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あなたのとりこ 99 [あなたのとりこ 4 創作]

「有給休暇が未だ残っているから今日はこれで帰りますし、明日も来ません」
 刃葉さんが土師尾営業部長にまるで宣言するように云うのでありました。「明後日は一応最後の挨拶と私物の整理に来ますが、それで構わないですね」
「有給休暇があるのなら仕方が無いけど、仕事の方はそれで問題無いんだね?」
 土師尾営業部長はこの宣言をあっさり了承するのも癪だと思ってか、一応そこいら辺を確認すと云った風に訊き糺すのでありました。
「問題が無いと部長も思ったから、昨日さっさと辞めろと云ったんでしょう」
 刃葉さんは何をほざくかと云う顔をして苛立たし気な口調で返すのでありました。
「別にさっさと辞めろ、なんて云っていないよ」
 土師尾営業部長はしれっと抗弁するのでありましたが、それを聞いて頑治さんは吹き出しそうになるのでありました。使った言葉は違っていても、謂いはさっさと辞めろと云う事に違いないのでありますから、何を今更どの面下げてと云うところであります。
 刃葉さんは土師尾営業部長の云い草に、急に表情を険しくするのでありました。しかしこの期に於いて云った云わないで争うのは全く無意味だと考えてか、まあ良いや、と呟いて不愉快そうに受け流して、頑治さんの方に顔を向けるのでありました。
「もう俺が居なくても大丈夫だよな?」
 刃葉さんは頑治さんにそう確認を取ろうとするのでありました。
「大丈夫です」
 頑治さんは簡潔に応えるのでありました。これは些か刃葉さんに対して素っ気無さ過ぎる云い方だったかなと、云った後で思うのでありました。
「唐目君もそう云っているんだから、問題は無いですね」
 刃葉さんはまた土師尾営業部長の方に顔を向け直して無愛想に云うのでありました。
「判りました。そう云う事なら」
 土師尾営業部長はまたもや丁寧な口調で頷くのでありました。
 刃葉さんはその言葉を聞いて土師尾営業部長との遣り取りを切上げて制作部のスペースに向かうのでありました。そちらへも後三日で辞める事にした点と、今日明日は有給休暇を取って明後日に顔を出す旨告げるためでありましょう。
 マップケースの壁に阻まれて頑治さんには制作部での遣り取りは確とは聞こえなかったものの、別に片久那制作部長が刃葉さんを引き留める様子も窺えないし、刃葉さんの思わぬ早目の退社をあっさり受け入れるようでありました。
「今までご苦労さん。落ち着いたらまた遊びに来てよ」
 山尾主任もそんな気の無い愛想なんぞをものして餞としているのでありました。均目さんは仕事の上で刃葉さんと馴染みも有ったから、こちらも、ご苦労様でした、の短い別れの挨拶を送るのでありましたが、那間裕子女史は殆ど交流が無かった故か特段餞別の言葉を発する気配も無いようでありました。まあ女史としても刃葉さんの方をふり向いて、一時でも同じ釜の飯を食った会社の同僚として軽く頭くらいは下げたでありましょうが、しかし何れにしても制作部の反応は全く呆気無い程事務的な様子でありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 100 [あなたのとりこ 4 創作]

 刃葉さんが出て行った後でそれとなく頑治さんが土師尾営業部長を窺うと、大いに晴れやかな顔色なんぞをしているのでありました。刃葉さんの自分への恨みの矛先を兎も角も躱して、当面の危機を脱した事への安堵のためでありましょう。それにひょっとしたら瓢箪から駒ではありますが、刃葉さんへ支払う予定の一か月分の賃金をケチり得た満足もあるのでありましょう。しかもそれは自分の一言に依って齎された功績であります。
 頑治さんはふと、嫌なものを見た気がするのでありました。こう云う顔色をあっけらかんだかうっかりだか表わして仕舞う土師尾営業部長のある意味での素朴さを、大いに頼り無く感じたのでありました、こんな人が会社を統べていて大丈夫でありましょうか。

