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お前の番だ! 36 [お前の番だ! 2 創作]

 他の門下生が数人、既に道場に来ているのでありました。皆下座の方で首を回したり手首を回したり、上体を前屈させたり腰の捻転をしたり、太腿を小刻みに叩打して体に振動を入れたりの軽い準備運動をしているのでありました。
 万太郎はその準備運動の邪魔にならないように道場の隅の方に正坐して、門下生達の動きを見ているのでありました。夫々の前に行って挨拶をした方が良いのか少し迷うのでありましたが、特に鳥枝範士からも良平からも指示がなかったし、道場ではやたらと声を発せず静粛であるべきであろうと忖度し、畏まって座っているのみでありました。
 十人程の門下生が集まると、見所前の鳥枝範士は下座の壁にかかっている時計を見上げるのでありました。それからゆっくりとした動作で立ち上がって、下座奥端に下がって皆より畳一畳前に見所の方を向いて威儀を正して正坐するのでありました。
 鳥枝範士が動いたのを潮に門下生達は準備運動を既に止めて、下座に一列に正坐しているのでありました。俄に道場の空気が新月のように張りつめるのでありました。
 捨身流の道場に通っていた時もそうでありましたが、万太郎はこの稽古前の緊張したごく短い時間が何とも苦手なのでありました。刑場に引き立てられて、これから始まる刑の執行を待つ咎人の心境もかくやと思われるのでありました。
 どうしてこの空気に馴染めないのか、万太郎は自分でもよく判らないのでありました。稽古が始まって仕舞えば、全くなかった事のように何でもなくなるのでありますが。
 道場外の廊下を歩いて近づく足音が聞こえるのでありました。良平がきびきびとした動作で立って片膝ついて道場の引き戸に手をかけるのでありました。
 頃あいで良平が引き戸を開くと、丁度一拍の間を空けて白の稽古着に黒袴をつけた中肉中背の、鳥枝範士の芬々たる威に比べれば遥かに優し気な六十年配の御仁が道場に足を一歩踏み入れるのでありました。御仁は二歩目で敷居に躓いてよろと体を傾がせて歩幅を乱すのでありましたが、この御仁こそ常勝流総士たる是路搖歩先生でありましょう。
 是路総士はその儘何事もなかったかのように見所の方に進むのでありました。そのすぐ後から一人の、これも白の稽古着に紺袴姿の若い女性が、控えめな風情で道場に身を入れると上座に一礼して、素早く下座に下がって万太郎の横に正坐するのでありました。
 突然横に肩が擦りあう程の近さに女性が座ったもので、万太郎は少したじろぐのでありました。しかし女性の方は万太郎には一切無関心な風情でありました。
「神前に、礼!」
 是路総士が見所前に正坐するのを見届けてから、鳥枝範士が大音声で号令するのでありました。総員の神前への礼が済むと是路総士は神前真正面から横に外れた処に膝行で移動して、下座に並ぶ門下生の方に端正な正坐姿で向き直るのでありました。
「総士先生に、礼!」
 鳥枝範士の次の号令が道場に響くのでありました。門下生一同が深く座礼して「押忍!」と揃って発声するのでありました。捨身流の道場でも高校生の頃の剣道部でもこう云った返答の言葉を遣った経験がなかったので、万太郎は何となく居心地の悪さを覚えるのでありましたが、大学時代の体育会空手部の連中はこうした返答言葉を遣っていましたかな。
(続)
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