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あなたのとりこ 123 [あなたのとりこ 5 創作]

「仙川駅の近く、と云うにはかなり遠いけど、でも、そこよ。良く知っているわね」
「大学時代の友人が一時その学校に通っていた事があるので、名前は知っています」
「ふうん。唐目君は通わなかったの?」
「ええ。俺は外国語の勉強はあんまり好きな方じゃないですから」
「那間さんは来年か再来年、アフリカのケニア辺りに旅行する予定だから、それで今必死にスワヒリ語を勉強しているんだよ」
 均目さんが女史の事を良く知らない割りにはそんな事を紹介するのでありました。
「へえ、ケニア旅行ですか」
 頑治さんは一応礼儀から感心して見せるのでありました。ケニア旅行と云うだけで特に感心するべき理由は無いであろうとは思うのでありましたが。
「そう。大学時代の友人と前から約束しているの」
「なんでまた、ケニアなんですか?」
「これでもあたし大学時代は一応、探検部に入っていたのよ」
「ほう、探検部ですか」
 頑治さんはまたもや無意味な感心をして見せるのでありました。その頑治さんのサービス精神に意を得たのか那間裕子女史は大学時代の探検部での冒険譚やらを披露してくれるのでありました。それからハワイだの合衆国本土だのヨーロッパだのの旅行が如何につまらないかとか、どうせ海外に行くのならアフリカか中央アジアか南極辺りに行くべきだとか、女史独自の海外旅行論を頑治さんの前に披歴して見せるのでありました。
 何かと奇を衒う傾向大なるものがあるし、所謂先進国への旅行をなんでそんなに毛嫌いして見せるのか頑治さんには理解不能でありましたが、まあ、那間裕子女史がそう云うのなら頑治さんが、賛意を示す謂れは無いけれど、それはそれで別に反駁するような類の話しでも無いでありましょう。その決めつけとか偏見とか、ある種の見栄の強い話し振りに些か辟易とする部分はあるにしろ黙って承って置けば良いのでありますし。
 それより何よりその話しの内容は別にして、頑治さんには大いに気になるところがあるのでありました。それは竟々話に熱が入るためか那間裕子女史の体が次第に頑治さんのすぐ傍に接近して来て、女史の胡坐に組んだ足の尖った膝が、テーブルの下で頑治さんの胡坐の大腿部外側に強く押し付けられるような按配になった事でありました。
 そんな接触なんぞには意識がまるで無いためか、それとも敢えて態とそう云う風にしているのか、那間裕子女史は膝の接触を解消しようとはしないのでありました。むしろ体の角度に依って女史の膝が頑治さんの太腿の上に乗り上げている場合もあるのでありましたし、互いの太腿が広い面積で密着するような事態も現出するのでありました。
 那間裕子女史の体温がジーパン越しに頑治さんの脚に浸透して来るのでありました。頑治さんは何となく内心オドオドとするのでありましたし、ちょっと艶めいた気分にもなるのでありました。何気なく接触を解消する事も出来たでありましょうが、そんな事をすると那間裕子女史が全く気にもしていない些事に、頑治さんが過剰反応をしたように捉えられて仕舞うのも何となく癪なような気もするのであります。
(続)
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あなたのとりこ 124 [あなたのとりこ 5 創作]

 頑治さんは居心地悪そうに那間裕子女史との脚の接触を、勿論その気持ちを噯にも出さずシレっとした顔で遣り過ごしているのでありました。まあ、このような意図しない偶然の女性との接触を歓迎する心根も、頑治さんの内には無い事も無いのでありましたか。