 頑治さんは午前中の発送仕事を熟すために倉庫に下りて行こうとするのでありました。「午前中に業務の車を使うかい?」
 頑治さんが扉のノブに手を掛けた時に袁満さんから声を掛けられるのでありました。
「いや、午前中は梱包をしていますから車は使いません」
「それなら駐車場のエレベーターの上にある俺の車と入れ替えして構わないかな?」
 袁満さんが、俺の車、と云うのは別に袁満さん所有になる車と云うのではなく、袁満さんが専用に出張に使っている会社所有の、前の両ドアに社名の入った白いバンの普通車であります。因みに出雲さんは、贈答社で使える下の駐車スペースが二台分しかないため、普段は赤羽の自分の家の近くに会社で駐車場を借りて貰っていているのでありました。出張に行く時には前日にそこから運転して会社に持って来るのであります。
 袁満さんは明日から出張に出るので、荷物の積み込みとか準備をするために頑治さんにそんな事を訊いたのでありました。
 頑治さんと袁満さんは揃って下の倉庫に下りて行くのでありました。車の上下入れ替え作業を終えてから二人は倉庫に入るのでありましたが、袁満さんはなかなか自分の仕事に取り掛からないで頑治さんの傍に来て今さっきの事務所での出来事に付いて、頑治さんに少し高ぶった口調であれこれものすのでありました。
「もう仕事の方は刃葉さんなんか居なくても大丈夫なんだろう?」
「ええまあ、大体が単純作業だから俺一人でも何とかやれると思いますよ」
「そうだよなあ。そんな込み入った作業じゃないから、一度要領を覚えれば大丈夫だよなあ。でもそんな仕事も刃葉さんはミスばっかりしていたけど」
 ここでそうですねと頷くのも一応会社の先輩である刃葉さんに対して不謹慎であろうから、頑治さんは曖昧に笑って返す言葉を保留するのでありました。
「刃葉さんはかなり土師尾営業部長に対して怒っていたんだろうな」
 袁満さんが梱包の荷物を取りに行こうとする頑治さんの作業を引き留めるように言葉を掛けてくるのでありました。頑治さんは一応礼儀から歩を止めるのでありました。
「見込んだ収入とか、次の就職先を見付ける算段とかが狂ったんじゃないですか」
「そうだよな。でも予定通り辞めるのが一か月後だったところで、事前に次の仕事を探すような周到さは刃葉さんには元々無いだろうから、算段も何も無いんじゃないかな」
(続)
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あなたのとりこ 101 [あなたのとりこ 4 創作]

「その辺は俺には判りませんけどね」
「まあしかしこれでようやくこの倉庫の中も綺麗になるだろうね。唐目君は綺麗好きらしいし几帳面だし、仕事もそつが無いし気も利くし」
「いやあそうでもないかも知れませんよ。自分で自分の事を綺麗好きとか几帳面なんて思った事もありませんからね。倉庫の美化に関しては保証の限りではありません」
「現に唐目君が来てから格段に綺麗になったし、商品は整理整頓されているし、この棚の見取り図と正確な在庫表のお蔭で商品の出し入れもスムーズになったし」
 袁満さんは貼ってある見取り図を指差しながら頑治さんを大いに持ち上げるのでありました。しかし刃葉さんの事はさて置き、山尾主任や均目さん、それに出雲さんやこの目の前の袁満さんとか、倉庫によく出入りする他の人が今迄仕事の効率化のために何の画策もしなかったと云うのが、頑治さんにしたら何とも怠慢にも思えるのでありました。
 倉庫の現場管理者たる刃葉さんを憚ったと云うのもあるのかも知れませんが、しかしそれにしてもそんなのは態の良い云い訳以上ではないでありましょう。第一これ等の人達は刃葉さんの仕事振りを信用もしていなかったし侮って止まなかったのでありますから、仕事が滞ると思うなら、刃葉さんに遠慮すること無く、それに陰で刃葉さんへの不満をものすだけでなく、自分が何がしかの方策を堅実に施せば良かったのであります。
 依ってこれ等の人達も、無責任と職務怠慢の誹りは免れないと頑治さんは思うのであります。まあここで敢えてそれを口にして論う心算は無いのでありますが。

