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お前の番だ! 56 [お前の番だ! 2 創作]

「善は急げ、なんぞと云いますから、早速明日から稽古にいらっしゃいますかな?」
 是路総士は今万太郎が書いた誓紙と万年筆を文箱に仕舞いながら訊くのでありました。
「勿論そのつもりでおります。明日は日曜日ですから大学は休みですし」
「色々まごついたり面白くない事も、理不尽に思う事も多々あるかも知れませんが、辛抱して長く務めてください。君が武道家として大成する事を今から期待しておりますよ」
 是路総士ににこやかにそう云われると、万太郎の身中深くにある丸い玉が発熱するような歓喜を覚えるのでありました。つまりこの差しでの最初の対面で、万太郎は是路総士の人柄にすっかり心服したと云う事であります。
 是路総士は万太郎の事を大らかそうだと云ってくれたのでありますが、言葉を交わしてみると是路総士こそ如何にも心が大らかな、懐の広い人物であるような気がするのでありました。それは屹度長く厳しい武道修行の末に体得されたある種の強い自己抑制から、自ずと匂い立ってくる人格の余裕みたいな薫香を万太郎の鼻が捉えた故でありましょう。
 この人の喜ぶ顔が見たいと、万太郎は思うのでありました。ひょっとしたら自分はかけがえのない就職先を見つけたのかも知れないとも、考えるのでありました。
「向後末永く、ご指導をよろしくお願いします」
 万太郎はやや後ろに躄って、両手をついて丁重なお辞儀をするのでありました。倒した頭の中で、末永く、なんと云う言葉は、何となく新婚夫婦の間で最初に交わす挨拶の慣用句みたいだなと、徒と云うも疎かなる事をどうしたものかちらと考えるのでありました。

 道場の方へ向かう万太郎を後ろから呼び止めた、板場沙美郎、と云う名の興堂派の門弟が追いついて横に並ぶのでありました。
「確か、折野君、と云う名前で良かったんだよな?」
「はい。折野です」
 板場は万太郎よりは五つばかり歳上のような風体であります。
「君の朋輩である面能美君が、今日はこちらに来る日ではなかったのか?」
「その予定でしたが、都合で私と代わりました」
 どうして自分と良平が是路総士の付き人を交代したのか、興堂派の門人にその理由まで迂闊に云うのはちょいと憚られると思うのでありました。
「ひょっとしたら面能美君が嫌がったからじゃないのか?」
「いや、別にそんな事は。・・・」
「先回彼が来た時、威治教士に辛くあしらわれたのでそれで君と代わったんだろう?」
 板場は万太郎より背が高いので、横から間近に見下ろされる板場の視線を万太郎は側頭部に感じるのでありました。
「そう云う事はありませんが」
「ひょっとして面能美君がその事を帰ってから総士先生に言上して、それで総士先生の計らいで今日は君と代わったと云う事じゃないのかい?」
 側頭部に感じる板場の視線の圧力が少し強くなったような気がするのでありました。
(続)
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