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あなたのとりこ 87 [あなたのとりこ 3 創作]

 出雲さんは肩に担いでいた旅行カバンを、袁満さんの隣にある自分の机の上にドサリと置くのでありました。それから重い荷から解放された肩を上げ下げしたり、二三度腕や首をグルグル回したりして血行促進を図るのでありました。
 そうしている内に室内に漂う何やら不穏な空気を察知したようで、何となく場違いで呑気な血行促進のためのその仕草を尻窄みに収めて、興醒めの態ですごすごと椅子に尻を落とすのでありました。座って仕舞うと、机の上に置いた大きな旅行カバンが土師尾営業部長や刃葉さんの方から出雲さんの姿を綺麗に隠蔽するのでありました。
 出雲さんは横の袁満さんを土塁に隠れた兵士が隣の味方の兵士を窺うような様子で見るのでありました。袁満さんは顰め面を以ってそれに応えるのでありました。
「それじゃあ話しが違うじゃないですか」
 これは刃葉さんが土師尾営業部長へのいちゃもんを続ける言葉でありました。
「いや、その方が刃葉君の次の仕事探しにも好都合だろうと思って」
「好い加減なお為ごかしを云わないでくださいよ」
 刃葉さんは声を荒げるのでありました。土師尾営業部長はその声音にたじろいで思わず目を伏せるのでありましたが、それでは部長としての沽券に関わると考えてか、すぐに頭を起こすと刃葉さんを睨み上げるのでありました。大いに不穏な雰囲気であります。
「こっちだって色々都合があるんですよ」
 刃葉さんは荒げた言葉つきを其の儘に云い募るのでありました。「唐目君が入ってもう用済みになったからとっとと出て行けって云われても、それは勝手過ぎますよ!」
 土師尾営業部長は刃葉さんの剣幕から少しでも距離を置こうと云う心算か、身を思わず背凭れに退避させるのでありました。なかなか沽券が保てない模様であります。
 この遣り取りから、刃葉さんが会社に留まる向後の時間の短縮を土師尾営業部長から提案されたのだと頑治さんは推測するのでありました。頑治さんが入社したのでもう用済みになったから、等と刃葉さんが云っているところを見ると、この云い争いには自分の存在が介在しているようでもあります。全く頑治さんには無関係な事由での云い争いでもなさそうな辺りに、頑治さんとしては多少胸奥のざわつきを感じて仕舞うのでありました。
「そうかも知れないけど、一応提案してみた迄だよ」
 土師尾営業部長がそれでは沽券が保てないであろうと思われる弱気な物腰で云うのでありました。「刃葉君が嫌だと云うのなら、まあ仕方が無いけど」
 この、仕方が無い、と云う云い草が火に油のようでありました。
「俺が給料をもう一か月分余計に貰う事が部長にはそんなに仕方が無い事なんですね」
「給料の事を云っているんじゃないよ」
「いや、一か月余計に俺の給料を払うのが惜しくて云っているんでしょうが、実際は」
「そうじゃないよ!」
「いいや、大方そんな程度の了見に決まっている」
「そうじゃないって云っているじゃないか!」
 こうなったらまるでもう子供同士の喧嘩であります。
(続)
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あなたのとりこ 88 [あなたのとりこ 3 創作]

