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大きな栗の木の下で 35 [大きな栗の木の下で 2 創作]

「まあ、早くレコード出して、それが売れてくれて、名前も売れて、そこそこの収入が入るようになれば、堂々と沙代子の親御さんにも胸を張って挨拶出来ると云うわけだ、その矢岳と云う男も」
 御船さんは毟った草を前に放りながら云うのでありました。
「そうね、矢岳君もそんなようなこと云っていたわ。早くレコードの話が決まらないかなって。そうすれば、もっと色んなところであたしを安心させられるのにって」
 沙代子さんはそう云って御船さんがするのと同じように、自分も草を毟って前に投げる仕草をして見せるのでありました。

 <でもレコードを出すなんてそんな簡単なことじゃないのは当たり前で、なかなか矢岳君に順番が回ってこないのよ。大学出てからは矢岳君、目をかけてくれていた音楽事務所の、専属ってことになっていたの。まあ、仕事を回してくれたり、その報酬とかの管理はしてくれるけど、就職と云うんじゃないから固定給みたいなものは全くないんだけどね。
 その事務所の方は、レコードの話は、もう少しコンサートなんかで名前を売ってからって云う方針のようだったの。確かにウチの大学の学内で人気があったと云うだけじゃ、余りにも限定的だもんね。それにもう、卒業しているし。
 矢岳君は事務所経由の仕事で、有名歌手のコンサートの前座も精力的にこなしていたし、酒場で歌ったりとか、時々高校生の頃のように路上で歌ったり、小さなホールなんかで矢岳君単独とか、何人かの仲間でのコンサートとかもやったりしていたの。そのコンサートには結構お客さんが集まっていたのよ、まあ、あたしが観た感じでは。
 それなのにレコードの話は、一向にないわけ。で、矢岳君、時々腐ることもあったわ。
「事務所のお偉いさんに云わせると、俺の歌はちょっと古風過ぎるんだと」
 そんな愚痴を時々、冗談交じりにあたしに零すこともあったわ。それは多分事務所のプロデューサー辺りから、なにかの折りにそんなこと云われたんでしょうけど、レコード出すのには様々な関門があるみたいだったわ。
 でもあたし、矢岳君は見た目には想像出来ないけど、意外にこつこつ型の人なんだなって、そう思ったの。事務所からの仕事は、一つも断らずに律義にこなすのよ。まあ、断れないと云う事情はあるけど、でも、結構ハードなスケジュール組まれても、文句も云わずに一つ々々を黙々と丹念にこなそうとするの。矢岳君のような人が結構多く事務所の周辺に居て、その中には仕事に穴を開けたりする人も案外多くて、それに、そんな我が儘をするのが自己主張だなんて考えている不届き者も確かに居るんだけど、矢岳君はそんなこと絶対にしないのよ。まあ、世間一般では全く当たり前のことなんだけどさ。
 そう云うわけで、その分、あたしと過ごす時間は減ったけどね。それはあたしとしたら少し寂しかったけど、でも矢岳君が直向きに頑張っているわけだから、今は我慢しなきゃなんて思っていたの。それに矢岳君の音楽仲間には、ちゃんと家庭もあるのに遊んでばっかりなんて了見の人もいるのに、矢岳君の心がけはそんな人達とははっきり違うの。矢岳君は信頼出来る人だって、あたしそう信じて疑わなかったのよ。
(続)
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