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大きな栗の木の下で 91 [大きな栗の木の下で 4 創作]

「そうね、そんなんじゃないんだけど、なんとなくそういったものには縁遠い生活を送っているわ。未だ我が家の腕白少年君にも手がかかるし、仕事の方も結構忙しいし」
「それは勿体ない。未だ々々、沙代子はイケるんだからさ」
 御船さんは大袈裟に目を剥いて、冗談めかして云って笑うのでありましたが、その言葉は御船さんの全くの本心なのでありました。
「あらそう? それは有難う」
 沙代子さんは御船さんの言葉をさらっと受け流すのでありましたが、それを御船さんはほんの少し寂しく感じるのでありました。
 また急に蜩が鳴くのでありました。今まで全くなりを潜めていたのに、ここで急にまた一声を上げる蜩の気紛れに、御船さんの注意が引き寄せられるのでありました。暫く黙って御船さんはその声を聞いているのでありました。するとまるでその声に誘われるように、御船さんはふと、なんの脈絡もなく、高校生の頃のある情景を思い出すのでありました。それは二年生の頃の、全くの偶然から教室で沙代子さんと二人だけになった時のことなのでありました。・・・

 土曜日の放課後の体操部の練習が終わってから、御船さんは教室に戻ってきたのでありました。弁当箱をうっかり机の中に忘れてきたのを思い出したからでありました。
 誰もいないであろうと思った教室の引き戸を開けると、そこには沙代子さんが一人で自分の席に座っているのでありました。御船さんは全く意外であったし、沙代子さんの方も急に誰かが教室に入って来たものだから、扉の傍に立つ御船さんを大きな目をして驚きの顔で見るのでありました。
 沙代子さんが教室に残っているとは思いもしなかったし、それ程近しい間柄でもなかったので、おっと失礼等と云ってここで親しげな愛想をするのもなんとなく気後れするものだから、御船さんは沙代子さんに一瞥をくれただけですぐに目を離して、少々のたじろぎを隠してすぐに廊下側端の一番後ろの自分の席に向かうのでありました。御船さんはそれまで沙代子さんとは、あんまり口をきいたことがないのでありました。
 御船さんが自分の机の中に手を入れて弁当箱を取り出すのを、沙代子さんがずっと見ているのでありました。御船さんの方も手は机の中に突っこんだものの、態々目を近づけてそこを覗いているわけではなかったから、顔はなんとなく沙代子さんの方に向けているのでありました。
「忘れ物?」
 沙代子さんが話しかけるのでありました。
「弁当箱」
 御船さんはぞんざいにそれだけ応えるのでありました。
「ああ、あの大きな御船君のお弁当箱?」
 沙代子さんはそう返して口に手を当てて笑うのでありました。
「そんなにデカくはないよ。普通サイズの範囲だ」
(続)
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