 事態が全く以って険悪になったところで、事務所入り口のドアが少しの軋みの音を立てながらまたも開くのでありました。入って来たのはブリーフケースを下げた日比課長でありました。外回りの営業を終えて帰社したのでありましょう。日比課長はすぐに事務所内の不穏な空気を察して表情を強張らせるのでありました。
 日比課長の席は、土師尾営業部長のデスクの横に立っている刃葉さんのすぐ後ろでありましたが、そこに戻るのを何となく躊躇するような物腰で、こちらも袁満さんに視線を送るのでありました。袁満さんは先程の出雲さんの時と同じように顰め面をして、げんなりと云った感じで首を数度ゆっくり横に振って見せるのでありました。
 土師尾営業部長は頑治さんの時に見せた助けを求めるような表情を日比課長にも送るのでありましたが、日比課長は刃葉さんに臆してかそれに応える気は更々無いようで、入り口に一番近い出雲さんの机の、出雲さんが置いた旅行カバンの横に自分のブリーフケースを置いて、それに手を掛けてその場から動かずに経過を見る構えのようでありました。
「早く辞めろと云うのは部長命令ですか?」
 刃葉さんは先程の悶着の続きを再開するのでありました。
「命令と云うのじゃないんだ。提案のようなものだけど」
「じゃあ、拒否出来るんですね?」
「それはまあそうだけど、・・・」
 土師尾営業部長はやや口籠もるのでありましたが、ここで引き下がれば自分が刃葉さんに蔑ろにされたのを皆に態々披露したような按配になると判断したのか、少しの間を置いてから体裁上決然と、と云った具合に顔を起こして睨み付ける、と云うには少し弱い目付きで刃葉さんを見上げるのでありました。「でもまあ、もう一考えて見てくれよ」
 決然と云い放つと云うよりは懇願するような具合のその科白に、聞きながら頑治さんは心の内で小さくずっこけて見せるのでありました。
「さっきからそれは困るって云っているでしょう!」
 刃葉さんはまたもや熱り立つのでありました。あまりに諄いと堪忍袋の緒も竟には切れるぞと表明するようなやや恫喝的な荒けない言葉でありました。若し刃葉さんが暴力に訴えるような事態になれば、他の人は手出しをする気が全く無いようでありますから、仕方なくここは自分が止めに入るしかあるまいと頑治さんは臍を固めるのでありました。
 しかし頑治さんの出番は、営業部と制作部の仕切りになっているマップケース横に立った片久那制作部長の一言に依って、幸いにも潰えるのでありました。
「刃葉君、好い加減、そのくらいにして置けよ」
 思わぬ仲裁者の出現に刃葉さんと土師尾営業部長は同時に顔をそちらに向けるのでありました。その顔てえものは、刃葉さんは熱り立った表情の儘であり、土師尾営業部長はやっと現れた助け舟に縋るような、見ように依っては情けない表情でありましたか。
 刃葉さんは何か言い返そうとするのでありましたが、片久那制作部長のクールでありながらも問答無用な言葉付きに気勢を削がれたのか、口元をモグモグと動かすのみでありました。畏怖から、刃葉さんは片久那制作部長を苦手にしているようであります。
(続)
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あなたのとりこ 89 [あなたのとりこ 3 創作]

「会社の中で憚りも無く大声を出すのは迷惑だ。やるんなら外でやれ」
 片久那制作部長が厳めしく続けるのでありました。これは聞き様に依っては外でなら云い争いをしても構わないと云っているようにも取れる訳で、その辺りに片久那制作部長の突き放したような自分に対する冷たさを感じたのか、土師尾営業部長の顔から表情が抜けて、その瞼が何度か戸惑いの瞬きをしているのでありました。
 刃葉さんの熱り立ちは沸点に達したのか、顔色が赤から赤紫色に変わったように頑治さんには見えるのでありました。血圧急上昇の気配であります。
 じっと自分を見据える片久那制作部長の目に負けまいと、刃葉さんは勇気を奮って懸命に目に力を籠めて見返えそうと努めるのでありましたが、肝心の目の方が遠泳の選手のように泳ぎを止めてくれないのでありました。この儘だとすっかり動揺したその態が刃葉さんの体面を台無しにして仕舞うでありましょう。そう判断して刃葉さんは如何にも意志的に、と云った体裁でプイと横を向くのでありました。まあ、片久那制作部長の厳めしい表情と視線に竟に耐え切れなくなったと云うのが本当のところでありましょうか。
 刃葉さんは土師尾営業部長の机の傍らを離れるのでありました。それから自分の、と云うのか、頑治さんと共有しているデスクの上に置いていたリュックサックを荒々しい手つきで取ると、退去の挨拶も無く事務所を出て行くのでありました。恐らく憤懣を発散するためであろう、廊下に出た刃葉さんの何やら叫ぶ奇声が、ストッパーが付いているためにゆっくり閉まりかけたドアの隙間から漏れ聞こえて来るのでありました。

 ようやく事態が片付いたのにほっとして土師尾営業部長は溜息を吐くのでありました。それから片久那制作部長の方に愛想笑いを浮かべた顔を向けるのでありました。
「どうも有難う」
 これは片久那制作部長へのお礼の言葉でありました。片久那制作部長はそれを不機嫌に全く無視するかのように、土師尾営業部長に目を向ける事も無く制作部スペースの方に姿を消すのでありました。別に礼を云われる筋合いは無い、と云う態度でありますか。
 頑治さんはようやく刃葉さんのリュックサックが無くなった席に座る事が出来るのでありました。日比課長も自席に戻ってブリーフケースを傍らに置くのでありました。それから出雲さんが机の上の旅行カバンのそのまた上から顔を覗かせるのでありました。
 息を殺してそれまで全く気配すら見せなかった甲斐計子女史が、立ち上がって書類棚から不愉快そうな顔を頑治さんのすぐ前に現すのでありました。ようやく家に帰る事が出来ると云った様子で机の上を片付けると、手提げバッグを手に持って自分のロッカーまで早足に進んで、中から上着をひったくるように取って、後ろ向きにお先にと小声で云って事務所を出て行くのでありました。まるで怒っているような風情でありました。
 まあ、甲斐女史が怒っているとすれば殺伐とした緊張感を作った刃葉さんにと云うのも然る事ながら、主には無用で無意味なゴタゴタの種を態々蒔いた主犯たる土師尾営業部長にでありましょう。選りに選って自分が帰ろうとしている間際に、刃葉さんを怒らせるような事を云い出す必要なんか無いではないか、と云ったところでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 90 [あなたのとりこ 3 創作]

