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お前の番だ! 194 [お前の番だ! 7 創作]

「まあそれはそうだが仕方がないさ。二つ伴に満足させるわけにはいかないし」
 良平の心の中では常勝流の稽古より香乃子ちゃんとの結婚と云う懸案の方が、より大きな面積を占めているのだろうと万太郎はその心情を斟酌するのでありました。それは個人の心の赴くところでありますから、万太郎はそれをとやこう云う事はないのでありました。
「大概は判りました。でも何となく、良さんが常勝流の内弟子を辞めると云うのは、僕としては正直、勿体ないような気がしないでもありませんが」
「ま、門下生として平日の夜の稽古には、仕事に差し支えがない限り姿を見せるよ。それに土曜日や日曜日は朝から道場に来る了見でいるし、それは総士先生にも鳥枝先生からもお許しを貰ったよ。寧ろそうしてくれると有難いともおっしゃってくれた」
「でも、香乃子ちゃんとの新婚生活に差し支えがない限り、と云う事になるでしょうね」
 万太郎はほんの少し、からかいの色を目に湛えるのでありました。
「まあ、そうなるかなあ、当初は」
 良平ははにかむような微笑を眉宇に浮かべて万太郎から目を逸らすのでありました。「でも俺としても常勝流の稽古は、境遇が変わっても出来る限りずうっと継続したいと思っているし、総本部道場のためにはどんな立場になろうと力を尽くすつもりでいるから」
「それはもう、僕ごときが云うのも何ですが、末永くよろしくお願いしますよ」
 万太郎はそう冗談めかして云いながら頭を下げて見せるのでありました。しかし良平が内弟子を辞めると云うのは、何とも寂しい事情であります。
 これまで、ほぼ同時期に内弟子として道場に入りこんで、三年間苦楽を共にした輩がこうして居なくなると考えるのは、如何にも辛いものがあるのでありました。何と云うのか、つれなく置いてきぼりを急に食らって、一人で霞がかった広野に取り残されるような。
「ま、俺が辞めるのは一年後で、未だ先の話しだけど」
 万太郎の顔色を気の毒に思ってか、良平が明るく語調を改めるのでありました。それはそうだろうけれど、しかし一年後には良平は確実にこの道場から去るのでありましょうし、万太郎の心の中に漂い始めた茫漠とした霞は、何とも消しようがないのでありました。

 食事をするにしては少し暗いのではないかと思われる橙色の明かりが、店内奥にあるテーブルの白い布のクロスの、更にその上に汚れ除けのためにかけられた厚手のビニールの覆いに、少し歪んだ形状に写っているのでありました。書道の展示会場から些か駅の方に戻った辺りにある、外壁が煉瓦造りで装飾された古めかしい造作の洋食屋に落ち着いた四人は、夫々にメニューを開いて注文するべき食事を選定している最中でありました。
 是路総士の来駕を待っていたかのように、是路総士が小一時間程かけて展示してある書を見回った後に、書道展の初日の閉場時間前であるにも関わらず大岸先生とあゆみとそれに万太郎を加えて、四人連れ立って食事をと上野の街に出たのでありました。この洋食屋は上野で書道展がある時偶に、大岸先生が立ち寄った事のある店と云う事でありました。
「さて、総士先生は何をお召し上がりになりますか?」
 大岸先生が横に座る是路総士の顔を覗くのでありました。
(続)
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