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「四月廿九日。祭日。陰。」15 [「四月廿九日。・・・」 創作]

 しかし麻布の家から焼け出された後の出来ごとは、男の瞼の裏側に薄調子に流れるだけなのでありました。男の生の中で最も大変な時期であったはずなのに、もうその頃老境に達していた男には、殆どのことが億劫に遣り過ごしただけの、然程の感慨も印象も残さない出来ごとばかりなのでありました。

 腹の痛みを感じなくなっているのでありました。粘り気を失わない冷たくなった血が、男の顔半分に纏わりついているのが不快なだけでありました。ただ、全く身動きが出来ないのでありました。男は目を薄く開くのでありました。
 真っ暗闇以外はなにも見えないのでありました。開いているのか瞑っているのか実は自分でもよく判らない瞼の裏に、白いカーテンが揺れている光景が浮かぶのでありました。それは十六歳の時、瘰癧の治療のために入院した病院の部屋だとすぐに判るのでありました。カーテンに窓の格子が透かし模様に映ってゆらゆらと揺れているのでありました。
 黒い影が、カーテンの中央に現れるのでありました。黒い影は寝ている男の顔を覗きこむのでありました。「蓮」と云う名の若い看護婦でありました。入院したその日に、自分がつき添って貴方の面倒をみることになりましたと挨拶して、名前を告げて男に頭を下げたその看護婦に男は一目で恋をしたのでありました。
 彼女が病室に入って来ると男は何時も、緊張のため体を強張らせて仕舞うのでありました。自分のたじろぎを気取られたくないものだから、男は彼女の顔を見たいと云う衝動を必死に押し殺して、極力無表情を装ってそっぽを向くのでありました。頬が火照り、体を揺らしてしまう程心臓が高鳴るのでありました。
 着替え等の折り、それを手伝うために仰臥する男の顔のすぐ傍に彼女の顔が近づけられる時、男は自分の胸の中で熱く滾った息が彼女の髪にかかることを恐れて、懸命に息をつめるのでありました。彼女の柔らかい指が男の体にほんの少しでも触れると、男はその接触点に全神経を集中させるのでありました。皮膚がぴりぴりと痛むようでありました。
 男はすぐに退院してしまったのでありましたが、看護婦に対する思いはその後も募るばかりなのでありました。男は用もないのに病院の周りを歩きまわり、なにかの理由で外に出てきた彼女と邂逅する偶然を切実に待つのでありました。しかし一度として、男の願いは叶えられることはないのでありました。男は何時も打ちひしがれて帰路につくのでありました。それでも男は毎日のように病院の門柱に隠れて、彼女の姿がその目に跳びこむのを待っているのでありました。悲観と期待に心を揺らしながら。・・・
 男は後年自分の雅号を「荷風」とするのでありましたが、それはこの看護婦の名前「蓮」に因んでのことでありました。初恋のときめきは男がこの世を去るまで、その雅号の中で、火鉢の中の埋み火のように密やかに、可憐に、燃え続けていたのでありました。
 男は最後にもう一度血を吐くのでありました。しかし何の苦痛もないのでありました。男の表情は崩折れた時よりも寧ろ穏やかにさえ見えるのでありました。この淡く切ない初恋の思い出を何時までも目の中に閉じこめておくために、男は皺深い瞼を固く閉じるのでありました。そうしてその瞼はその後もう二度と開かれることはないのでありました。
(了)
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