 暫くして土師尾営業部長が事務所を後にするのでありました。暫しの時を置いたのは、先に帰った刃葉さんと外で鉢合わせする危険を考慮した故でありましょう。ひょっとして待ち伏せでもされていたら拙いと取り越し苦労したのでありましょうが、この人にそんな小心さがあるのは今までの付き合いから頑治さんは察する事が出来るのでありました。
 日比課長も袁満さんも出雲さんも帰り支度を始めるのでありました。
「ちょっとこんな事やっていく?」
 日比課長が向かい側の席に座っている袁満さんに、猪口を持つ手付きをしてそれを口の前で傾ける真似をして見せるのでありました。
「ああ、いいよ」
 袁満さんが同意するのでありました。
「出雲君も大丈夫だろう?」
 袁満さんの隣の出雲さんにも日比課長は同じ仕草をして見せるのでありました。
「ええ、お付き合いしますよ」
「唐目君はどうだい?」
 日比課長は頑治さんの方に顔を向けるのでありました。
「はい。俺も付き合います」
 その日は夕美さんとの逢瀬の約束も無かったから頑治さんも同意するのでありました。勿論夕美さんとの逢瀬が頑治さんにとっては何より優先であります。
 三人は、大概の日は残業している制作部の四人にお先にの挨拶をしてから会社を出るのでありました。行った先は前に頑治さんの歓迎会が催された居酒屋でありました。
 今回も座敷に上がって座卓に着くと、夫々先ず生ビールの大ジョッキを注文してから、後は適当に袁満さんが持って来る料理を店員にあれこれ指示するのでありました。
「いやいや、営業部長にも参るよなあ、毎度の事だけど」
 日比課長が運ばれて来たビールを取り上げてげんなり口調で云うのでありました。
「あの人は何をやらかすにも、絶妙に、タイミングが悪いからねえ」
 袁満さんはそう皮肉っぽい口調で受け応えてから大ジョッキを手にして一口煽るのでありました。「しかも前々から云おうと思っていたんじゃなくて、さっき急に思い付いて、刃葉さんの反応とかは端から考えもしないで、あのタイミングで云ったんだろうしね」
「営業部長は刃葉さんに何を云ったんですか?」
 出雲さんが横の袁満さんに訊くのでありました。出雲さんは土師尾営業部長と刃葉さんの揉め事の経緯に無関心なのか、あんまり想像力が働かないようでありました。
「刃葉さんは来月の二十日まで働くことになっているんだけど、その必要も無さそうだから今月の二十日で辞めてくれないかって営業部長が唐突に云い出したんだよ」
「それで刃葉さんが、それは困るとゴネていた訳ですか」
「そうそう、そう云う経緯」
 袁満さんは頷きながらもう一口ビールを飲むのでありました。贈答社は賃金に関しては毎月二十日が締め日で、二十五日が給料支払い日になっているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 91 [あなたのとりこ 4 創作]

