開きを提案するのでありました。那間裕子女史は未だ飲み足りないらしく、均目さんと頑治さんを自分のアパートに来るよう誘うのでありました。そこで腰を据えて飲み直そうと云う寸法であります。
「三人分の布団は無いけど、勿論泊まっていっても構わないわよ」
 那間裕子女史の誘いはなかなか強引でありましたが、均目さんは前にも時々そう云う場合があったらしく意外にあっさりとその誘いに乗るのでありました。しかし頑治さんはそれ程親密とは云えない女性のアパートの部屋に、幾ら均目さんと一緒だとしても気軽に宿泊するのは大いに抵抗があるのでありました。当然ながら夕美さんの存在が頭の中で明滅していて、頑治さんを及び腰にさせたのはここで云う迄も無い事でありました。
「いや、俺は自分の家に帰りますよ」
 頑治さんは店を出た路上で那間裕子女史のしつこい勧誘を、両掌を前に突き出して何とかかんとか謝絶するのでありました。
「結構堅物みたいね、唐目君は」
 那間裕子女史はそう怒ったように云ってようやく諦めてくれるのでありました。その間均目さんはニヤニヤしながら手持無沙汰そうに二人の遣り取りを傍観しているのでありました。寒いから早く那間裕子女史のアパートに向かいたいようであります。
(続)
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あなたのとりこ 161 [あなたのとりこ 6 創作]

 結局新宿駅まで一緒に歩いて、頑治さんは二人とは反対方向に向かう中央線の電車に一人乗るのでありました。どうしたものか電車は空いていて頑治さんは座席に座る事が出来たのでありました。頑治さんは前方斜め下にある自分の太腿を見るのでありました。ずっとそこに載せられていた那間裕子女史の掌の感触が消え残っているのでありました。

 本郷のアパートに帰り付くと頑治さんは酒に火照った頬を持て余しながら電話の受話器を取るのでありました。指が浮腫んでいてダイヤルが回しにくいのでありました。
「もしもし俺だけど」
 勿論電話の相手は夕美さんでありました。
「どうしたの、こんな遅い時間に」
 そう云われて頑治さんは腕時計を見るのでありました。十二時を回っていて、確かに急用でもない電話をかけるには一般的に不謹慎な時間でありましたか。
「いやまあ、何となく、ね。随分逢っていない気がするからさあ」
 しかし電話は頻繁に、したり受けたりしているのではありましたが。
「そうね、もう十日くらい顔を見ていないわね」
「電話の声だけじゃ、つまらないけどね」
「あたしも逢いたいんだけど、今一番忙しい時だから」
 夕美さんは丁度、修士論文作成の山場を迎えているのでありました。単に論文用紙に向かうだけではなく頻繁に千葉や神奈川に在る、大学が発掘調査を担当している遺跡にも出掛けなければならないのでありましたし、指導教授との打ち合わせや、論文作成の合間を縫って教授の手伝いやらもさせられているようでありました。
「で、どんな按配だい、論文の仕上がり具合は?」
「大筋は大体出来たんだけど、添付する写真や図版の整理が結構大変なの」
「ふうん。原稿用紙を文字で埋めれば済むと云う訳じゃないんだ」
「そう云う事」
 夕美さんの電話の向こうでコックリする気配が伝わって来るのでありました。「近い内に時間をつくってそっちに行くわ」
「無理しなくても良いよ。論文が大方の体裁が付く迄は電話の声で我慢するよ」
「我慢出来る?」
「だって仕方が無いもの」
「あたしは我慢出来ないから、矢張り近い内に行くわ」
「来てくれればそれは大歓迎だけどさ」
 ここで夕美さんの返事が少し滞るのでありました。
「明々後日の夜はどう?」
「明々後日か。・・・」
「頑ちゃんの方が都合が好くないの?」
「ボーナスの支給日だ、その日は」
(続)
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