 二日後に刃葉さんは会社に遣って来るのでありました。頑治さんはその日は午前中に上野の取引先に商品配達の仕事があったので、倉庫の私物を整理すると云う刃葉さんを残して一人で出かけるのでありました。私物の整理とやらでまた倉庫内が荒らされるのではと云う危惧もあったのでありましたが、帰ってみると特段倉庫が取り散らかっている様子も無いのでありました。頑治さんは秘かに安堵の溜息を吐くのでありました。
 倉庫に在る刃葉さんの私物と云ったら、ロッカーに入れてある数本の木刀やらボクシングのグローブやら、襟の辺りが古びて解れた柔道着やら、これも縁が解れて色も褪せた錦糸で名前の刺繍が入った柔道の黒帯やら、空手の突きの練習用に棚の柱に括り付けたある古座布団やらでありますが、作業台の上に並べている、持って帰るのであろう物を見ると柱に括り付けていた古座布団がそこには見当たらないのでありました。頑治さんにしたら今迄倉庫の中でそれが一番目障りだったからその事を訊き糺すのでありました。
「奥にある柱に縛り付けている座布団は持って帰らないのですか?」
 そう訊かれて刃葉さんはどう云う心算なのかニヤリと笑うのでありました。
「ああ、あれね。あれは捨ててくれて構わない」
「俺が捨てるのですか?」
「他に何かあれこれ見付けたら適当に処分してくれて構わないよ」
「いやそうじゃなくて、今日の内に刃葉さんが自分で、自分の責任に於いてすっかり処分して行くんじゃなくて、後で俺が捨てるのですかと訊いたのです」
(続)
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あなたのとりこ 102 [あなたのとりこ 4 創作]

 頑治さんにそう云われて刃葉さんは、ああそう云う事を云っているのか、と云うようなやや不興の色の雑じった無表情になるのでありました。頑治さんは刃葉さんを不愉快にさせたかなと思うのでありましたが、たじろがないで刃葉さんの目を真顔で一直線に見るのでありました。言葉を発した以上、もう後には引き下がれないのでありました。
「テメエの始末はちゃんとテメエでして行けよな、と云う訳ね」
 刃葉さんはこの期に及んで何故か妙に突っかかって来る頑治さんに対して余裕を見せるためか、薄ら笑いなんぞを頬に浮かべて見せるのでありました。
「その通りです。立つ鳥跡を濁さず、とか世間ではよく云うじゃないですか。本当なら最後に倉庫の中や駐車場、それに車の掃除やら、自分がこれまで使っていた会社の備品なんかも綺麗に手を入れてから会社を去るのが筋ではないですかね」
 正論でありましょうから頑治さんは気概として一歩も引く気は無いのでありました。これが恐らく刃葉さんと関わり合う最後の時なのだから、今まで溜めに溜めていた鬱憤を少しはぶちまけるぞと云う気でもありましたか。
「何だ、最後の最後にお説教か」
 刃葉さんの目尻に険しさが現れるのでありました。同時に多少の気後れの色も浮かぶのは頑治さんの小生意気な言が正論であると判るからでありましょう。
「説教ではありません。筋を云っているだけです」
 頑治さんは無愛想ながらも冷静な物腰で云うのでありました。上擦った様子は見せられないところであります。眼光を強くして、後は刃葉さんが怒って実力行使に及んだら、及ばずながらも対抗するしかないと臍を固めるのでありました。
「判ったよ」
 暫くの睨み合いの後で刃葉さんがふと視線を外すのでありました。「奥の座布団は外して持って帰るよ。それで良いんだろう」
 事ここに至っては古座布団の件だけではなく、倉庫や駐車場や車の掃除やら備品の手入れやらの、去るに当たっての礼節や態度の涼やかさの事も頑治さんは云ったのでありましたが、古座布団以外にそれを刃葉さんに望むのは無理かとも考えるのでありました。
 刃葉さんは倉庫奥に行って古座布団を外してくるのでありました。それからそれをゴミ入れ代わりのポリバケツに放り込もうとするのでありましたが、そんな無作法な行為にまたもや頑治さんが噛み付くかもしれないと思ったのか、机上に纏めてある、持って帰るべき私物の上にそれを載せるのでありました。なかなか気遣っている様子ではあります。
「じゃあ、短い間だったけど、世話になったな」
 刃葉さんは纏めてある私物を古座布団込みで抱えると頑治さんに手を挙げて見せるのでありました。何はともあれここは糞生意気な頑治さんへの不快をグッと腹の底に呑み込んで、大度な辺りを見せようとする心算でありましょうか。
「ご苦労様でした。こちらこそお世話になりました」
 頑治さんは顔色を改めて静かに云ってお辞儀するのでありました。
「ま、また縁があったら逢おうぜ」
(続)
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あなたのとりこ 103 [あなたのとりこ 4 創作]

 そう云われて頑治さんは一応愛想から口角を上げてみせるのでありましたが、刃葉さんとはこの先縁が無くなる事を祈るのでありました。そう云う頑治さんの気分なんぞは隠せないもので、刃葉さんは苦笑してから頑治さんに背を向けるのでありました。

