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大きな栗の木の下で 45 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 入って来たのは母だったわ。あたし達が父に家を追い出された時、母が心配して玄関の外まで出てきたの。その時矢岳君の予約していたホテルを、おろおろ顔の母にあたし教えといたのよ。だから、適当に父を宥めた後に、ホテルまで訪ねてきたの。まあ多分、父も本心はあたしのことが心配だったから、あたしの居場所を屹度母が聞き出していて、後で訪ねるだろうってことは予測していたみたいで、だから母の夜遅くの外出を、別に何処へ行くともなんとも聞かないで黙認したのよ。母が後でそんなこと云っていたわ。
 母はギターを抱えている矢岳君を見て、ちょっと嫌な顔をしたわ。こんな時にギターなんか弾いている場合か、とか云った風の顔。矢岳君はその母の顔を見てすぐにギターをベッドの上に置いて立ち上がったの。母が入ってきたと云うのに、ベッドに半分横になった儘、居住まいも正さないと云うのは如何にも拙いと、当たり前に判断したからよ。だって母のことを、どちらかと云うと自分達の味方になってくれる人だと矢岳君は見做しただろうから、その人の前では殊勝なところを見せないとね。
 部屋と、後から母に誘われて行ったホテルに併設されているレストランで、あたし達が一緒になることにした理由や経緯を、母に訊ねられる儘あたしと矢岳君で交互に話したわ。まあ、殆どあたしが喋って、矢岳君は訊ねられた自分のことをぼつぼつ話すと云った感じだったかな、実態としては。
 あたし達は、矢岳君がレコードデビューすることを、両親に承諾して貰う最大の拠りどころにしていたのよね。矢岳君の生業って云うのか、それでちゃんと仕事に就いている社会人の外観が整ったような感じがしてさ。だから、あたし達はあたしの両親に報告に来たわけ。だってレコードがヒットしたら、矢岳君は名前も売れてお金も稼げるんだもの。
 でもそんなの、とんでもなく呑気で甘っちょろい認識以外じゃなかったのよね。第一その時点では未だレコードも出していないし、レコードが売れるなんて保証は何処にもないんだしね。母が、それは投機みたいなもので、父を説得する材料になんかなるわけがないって云っていたけど、まあ、確かにその通りだとあたしも思ったわ。
「一曲ヒットを飛ばした後に挨拶に行ったら、話も上手く運んだかもしれない」
 なんて矢岳君後で話していたけど、そうかも知れないし、だからと云ってそう上手く話が運ぶものでもないような気も、その時あたしはしたけどさ。
 で、母の方は、あたし達二人がその積りでいるんだし、実態としてもう一緒に暮らしているんだから、今更何を云っても仕方がないって感じの、消極的な承諾の態度だったかしらね。少し話して、矢岳君の人と為りやフォークシンガーとしての期待度なんかも、多少は判ったみたいだったから、幾分安心はしたみたいだったし。時間をかけて父を説得すれば、父も、母に云わせれば「諦めてくれる」だろうって、これがその時の結論だったわ。
「でも、例えレコードの話とかがどんな風になっても、将来この子に悲しい思いだけは絶対させないでね。それだけは約束してね」
 これは母が帰る時、矢岳君を睨むような目で見ながら云った言葉。あたしはその言葉に涙が出たわ。でも、矢岳君の方としてはそんなことを今更ここで、改めて念を押されるのがちょっと不本意だったみたいで、ただむすっと無愛想に頷くだけだったけど。
(続)
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