 この脚の接触は頑治さんがトイレに行こうと中座する時にようやく解消されるのでありました。それに頑治さんが立ち上がって那間裕子女史の背後に移動すると、頑治さんは更に驚くべき光景なんぞを目にしたのでありました。
 それは那間裕子女史を挟んで頑治さんの反対側に座っていた均目さんの胡坐の膝の上に、女史の片手が極自然な様子で載せられていたのであります。テーブルが陰になっていて明快には確認出来なかったけれど、しかし確かに那間裕子女史の片手は均目さんの膝上に在ったように見えたのでありました。何やら見てはいけないものを見たような気になって、頑治さんは目を背けて早々に座敷から下りてトイレへと向かうでありました。
 あの那間裕子女史は実はなかなかの食わせ者なのかもしれない、と頑治さんは放尿しながら考えるのでありました。一方で頑治さんに挑発的なちょっかいを出しながら、一方で均目さんの方にもちゃっかり媚態を示しているのであります。いや、今の段階ではそのようにも考えられると云う事以上ではないのでありますが。
 それにひょっとしたら均目さんと那間裕子女史は良い仲なのかも知れません。それも恐らく那間裕子女史の絶対的なヘゲモニーの下で。
 那間裕子女史は二人の関係に縛られる事無く奔放に振る舞って、それを均目さんが苦々しくかそれとも大きな包容力で受け止めていると云った二人の見取り図も想像出来るのであります。まあこれも、今のところ頑治さんの勝手な憶測以上ではないのでありますが、しかしこう云う頑治さんの勘は意外に的を射ている場合が間々あるのでありました。
 頑治さんが座敷に戻ると那間裕子女史は均目さんの傍を離れて、今度は袁満さんと出雲さんの間に座っているのでありました。そこではどちらの膝にも那間裕子女史の手は載ってはおらず、体と体の間隔もある程度の遠慮を表明したような接近具合でありました。
 頑治さんが元の席に座るとすぐに那間裕子女史はまた横に遣って来るのでありました。今度も横座りにした那間裕子女史の膝頭が頑治さんの大腿に触れるのでありました。
 明らかに袁満さんと出雲さんの間に在った時とは機嫌も様子も違って、如何にも親密な感じであります。その後、先程のアフリカ旅行の話しやらフラメンコギターの話しをしている時も、那間裕子女史は屡頑治さんの膝を掌で打ったり、肩先を叩いたり、二の腕を触ったりするのでありました。要するに頑治さんが居ない間ほんのちょっと袁満さんと出雲さんの処に愛想をしに行って、頑治さんが戻って来ると待っていたようにすぐに頑治さんの傍に座ると云うのは、明らかに頑治さんの方に袁満さんや出雲さんより、それにまた均目さんよりも、那間裕子女史の興味が多くあると云う左証になるでありましょうか。
 付き合いとして頑治さんは袁満さんや出雲さんより大いに短いと云うのか、今日初めて那間裕子女史と仕事以外の話しを交わした端であると云うのに、この隠そうともしない頑治さんへの那間裕子女史の好待遇は一体どう云う了見からなのでありましょうや。
(続)
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あなたのとりこ 125 [あなたのとりこ 5 創作]

 この日の会合は二時間程でお開きとなるのでありました。当初の集まった目的からすれば何の成果も無い単なる飲み会と云う事になったのでありますが、頑治さんとしては日頃あんまり交流の無い社員の気心が知れる好い機会ではありました。特に那間裕子女史とのインフォーマルな席での接触は、意外な女史の側面を見せられた思いでありましたか。
 随分お高くとまった、会社の人間なんぞには興味の欠片も持っていない人だと云う先入観があったのでありましたが、案外そうでもないようであります。まあしかし同僚の山尾主任とは全く言葉を交わす事も無く、隣同士に座る事も無かったのは女子の彼の人に対する好悪の感情をはっきり表わしているようにも見えるのでありました。
「何だか飲み足りないから、これから新宿で飲み直しよ」
 居酒屋を出て神保町交差点の地下鉄駅入り口辺で、那間裕子女史は頑治さんと均目さんに云うのでありました。声を掛けたのは頑治さんと均目さんだけで、他の人は誘わない心算のようでありました。日頃の親密度から均目さんと、それから本日をもって親密に付き合っても良いとの判断を得た頑治さんと三人での二次会と云う按配でありますか。
 那間裕子女史は端から営業部の袁満さんと出雲さんは誘わない心算のようでありますし、同じ制作部ながらも山尾主任も除外と云う了見のようであります。二次会のお誘いを受けた栄誉は忝いのではありますが、頑治さんは今一つ、どうして自分如きが那間裕子女史の歓心を得る事が出来たのか未だ良く判らないのではありました。

 三人は新宿に出ると、昼間はジャズ喫茶で、夜になると酒場となると云う靖国通り沿いの商業ビルの地下に在る店に入るのでありました。那間裕子女史も均目さんもそこは馴染みの店のようでありました。ひょっとしたら好い仲の二人は、会社帰りに二人でよくその店に立ち寄るのかも知れないと頑治さんは憶測するのでありました。
 丸いテーブル席を三人で囲んで那間裕子女史はジントニックを、均目さんはウィスキーのオンザロックを、それに頑治さんはウィスキーソーダを注文するのでありました。つまみ物はピーナッツとバタープレッツェルと割いたスルメと云う、頑治さんにしたら何の腹の足しにもならない物でありました。ここは凝った料理は出ない店のようであります。
「唐目君はなんでウチの会社に就職したの?」
 那間裕子女史がかなりの音量で後ろに流れるジャズのレコードの、小節の間隙を突くようにして頑治さんに訊くのでありました。
「いやまあ、特にこれと云った理由は実は無いのですが、飯田橋の職安で紹介されて、適当かなと思って面接を受けたら採用となったのです」
「ふうん。意外とお手軽に選んだと云う訳ね」
「まあ、そう云うとすれば全くそうですかね」
「あたしは新聞の求人広告よ」
「俺もそうだな」
 均目さんが那間裕子女史の隣で頷くのでありました。「営業の袁満さんも出雲君も飯田橋の職安派だと云っていたかな」
(続)
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あなたのとりこ 126 [あなたのとりこ 5 創作]