「唐目君が入って二か月どころか一か月経たなくても、もう刃葉君より仕事が出来るようになったものだから、早々に厄介払いしたくなったんだろう」
 日比課長が土師尾営業部長の魂胆を推量するのでえありました。自分の名前が出て来たものだから頑治さんは傾けかけていたジョッキの動きを竟々止めるのでありました。
「それはそうだけどね。唐目君が入ってから倉庫が見違えるように綺麗になったし、棚が何時も整理されているから出し入れも効率的になったし、手際が良いから何をやらせてもそつが無いし、刃葉さんより遥かに仕事の信頼感はあるし、車の運転も上手いし」
 袁満さんが、この場で持ち上げる必要は特段無いようでありますが、頑治さんの仕事振りを褒めて見せるのでありました。まあ確かに、頑治さんが考えてもそれはその通りでありますか。しかし車の運転に関しては袁満さんは頑治さんの技量を知らない筈でありますから、何故それを褒めるのか頑治さんは訊くのでありました。
 そうすると袁満さんは、池袋の宇留斉製本所に行く場合の、帰社時間が刃葉さんより遥かに早い事を理由として挙げるのでありました。
「刃葉さんは何時も午後の一時過ぎになってから帰っていたけど、まあ、途中で昼休みを取るとして、それでも午前中一杯掛かっていただろう。唐目君が行くと場合に依っては十一時前には帰って来るからなあ。だから運転がスムーズなんだろうと思ってさ」
 池袋の宇留斉製本所へは初回は刃葉さんに同行したのでありましたが、別に難しい経路でも込み入った仕事でも無いのだから、次回からは頑治さんが一人で行っているのでありました。羽場さんは色んな理由から自分が行きたそうでありましたが、制作部の山尾さんの指示で次からこれは頑治さんの担当となるのでありました。どうやら当の宇留斉製本所から、次回以降は頑治さんに来て貰いたいとの要望があったようであります。
 それにつけても運転技術だけでは一時間以上の差は出せないと頑治さんは内心で袁満さんに云うのでありました。羽場さんは無意味な近道指向で結局時間を無駄にしたり、未だ仕事時間中であっても帰路に喫茶店に寄ったり私用を入れたりするから遅くなるのであります。しかし頑治さんにはその不謹慎をここで論う了見は別に無いのでありました。
「今まで刃葉君の仕事振りは、一体何だったんだと云う思いは俺にもある」
 日比課長が袁満さんの話しに乗っかるのでありました。「普段から社員の誰彼の目がある倉庫を屡勝手に離れてコーヒーを飲みに行ったりするくらいだから、車で外に出たらもっと盛大にやりたい放題だろうとは想像が付いているけどね」
 日比課長は袁満さん程おっとりとはしていないようであります。
「そのサボりを今まで誰も注意しなかったんですか?」
 頑治さんは日比課長の手中のコップにビールを注ぎ入れながら訊くのでありました。
「下手に注意してキレたら怖いからなあ」
 袁満さんが諦めの笑いらしきを口の端に浮かべるのでありました。「相手は柔道とかの有段者だし、自戒とか抑制とか云う言葉が体内の何処にも無い人だし。それに第一刃葉さんは俺とか日比さんを日頃から小馬鹿にしているから、そんな人に注意されたりしたら屹度逆上するだろう。それに、日比さんときたら迫力のある顔なんか出来ない人だし」
(続)
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あなたのとりこ 92 [あなたのとりこ 4 創作]

 急に袁満さんに自分の顔にケチを付けられた日比課長は思わず苦笑うのでありました
「いや俺も袁満君が考えている程、実は甘くはないんだよ」
「へえ、そうかねえ」
 袁満さんはあくまで侮りの口調を崩さないのでありました。「でも実態は、日比さんの事を何も有意な事を云えない、単なるお調子者のスケベ親父としか刃葉さんは見ていないと思うよ。完全に見縊られているに決まっているよ。出雲君もそう思うよなあ」
「いや良くは判りませんが」
 袁満さんよりも年下で、それに袁満さん程日比課長に遠慮が無い訳ではないためか、出雲さんは曖昧且つ無難に袁満さんの同意の要請を笑って受け流すのでありました。
「俺だってこう見えても、昔は柔道を少し齧った事があるんだから、そう簡単に刃葉君に遅れは取らない心算だけどなあ」
 日比課長はどういう了見か、諄く自分が力の行使では負けないと云う点に於いてのプライドを守ろうとしているのでありました。少し酔ってきたのでありましょうか。
「昔は柔道を齧った事があったとしても、現役黒帯の刃葉さんには先ず喧嘩じゃ叶わないに決まっているよ。それに日頃の自堕落な生活が祟って、その齧ったとか云う分はとうの昔に消えてなくなっているさ。年寄りの冷や水、と云う辺りが関の山だね」
「年寄りはないだろう。俺も袁満君如きに盛大に見縊られたもんだな」
 日比課長はコップのビールを飲み干すのでありました。まあ、これ以上ムキになって袁満さんに食い付かない辺り、未だ日比課長の酔いは然程でも無いのでありましょうか。
「山尾さんとかがきっぱり注意する事も無かったのですか、それに制作部長とかも?」
 頑治さんが話しを元に戻すのでありました。
「山尾君は時々小言を云っているみたいだけど、それも一向に効き目が無いようだね」
 日比課長が出雲さんにビールを注ぎ足して貰いながら云うのでありました。
「刃葉さんは山尾さんの事も融通の利かない朴念仁だと侮っているようだしね」
 袁満さんがコップを一口傾けてから云うのでありました、中身は殆ど減ってはいないのでありますが、出雲さんは袁満さんのコップにもビールを注ぎ足すのでありました。
「刃葉さんは社内の人総てを侮っているみたいですね」
「そうだね、唯一の例外は片久那制作部長なんだけど、無駄だと思っているのか刃葉さんには何も注意を与えない。存在自体を全く無視、と云う感じみたいだね」
「そんなものぐさで良いんですかね」
 頑治さんはそう呟いてから出雲さんが差し出すよりも早く、自ら瓶を取って自分のコップにビールを注ぎ入れるのでありました。これは、年下とは云え会社の中では先輩に当たる出雲さんの手数を憚った心算でありました。
「良いか悪いかは兎に角、今迄そう云う風に刃葉君を憚ってきたのは確かだね」
「ああそうですか」
 頑治さんは醒めたように呟くのでありました。これはつまり、度を越した事なかれ主義であり、会社への思い入れが社員全員に欠けている証しとも取れる訳でありますか。
(続)
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あなたのとりこ 93 [あなたのとりこ 4 創作]

