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お前の番だ! 600 [お前の番だ! 20 創作]

「よろしくお引き立ての程を」
 鳥枝範士の激励に万太郎もお辞儀を返すのでありました。
「あゆみの歳を考えたら急がないと、とワシは前から心秘かに思っておったのです。まあワシが焦心したところで、余計なお世話でありましょうがなあ」
 そう云う鳥枝範士の顔は実の孫を授かった好々爺のようでありましたか。
「実は剣士郎との間に少し間が空きましたが、ウチも二人目を授かりました」
 これは万太郎に話しを聞いた花司馬範士の報告でありました。
「へえ、そうですか。それはお目出とうございます」
 万太郎が祝詞を返すのでありました。「すると学校ではウチと同級生になりますね」
「そうですね。保護者参観日には一緒に参りましょう」
 花司馬範士も鳥枝範士同様、些かお先走りなのでありました。
 次の日の少年部の稽古前に剣士郎君が大きな花束を持って現れて、花司馬範士に伴われて万太郎とあゆみの控え室にやってくるのでありました。
「あゆみ先生、お目出とうございます」
 この先当分の間稽古を休むあゆみに、剣士郎君は感謝の花束を手渡すのでありました。これは花司馬範士の、あゆみを喜ばすためのちょっとした思いつきでありましょう。
「剣士郎君も弟か妹が出来るようだから、嬉しいでしょう?」
 あゆみが剣士郎君の手を取って云うのでありました。剣士郎君も嬉しそうな顔で、あゆみに手を取られた儘コックリと頷くのでありました。

 それから遠からぬ或る日の朝の専門稽古では万太郎が中心指導をする当番でありましたが、是路総士を筆頭に鳥枝範士と寄敷範士それに花司馬範士と来間教士、新米内弟子の真入と云う総本部指導陣が一堂に揃っての稽古となるのでありました。別にそう図ったわけではないのでありましたが、夫々の都合が偶然そんな状況を作ったのでありました。
 普段なら是路総士は万太郎が中心指導する折には、一種の気遣いから顔を出さないのでありますが、どう云う気紛れか、久しぶりに万太郎の指導ぶりを見たいと自ら所望するのでありました。秘伝伝授後の万太郎の変貌ぶりを確かめるためなのかも知れません。
 それならばと、その日は偶々朝から出仕していた鳥枝範士と寄敷範士も右に倣うのでありましたし、花司馬範士は元々出席の予定でありました。あゆみも稽古には参加しないながらも、どう云う所懐からか廊下側の窓から道場の様子を目立たぬように窺いにくるのでありましたから、母屋の留守番は居残っている大岸先生一人と相成るのでありました。
 ひょんな事からそう云った仕儀になって、万太郎としては大いにたじろぐのでありました。まるで総本部道場総務長、延いては常勝流武道宗家是路総士の跡取りたる自分の、力量及び適性を総本部所属の全指導員から考査されているような具合であります。
 これはもう滅多な事は出来ないけれど、かと云って至極無難に稽古を纏めて仕舞えば、その程度のヤツかとお歴々をがっかりさせる事になるでありましょうし、あゆみの失望も招くであろうし、来間や真入の心服もそれで覆滅して仕舞うかも知れません。特段そう云った思惑は面々にはないのだろうけれど、万太郎は過剰に気負うのでありました。
 その気負いが裏目に出たのか、今までそう云う事はなかったのだけれど、万太郎は道場に入る時に出入口の敷居の段差にうっかり躓いて仕舞うのでありました。気負いから体が固くなっていたので、万太郎は前のめりになった体勢を立て直せずにやや小走りに道場中央に到ると、そこに竟に転けたと云った風情でぺたりと正坐するのでありました。
 座り了る咄嗟に、そう云えば自分が内弟子に入った頃、是路総士も時々道場出入口の敷居に躓いていた事を思い出すのでありました。あれは後年手術に到る背骨の病変から、足が上手く上がらない場合があったためと知れたのでありましたが。・・・
 選りに選って、こう云う大事な場面で何たる不様、と万太郎は心の中で大いに赤面するのでありました。ヨロヨロと小走りする時に、下座端に正坐している鳥枝範士と寄敷範士が思わず顰め面をするのを目の端でしっかり見るのでありました。
 これは何とも幸先悪い仕くじりでありましたが、しかしどう云うものか万太郎はここで妙に心が静まるのでありました。無用に気負うからつまらぬ失敗をするのでありますし、誰が見ていようと今の自分以上の姿なんぞは結局見せる事は出来ないのであります。
 そう観念して仕舞うと万太郎は至極落ち着くのでありました。落ち着きを取り戻せば、何時も通りの中心指導を熟す事が叶うと云うものであります。
「いやあ、入場で躓かれた時には冷やりとしましたわい」
 稽古を終えて師範控えの間に引き上げた後、鳥枝範士が万太郎に云うのでありました。
「頭の中で昔の総士先生のお姿が重なりまして、ちょっと懐かしいような微笑ましいような、反面、何となく気まずいような妙な心持がしましたよ」
 寄敷範士が微笑を片頬に浮かべて続くのでありました。
「どうも面目ありません」
 万太郎は頭を掻くのでありました。
「総務長先生は別に腰がお悪いわけではないでしょうな?」
「いや、そのような事は。あれは全く以って僕のうっかりからです」
「ま、総本部道場の出入口の敷居と歴代宗家は、代々相性が悪いようですな」
 是路総士がそんな事を紹介するのでありました。「私の先代もあの敷居に躓いているのを、何度か目撃した事がありますよ」
「と云う事はつまり、総務長先生もここで晴れて、次代の宗家としての条件を目出たく身に備えられたと云う事になりますかな」
 鳥枝範士がそう云って豪快に笑うと、師範控えの間に集う是路総士や寄敷範士や花司馬範士、部屋の隅に控える来間教士と真入指導部助手、それに万太郎の横に座っているあゆみが、如何にも愉快そうにその笑いに同調するのでありました。
「私はあの光景を見て、さてこれからは愈々、総本部道場を先頭で率いていくのは私ではなく、そこで頻りに頭を掻いている婿殿だと得心しないでもなかったですかなあ」
 是路総士はそう云って笑むのでありました。
「総務長先生、総士先生がこれからは、お前の番だ! とおっしゃっておられますぞ」
 鳥枝範士が万太郎の心意気を質すように、控えめながらもやや鋭い眼光を向けるのでありました。万太郎は頭を掻いていた手をゆっくり下ろして、まるで是路総士が何時も湛えているような大らかな眼差しで、真正面から鳥枝範士の目を見つめるのでありました。
「押忍。承りました」
 万太郎は気負いもなく、かと云って弱気もない至極落ち着いた声音でそう云って端正に座礼をするのでありました。鳥枝範士は実に穏やかなその万太郎の物腰に不意に打たれたように、慌ててより低く万太郎に向かって低頭して見せるのでありました。

   ***

 さて、この辺りでこの物語もそろそろ一区切りといたしましょうか。この先の万太郎とあゆみについては、折があるならばまた別に語る事といたしましょう。浮世での大団円なんぞと云うものは、その当事者がこの世を去る時以外には訪れないのでありますから、不意に、故意に、物語はどこかで終止符を打たなければならぬものであります。
(了)
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