「制作部は新聞の求人広告で、他は職安でと云う採用の決まり事ですか?」
「別に決まり事じゃないと思うけど、何となくそんな風だよね」
 均目さんが那間裕子女史に同意を求めるのでありました。仕事中は均目さんは先輩後輩及び歳上歳下の間柄から那間裕子女史とは敬語を使って話すのでありましたが、一端仕事を離れるとぐっとくだけた話し振りのようであります。これも二人が好い仲である事の左証と、勘繰れば勘繰る事の出来る言葉遣いと云えなくもないでありましょうか。
「ウチの会社に将来性はあると思う?」
 那間裕子女史はそんな話題に移るのでありました。
「さあどうでしょう。入社し立ての俺には判りませんが」
「はっきり言って無いわよ」
 単刀直入と云えば慎に単刀直入であります。「あたしが入社して以来、多少のムラはあるにしても業績はずっと下降しているわよ」
「でも去年は共済組合関連の特注仕事で羽振りが良かったけど。年二回のボーナスも結構出たし、久々に社員旅行もあったし。まあ、俺は最初の社員旅行参加だったけど」
 均目さんが那間裕子女史の観測に少しの異を唱えるのでありました。
「あれは全くのフロックよ。そんな話しが片久那制作部長の学生時代の知り合いから偶々舞い込んで、一時的に忙しかっただけ。ウチの営業が取ってきた仕事じゃないわ」
「まあ、それは確かにそんな経緯だったけど」
「大体ウチの営業は運頼みで、それに無駄が多いのよ」
 那間裕子女史は一杯目のジントニックを飲み干すのでありました。「適当に取引先に顔出しして、あわよくば何か仕事を貰おうとするだけ」
 これはどうやら土師尾営業部長と日比課長がやっている都内営業の事のようだと、その辺りは頑治さんにも判るのでありました。
「それもただ相手の会社に顔出しするだけで、例えば接待だとかして相手にしっかり食い付こうとはしていないしね、確かに。単なる気紛れな御機嫌伺い以上では無いよな。土師尾営業部長が無類のしみったれだから、その辺に金を全く遣わない」
「あっさりしていると云うのか、淡々として強引、強欲ではない、と云う事かな」
 頑治さんが別に義理も無いのでありますが擁護の言をものすのでありました。
「良く云えばね。しかし要するにしたたかな計画の下に積極的で戦略的な営業を展開しないと云う事さ。お殿様商売みたいなものでのんびりにも程があると云うものだ」
「景気が良かった時代はそれでも構わなかったけど、この不景気のご時世ではそんなの通用しないわよ。それでいてその反省も無くて何時もあたふたして、土師尾営業部長の方は日比さんの、日比さんは土師尾営業部長のせいにするだけ。二人共頭が悪いのよ」
 那間裕子女史は容赦が無いのでありました。
「袁満さんとか出雲さんの出張営業の方はどうなんですか?」
 頑治さんがそちらの方に話しを向けるのでありました。
「ああ、そっちもあの二人に営業力もやる気も無くてちゃらんぽらんだからじり貧よ」
(続)
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あなたのとりこ 127 [あなたのとりこ 5 創作]

 こちらの方にも那間裕子女史は辛辣でありました。「どんどん新規を開拓しようと云う気も無いし、向こうに何か云われたりしたら云われたなりにオタオタしているし」
「まあ、広いエリアを車で順に回って、と云う昔の富山の薬売りみたいな仕事だから、顔出しの頻繁さも限界があるし、持ち込む商品の数にも限りがあるからね」
 均目さんが袁満さんと出雲さんの肩を持つのでありました。
「電話と云う道具があるんだから、それを上手に使って、もっと効率的に出張営業すれば良いのよ。仕事に何の工夫もしないで相も変わらず非効率な事ばっかりしているんだもの。それじゃあ売り上げも何も延びる訳がないわ」
 那間裕子女史はもどかしそうな口調でそう云うと、近くを通ったウェイターにジントニックのお代わりを注文するのでありました。
「でも袁満さんや出雲さんのお得意先だろう地方の旅館とかお土産屋さんから、小口ながら品物を送ってくれと云う注文の電話も結構頻繁にあるじゃないですか」
 頑治さんが自分の発送仕事の実体からそんな事を云ってみるのでありました。
「そう、電話注文で在庫のフォローは出来るのよ。それなのに態々車で回って品物を置いて来るなんて仕事も同列にやっているのよ。非効率極まり無いわ。その分の余力を新規開拓に回せばもっと売り上げは伸びる筈じゃない」
「まあ、それは考え方としてはそうだけど、でも旅館やお土産屋は相当種類の商品を扱っているから、ウチの商品が在庫薄になったってそれはそれでほったらかしにされるかも知れない。ウチの商品がその店の中で断トツの売り上げがあるのならば兎も角、全体の売り上げから見たらウチのが品切れしたとしても然して影響がないとなれば、放置されてその儘縁切れになって仕舞う事だってあるさ。そうならないために顔出しも必要だろうし」
 均目さんが多少及び腰ながら食い下がるのでありました。
「それはそうだけど、つまり要は効率の問題だと云っているのよ」
 那間裕子女史は新たに頼んだジントニックが自分の前に置かれると、早速そのグラスを取り上げて一口付けて口の中を湿らせるのでありました。「注文数をちゃんと管理出来ていればその辺の動向とかは掌握出来る筈よ。ぼちぼち必要だなと判断した時に効率的に顔出しすれば良いのよ。そのくらい頭を使っても良いんじゃないのって話し」
「でも商売相手はかなりの遠隔地にあるんだから、顔出しが必要な所が丁度その出張時に同じルート上に固まっているとは限らない。一軒の遠く離れた顔出しが必要な店のためにそこまで車を走らせるのは、それこそ非効率と云うものじゃないかな」
「だから要するにちゃらんぽらんじゃなくて、頭を使って手際良く営業しろって事」
 那間裕子女史も引き下がらないのでありました。
「制作部の俺達があれこれ営業の仕方に口を出すのは僭越と云うものじゃないかな。営業は営業で俺達の計り知れないような小難しい苦労もあるんだろうから」
「進取の気概とか工夫とかが無いのよ、ウチの営業には。だから売り上げが落ちてもオロオロするだけで、今までやっていた事を修正する思考力とか勇気が無いの」
「そう云うのなら、那間さんが営業をやってみれば」
(続)
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あなたのとりこ 128 [あなたのとりこ 5 創作]

