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あなたのとりこ 114 [あなたのとりこ 4 創作]

「そうね」
 頑治さんは何食わぬ顔であっさり受け応えるのであありました、「長滞在のようだからひょっとしたら、網走の顔を立てて刑務所観光はする事もあるかも知れないけど」
「長滞在って、十日くらい?」
「いやいや、十年とか聞いたけど」
 夕美さんはそう聞いて眉をヒョイと上げて少しの驚きを表するのでありました。
「それじゃ旅行で長滞在って云うより、向うに移住するって事だわね」
「そうね。そう云う方が正しいかな」
「向こうで仕事が見つかったの?」
「そうじゃなくて空手の修業らしい」
「空手の修業?」
 夕美さんはここでも眉を少し上げるのでありました。
「何でも網走に偉い先生が居て農場を遣っているんだと。そこに寄宿して農場を手伝いながら、その先生に時々一対一でみっちり教えを受けるんだそうだよ」
「ふうん。まるで熱血少年漫画、みたいな話しね」
「そうだよな。確かにちょっと浮世離れしている感じかな」
「まあ、人夫々だけど」
 夕美さんはそう云って、もうこの話しには興味を失ったような無表情になるのでありました。夕美さんはこれ迄の人生で武道とか修行とか云う言葉にはあんまり馴染んだ事は無かったのでありましたし、殊更の関心を持った事もないようでありました。ま、夕美さんは、大方のスポーツや身体運動はあんまり得意な方ではないようでありますし、
 公園の中の木々が俄にさざめくのでありました。ベンチの傍に溜まっていた枯葉が吹き払われて宙に舞うのでありました。
「随分強い風だな」
 埃が入らないように目を細めて頑治さんが云うのでありました。夕美さんは上着の襟を立てて寒そうに肩を竦めるのでありました。
「木枯しみたいね」
「今日の夜の天気予報で木枯し一号が吹きました、とか云うんじゃないのかな」
「そうね。そんな感じね」
 二人はベンチから立ち上がって傍らの塵入れに飲み終えた空の缶を棄てるのでありました。それから来た時と同じルートで上野公園を後にして帰路に就くのでありました。
 やや早足になるのは風が冷たいせいであります。不忍池の水上音楽堂の先の左岸の緑道に囲まれた一画には、木枯しの吹く中でもボートが多く浮かんでいるのでありました。木枯しの中での水遊びと云うのは一種酔狂ではあるにしろ、頑治さんにはなかなか勇気の要る遊びに思えるのでありました。頑治さんは生来の寒がりでありましたから。頑治さんは頑治さんの腕に腕を搦めて並んで歩く夕美さんをチラと窺うのでありました。夕美さんが何時もより強い力で頑治さんの腕に縋っているのは屹度寒い故でありましょう。
(続)
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