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お前の番だ! 41 [お前の番だ! 2 創作]

 万太郎の受け応えに是路総士は上下に小刻みに肩を揺するのでありました。
「眼鏡は要らんのか?」
「押忍。今のところ特に不便はないので」
「ところで、その、押忍、は道場では構わんが娑婆にあっては控えた方がよかろうよ」
「押忍」
 万太郎が習い性からそう返事して、すぐさまこりゃ仕舞ったと云う顔をした時丁度、是路総士が万太郎の方をふり返るのでありました。「ああいや、ええと、はい、判りました」
 是路総士は万太郎の顔を見て少し吹くのでありました。娑婆っ気を道場に持ちこまず道場風を娑婆に持ち出さない、と云うのが是路総士の心がけのようであります。
 是路総士は道場を一歩でも離れると、如何にも武道家然とした態度を努めて隠すのでありましたし、あゆみや内弟子達にもちょっとした用足しに外に出る時であっても、稽古着の儘出る事を禁じていて、彼等は隣の家に回覧板を持っていくにしても必ず平服に着替えるのであります。だからこの日も是路総士も万太郎もスーツ姿なのでありました。
「お前のその何となく無邪気な風情が、邪気を寄せつけんのかも知れんなあ」
「押忍。いや違った。はあ」
 万太郎は無邪気と云われたのは褒められたのかそうではないのか判断が出来なかったので、曖昧に返事するしかなかったのでありました。しかしこうしてみると、押忍、なんと云う返答の言葉は、はい、と云うきっぱりした返事にも、はあ、と云う曖昧に語尾を落とす時の返事にも、両方同じような調子で使えて実に便利であると思うのでありました。
 荷物が多いから万太郎は駅で切符を買うのも、その一枚を是路総士に渡す時にも、改札を抜ける時にも少しく閉口するのでありました。せめて自分の稽古着の入っている風呂敷包みを、是路総士が自分で持ってくれれば有難いものだと心の端っこでちらと思いはするものの、しかしそんな事を弟子が師匠に頼める筈はないのであります。
 いや、若し頼んだとしたら是路総士なら特段不快がる事もなく荷物を受け取ってくれるでありましょうが、しかしそんな狎れた催促をした瞬間、堅守すべき範を弟子が無様に無神経に犯したのであり、師弟関係と云う白い絹糸のような麗しい繋がりを一瞬に自ら失うのであります。第一その事が鳥枝範士にでも聞こえたならば、万太郎は途轍もない大雷と、即座に破門と云う絶対変更不可能のお達しを彼の範士に頂戴する事になるでありましょう。
 その辺の少々まわりくどい機微を是路総士も屹度重々判っているので、万太郎に総士自ら荷物を持とうかと云う掟破りの申し出なんぞはしないのでありました。しかし是路総士の眉と目との間の陰影に、何となく、済まんなあ、なんと云う一種の愛すべき卑屈みたいな感情の漣が潜んでいるのを、何太郎は充分に感得する事が出来るのでありました。
 師匠が師匠たる態度を弟子に取るのも、これでなかなか気骨の折れるものようであります。万太郎は電車が来るのを是路総士の斜めすぐ後ろに立って駅のホームで待ちながら、徒然なる儘にそんなような事を考えるともなく考えているのでありました。
 神保町の興堂派本部道場へは御茶ノ水駅から歩くのでありました。現在では都営地下鉄が通っているのでありますが、この当時は未だそれは開通していないのでありました。
(続)
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