「そんな気は更々無いわ」
 那間裕子女史はあっけらかんと掌を横に振って見せるのでありました。「営業としてあたしはウチの会社に入ったんじゃないもの」
「でも営業の仕方に一家言あるようじゃないか」
「見ていたらもどかしくなるのよ。ただそれだけ。前に云ったけどあたしは元々旅行雑誌の編集がやりたかったの。ウチの会社は地図も作っているから、云ってみれば地図作成とかオフセット印刷の知識とか、グラビアの目利きのスキルを習得しようと思って入社したんだもの。まあ、そうじゃない詰まらない仕事もやらされているけどね、現実には」
 那間裕子女史は二杯目のジントニックのグラスを一気に空けるのでありました。

 那間裕子女史のジントニックの一気飲みに付き合う心算は無いのでありましたが、頑治さんもグラスに残ったウィスキーソーダを干すのでありました。
「お代わりを頼みましょうか?」
 頑治さんが気を利かせてすぐさまそう訊くと那間裕子女史は一つ頷くのでありました。頑治さんはウェイターを呼んで、ジントニックとウィスキーソーダのお代わりを注文するのでありました。未だグラスの底の方に少量残している均目さんを見ると、均目さんは微かに首を横に振ったので、均目さんの分は注文しないのでありました。また後からオンザロックではなくて他のものを注文する心算でいるのかも知れませんし。
「へえ、旅行雑誌の編集がやりたかったんですか」
 頑治さんがまたもやここでも無意味な感心顔をして見せるのでありました。こう云う余計な頑治さんのサービス精神が、那間裕子女史の舌の回転に滑らかさを与えているのでありましょうが、まあ、後輩の役目として大した事も無い先輩の一々の言動に感心したり驚いて見せるのは、高校生時代のラグビー部での上級生に対する態度として養われたものでありましょうか。上級生を気分良くさせるのは下級生たる者の役目であると云うのは、無批判にごく当たり前の弁えとしてその時に習得させられた癖のようであります。
「まあ、旅行雑誌に限らないけど、あたしは兎に角編集者になりたかったのよ」
「編集者と云ったら今のご時世、なかなかの花形職業ですよね」
「大手の出版社はね。大学の同級生で大手に入った人も何人か居るけど、聞けばなかなか派手な仕事が多そうよ。それは勿論ちまちました下働きみたいな仕事も大手とは云えあるんでしょうけど、それでも時々羨ましいと思う時があるわ。ウチみたいな零細企業は大凡編集者らしい仕事なんて無いも同然よ。名前の売れた人との付き合いも全然無いし」
「第一ウチは、今は出版社じゃないから」
 均目さんが同調するような、或いは水を差すような事を云うのでありました。
「そうね。今の社長が大日本地名総覧社を引き継いで、その後暫くして社名を変えた時点から出版社じゃなくなったわよね、残念ながら」
「那間さんは大学の同級生の手前、ウチが出版社じゃなくなった事が悔しいんだよね」
「別に悔しくはないけど」
(続)
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あなたのとりこ 129 [あなたのとりこ 5 創作]

