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もうじやのたわむれ 84 [もうじやのたわむれ 3 創作]

 拙生は、雨蛙みたいな了見、と云う言葉で、ひょっとしたら記録官が、それは確か古今亭志ん朝師匠の『品川心中』と云う落語に出てくる文句でしたよね、等と拙生に目を輝かせて話しかけてくるかなと慮ったのでありましたが、記録官は無表情の儘拙生を見ているだけで、殊更の反応を示さないのでありました。考えてみれば、志ん朝師匠が娑婆からお引き取りになったのは、そんなに昔の事ではありませんでしたから、こちらの世では彼の師匠は、未だ二つ目にも前座にもなっていないでしょう。それどころか就学年齢を終えてもいないくらいの年頃なわけで、未だ何処かの師匠に弟子入りもしていないでありましょう。記録官がその高名を知らないのは、全く以って当然と云えば当然なのでありました。
「兎に角、娑婆での諸々の縁なんと云うものは、感情同様、消え失せるのですね?」
「そうです。親子関係、夫婦関係、血縁関係、その他の交友関係、労使関係、肉体関係、三角関係、ヒマラヤ山系、肋間神経、富嶽百景、定山渓、内弁慶、顔真卿、・・・その他諸々の娑婆での故縁は、綺麗さっぱり解消されて仕舞います」
 審問官は手にしたボールペンをメトロロームのように横にふるのでありました。
「しかし地獄省の八大地方の紹介をお話し頂いた時、東滑地方知事のフビライさんと、大旅館地方知事のフレグさんは兄弟だと云う事でしたよねえ。これは娑婆での血縁関係が、こちらでも継続している事になるのではないのですか?」
「そう、あれは全く以って特異なケースです。我々閻魔庁職員一同も驚いているのです。偶然中の偶然とでも云いますか。しかし、無作為に全くの受付順と云う事は、先ず起こり得ないはずの、偶然中の偶然と云う要素も排除されない、と云う事でもありますからね」
「ふうん。あくまで、偶然なのですね?」
「そう云う事です」
 審問官は今度はボールペンを、メトロロームのように前後にふって見せるのでありましたが、これは多分、その通りだと云う意を表そうとする仕業なのでありましょう。
「ま、要するに、我々亡者は受付順に、何処かに住む女性の赤ちゃんとして生まれて、その家の新たな環境でちやほやされながら少年時代を過ごし、青春の光と影を経験しつつ二十歳頃まで育って、その間学校に行って、その後に成人として社会に出るのですね?」
「そうです」
「蘇る娑婆で経験した事実の記憶は、どの程度の明瞭さで蘇るのでしょうか?」
「まあ、娑婆でのその方の経験が事実としてすっかりその儘、しかし淡く薄調子に、です」
「なんか、もう一つ良く判らないな。・・・事実としてすっかりその儘、と云うと?」
「二十年の空白を挟んではいるものの、その空白の後には、向こうの世を去る時からその思い出し終わる時点までが、自然に連続するような記憶として、とでも申しますかな」
「娑婆での自分の軌跡が結構明瞭に蘇るわけですね、つまり要するに?」
「そうですな。娑婆的諸関係と感情を欠落させて、です。念を押しますが」
「十二歳の時に六歳の時の事を覚えているように、四十歳の時に二十歳の時の事を覚えているように、八十歳の時に六十歳の時の事を覚えているように、死後に蘇って二十年経ったら、向こうの世を去る直前の事までをすっかり思い出すのですね?」
(続)
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