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あなたのとりこ 62 [あなたのとりこ 3 創作]

「本当?」、
 夕美さんは如何にも大袈裟に嬉しそうな顔をして見せるのでありましたが、これは嬉しさの度合に於いてこの表情程の歓喜は無いのでありましょう。一般的に女性が無意識裡に放つ特有の、時として男を惑わし得るところの、科、と云うものでありましょうか。
「俺もこの儘さようならするのは何となく心残りだし」
 とは判っているものの頑治さんは思わず頬の筋肉が緩むのでありました。「一時間半くらいなら三省堂にでも行って一階から七階までうろうろしていればすぐに経つし」
「じゃあ、待っていてくれる?」
「講義が終わった頃に、またここのベンチに座っているよ」
「判った。終わったらすっ飛んで来るわ」
 夕美さんはそう云って頑治さんにバイバイと手を振ってからクルリと後ろを向いて、立ち上がった頑治さんの前を小走りに去るのでありました。頑治さんは公園から夕美さんの姿が消えるまでその後ろ姿を見送るのでありました。その後俯いて腕時計を見てから、今夕美さんが去った同じ出口から公園を後にするのでありました。

 頑治さんはゆっくりと箸を置いて夕美さんに向かって「ごちそうさま」とお辞儀をしながら云うのでありました。頭を下げた時にちらと腕時計に目を遣るのでありました。
「満腹した?」
 夕美さんが顔を起こした頑治さんを覗き込むのでありました。
「うん。それに美味かったし久し振りの豪勢な夕飯だった」
 頑治さんのその返事に夕美さんは満足そうに笑むのでありました。
「それから、・・・」
 夕美さんはそこで言葉を切って、傍らに置いていた赤いデーパックを膝の上に取り上げてからジッパーを開けるのでありました。頑治さんがその様子を覗き込んでいると、夕美さんは明渓堂の真新しいブックカバーに包まれた本を取り出すのでありました。
「これ、就職祝い」
 夕美さんは両手でその本を持って頑治さんの方に差し出すのでありました。
「へえ。有難う」
 頑治さんは受け取ってから表紙を開くのでありました。ウディ・ガスリーの晶文社版『ギターをとって弦をはれ』と云う自伝の翻訳本でありました。
「もっと高額で気の利いた物、とか考えたんだけど、それが一番喜ぶかと思って」
「よく見付けたなあ。ずっと探していたんだけど三省堂にも冨山房にも、神保町界隈の古本屋を回ってもなかなか見付けられなかったんだけどなあ」
「でも版元に問い合わせたら絶版になっている訳じゃなかったわ。で、明渓堂で取り寄せて貰って、今日入荷したって電話があったの」
「いやあ、本当にありがとう」
 頑治さんは嬉しそうに本を矯めつ眇めつするのでありました。
(続)
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