 那間裕子女史はジントニックを一口、と云っても殆どグラス半分くらいの量を口中に銜んで、やや頬を膨らませてからそれを二口に分けて飲下するのでありました。
「でもその話をする時には何時も、悔しそうな口振りで話すじゃないか」
「まあ、人は人よ。それにあたしだって将来一廉の編集者になって見せるわ」
 なかなか勝気な、プライドの高い女性のようであります。「だから要するに唐目君、将来性の無いウチの会社は適当に見限って、もっとやり甲斐のある仕事を探したほうがいいかも知れないわよ。入社し立ての唐目君にこう云う事を云うのは何だけど」
「那間さんは近い将来にウチの会社を辞める心算なんですか?」
「ま、そうね。そんなに長く居る心算は無いわね。目的の、地図編集とかグラビアやイラストの目利きのスキルがある程度習得出来たと思ったら、他の会社を探すわ。まあ、フリーでも構わないし。ウチの会社に思い入れなんか別に無いもの」
 那間裕子女史はクールにそう云って、グラスに未だ半分程残っていたジントニックを一気に飲み干すのでありました。あんまり目立たないながら舌骨が二回上下したところを見ると、またこれも二口に分けて食道を通過させたのでありましょう。
「会社への思い入れと云う点では、俺もそんなに無いかな」
 均目さんはグラスを空けて、それから今度はウィスキーのオンザロックではなく那間裕子女史と同じジントニックを注文するのでありました。
「そうすると均目君も別の会社に編集者として再就職する心算なのかな?」
 頑治さんが訊くと均目さんは首を傾げて見せるのでありました。
「いや俺は、別に編集者に拘ってはいないよ。まあ、希望を云うなら、少ない労働で多くの実入りがあるし仕事なら何だって構わないよ」
「そんな都合の好い仕事なんて今のご時世、何処にも無いわよ」
 那間裕子女史は鼻で笑うのでありました。「それより何より、均目君はその細っこい体を鍛え直して、どんな労働にも耐えられるような頑健な体を創る方が先ね」
 那間裕子女史はそう云ってから徐に頑治さんの方を見るのでありました。「唐目君は結構良い体をしているけど、何かスポーツをやっているの?」
「いやあ、今は何も。高校生の時にラグビーをやっていましたが、大学の四年間は特に運動らしい運動はしませんでしたねえ」
「でも。腕なんか均目君の二倍の太さがありそうね」
 那間裕子女史が手を延ばして頑治さんの上腕に無遠慮に触るのでありました。それから両手を使って太さを測って見たり、上腕二頭筋や肩の三角筋を摘んだりするのでありました。頑治さんは夕美さんにすら態々そんな事をされた記憶が無いので、少しドギマギするのでありましたが敢えて腕を引っこめる迄はしないのでありました。
 均目さんの方をたじろぎながらも窺うと、均目さんは頑治さんと那間裕子女史のじゃれ合いのような光景をすっかり無視して、来たばかりのジントニックをゆるりと傾けているのでありました。そうはしているけれどひょっとしたら内心は面白くないのではないかと頑治さんは勘繰るのでありましたが、特にそう云う風情は見えないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 130 [あなたのとりこ 5 創作]

 そんな均目さんの様子は、那間裕子女史と均目さんが別にデキていると云う訳ではないと云う証明のようにも頑治さんには思えるのでありました。しかしだからと云ってこの儘那間裕子女史の自分の腕への接触を許し続けるのは、何やら夕美さんと云う存在に対する忠義立て上、慎に律義でないような気もしてくるのでありました。
 頑治さんはそれとなく那間裕子女史の接触から自分の腕を遠ざけるように、那間裕子女史に対して背中を向けるようにほんの少し体を捻るのでありました。如何にもはっきり接触を拒否したと思われるのも申し訳無い気がするものだから、頑治さんはその動きの延長から、腰の捻転運動及び肩の内転ストレッチのような動作を始めるのでありました。
 この期で急にそんな事を始める方が余程不自然であろうかとも思うのでありましたが、まあ、その敢えての不自然さを以って那間裕子女史に自分の腕への接触を控えて貰いたいと云う頑治さんの意をやんわり伝える事が出来れば、それはそれでOKでありますか。これは一応頑治さんの、会社の先輩に対する気遣いであります。

 ある時点から兆候も無く、那間裕子女史は急に寡黙になるのでありました。それとなく窺うと瞑目して首を項垂れているのでありました。なかなかハイピッチでジントニックを呷っていたから、ここに来て一気に酔いが回ったものと推察されるのでありました。
「那間さん、大丈夫?」
 均目さんが項垂れた那間裕子女史の顔を下から覗きながら訊くのでありました。那間裕子女史は瞼を開く事無く不明瞭な声で生返事をするのでありました。均目さんはその様子を見て今度は頑治さんの方に視線を移して苦笑いながら続けるのでありました。
「何か、竟に酔いつぶれたと云った感じだなあ」
「そうだな」
 頑治さんも那間裕子女史を横目で見るのでありました。上体が不規則に揺れていて、これは目が回っているのと半睡眠状態のために体を直立固定出来ない故でありましょう。
「じゃあ、ぼちぼち家に引き上げるか」
 均目さんが二杯目のジントニックのを空けてから云うのでありました。
「那間さんは一人で帰れるかな」
 頑治さんも自分のグラスを干してから腕時計に目を遣るのでありました。未だこの時間なら終電には間に合いそうであります。
「ま、この様子じゃ無理だな。俺が送って行くよ」
 均目さんが立ち上がって那間裕子女史の片方の脇に腕を差し入れて立たせようとするのでありました。完璧に酔い潰れている訳ではないようで、那間裕子女史はすっかり体を均目さんの腕に預けていながらも、ヨロヨロと立ち上がるのでありました。
「歩けるかい?」
 均目さんが訊くと那間裕子女史は先程と同じ生返事をするのでありました。それからガクンと首を後ろに反らして、均目さんの肩にすっかり頭を預けるのでありました。
「これじゃあ、新宿駅まで屹度歩けないぜ」
(続)
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あなたのとりこ 131 [あなたのとりこ 5 創作]

