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大きな栗の木の下で 1 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 斜面を吹きあがって来た風が、高台の小さな公園突端に立つ栗の古木の葉群れを騒がすのでありました。古木の蔭の中に居る御船さんは幾度となく風に乱される前髪を掻き上げながら、眼下に広がる市街を見下ろしているのでありました。もうすぐ彼岸だと云うのに、暑気は一向にこの街を去らないのでありました。
 公園まで大きく円を描くように伸びる道の下には、まるで市街から隔絶されたように市営団地の五階建の鉄筋コンクリートの建物が六棟、鬱蒼たる木々に囲まれて建っていて、その白い屋根が未だ夏の儘の日差しを公園に向けて跳ね返しているのでありました。市営団地の屋根の群れを通り越して暫く山の斜面に視線を下らせれば、ようやく小学校の校舎やら校庭やら、その周りに建つ家々やらが青やかに縮こまる木々の間にぽつぽつと現れ、家々は次第に下に向かって密度を増していって、建物の密集した市街地へと繋がるのでありました。市街地の向こうは、もう海でありました。
 海際には造船所のドックが四つ広い間隔をとって並び、大型のクレーンが幾つもそのドックを取り囲むように建っていて、クレーンの間にトタン屋根の工場群が幾棟も整列しているのでありました。造船所の横は自衛隊の基地になっていて、幾隻かの護衛艦が重列に桟橋に繋がれているのでありました。そのまた横はアメリカ海軍専用の桟橋でありました。広い道路が造船所や基地と住宅街区とを切り離すために、長い切開痕のように地面を切り裂いて、緩やかなカーブを見せながら市街地の縁を走っているのでありました。
 梅雨が明けて夏になると、御船さんはほぼ毎日公園突端の栗の古木の下で昼間の殆どの時間を過ごすのでありました。特になにをするでもなく、木蔭の中に寝そべって眼下に広がる、子供の頃から見慣れた下界の風景を見下ろしているのでありました。御船さんには当面他にやることがなにもなく、それにやる気も全く起こらなかったものだからそうやって時間を潰すしかないのでありました。
 御船さんの家は高台の市営住宅から三十分程道を下った、家々がそろそろ密集しはじめる際辺りにあるのでありました。少し山歩きして闘病生活で弱った足腰の筋肉をつけるためにと云うのが、御船さんが家を出る口実なのでありました。しかし御船さんはこの公園まで登って来るともうそれ以上の足腰の鍛錬を放棄して、公園の栗の古木の下に腰をおろしてしまうのでありました。
 体がしんどいと云うのも、間違いない一方の理由ではありました。しかし御船さんは足腰を鍛え直すことに、然程の意味を見いだせないのでもありました。寧ろこの儘足腰の弱さを引き受けている方が、もう暫くの間無為な時間を過ごすための方便になると云う風にも考えるのでありました。
 御船さんは三十歳の誕生日を迎えた数日後に、髄膜炎を発症して半年程入院生活を送ったのでありました。職場で突然眼球の痛みを覚えて、妙だなと思っている間に激しい頭痛が襲ってくるのでありました。医務室で薬を貰って暫く休んでいれば直るだろうと思って、椅子から立ち上がったら急に嘔吐物がみるみる口の中に溢れ、堪えきれずそれを吐き出した途端意識が霞みはじめるのでありました。その後御船さんは救急車で市民病院に運ばれるのでありましたが、救急車に乗せられるまでしか記憶はないのでありました。
(続)
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