「どうして皆さんそんなに刃葉さんを憚るのでしょうかね?」
「どうしてと云われても、・・・どうしてかねえ」
 袁満さんが苦笑うのでありました。
「面倒臭いからじゃないっスか」
 今迄意見らしき意見をものさなかった出雲さんが云うのでありました。
「刃葉さんと関わり合うのが面倒臭い、と云う事ですか?」
 一応先輩に対する配慮から頑治さんは丁寧な物腰で訊くのでありました。
「まあ、そうっスねえ」
 出雲さんは頷いて頑治さんに愛想笑いを送ってくるのでありました。
「別に刃葉さんの腕力に畏れをなしていると云う訳ではないのですね」
「意外かも知れないけど刃葉さんは腕力を誇示して、人を威迫すると云うようなところは別に無いですからね。人を侮るような振る舞いはするけど、それは腕力に依っているんじゃなくて、自分以外の人間は皆浅はかなヤツに見えているからでしょうし」
「そうね、自分は他の有象無象と違ってご大層な人間だと信じ込んでいる節はあるね」
 日比課長が肯うのでありました。「俺なんか典型的な俗物と思われているようだし」
「まあ、それは当たっているけどね」
 袁満さんが混ぜ返すのでありました。
「そう云う袁満君なんかは屹度、お人好しだけが取り柄のようなそうでないような、気の利かない鈍間で鈍感なヤツだと思われているんだぜ」
「うん、確かにそうだろうなあ」
 袁満さんは別に逆らわないのでありました。成程お人好しなのでありましょうか。
「刃葉さんは高邁で気高い人なのでしょうかね」
 頑治さんは少し考えるような顔で訊くのでありました。
「まさか!」
 袁満さんが鼻で笑って吹き出すように云うのでありました。「あれを高邁とか気高いとか云うのなら、高邁と気高いの神様のばちが当たるよ」
 大して面白い云い回しとも思わなかったけれど、無視するのも会社の先輩に対して無愛想かと、頑治さんは軽い笑いを唇から零して見せるのでありました。
「そう云えば制作部の均目さんが、刃葉さんはああしているけどひょっとしたら途轍もない大志を抱いているのかも、とか前に飲み会で云っていましたよねえ」
「色んな武道を意欲的にやっているし武道を探求するために一見関係の無いバレエまで始めたくらいだから、屹度一廉の武道家になりたいと云う意志はあるのでしょうね」
 出雲さんが特に毒気の無い講評をするのでありました。
「でも会社の仕事振りから見ると、万事にちゃらんぽらんだし」
 袁満さんが疑わしそうな目で出雲さんを見るのでありました。
「会社の仕事はちゃらんぽらんでも、武道に関してはそうじゃないのかも知れませんよ」
「仕事がちゃらんぽらんなんだから、武道の方もちゃらんぽらんだとも考えられる」
(続)
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あなたのとりこ 94 [あなたのとりこ 4 創作]

「ちゃらんぽらんなら仕事を差し置いて迄も武道の練習はしないでしょう」
「ああ確かにね。でもこっちにしたら仕事を差し置かれるのが困ったものだけどね」
「それは云えていますけど」
 出雲さんは苦笑しながら何度か頷くのでありました。
「まあ、ああ云う人だから、武道の道場の中でも色んな人と軋轢を引き起こしているんじゃないかな。武道に向きあう気持ちと道場での人間関係は別物だろうから」
 袁満さんはどうしても刃葉さんと云う人を信用してはいないようでありました。