 頑治さんも那間裕子女史のもう一方の脇から遠慮気味に腕を差し入れて助けるのでありました。遠慮気味なのは均目さんにとってこれは余計なお節介にならないかと云う点を危惧したためでありますが、均目さんは特に拘らないような素振りでありました。
 ジャズ酒場を出ると靖国通りまで、那間裕子女史を両脇から二人で支えながら歩くのでありました。那間裕子女史は足を縺れさせながらも、一応は両足を互い違いに出して歩行するのでありました。ただ、すぐに座り込みそうになるのでその都度しっかり立たせようと支えると、女史の腕の柔らかさが頑治さんの掌の中に膨よかに圧し掛かるのでありました。それは如何にも柔脆で、何やら媚びて来るようにも思える感触でありました。
 均目さんが靖国通りの歩道で片手を挙げると、緑色の車体をしたタクシーが道傍に寄って来て、ゆるりと停車してからすぐに後部のドアを開くのでありました。先ず那間裕子女史を車内に押し込めてそれから均目さんが乗り込むのでありました。
「後は大丈夫だから」
 均目さんがドアが閉まる前に頑治さんに云うのでありました。
「じゃあ、よろしくね」
 頑治さんもそう返してドア傍から少し離れるのでありました。
 タクシーは那間裕子女史と均目さんを乗せて頑治さんの横から車線の方に離れるのでありました。頑治さんは青梅街道方向に走り去るタクシーを見送ってから腕時計に目を遣るのでありました。少し急がないと新宿駅を発車する中央線東京行きの最終電車に間に合わないかも知れません。頑治さんは駅の方に向かって未だ多くの人が行き交う、様々なネオンサインに明るく彩られた道を急ぎ足に登っていくのでありました。

   業績不振

 昼休みにそれとなく、主立った従業員に集合が掛かるのでありました。下の倉庫内に集まったのは昨日居酒屋に参集した連中でありました。
「片久那制作部長に確認したら、ボーナスを出さないと云う話しは確かにあるようだ」
 山尾主任が作業台を囲んだ面子に向かって切り出すのでありました。「何でも社長と土師尾営業部長はすっかりその目論見で、片久那制作部長が少し抵抗しているらしい」
「抵抗していると云うのは、ボーナスを支給する方向で二人に反対しているって事?」
 那間裕子女史が小首を傾げて念のために確認をするのでありました。
「そう云う事みたいだね」
 山尾主任が伏し目をして重々し気に頷くのでありました。
「じゃあ、未だ出る可能性も充分あるって事かな」
 袁満さんが少し口元を綻ばすのでありました。
「それはそうだけど、でも若しボーナスを支給する事になったとしても、去年の暮れと同じくらいの額とはいかないだろうな」
 山尾さんは陰鬱そうな顔で袁満さんの楽観をつれなく窘めるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 132 [あなたのとりこ 5 創作]

「去年は確か暮れのボーナスは二か月半分出たんだったよね」
 袁満さんが少し考える風に目玉を上方に動かしながら云うのでありました。
「そう。夏が二か月で暮れが二か月半」
 山尾主任が目玉を元に戻した袁満さんを見ながら頷くのでありました。
「それは諸手当も含めた賃金総額の、ですか?」
 頑治さんが山尾主任に訊くのでありました。
「いや、通例は基本給に役職手当を加えた額の、と云う事だね。住宅手当とか家族手当は算定の基準に含まれていない。尤も、ここに居る全員、家族手当は関係無いけど」
「ああそうですか。判りました」
 これまでのアルバイトとかでボーナス等は貰った経験が無いものだから、頑治さんは自分の基本給の二か月半分をざっと計算して見て、内心大いにほくそ笑むのでありました。しかしこの暮れはどうやら勝手が違うみたいでありますし、それに恐らく新入社員の自分は日割りとか小難しい計算をあれこれされて、満額は出ないでありましょう。それに抑々その二か月半が大いに怪しい雲行きなのを皆で憂慮しているのでありますから。
「社長や土師尾営業部長の魂胆や目論見は論外としても、片久那制作部長はそれならどのくらい出そうと云う腹心算なんでしょうかね?」
 均目さんが山尾主任に視線を向けるのでありました。
「さあ、それは聞かなかったし、向こうも何も云わなかったけど」
「二か月分かな。それならまあ、不満だけど一応納得は出来る」
 袁満さんがそう云って思わず口元を綻ばすのでありましたが、那間裕子女史にその顔を見咎められて険しい目をされたものだから、慌てて頬から笑いを消すのでありました。
「袁満君、二か月半でも不満だったんだから喜べないわ。それに大体、二か月と云う観測は甘いんじゃないの。精々一月か、或いは半月分と考えた方が良いんじゃないの」
 那間裕子女史にきっぱり窘められて袁満さんは意気消沈して俯くのでありました。
「いや、それもひょっとしたら甘いかも知れない。謝礼金とか慰労金とかの名目で、ほんの少額の金一封、と云う事だって考えられますよ」
 均目さんがより悪い推測を述べるのでありました。
「そうね、それなら社長や土師尾営業部長を説得し易いでしょうしね」
 那間裕子女史が頷くのでありました。
「しかしそうなると自分達の取り分の事もあるから、基本給プラス役職手当の一か月分とか、或いは半月分とか云う計算を片久那制作部長はしているんじゃないのかな」
 山尾主任が腕組みしながら云うのでありました。
「どうせ聞くならちゃんと、具体的な腹心算額まで聞けばよかったのよ」
 那間裕子女史は山尾主任に冷眼を向けるのでありました。那間裕子女史は山尾主任の後輩で一つか二つ歳下の筈でありますが、物腰に遠慮は全く無いのでありました。
「第一、あの二部長が俺達と同じ計算式の下に在るのか、そこも怪しいですけどね。あの二人は別格扱いで、そこそこの額はちゃっかりぶん取る心算なのかも知れないし」
(続)
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あなたのとりこ 133 [あなたのとりこ 5 創作]

