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大きな栗の木の下で 34 [大きな栗の木の下で 2 創作]

 眼下に広がる街を見下ろしながら、御船さんは沙代子さんに聞くのでありました。
「その頃二人は、その儘、結婚する積りでいたのか?」
「まあ、結婚するってちゃんと言葉にして約束したわけじゃないけど、流れから、そうなるだろうなってあたしは思ってはいたの。多分矢岳君もその積りだったと思うわよ。だから、ウチの両親に挨拶に行かなくちゃ、なんて云う言葉が出たんだと思うわ」
 沙代子さんも眼下に視線を馳せながら云うのでありました。沙代子さんの半分落とした瞼とその上の揃った長い睫に、御船さんの目が釘づけにされるのでありました。考えたらこんなに間近で、沙代子さんの横顔を見たことは今までになかったなと御船さんは思うのでありました。
「成程ね。そいつは、一応は沙代子と結婚する了見ではいたわけだ」
「そうね」
「してみると、まあ、沙代子のことを真剣に考えてはいたんだな」
「うん。ま、その頃はね」
「ちゃんと一定の自分の責任を弁えて、沙代子と暮らしていたと云うことになるわけだ」
 御船さんはそう云って市街地を越えて海まで視線を投げるのでありました。「なら、まあ、仕事をしていないのは問題だけど、それなりのけじめの感覚と云うのか、健全な指向のようなものは持ってはいたんだな」
「そうね、その辺の感覚は、案外古風な方だったかしら、矢岳君は」
「なら、まあ、根は善良な人間なんだろうな」
 御船さんはそう云って一気に視線を自分の手元まで戻すのでありました。それから手前の草を何度か毟りながら、あれま、こんな風なことを云う積りなんかなかったのにと思うのでありました。
 自分は矢岳と云う男に対して、端から好意的な評価など一つだに持ってはいないのであります。それなのにこんな肯定的なことを、なんで自分はここで云うのかと、御船さんは自分の思いと出てくる言葉の撞着に自分で戸惑うのでありました。仮にも沙代子さんが一時は愛した男であるから、沙代子さんのその男に対する思いの機微を思い遣って、男を悪しざまに評することを咄嗟に中止したと云うことになりますか。
 要するに自分は今、単に沙代子さんに阿ようとしているだけなのでありましょう。不愉快な気持ちを持たれるのを恐れる余り、ストレートに矢岳と云う男のことを罵倒する言葉を、弱気に回避したのであります。沙代子さんの一番の理解者として在ること、いや、沙代子さんの目に一番の理解者として映っていたいと云うことは、つまりこのように、矢岳と云う男を激しく罵りたい思いとは裏腹な、柔らかで大らかな言葉をのみ沙代子さんに返さざるを得ないと云うことであります。
 御船さんはそんな、言葉を窮屈に自制している自分に対して、なんとなく消化不良を起こした時のような苛々を感じるのでありました。それよりもなによりも、未だに沙代子さんに嫌われたくないと云う気持ちが濃厚にあって、相変わらずその線に沿った言葉を選んで返そうとしている自分を、御船さんは今改めてはっきり認識するのでありました。
(続)
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