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合気道の「我ヨリ進テ・・・」4 [合気道の事など 2 雑文]

 さて、特に「虚当」を使えるようになるには量的質的に充分なる稽古を積まなければならないのは言を待ちません。またそう云う稽古が出来にくい今の合気道稽古形態の現状であることも事実であります。「当が七分」とされる合気道が、残り三分の投げや固めばかりの稽古に明け暮れていると云うのも思えば妙な話であります。我々が合気道総体の内の七分の稽古をまったくしていないことになるとしたら、我々が「合気道」を標榜するに於いて、脇の下を冷たいものの伝うような心地がするのを禁じ得ないのであります。
 投げ技の稽古が即ち当て技の稽古にも結果としてなっているのだと云われるかもしれませんが、それではそれをちゃんと稽古時に体系的に提示されているでありましょうか。提示するだけではなく、実態として「当身」としての稽古が充分になされているでありましょうか。それに単に示唆するだけでは、寧ろ混乱が生じはしないでしょうか。なにより、稽古していない技は実際の使用に堪えないのは当然のことであります。「知っている」と云うだけでは、それが即ち「使える」と云うことにはならないのであります。
 打ち手の技ばかりではなく、持ち手の技にも当然「我ヨリ進テ」が適用されます。先ずこちらが「当身」を繰り出すことによって「先」を取り、その「当身」が「虚当」であるが故に相手は当てようとして緩んだこちらの手を、或いは誘っているこちらの肩を、防御的に持たざるを得ないと云う状況に追いこまれるのであります。これが「持たせる」の謂いであります。「持たせる」も「持たれる」も一見同じであるが、その心構えに於いて違うのだ、と云うような余裕とか精神上の優位性だけではなく、実態として相手をそうならざるを得ないように追いこむような「持たせる」でなければ「先」ではないのであります。
 塩田剛三先生が「持たれたらその時点で負け」と仰っていた謂いも、つまりそう云った絶対優位な相手との関係を創れる技術を云われていたのだと思うのであります。これは相手が触れた時にはもう終わっていると云う高い境地であります。だから接触が成った時には、既に相手は制せられているのであります。
 合気道総体の中の七分と云われる「当身」は当今失伝しているか、地中深く隠れて仕舞っております。戦前に大先生の薫陶を受けられた偉大な師範の方々は多くが鬼籍に入られ、当時の合気道は今や伝説と化しております。戦前の厳しい合気道の遺風を体現された塩田剛三先生も、また戦後派ではあるものの「当身」技法を技の中に明確に体系づけられた西尾昭二先生も、大先生の戦前の合気道を真摯に跡づけようとされた斎藤守弘先生も逝かれ、大先生のお姿は我々にとって益々模糊たるものになっております。
 後の道を歩む我々は、大先生の残された合気道の結果をなぞるだけではなく、その結果に至る道程中に在る、今は埋もれて仕舞った珠玉の欠片を丹念に発掘して、それを文化財的に保存するだけではなく、今の使用に耐える「技法」として合気道総体の中に再構築すると云う態度も必要なのではないでしょうか。それがあって初めて大先生の、向かいあった途端もう既に勝っているとか、すっと動いた時にはもう終わっている、或いは合気道には攻める技は必要ないと云った境地を、勿論そこへ到達するのは至難でありましょうが、しかし理念上だけではなく、リアルに相対的な「勝負」の上に於いても納得することが出来るのではないでしょうか。また、この発掘と云う営為も、我々が合気道稽古の中に見出す、尽きざる楽しみでもあると思うのであります。
(了)
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