「そりゃないよなあ。すっかり反則だ」
 袁満さんが均目さんの言に舌打ちするのでありました。「でも確かに考えられる」
「若し慰労金名目だとしても、あの二人は俺達より格段に多いだろうしね」
 山尾主任も小さな舌打ちの音を立てるのでありました。
「でも少しは義侠心のある片久那制作部長が、そんな醜い事を企むかしら」
 那間裕子女史がちょっぴり片久那制作部長の肩を持つのでありました。
「でも、自分の取り分となると片久那制作部長もなかなかシビアな人だぜ」
 山尾主任はその辺は懐疑的なようであります。
「それは云えてる」
 袁満さんが明快に同調するのでありました。「ああ見えて相当なケチだしね」
「我々従業員がボーナスの支給に口を挟む事は出来ないのでしょうかね?」
 今まで無関心そうに黙っていた出雲さんが云うのでありました。
「まあ、口を挟めるような権限はここに居る誰も持っていないかな」
 山尾主任が力なく笑うのでありました。「労働組合がある訳でもないし」
「そうか、労働組合と云う手もあるわね」
 那間裕子女史が左の掌を右の拳の小指側の縁で打つ真似をするのでありました。何とも古めかしい、考えが閃めいた事を表現する所作であります。今時そんな手真似を使う人は滅多に居ないだろうと、頑治さんは横目で見ながら秘かに思うのでありました。
「労働組合、ねえ」
 均目さんが億劫そうに呟くのでありました。「今時流行らないでしょう」
「流行るとか流行らないとかの問題じゃなくて、社長や土師尾営業部長に対する発言権も説得力も無いあたし達が、暮れのボーナスを確保するために、唯一正当な手段としてそれを訴える有力な方法の一つではあるわよ、確かに」
「でも、何となく臆病な小物連中が群れて、立場の弱さを逆手に取って得意気に柄にも無い尊大な顔をするような、全くイカさないイメージがあるんだよなあ、俺には」
「何、それ」
 那間裕子女史が均目さんを蔑むような目で見るのでありました。「そんなつまらないイメージに拘って、ボーナスと云う実質をフイにする方がもっと格好の悪い愚かさと云うものじゃないの。そう云う風には均目君は考えられないの」
「いやまあ、そう云われると、お説ご尤もと云うしかないけど。・・・」
 均目さんは那間裕子女史の全くの正論らしきにたじろいで、気圧されたように弱々し気に言葉の尻を曖昧に窄めるのでありました。

 ここに来て山尾主任もこの、自分で大した意も無く口にした労働組合と云う言葉に少なからず自分で魅せられたようでありました。
「でも確かに、賃金とか待遇とかの面で社長や土師尾営業部長の遣りたい放題になっていると云うのも、正常な労使関係と云えないような気がする」
(続)
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あなたのとりこ 134 [あなたのとりこ 5 創作]

