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あなたのとりこ 252 [あなたのとりこ 9 創作]

 頑治さんは溜息を吐くのでありました。それは確かに山尾主任にしたらそれなりの考えがあっての事かも知れませんが、しかしそれは如何にも独りよがりの甘ちゃんの仕業でありますか。外形的には、何もかも放ったらかしにして山に逃げ出したと云う以外の意味は付与出来ないでありましょう。まさに茶番と云うべきであります。
「で、山から帰って来ると、新妻さんが居なくなっていたと云う事らしい」
 均目さんが茶番の後段を語るのでありました。「一緒に暮らしている山尾主任のお母さんの話しだと、山尾主任が一人で山に出掛けたその日の内に、新妻さんは家を出て行ったらしい。ちょっと実家に行って来ると云い残してその儘帰らず、と云う話しだ」
「嫁さんも山尾主任の仕業に呆れたんだろうさ」
 頑治さんは同情を寄せないでぶっきらぼうに云うのでありましたが、心底から冷ややかなら、こんなに頑治さんが悔しい気持ちになる事はないでありましょうか。

 それは確かに唐突な事態でありましたが、頑治さんはそうなるであろう予測は前から付いていたと云えば付いていたのでありました。恐らく均目さんも同じでありましょう。そのための兆候も不足無く、充分過ぎるくらい揃っていたとも云えるのであります。
 その山尾主任が辞表を土師尾営業部長の前に置いたのでありました。均目さんにも頑治さんにも、誰にも相談する事無く、山尾主任一人の判断と決意からでありました。
 出社してすぐだったので頑治さんもその場に期せずして居合わせたのでありました。他には出雲さんと甲斐計子女史が居たのでありましたし、マップケースの壁の向こうにある制作部のスペースには、片久那制作部長と均目さんが居たのでありました。制作部にもこちらのただならぬ緊張感は充分伝わった事でありましょう。
 前に置かれた山尾主任の、辞表、と表書きしてある白封筒を手に取って、土師尾営業部長は勿体を付けた仕草で中を確認するのでありました。
「どう云う事だろう?」
 土師尾営業部長は山尾主任を見上げながら、如何にも落ち着いた物腰で問うのでありました。慎に意外、と云った驚きを落ち着きの中に籠めていると云った体裁を装っているのでありますが、頑治さんにはどこか芝居じみて見えるのでありました。たじろがないところを見ると土師尾営業部長にとっても意外中の意外、ではなかったのでありましょう。
「そこに書いている通り一身上の都合です」
 山尾主任は無愛想に応えて浅くお辞儀するのでありました。
「ちょっと待ってて」
 土師尾営業部長は立ち上がって、山尾主任の前を擦れ違うように通り抜けて制作部の方に行くのでありました。それから片久那制作部長を伴って戻ると、その儘突っ立っていた山尾主任に向かって声を掛けるのでありました。
「山尾君、ちょっと話し合いたいから社長室に一緒に来てくれるか」
 その後土師尾営業部長を先頭に三人で事務所を出て行くのでありました。社長室は二階にあるのでありました。もう社長も出社しているのでありましょう。
(続)
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