「刃葉君は社員の中でも特に、土師尾営業部長が一番気に入らない存在だから」
 日比課長が同じ刃葉さんの話題ながら少し話しの色味を変えるのでありました。
「そう云えば前に、土師尾営業部長の事を生臭坊主だと軽蔑していましたね」
 出雲さんが日比課長の話題を受けてそう応えるのでありました。
「俺もあんなインチキ坊主は滅多に居ないと思っているよ」
 袁満さんはこの点、信を置いていない刃葉さんと同意見なのでありました。
「何ですかその、生臭坊主、とか、インチキ坊主、と云うのは?」
 頑治さんが三人の誰にとも無く訊くのでありました。
「土師尾営業部長は坊主の資格を持っているんだよ」
 袁満さんが応えるのでありました。
「坊主の資格、ですか?」
「勿論それは国家資格とかそう云ったものなんかじゃないけどね」
「要するに僧籍に在ると云う事ですか?」
「そう。千葉の或る寺の副住職だか副々住職だかしているみたいだよ」
 袁満さんが説明を始めるのでありました。「住んでいる家の近くの寺でね。学生時代に何かそっち方面の勉強をして資格を取ったらしいよ」
「仏教関係の学校に行かれていたのですか?」
「いや、そうじゃないけど」
 聞けば土師営業部長の出身大学はどちらかと云うと神道系で有名な大学でありました。色んな地方の神社の、神官をしている家の子弟が家を継ぐためにその大学に通うと云う話しは、何となくではありますが頑治さんは誰かから聞いて知っているのでありました。
「その大学は仏教とはあんまり関係が無いところではないですかね」
「まあそうだね」
「土師尾営業部長の実家がお寺なのですか?」
「いや、違うんじゃないかな」
「では神社の方ですか?」
「それも無関係みたいだよ」
「では自分の了見で神道系の大学に入って、仏教の方に進路を曲げたと?」
「学力とか、入学金とか、色んな条件からその大学に行ったんだろうけどさ」
(続)
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あなたのとりこ 95 [あなたのとりこ 4 創作]

「あの人は経営学部の出身じゃなかったかな」
 日比課長が横から補足するのでありました。「大学に入った時には神道にも仏教にも全然興味は無かったんじゃないかな。何かしらの個人的な事情があって仏教に目覚めたと云うような話しを聞いた事がある。その事情とやらは具体的には知らないけど」
「土師尾営業部長は片久那制作部長と同じ全共闘世代ですよね」
 頑治さんは確認するのでありました。
「そうね。あの二人は同い歳だからね」
「大学時代に接点は無かったにしろ、一方は政治に、一方は宗教に走った訳ですね」
「そう云うとあの二人を同列に並べているみたいだけど、片久那制作部長はバリバリの闘士で今でも何となくその面影は窺えるけど、土師尾営業部長の方はどんなものかな」
 日比課長は宗教者としての土師尾営業部長の方には懐疑的なようでありました。
「そう云えば均目さんが土師尾営業部長の事を、葬式の作法とか仏壇のディテールなんかには詳しいけど、肝心の親鸞やら蓮如の思想についてはありきたりの知識しかないようだって云っていましたね。一般的に坊主が説法でやる程度で本人の思考の深化は無いと」
 出雲さんが話しに加わるのでありました。
「親鸞とか蓮如とかだから、宗旨は浄土真宗と云う事ですかね」
「俺は仏教についてはド素人だから、何宗かは良く知らないっスけど」
 頑治さんの質問に出雲さんは少したじろぎを見せるのでありました。
「何かの折に、悪人正機説、とか云っていたから、多分そうだろうね」
 日比課長が横から頷くのでありました。
「でも、均目さんがそんな話しを土師尾営業部長とする折があったんだ」
 その点が頑治さんには少し意外でありました。
「去年の社員旅行で伊東温泉に行ったんだけど、その時の部屋割りで均目さんと俺とそれに土師尾営業部長が偶々一緒の部屋になったんですよ。多分その時っスね、二人がそう云った事について話す機会があったとすれば」
 出雲さんが経緯を推測するのでありました。「俺は袁満さんと日比課長と三人で、街に繰り出して遅くまで場末のスナックで飲んでいたから、その場には居なかったけど」
「ああ、あのスナックね」
 日比課長がそう云って苦笑うのでありました。「あそこは参ったなあ」
「寒いからって何処でも良いから入ったんだけど、何となく店の装飾は古びているし、ソファーは破れているところが目立つし、中に居るお姉ちゃんはちっとも若くないし、図々しいし騒々しいし、がさつだし下品だし、商売っ気丸出しだし」
 袁満さんが思い出してげんなり口調で愚痴を云うのでありました。
「そう云う割には袁満君が一番ノリノリで、お姉ちゃん達とキャアキャア云いながら一気飲み合戦したり、オッパイに触ったりちょっかい出して戯れていたくせに」
 日比課長がからかうのでありました。
「それは日比さんの方でしょう」
(続)
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あなたのとりこ 96 [あなたのとりこ 4 創作]

