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お前の番だ! 301 [お前の番だ! 11 創作]

 少々長い暇が空いた後に、是路総士の声が漏れ聞こえてくるのでありました。
「すぐにお返事をいただこうとはワシも思っちゃいません。お返事は暫くあれこれお考えになって、一番良い結論をお導き出しになってからで結構ですわい」
「ああそうですか。しかしまあ道分さん、こう云った事は何よりも先ず、当のあゆみの気持ちが第一と思われますからなあ」
 そう云う是路総士の声は師範控えの間から伝わってくる緊張感からすれば、存外落ち着いた調子のものでありましたか。
「そりゃそうです。当人にその気がないのに無理強いするわけにはいきませんわい」
 興堂範士がそこで言葉を切るのは、その後屹度、あゆみの方に顔を向けるためであろうと万太郎は推察するのでありました。「で、どうじゃろう、あゆみちゃんとしては?」
 ここでまた控えの間は無声となって静まるのでありました。これは恐らく、皆の視線があゆみに集まって、その言葉を待っている故でありましょう。
 あゆみの声はなかなか聞こえてこないのでありました。
「あゆみ、どうかな?」
 これは是路総士の声でありました。そう是路総士に促されても、あゆみの声は何時まで経ってもなかなか発せられないのでありました。
 あゆみに軽々に返事を出来なくさせるような類の話しとは、一体どんな話しなのでありましょうか。廊下の万太郎は自分の気持ちまでもが、障子戸の隙間から浸み出してくる控えの間の緊張にすっかり染まるような心地になるのでありました。
 そうしてすぐに閃いたのは、これは屹度、あゆみと威治教士の縁談の話しが持ちこまれたのではないかと云う事でありました。そう思いついた途端、万太郎の腹の底がいきなりカッと熱を帯びて、頭は茫と翳み、呼吸するのも忘れて仕舞うくらいでありました。
 折角総本部道場の体制が収まるところに収まったと安堵した矢先、またぞろそれを乱す小難しい事案が持ち上がったと云う按配でありますか。そう考えて万太郎は全身の力が、接触している脛から床に吸い取られていくような気がするのでありました。
 しかしあゆみと威治教士の縁談の話しだと決まったわけではないではないかと、万太郎は思い直してみるのでありました。大風に揺らめく梢の葉群れのように、ざわざと立ち騒いでいた心の内は、そう思い直してみてもなかなか静まる気配はないのでありましたが。
 あらま欲しき事は大体に於いて願うようには成就しないと云うのに、好都合でない事に限っては、それが全く考えた通りに的中するのであります。世の中なんと云うものは、全く以って不如意なように出来ているもののようであります。
 万太郎が無愛想面で奥歯を噛みしめながら、廊下でこの世の無常なる相を嘆いていると、ようやくあゆみの気後れた声が障子戸の隙間から漏れてくるのでありました。
「そう云われても、あたし、何て応えて良いのか、・・・」
 あゆみの声は羽化したばかりの蚊が立てる羽音のようでありました。それでも万太郎にはちゃんとその儘聞こえるのでありました。
「いきなりの事じゃったろうから、それはそうじゃろうがな」
(続)
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