   木枯し

 夕美さんがバスタオルで洗い髪を拭きながら風呂場から出て来るのでありました。
「寒い々々」
 夕美さんは炬燵に足を潜り込ませながら云うのでありました。「この頃随分寒くなってきたわね。もう本格的な冬って感じ」
 頭を拭いたタオルが未だ夕美さんの肩に掛かった儘になっているのは、充分に髪の毛の水分が拭き取られてはいないからでありましょう。頑治さんは夕美さんの首半分を隠すように厚く蟠っている肩のバスタオルを見ながら返すのでありました。
「未だ十一月の初旬だと云うのにね」
「今年は例年になく冬が来るのが早いってテレビで云っていたわ」
「今年は大雪が降るかもかも知れない」
「そうね。それもニュースで云っていたわ」
 夕美さんは肩のタオルで横の髪を挟むようにして水気獲りに忙しいのでありました。頑治さんは立ち上がって冷蔵庫から缶ビールを持って来るのでありました。寒い々々と云いながら冷えた缶ビールもないかと思うのでありましたが、しかし態々日本酒の熱燗を仕込むのも面倒であります。まあ、大して手間は掛からないでありましょうけれど。
 頑治さんが夕美さんの前に缶ビールを置くと夕美さんは髪の毛拭きの手を休めない儘、先ずその置かれた缶を見て、それからすぐに頑治さんの方に目を移してニッコリと微笑むのでありました。何時ものように可憐な笑顔でありました。頑治さんは冷えた自分の指先にほんの少しながら熱を感じたような気がするのでありました。
「有難う」
「寒いのに冷たいビールで良いかな?」
「うん。大丈夫」
 夕美さんは髪の毛拭きを中断して缶ビールを取り上げると、プルリングを引き開けるのでありました。炭酸の抜ける音が小気味良いのでありました。頑治さんもその後に同じ音を手元で響かせてから一口煽るのでありました。
「幾ら日曜日だからって、朝からビールと云うのは少し気が引けるけど」
 夕美さんはそう云いながらも、風呂上がりの渇いた喉にビールを三口程流し込んでからその後で如何にも爽快そうに溜息を吐き出すのでありました。
「さて、今日はどうしようかな」
 頑治さんがそう云ってからまた一口ビールを口に含むのでありました。
「映画にでも行く、新宿か池袋辺りに?」
(続)
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あなたのとりこ 104 [あなたのとりこ 4 創作]

「そうねえ」
 頑治さんはあんまり気乗りしないような云い草をするのでありました。
「じゃあ、浅草か上野をブラブラ散歩してから寄席見物とか?」
「それも何となく億劫だなあ」
「じゃあ、ずっとここに居ていちゃいちゃしてる?」
 夕美さんは悪戯っぽい流し目をして頑治さんを見るのでありました。
「それも全く悪くないんだけど、幾らする事が無いからと云っても明日の日本を背負って立つべき健全な青少年がやるべき事柄じゃないかなあ、そう云うのは」
「じゃあ、健全な青少年は日曜日に朝寝した後、何をするのが正しいのかしら?」
「先ず、ビールを飲む」
「成程」
 夕美さんは頷いてビールを一口飲むのでありました。「それから?」
「それから、今日やるべき事柄についてあれこれ議論をする」
「ふんふん」
 夕美さんはまたビールの缶を傾けるのでありました。
「で、結局結論を得ない」
 ここで頑治さんも一口煽るのでありました。「依って不本意ではあるけれど、ずっとここに居ていちゃいちゃしながら過ごす事になる」
「そうだ、東京都美術館に行ってみない?」
 頑治さんの戯言とは全く関係無く夕美さんが急にそう提案するのでありました。
「東京都美術館?」
「そう。上野公園の」
「そこで何かやっているのかい?」
「確か書道展をやっている筈よ」
 夕美さんはそう云って一つ頷くのでありました。その頷き様に何となく確然とした趣きがあって、今急に思い付いた東京都美術館行きを夕美さんはもう決しているようだと頑治さんは推察するのでありました。しかし夕美さんの趣味に書道があったとは今の今まで頑治さんは知らなかったのでありました。一体全体何故の書道展行きでありましょうや。
「何でまたそんなものに?」
「知り合いの人が出展しているのよ」
「知り合いって?」
「考古学教室の同級生。と云ってももう六十歳過ぎの人だけど」
「六十歳過ぎの同級生?」
「社会人枠で入ってきた人なのよ。ウチの大学で考古学を専攻していて、大学を出てからはずうっと高校の社会科の先生をしていたんだけど、定年になって一念発起して考古学専攻の大学院生になったらしいの。その人の長年の趣味が書道で、何とか云う書道の団体の会員さんで、そこの年に一回の書道展を東京都美術館で今やっているのよ」
(続)
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あなたのとりこ 105 [あなたのとりこ 4 創作]