 袁満さんは苦った表情で云い返すのでありました。「大人しく飲んでいる俺や出雲君の横で、日比さんだけがお姉ちゃんに悪ふざけしながら羽目を外していたんだ」
「いやいや、袁満君こそ目立たないながら執拗にちょっかい出していたくせに」
「そんな事無いよ」
 袁満さんが首を横に振りながらきっぱり否定するのでありましたが、こうまで一生懸命肯んじないところを見ると日比課長の言も満更間違ってはいないのかも知れません。
「その伊東温泉の社員旅行中に均目さんの方から、何気なく浄土真宗の教義とかについて土師尾営業部長に訊ねたのでしょうかね?」
 頑治さんは話しの舵を土師尾営業部長の宗教の方へ戻すのでありました。
「部屋で二人になって布団を並べて寝ている時に、丁度良い折だと思ったのか、土師尾営業部長の方から話し出したって均目さんは云っていましたけど」
 出雲さんがそう云いながら頑治さんのコップにビールを注ぐのでありました。
「宗教の話しになったら待ってましたとばかり得意になってベラベラ喋り出すに決まっているから、そんな面倒臭い事を態々均目君の方から仕かける筈はないわなあ」
 袁満さんも頑治さんの後に出雲さんの酌を受けながら云うのでありました。
「土師尾営業部長にしたら、屹度勧誘でもしようと云う魂胆だったんでしょうね」
「布教活動の一環と云う訳ですか」
 頑治さんはすっかり満たされたコップのビールを二口で半分程飲むのでありました。空かさず出雲さんはまた頑治さんのコップの上でビール瓶を傾けるのでありました。
「そう云う心算だったかも知れないけど、ところがどっこい均目さんは大学時代の専攻は日本思想史だったから、そう一筋縄ではいかないと云う寸法です」
「均目さんは日本思想史が専攻だったんですか?」
「そうみたいだね。確か史学部だったか文学部だったかの、日本史科だったか哲学科だったかの卒業だって前に訊いた事があるね」
 袁満さんがそんな事を紹介するのでありました。頑治さんは均目さんが大学時代に日本史だったか哲学だったかを専攻していたと云うのは初耳でありました。今迄均目さんとそんな話しはしなかった故でありましたが、成程そう云えば均目さんは頑治さんと閑話する時でも、話し振りに妙に理屈っぽいところがあるのはその故かも知れません。
「均目さんに依れば土師尾営業部長は先ずは均目さんの家の宗旨を聞いてきて、それから滔々と浄土真宗について語り出したって云っていました」
 出雲さんが伊東温泉の旅館の部屋での話しを続けるのでありました。
「土師尾営業部長は均目さんが入社する時に履歴書に目を通しただろうに、大学時代に日本思想史を専攻したと云う事は知らなかったのでしょうかね?」
「知らなかったんじゃないですか。或いは、目を通していたとしても新入社員の学歴なんか、大学の名前には多少の興味を示したとしても、その専攻まではどうでも良かったたと云う事じゃないですかね。どうせ営業部ではなく制作部に入る人なんだし」
「土師尾営業部長は損得勘定以外は結構な迂闊者でもあるしね」
(続)
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あなたのとりこ 97 [あなたのとりこ 4 創作]

 袁満さんが横から話しに加わるのでありました。
「迂闊じゃなくても、履歴書の中に書いてある、日本思想史、と云う言葉がピンとこなかったのかも知れないな。大体に於いて血の回りが悪い人だからね、あの人は」
 日比課長も参加するのでありました。
「親鸞とか蓮如がどうのって話すんだけど、土師尾営業部長は本当にその思想が判っているのか均目さんは大いに疑問だったようですね。この人は僧服を着てお経をつるっと暗記して、それを如何にも外連味タップリに唱えて見せて、仏事の作法を細々習得すれば立派な坊主になったと考えているだけの人じゃないかって、そう思ったそうです」
「まあ、あの人の仏教に対する了見は粗方そんな程度だろうな」
 袁満さんが出雲さんが紹介した均目さんの意見に同意を示すのでありました。
「でも、学生時代に特に今まで縁も所縁も無かった仏教に傾倒したというのであれば、それなりにそれを求める気持ちが高揚する経緯があったと云う事じゃないですかね」
 頑治さんがボソッと云うのでありました。
「気持ちが高揚する経緯って?」
 袁満さんが首を傾げて頑治さんを見るのでありました。
「まあ例えば、境遇に於いて激変があったとか、生涯を決定するような霊的感動があったとか、自分のこれまでの生き様に心底悩んでいたとか」
「そんなもの、あの人にある訳が無い」
 日比課長が憫笑を湛えて、ここもきっぱり否定して見せるのでありました。「そんな高尚なオツムなんかあの人は持ちあわせていないよ」
「別に高尚と云うのではないでしょうが」
「兎に角、人を差し置いてでも自分が先ず得をしようと云う卑劣な根性しか無いし、只管隠そうとしてはいるけど俺以上にスケベで俗物だね。まあ、体裁上人に高尚な人間に見られたいと云うさもしい目論見は人一倍持っているみたいだけどね、あの人は」
「日比さんよりスケベで俗物と云うのなら、それは相当なものだね」
 袁満さんが混ぜ返すのでありました。
「でも親鸞だって最初はそう云われて迫害されていたでしょう」
「親鸞はそうかも知れないけど、アレは全くの別物だ。正真正銘生一本の俗物だよ」
 日比課長は自信たっぷりに請け合うのでありました。竟にアレ呼ばわりになったところを見ると、日比課長も土師尾営業部長を心底では軽侮しているようであります。
「均目さんは、あの人は親鸞の教えを悪用しているだけだとも云っていましたね。俺はさっきも云ったように仏教にはド素人だから、それがどういう事かよく判らないけど」
 出雲さんが再び均目さんの意見を紹介するのでありました。要するに悪人正機説を逆手に取って、念仏さえ唱えていれば何をしようが構うもんかと開き直っていると云う事でありましょうか。まあ、その内均目さんに訊いてみれば教えてくれるでありましょうが、それにしても土師尾営業部長はひょっとしたらその悪質性に於いて刃葉さん以上に社員から、いや少なくとも頑治さんの前に居る三人から疎まれている存在なのかも知れません。
(続)

