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あなたのとりこ 51 [あなたのとりこ 2 創作]

「判ったわ、レモンね」
「あそこなら若しどちらかが時間に遅れてもコーヒーを飲みながら待っていられる」
「それもそうね。でもあたしは屹度遅れないわ」
「俺も遅れないようにするよ」
「じゃあ、明日」
「うん。じゃあ、明日」
 頑治さんは夕美さんが受話器を置く音を聞いてから電話を切るのでありました。

   夕美さん

 その日は定時で帰る事が出来たものだから頑治さんは三省堂書店や冨山房書店、それに東京堂書店を回って一時間程時間を潰してから喫茶店のレモンへ向かうのでありました。店内には夕美さんの姿は未だ無いのでありました。
 頑治さんは奥まった席に座るとコーヒーを注文して、先程買った、十九世紀終わりの年にウクライナで生まれたポーランド人の小説家の短編集を開くのでありました。取り立てて読みたいと云う作家ではなかったものの、偶々手に取った序と云った具合に買って仕舞った本でありました。この人は青春のただ中でロシア革命に遭遇し、その後の新生ソヴィエト連邦の文化状況を生きた、まあ結局は不遇の小説家なのでありました。
 最初にある『愛』と云う短編の中の二頁目“リョーリャはやってこない。庭園での彼の滞在は長引いた。”と云う段まで読み進んだ時に先程注文したコーヒーが頑治さんのテーブルに遣って来るのでありました。頑治さんは本から目を離してコーヒーカップを取り上げるのでありました。夕美さんの方は未だ遣って来ないのでありました。
 その夕美さんはほぼ正確に六時半に喫茶店の扉を押し開いて姿を見せて、中の様子を窺ってから奥まった席に座っている頑治さんを見付けて、小さく手を上げて合図を送って来るのでありました。釣られるように頑治さんも手を上げて見せるのでありました。
「早かったじゃない」
 夕美さんは頑治さんの対面の椅子に腰掛けながら云うのでありました。
「今日は終業間際に梱包仕事とか入ったりしなかったから、定時に帰れたんだよ」
「そうすると、ここで随分待ったの?」
「いや、本屋で時間を潰していたからそうでもないよ」
 そう聞いて夕美さんは頑治さんが左手に持っている三省堂書店の紙カバーに包まれた本に視線を移すのでありました。しかしすぐに目を頑治さんの顔に戻すのでありました。夕美さんはそれが何の本なのかは特に頑治さんに問い掛けないのでありました。
 近寄って来た店のアルバイトと思しきエプロンをした若い女に、夕美さんは頑治さんが飲んでいるのと同じブレンドコーヒーを注文するのでありました。若い女が無言で頷いて立ち去ってから頑治さんは持っていた本を椅子の上に置くのでありました。最初の『愛』と云う物語はごく短いものだったから頑治さんはもう読み終えているのでありました。
(続)
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