「無料招待券でも貰ったの?」
「入場は無料らしいの。好かったら観に行ってとか云われていたのを思い出したのよ」
「ふうん」
 頑治さんは頷きながらも、未だすっかり乗り気になったと云う風ではない返事をするのでありました。特段書道に興味がある訳でも無いのでありますし、そのために態々上野まで出掛けると云うのも億劫と云えば億劫に感じたのでありましたから。
「あたしも書道自体は別に興味は無いんだけど、未だ紅葉には早いけど偶には上野の森でブラブラ散歩するのも悪くないじゃない。それにちょこっとでも書道展に顔を出せば、その同級生に対する義理みたいなものも、あたしとしては果たせるし」
 そう云えば夕美さんと上野公園を散歩した事は今まで無かったなと頑治さんは考えるのでありました。上野ならこの本郷のアパートから歩いてもそんなに遠い距離でもないし、これは格好の暇潰しになるような気もしてくるのであります。書道展に顔を出すと云う確たる目的もあるし、それで夕美さんの義理も立つと云う事であるなら、漫然と鈴本演芸場に寄席見物に赴くと云うのよりは外出のし甲斐もあるというものでありますか。
「じゃあ、そうするかな。序にパンダも見て来るか」
 頑治さんは缶ビールを飲み干してから頷くのでありました。
「じゃあ、決定ね。パンダは別として」
 夕美さんもビールを飲み干してから立ち上がるのでありました、それからもう一度ユニットバスの中に姿を消すのは、ようやく髪を拭き終わってこれからドライヤーをかけるためでありましょう。序に外出用の少しの化粧もあるのでありましょうか。

 アパートを出ると二人は先ず本郷三丁目駅近くのレストランで朝食兼昼食を摂って、その後本郷通りを少し歩いて春日通りに曲がるのでありました。それから本富士警察署の脇を左に折れて道成りに幾つか角を曲がり、無縁坂をダラダラ下るとすぐに不忍通りに出るのであります。それから不忍通りを渡って不忍池畔を並んで漫ろ歩いて、池を半周もすればもうすぐに西郷さんの銅像が見える辺りに出るのでありました。
 夕美さんが云ったように確かに紅葉は未だでありましたが、日曜日の公園の中は多くの人出で賑わっているのでありました。家族連れや若いカップル、芸大の学生風の黒いバイオリンケースやチェロケースを抱えた男女、それに何をしに来たのか良く判らない、大きなリュックを背負った登山のいで立ちの十人程の中年の男女の集団と擦れ違いながら、公園のメイン通りを歩いて噴水の傍まで来ると東京都美術館はすぐそこであります。
 頑治さんと夕美さんは先ずは義理を果たすべく書道展に顔を出すのでありました。受付には夕美さんの同級生の顔は無いようでありましたが、一応来た証しに夕美さんは来場者名簿に記帳するのでありました。もうそれで既に義理は完了した事になるのでありましたが、まあせっかくだからと二人は場内をつるっと巡って、迷路のように建て回してある壁面に隙間無く掛けてある書を一通り観るのでありました。その中に大学院の同級生のものを見付けた夕美さんは、そこで立ち止まって暫しの間それを俯瞰するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 106 [あなたのとりこ 4 創作]