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あなたのとりこ 98 [あなたのとりこ 4 創作]

 給料とか待遇は特に希望は無いがその日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかしなかなか堅実に続いて行きそうな会社、と云うのが飯田橋の職安職員の田隙野道夫氏に就職斡旋を頼んだ時の頑治さんの条件でありました。さて、贈答社と云う会社はこの条件にどの程度適合しているのか頑治さんは判断が付かないのでありました。ざっくりと考えれば概ね合致しているようでもあり、しかし実は何一つとして符合していないような気もするのでもあります。
 勿論そんな呑気な条件に当て嵌まるような会社は何処にも無いでであろう事は、頑治さんも端から承知はしているのでありましたが、しかし居心地と云う点でこの贈答社はどんなものでありましょう。まあ、未だここで判断を下すのは早計でありましょうが。

 結局刃葉さんは、土師尾営業部長から出された一か月早い退社の勧告を呑むのでありました。刃葉さんに支払う一か月分の給料の出し惜しみからそんな事を提案してみた土師尾営業部長にしてみたら、これは瓢箪から駒が出たような按配になりますか。刃葉さんの方は、そうまで云われて一か月分の賃金欲しさに会社にしがみ付いているのは、誇り高い彼の人でありますから沽券に関わると云ったところでありましょう。
 刃葉さんは翌日、九時を少し過ぎた頃会社に遣って来てその儘土師尾営業部長の机の方に一直線に進むと、その机の上に、辞職届、とボールペンで表書きしてある白封筒を放り投げるように置いて土師尾営業部長を見下ろすのでありました。土師尾営業部長は先ず封筒に目を遣り、それから徐に横に立っている刃葉さんを見上げるのでありました。
 刃葉さんの退職届を提出する態度に何かいちゃもんを付けたいようでありましたが、細い目を余計細めて無表情に自分を見下ろしている刃葉さんを不気味に思ったのか、何も云わずに徐に目を逸らして封筒を取り上げると、その中に入っている折り畳まれた便箋を引っ張り出すのでありました。机で在庫帳を開いていた頑治さんは、土師尾営業部長の便箋を取り出す手付きが妙にぎごちないように見えるのでありました。
「辞職届を今月の二十日付けに書き直してきました。これで良いんでしょう」
 便箋に目を落としている土師尾営業部長に向かって刃葉さんが突慳貪に声を振り掛けるのでありました。その声に土師尾営業部長は顔を起こすのでありました。
「判りました。受理します」
 土師尾営業部長は何故か一見丁寧な言葉遣いで云うのでありました。しかし感情の籠っていない冷たい云い方ではありました。せめてもの不快の表明でありましょうか。
 今月の締め日まで出社するようでありますから、刃葉さんはあと三日したら退社となる寸法であります。この間で頑治さんへの仕事の引継ぎは粗方完了しているのでありましたし、それに若し完了していなくとも、頑治さんは特段刃葉さんをこの先必要としないでも充分仕事を熟して行けるでありましょう。依って刃葉さんの予定より早い退社は頑治さんには何の支障も無いのでありました。寧ろ先輩への気兼ねが無くなる分、頑治さんは気楽になると云うものでありますか。満更悪い事態の推移と云う訳ではないのであります。
(続)
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