 山尾主任はそう云って頷くのでありました。「俺達個々では社長や土師尾営業部長に待遇面の事は今迄何も云えなかったけど、団結して組織として労働者の正統な権利を行使すれば、賃金とか待遇ばかりじゃなく仕事の面でも色んな改革が出来るかも知れない」
 何となくもうすっかり労働組合員になったようなこの山尾主任の口振りに、均目さんが遠慮がちながらもげんなりした顔をして目を背けるのでありました。
「しかし今の段階では、社長と二部長の三人でこの暮れのボーナスの支給に関しては協議中なんですよね。未だ決定してもいない事柄に対して早手回しにこちらが労働組合結成だとか気炎を上げても、それは少しばかりせっかちだと云う気もしますけどねえ」
 頑治さんが山尾主任の意見に水を差すのでありました。
「確かに、未だ決まってもいのに早まった行動をするのも迂闊な話しだよなあ」
 均目さんが同調するのでありました。
「決まってからじゃ遅いんじゃないの」
 那間裕子女史が少し語気を荒くするのでありました。頑治さんや均目さんの態度が慎重と云うよりはちゃらんぽらんに見えているようであります。
「しかし向うの意志と云うのか、俺達に対する了見をちゃんと見極めた上で、止むに止まれずと云った感じで行動を起こす方が、こちらの行為の体裁上の正統性とか真剣味がより強く伝わるんじゃないかな。ここは先ず向こうの出方を見て、それが酷かった場合に一挙に怒りを表明すると云うのが、相手をたじろがすより効果的な方法だと思うよ」
 均目さんがここで急に、那間裕子女史とはフォーマルな場では丁寧語で話していた口調を、インフォーマルな場合にそうするざっくばらん調に変えるのでありました。この語調の変化は、均目さんのどういう気持ちを現しているのか頑治さんは俄には判らないのでありましたけれど、まあ、ちょっと気にはなるのでありました。
「じゃあ、均目君は取り敢えずボーナス支給日まで何もしないと云う意見なのね」
「何もしないと云うのか、前以て不満表明とかはしないと云う意見だね」
「でも、と云う事は、組合結成かどうかは別にしても、若しも支給されたボーナスがとんでもない額だった時に備えて、これでは納得出来ないと云うあたし達の団結した意志を示すための準備は、予めしておくと云う理解で良い訳ね?」
「まあ、それはしておいた方が得策に違いない」
「ボーナス支給日は何時なんですか?」
 頑治さんが二人の遣り取りに遠慮がちに言葉を差し挟むのでありました。
「今迄は大体十二月十日だな。その日が休日の場合は前日の九日になる」
 山尾主任が応えるのでありました。
「その日の結果が酷かった場合、均目さんは具体的にはどうする心算なのかな?」
 頑治さんは均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「まあ、皆で土師尾営業部長を取り囲んで、納得出来ないから再考願いますと、貰ったばかりのボーナス袋だか金一封袋だかを一斉に叩き返すと云う事になるかな」
「全く金一封も出なかった時は?」
(続)
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あなたのとりこ 135 [あなたのとりこ 5 創作]

「出ないと判った時点で土師尾営業部長につめ寄るか。まあ、その辺は色んなケースを想定して予め申し合わせして置く必要はあるけど」
「じゃあ、その申し合わせ事項を早速決めておかなければならないと云う事になるかな。もう十二月十日までそんなに日が無いんだから」
「いやいや、十二月十日を待ってそれから行動するのは俺は遅いと思うな」
 山尾主任が割り込むのでありました。「その前にこちらの意向を何らかの形で明示しておけば、片久那制作部長の交渉の側面援護にもなるし」
「そうよ。待ってから動くんじゃなくて、こっちが先手を取って動かないと社長や土師尾営業部長にプレッシャーをかけられないわよ」
 那間裕子女史が珍しく山尾主任に同調するのでありました。この二人は全く息が合わない同士だと頑治さんは思っていたのでありましたが。
「ええと、抑々のところを確認して置きたいんだけど」
 那間裕子女史の言葉が終わるのを待って、今迄暫く黙っていた袁満さんが申し訳無さそうに割り込むのでありました。「ボーナスが出ないのなら、俺達はあっさりその儘黙っていないで、一致して必ずそれに抗議すると云うのはもう決定しているんだよね」
「当たり前じゃない。今頃何を呑気な事云っているの」
 那間裕子女史が声を荒げて、袁満さんの頭を押さえ付けるような物腰で云うのでありました。袁満さんはその迫力に思わず怖じてか、たじろいだように表情を引き攣らせるのでありました。どうした訳か横に居た出雲さんまでが同じような及び腰を見せるのは、これは同じ仕事をしている先輩と一心同体である事を表意する所作でありましょうか。
「いや、その、そこを最初に確認して置かないと、何かモヤモヤした儘その先の話しをする事になるから、とか考えたんですよ、俺は」
 袁満さんはしどろもどろに那間裕子女史に対して弁明するのでありました。
「黙っていたら暮れのボーナス無支給の前例を作る事になるわ。そうなれば業績不振を理由に今後も出ない事だって有り得るでしょう。暮れのボーナスどころか夏のボーナスもカットされる恐れもあるし。そんな事になったらまともに生活していけなくなるわ」
「いや、話しを前に進める上で手順の問題は大事だよ」
 均目さんが那間裕子女史の口を遮るのでありました。「無精して有耶無耶にしていると、後で、元々そんな事は決めていないだの何だのと、話しが紛糾して前に進まなくなるのは困ると、袁満さんはそこを指摘したかったんだよ。そうですよねえ、袁満さん」
 均目さんの助け舟に袁満さんは諸手を泳がせて縋り付くのでありました。
「そうそう、まあ、そう云う事」
 袁満さんはようやく表情を緩めるのでありました。横の一心同体の出雲さんも頬の辺りに漲っていた緊張を解くのでありました。

 山尾主任が少し棘々しくなった場を収めるように提案するのでありました。
「じゃあ、順を追って一個々々決を取ろう」
(続)
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