「見事な書かい?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「判らないわ」
 夕美さんは未だ熱心に眺め遣りながら応えるのでありました。「何が書いてあるのか覚えておかなくちゃ、と思って眺めているだけ」
「そりゃそうだな。ちゃんと足を運んだと云う証拠だもの」
「風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還」
 夕美さんは書いてあるところを音読みで諳んじるのでありました。「・・・だって。長くて覚えきれないわ。多分漢文の一節でしょうけど」
「風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去って復た還らず」
 頑治さんが読んで見せるのでありました。夕美さんは横に立つ頑治さんの方に顔を向けて驚きの表情をするのでありました。
「あれ、頑ちゃんこの文章知っているの?」
「荊軻と云うヤツの歌だな」
「誰、荊軻って?」
「秦の始皇帝を暗殺しようとして失敗した刺客だよ」
「ふうん、そうなんだ」
 夕美さんは感心して見せるのでありました。
「中国の戦国時代末の男で、燕と云う国から正に始皇帝、その時は未だ秦王政だけど、暗殺に出発する時、易水と云う川の畔で歌ったんだ。司馬遷の『史記』の中にあるよ」
「時々感心するんだけど、頑ちゃんはよく何でも知っているわね」
「ま、あんまり役に立ちそうにない余計な事はあれこれね」
「ちょっと後で読み方を紙に書いといてよ」
「良いよ。帰ったら書くよ」
「何かさあ、今の仕事させとくのは惜しい気がする」
「今の仕事って、会社の業務の仕事?」
 夕美さんは勿体らしく頷くのでありました。
「他にもっとその知識を生かした仕事がありそうなものだけど」
「いやいや、知っているとは云ってもそれはつまり、半可通と云うものでがさつでちゃらんぽらんで、深みには欠けるもの。何か一つを突き詰めると云う風じゃ全然ないから」
「そうでもないと思うけど」
「いやいや、落語に出てくる横丁のご隠居さんレベル以上ではないな。俺なんかより大学院で考古学をやっている夕美の方が遥かに、専門的な知識と云う点で上だな」
「考古学、かあ」
 夕美さんはそこで少し考える風の顔をするのでありました。と云っても、考古学をやっている自分と頑治さんのどちらが知識と云う点で上かどうかを考える、というような事ではなく、もっと別な想念が頭の中に去来したからのようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 107 [あなたのとりこ 4 創作]

「博士課程に進むかどうか未だ迷っているの?」
 頑治さんはその辺りが今の夕美さんの心根の中で、ふと明滅し始めた思念であろうと当たりを付けて少し躊躇いがちに訊くのでありました。
「そうね、未だ迷っているわね」
 夕美さんはそう云ってから目の前の書を眺め遣るのでありましたが、それは眼前の書に意を集中しているとは決して云えない瞳容でありましたか。
「せっかく今迄考古学を熱心にやってきたんだし、これから先も続けていける環境にあるんだから、ここで止すのは勿体無いような気がするけど」
「それはあたしもそう思うけど、でもこの儘続けたとしてもその先に何があるんだろうって考えるのよ。色んな人に今までお世話になりながら続けてきたけど、それに見合うだけの成果をあたしが出せるのかどうか自信も無いし」
 夕美さんは書から目を離して俯くのでありました。
「博士課程を終えて助手として大学に残って、その後は後続する学生達を指導しながら自分の研究をもっと深めていく、と云う意欲みたいなものはあるんだろう?」
「あるのかなあ。・・・」
 夕美さんは無表情で自問するのでありました。迷いは深いようでありました。

 東京都美術館を出てから、頑治さんと夕美さんは上野公園の中を漫ろに散歩するのでありました。出掛ける時はかなり寒かったのでありましたが、太陽がぼちぼち傾きかける頃になると、風が無いせいでもありましょうが戸外に居ても然程の寒さは感じないのでありました。肩の辺りに服を通して日の温かさも感じられるくらいでありました。
 歩き疲れた訳でもないのでありますが、二人は陽溜まりの中のベンチに並んで腰を掛けるのでありました。未だ散るのは少し早いように思うのでありましたが、二人の間に傍らの樹から枯葉が一枚舞い落ちるのでありました。
「でももうそろそろ、この儘博士課程に進むのか、それとも何か別の道を探すのか、決めなければならないんだろう?」
 頑治さんが先程の話しの続きを始めるのでありました。
「そうね。・・・」
 夕美さんは膝の上に指を搦めて組んだ自分の手を見ながら返事するのでありました。
「これはあくまで仮定の話として、若し博士課程に進まないのなら、故郷の博物館の研究員になるか、それとも学校の先生になるか、とか前に云っていたよなあ」
「そうね。それから考古学やそう云った事から全く離れて、普通に会社勤めをするか」
「前にも云ったけど、何れにしても、夕美はその選んだ道をそつ無く歩くだろうな」
「博士課程に進んでその儘大学に残るか、それとも東京の会社に就職するとしたら、この先もずっと頑ちゃんとこうして一緒に居られるわよね」
 夕美さんは頑治さんの方を向いて笑むのでありました。夕美さんがそう云った辺りも考慮しているようなら、頑治さんとしては大いに嬉しい事でありました。
(続)
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あなたのとりこ 108 [あなたのとりこ 4 創作]

