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あなたのとりこ 7 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんが茶に手を出す前に土師尾部長が訊くのでありました。そう訊かれるのでありますから、つまり採用と相成ったと云いう事でありましょうか。
「それは可能ですが、と云う事は、ご採用していただけるわけでしょうか?」
 頑治さんが念のためそう訊き返せば土師尾部長は一つ頷くのでありました。終始無言の片久那制作部長の方を見ると、こちらは表情も変えず頷きもせず相変わらず頑治さんを値踏みするような目で見ているのみでありました。不機嫌な上司、頓馬で鈍い質問をものす上司の会社で大丈夫かしらと、頑治さんは少し考えるのでありました。
 この後に給料とか労働時間、それに有給休暇日数やら年に一度一泊二日の社員旅行があるやらの話しが土師尾部長の方から出るのでありましたが、好条件と云う程ではないにしろ特段頑治さんに不満はないのでありました。元々然程の好待遇を期待して仕事を探していたのではないのではありますし、『蟹工船』並みの過酷な労働を強いられる訳でもなさそうなので、先ずは結構な仕事にありついたと頑治さんとしては思うのでありました。
「では、明々後日の月曜日からよろしくお願いします」
 土師尾部長が頭を軽く下げて見せるのでありました。
「こちらこそよろしくお願いします」
 頑治さんは当然、土師尾部長のお辞儀よりは深く頭を下げるのでありました。
 こうして、職安に求職登録して最初の会社訪問で意外に呆気なく勤め先が決まった事に、頑治さんは少しばかり気抜けする思いでありました。
 オイルショックに続く不況下にも関わらず、頑治さんは別に大志があるわけでもなく、大学時代は就職活動を全くせずに一年間アルバイトをしながら呑気に遊び暮らしたのでありました。学友からは既卒者には就職が益々難しくなると云うのにそんなお気楽な了見でいたら、この先碌でも無い将来しか待っていないぞと散々脅かされたり憐れまれたりしたのでありましたが、そうでもなくこうして、頑治さんにしてみれば慎に順調に仕事が見つかったのであります。まあ、大企業とか好待遇とかを求めなければこのように、大学時代に一生の大事と必要以上に目を血走らせずとも何とかなると云う事でありましょうか。
 帰路の御茶ノ水駅方面への坂道を上りながら頑治さんはそんな事を考えているのでありましたが、ふと気が付いて主婦の友社本館傍の公衆電話ボックスに立ち入ったのは、この就職に於いて世話になった職安の田隙野氏に首尾を報告するためでありました。
「おお、それはお目出とうございます。流石は唐目さんです」
 一体何が流石なのかよく判らないのでありましたが、受話器の向こうで田隙野氏は大いに喜んでくれるのでありました。尤もその田隙野氏の、多分気紛れなヨイショ混じりの言葉に、頑治さんは少しく気分を良くしたのではありましたが。

 行きがけの坂道で靴下が摺り下がったと云う現象は、必ずしも悪い兆候ではなかったようであります。寧ろその日の外出の目的たる職探しの首尾を考えると、吉祥に属するとも取れるでありましょうか。本郷給水所近くの一角にあるアパートに帰り着いて、上着を脱いでネクタイを外しながら頑治さんはそんな事を考えるのでありました。
(続)
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