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あなたのとりこ 89 [あなたのとりこ 3 創作]

「会社の中で憚りも無く大声を出すのは迷惑だ。やるんなら外でやれ」
 片久那制作部長が厳めしく続けるのでありました。これは聞き様に依っては外でなら云い争いをしても構わないと云っているようにも取れる訳で、その辺りに片久那制作部長の突き放したような自分に対する冷たさを感じたのか、土師尾営業部長の顔から表情が抜けて、その瞼が何度か戸惑いの瞬きをしているのでありました。
 刃葉さんの熱り立ちは沸点に達したのか、顔色が赤から赤紫色に変わったように頑治さんには見えるのでありました。血圧急上昇の気配であります。
 じっと自分を見据える片久那制作部長の目に負けまいと、刃葉さんは勇気を奮って懸命に目に力を籠めて見返えそうと努めるのでありましたが、肝心の目の方が遠泳の選手のように泳ぎを止めてくれないのでありました。この儘だとすっかり動揺したその態が刃葉さんの体面を台無しにして仕舞うでありましょう。そう判断して刃葉さんは如何にも意志的に、と云った体裁でプイと横を向くのでありました。まあ、片久那制作部長の厳めしい表情と視線に竟に耐え切れなくなったと云うのが本当のところでありましょうか。
 刃葉さんは土師尾営業部長の机の傍らを離れるのでありました。それから自分の、と云うのか、頑治さんと共有しているデスクの上に置いていたリュックサックを荒々しい手つきで取ると、退去の挨拶も無く事務所を出て行くのでありました。恐らく憤懣を発散するためであろう、廊下に出た刃葉さんの何やら叫ぶ奇声が、ストッパーが付いているためにゆっくり閉まりかけたドアの隙間から漏れ聞こえて来るのでありました。

 ようやく事態が片付いたのにほっとして土師尾営業部長は溜息を吐くのでありました。それから片久那制作部長の方に愛想笑いを浮かべた顔を向けるのでありました。
「どうも有難う」
 これは片久那制作部長へのお礼の言葉でありました。片久那制作部長はそれを不機嫌に全く無視するかのように、土師尾営業部長に目を向ける事も無く制作部スペースの方に姿を消すのでありました。別に礼を云われる筋合いは無い、と云う態度でありますか。
 頑治さんはようやく刃葉さんのリュックサックが無くなった席に座る事が出来るのでありました。日比課長も自席に戻ってブリーフケースを傍らに置くのでありました。それから出雲さんが机の上の旅行カバンのそのまた上から顔を覗かせるのでありました。
 息を殺してそれまで全く気配すら見せなかった甲斐計子女史が、立ち上がって書類棚から不愉快そうな顔を頑治さんのすぐ前に現すのでありました。ようやく家に帰る事が出来ると云った様子で机の上を片付けると、手提げバッグを手に持って自分のロッカーまで早足に進んで、中から上着をひったくるように取って、後ろ向きにお先にと小声で云って事務所を出て行くのでありました。まるで怒っているような風情でありました。
 まあ、甲斐女史が怒っているとすれば殺伐とした緊張感を作った刃葉さんにと云うのも然る事ながら、主には無用で無意味なゴタゴタの種を態々蒔いた主犯たる土師尾営業部長にでありましょう。選りに選って自分が帰ろうとしている間際に、刃葉さんを怒らせるような事を云い出す必要なんか無いではないか、と云ったところでありますか。
(続)
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