「俺としては夕美が兎に角東京に居てくれるのが一番嬉しいかな」
「あたしもそうしたいと思ってはいるんだけど。・・・」
 夕美さんはそう云ってから頑治さんの方に気持ちの籠った強い視線を投げて、それからゆっくり俯くのでありました。
「思ってはいるけど、そうもいかない障害でもあるのかな?」
 頑治さんが訊くと夕美さんは顔を上げるのでありました。
「ううん、東京に残れないような特別な障害なんか何もないわ。でも、・・・」
「でも、何?」
「何だか、思い通りにはいかないような予感、みたいなものがあるの」
「予感、ねえ」
 不吉な予感だと頑治さんは心の中で云うのでありました。特に根拠は無いながらもそう云った予感は時々見事に当たったりするものだと云うのは、これまで生きてきた経験から頑治さんは承知しているような気がするのでありました。だから余計不吉なのでありますし、夕美さんがそんな予感を持っている事は慎に忌々しい事であります。
「既定路線通り博士課程に進めば良いんだ」
 頑治さんが云うと夕美さんは縋り付くように頑治さんの腕を自分の胸にかき抱くのでありました。なかなか強い力だと頑治さんは感じるのでありました。
「そうよね。あれこれ迷わないですんなり予定通りの進路を取れば良いのよね」
 何となく自分に云い聞かせるような夕美さんの云い草でありましたか。
 先程見た登山姿の、十人程の中年男女の一団が笑いさざめきながら二人が座るベンチの前を通り過ぎていくのでありました。皆一様に如何にも楽しそうな笑顔でありますが、しかしどうしてこの場所にそぐわないそのようないで立ちをしているのか、頑治さんは再び訝しく思うのでありました。頑治さんと夕美さんが東京都美術館で書道展を観ている間もずっと、あの姿で公園内をうろうろしていたのでありましょうか。
「あの連中はどうして登山の格好をしているのかな」
 頑治さんが頬に軽く触れている夕美さんの髪の横で顎を動かすのでありました。
「さあ、どうしてかしらね」
 先程から夕美さんもその場違いな服装の一団に気付いていたのでありましょう。
「あのいで立ちは何ともそぐわないよなあ、ここには」
「公園散歩が目的なら、如何にも大袈裟過ぎる服装よね。尤も、上野のお山、なんてここの事を云うけどね。でもまあ、それにしてもねえ」
 夕美さんは頑治さんを見上げながらクスと笑うのでありました。
「信州か新潟辺りに登山に行った帰りで、上野駅に着いた後ちょろっとここに立ち寄ったのかな。未だ家に帰るには早いから、とか何とか云う理由で」
「そうね、そうかも知れないわね。でも、そうでないかも知れないけど」
「そうでないとしたら?」
「さあ、それはあたしには全く判らないわ」
(続)
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あなたのとりこ 109 [あなたのとりこ 4 創作]

