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合気道の「我ヨリ進テ・・・」1 [合気道の事など 2 雑文]

 歴史的に見れば「武道」の実態としては「先」を取ることに多くの試行と考察がなされてきたと云えます。「後の先」「先の先」「先先の先」等と云った武技の発動タイミングは、相手との相対的な関係の中で「勝」を得るために先人達が多大な研鑽を積んできた結果としての、謂わばこれこそが最重要な「奥儀」と呼ぶに相応しい技術であろうかと思われるのであります。
 合気道においても戦前は「先」の取得が極めて重要視されてきたのでありました。その査証として植芝盛平大先生が昭和十三年に著わされた『武道』の正面打ち抑え技の解説に、「我ヨリ進テ攻撃スルコト」とされているのであります。これは「後の先」「先の先」「先先の先」等の何れか、或いはそう云うものとは成立を異にするものであるかどうかは一応ここでは置くとしても、先ず以って「先」を取らんとする考えであります。
 戦後の合気道が「気」の定義拡大によって理念的観念的な領域に圧倒的に進んだと云う実態の一方で、戦前の合気道があくまで相手との相対的な「勝負」の領域を追求していたと云う側面をこの言葉は如実に表していると云えます。いやそれは終戦まではしごく当然な在りようであって、ここを除いては「武道」が「武道」たり得る要件はないのでありました。寧ろ戦後において様々な事情から「気」の解釈の拡大と同じに、「武道」の意味拡散がなされてきたのだと云えます。戦前まで歴史的に営々と続いてきた「武道」と戦後に於ける「武道」が、観念の上に置いては一定に断絶していると云えるでありましょう。
 ここで断わっておくのでありますが、拙生はこれを以って徒に戦前の事象一般を是としているのでは決してありませんし、戦後のあらゆる事象の多義化に異を唱えているのでもありません。寧ろ戦後の価値観の解放は、可能性として硬直逼塞を回避する上で大いに意味のある変容であったと思っているのであります。ただ「武道」に於いて現象としてそう云うことが云えるとのみ云っているのであります。念のため。
 戦後の合気道に於いて大先生は絶対的な己の在り方を提唱されました。ですから「後の先」「先の先」「先先の先」等の或る意味の駆け引きではなく、向かいあった時にはもう既に勝っているとか、すっと動いた時にはもう終わっている、或いは合気道には攻める技は必要ないのだと云った境地を表現されました。それは大先生にしてはじめて表現出来る絶対不敗の至高の境地であります。しかしその絶対的境地を我がものとされる前には屹度、リアルに相対的な「勝負」の世界を必死に極めようとされ、極め尽くされたと云う修行経緯が存在したでありましょう。それが「我ヨリ進テ・・・」であります。神ならぬ身が必死の相克や試行や煩悶もなしに、初めから天の理を感得出来る筈はないのであります。そう云う苦闘の経緯が存在するからこそ、大先生の到達された境地が至高であるのであります。
 さて、先に行われた合気道錬身会の指導者講習会で、正面打ち技法の1(表技)のみは仕手から正面を打っていくのに、横面打ちや他の技法の1(表技)の方はどうして受けの攻撃を待つのか、と云う門下の人の疑問にどう応えたら良いのかと云う質疑が或る指導者からなされました。宜なる哉とも思うのでありましたが、これは単に「基本」の稽古法がそうであるからそうしなければならないのだと説くだけではなく、戦前の合気道の在りようを考慮敷衍すればもう少し明確に回答できるものではないかとも思うのでありました。
(続)
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