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お前の番だ! 511 [お前の番だ! 18 創作]

 名前の仰々しさに大いに見劣りする貧相な看板でありますが、恐らく前に掲げていたのであろう興堂流の文字のある板を外してこうして架け替えている辺り、独立して心機一転の意気ごみを示しているようではあります。しかしずぼらにも素材が多分そこらに転がっていたのであろう段ボール片で、それにマジックインキ書きと云うのは何やらやけに無精なやっつけ仕事風にも思えて、その心意気にも疑問符がついて仕舞うのでありますが、まあ、こうして架け替える辺りなかなか律義であるとは云えるでありましょうが。
 建物の中は灯火が点いておらず、人の気配は感じられないのでありました。その日は休館日で、洞甲斐氏は何処かに出かけているのでありましょうか。
 まあ、万太郎としては洞甲斐氏に面接する気は元々なかったものだから、その儘暫く建物の趣などを観察して引き揚げようとするのでありました。道場が八畳二間ぶち抜きの十六畳で、それに洞甲斐氏の住居が付随している程度と聞いているのでありますが、成程構えとしては普通の古い民家と云った家作で、行きがけに通り過ぎてきた八王子剣道連盟の道場と比べると、それが武道の道場とは誰も気づかないでありましょう。
 万太郎が来た道をまた西八王子駅の方にゆっくり歩いて引き返していると、人気のない住宅街の細道の前方に、自転車に乗ってこちらに向かって来る人影が見えるのでありました。遠目にもそれは洞甲斐氏だとすぐにピンときたものだから、万太郎は急いで民家の間の路地に身を隠して、自転車の御仁が通り過ぎるのを陰から窺い見るのでありました。
 万太郎の勘通り、白髪交じりの長い髪を後ろに撫でつけて無造作に束ねて、仙人髭を生やしたその横顔は、紛う事なく洞甲斐氏その人で、着古して色の褪せた藍染めの作務衣を纏って、いかにものんびりと自転車を漕いでいるのでありました。前輪の上の篭にはビニール袋が二つ入れてあって、一つの口からは葱の青い葉が覗いているのでありました。
 夕飯の買い物帰り、と云った様子でありますか。万太郎の前を通り過ぎる時に洞甲斐氏の口からは、随分昔に流行った演歌の鼻歌なんぞが漏れ聞こえてくるのでありました。
 どう見てもそれは、武道をものし、大宇宙の意志を深く考察するような御仁とは見えず、巷の少々偏屈で能天気なオッサンと云った風情でありました。万太郎は思わず知らず、そのほのぼのしさに、微苦笑なんぞを口の端に浮かべて仕舞うのでありました。
 洞甲斐氏には内弟子と呼べるような弟子は居ないと云う事でありました。それに連れあいさんも居ない独り身と聞いているので、こうして自転車に乗って、鼻歌を歌いながら駅前の商店街にでも買い物に出向くのが日課と云う事なのでありましょう。
 八王子支部の稽古後の宴席で、万太郎は稽古の前にちょっと洞甲斐氏の道場を見に行ってきたと、世話役をやっている門下生に酒の肴として話しをするのでありました。
「それはまた、どう云うわけで行かれたのですか?」
「いやまあ、ちょっとした好奇心と云うのか、気紛れと云うのか」
 万太郎は魂胆の辺りは曖昧に濁すのでありましたが、すると門下生の中に洞甲斐氏の道場の近所に住んでいると云う者が居るのを知るのでありました。これは好都合と万太郎はその者に時々洞甲斐氏の道場の様子を窺って、何時もと違う動きがあるとか、威治前宗家が訪ねた形跡がないかとか少し気にかけておいてくれないかと頼むのでありました。
(続)
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