「山へ行く予定でここに集まったんだけど誰かあの中の一人の気持ちが挫けて、それでその挫けたヤツの気持ちを尊重して、それで皆で上野公園散歩に切り替えたとか」
「でも、そうだとしても公園散歩と登山の間には余りに落差があり過ぎない?」
 夕美さんが頑治さんの説に異を唱えるのでありました。
「本当は殆どのヤツが登山に乗り気でなかったんだけど、中に矢鱈と押しの強いヤツが居て、そいつの意見に引き摺られて不承々々ながらここに集まったんだよ。でもそこで好都合にも登山に行きたくないと土壇場で表明するヤツが現れて、勿怪の幸いと皆が同調したものだから公園散歩に目的を切り替えざるを得なかった、と云うのはどうだろう」
「かなり推理に無理があるような気がする」
 夕美さんはニンマリ笑いはするけれど賛同しないようでありました。「大方の人が乗り気でなかったのなら、態々登山に必要な荷物を前から色々用意して、当日重いリュックを背負って重装備をしてここに集まる前の段階で、あの一行の登山計画は頓挫しているんじゃないかしら、幾ら押しの強い人が一人強硬に登山を主張したとしても。第一若しそんな経緯があるなら、皆があんなに楽しそうに歩いたりしていないでしょう」
「その押しの強いヤツは、それなら勝手にしろとか棄て科白を吐いて一人で駅から電車に乗って居なくなったので、厄介払いが出来て和気藹々が出現したのかも知れない」
「でも、そうだとしても、後に残った人達はあんなにあっけらかんと笑ったり冗談を云ったりなんかしていられないでしょう。厄介払いが出来て、尚且つ嫌な登山に行かないで済んで内心ほっとしたとしても、何となく気まずい雰囲気にはなるでしょうよ」
「確かにそれはそうだな」
 頑治さんは夕美さんの論に納得するのでありました。「それなら、あの連中は皆が皆、まるで親切の国から親切教を広めに来たような、すこぶる付きの好人物達で、一人だけ集合時間になっても未だ現れないヤツが居て、そいつが現れるのを、出発を後らせて只管ここでやきもきしながら待っている、と云う設定はどんなものかな」
「それも無理の国から無理教を広めに来たような素っ頓狂な推論ね。やきもきして待っているのなら、矢張りあんな楽しそうな顔でうろちょろ歩いたりしていないでしょうし」
「そう云われてみれば、そうかも知れない」
 頑治さんは如何にも鈍そうな表情で納得気に一つ頷いて見せるのでありました。その仕草を上目で見ながら夕美さんはクスッと笑うのでありました。
 その夕美さんの笑いで、夕美さんの差し迫った将来の進路と云う少し重たい話題が、取り敢えずこの場からぼんやりと消えたような気が頑治さんはするのでありました。まあ、暫しこの場から消えただけで一先ず話題としては保留、と云う事ではありますが。

「熱い飲み物でも買ってくるかい?」
 頑治さんがそう訊くと、夕美さんはコックリと頷いた後、凭れていた頑治さんの肩から頭を離すのでありました。頑治さんは夕美さんの頭が離れた肩先辺りに、冷たい空気が無遠慮に空かさず浸みて来るのを感じるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 110 [あなたのとりこ 4 創作]

 動物園入り口ゲート近くの自動販売機で自分の温かい缶コーヒーと、夕美さんの冷たい葡萄ジュースを買っていると頑治さんは誰かから肩先を不意に叩かれるのでありました。振り向くとそこに立っていたのはこの前会社を辞めた刃葉さんでありました。
「久し振り。また妙な処で逢ったもんだな」
 刃葉さんはニコニコと笑い掛けるのでありました。
「ああ、羽葉さんじゃないですか。お久し振りです」
 頑治さんも笑い返すのでありましたが、まさかこんな処で逢うとは思ってもいなかったものだから、頑治さんの笑い顔は何となくぎごちないものになるのでありました。
「何だよ、動物園にでも遊びに来たのかい?」
 刃葉さんは場所柄そう問うのでありました。
「いや、そうじゃないですが、自動販売機を探していたらここに在ったんで」
 頑治さんがそう返すと刃葉さんは頑治さんが両手に一缶ずつ持っているコーヒーと葡萄ジュースの方に交互に目を遣るのでありました。
「二つ買ったところを見ると、連れが居るのかな?」
「ええまあ」
 頑治さんは特に夕美さんの存在を刃葉さんに隠す必要も無いし、それにまた態々告げる必要も無いと思うものだから曖昧にそう応えるのでありました。
「ひょっとしてデートかい?」
「知り合いと東京都美術館に来た序に、ちょっと公園内を散歩していたんです」
「ふうん。まあ良いや」
 刃葉さんはそれ以上頑治さんの連れについて興味を示さないのでありました。
「新しい仕事はもう見付けたんですか?」
 別に刃葉さんの近状や消息について頑治さんも大して興味は無いのでありましたが、まあ一種の愛想からそんな事を訊いてみるでありました。
「いや未だだよ」
 刃葉さんがあっけらかんとそう応えるところを見ると、さして熱心に新しい仕事を探している様子は窺えないのでありました。前職があんな調子だったからなかなか就職先も見つからないであろうと、頑治さんは余計な心配なんかを秘かにするのでありました。
「あんまり焦っていないようですね」
「うん、まあ」
 刃葉さんは一つ頷いてから、ちょっと間を空けて続けるのでありました。「来年になったら網走の方に行く事になるかも知れない」
「網走と云うと北海道ですか」
「当然そうだな。北海道の網走」
 刃葉さんは繰り返して、少し勿体を付けるように口を閉じるのでありました。
「網走に仕事が見つかりそうなんですか?」
「いや、仕事と云うのじゃないんだけど」
(続)
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