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「四月廿九日。祭日。陰。」14 [「四月廿九日。・・・」 創作]

 それから、体が弱くて学業も儘ならず、官吏か実業家に男を育てんとした父親の意に染むべくもなく、挫折感と放蕩趣味から小説家や役者や寄席芸人に憧れ、父親が外地勤務で中国は上海に在任しているのを良いことに、一時は落語家の弟子になったり、歌舞伎座の狂言作者を志したりした青春時代のことが瞼の裏に流れるのでありました。あの頃男は巧まずとも、溌剌とその若さを体外に放射していたのでありました。老残の、腹痛で苦しむ今の男の有り様を、着流しで寄席の楽屋で忙しく機敏に立ち働く嘗ての若き姿の男は想像だにしなかったのでありました。男は閉じた瞼の中の眼に冷笑を浮かべるのでありました。
 父は男にとっては、その父としての恩愛に頭を垂れずにはおられない人であったと同時に、男の指向とは全く相容れない世過ぎの道を恥じることなく歩んだ人でありましたから、実に煙たくも重く、畏怖の上目と冷眼を交々向けるべき存在でもありました。父は嘉永の年尾張成尾に生を受け明治の世に官吏となって、後に日本郵船会社に職を奉じ、上海支店長や横浜支店長等を歴任したのでありました。一方で儒者でもあり漢詩をよくし、その父の素養の恩沢を大いに受けたことを男は隠さないのでありました。男の後のアメリカ遊学とフランス滞在も父の恩威に依ったものでありました。
 その父親の横には男の母が慈愛に満ちた笑みを投げているのでありました。母に連れられて芝居見物に行った桟敷で一緒に鰻重を食べたこと、冬の日に居間の置炬燵で母の買い集めた役者の錦絵を見せられた幼い頃の記憶が、先の瞼の下の冷笑を、至って素直な微笑に変容させるのでありました。
 それに数知れず関係を持った女達のこと。フランスから戻って暫くの後知りあった女とは、互いの腕に互いの名を彫った程の仲でありました。それに一度は籍を入れもした新橋の芸者とは、離婚後も交流が暫く絶えなかったのでありました。大金を強請り取られそうになり警察沙汰にまでなったカフェーの女給もいましたか。そんな女達の顔が、瞼の中に現れてはすぐに流れ去るのでありました。
 五十歳近くなって知りあった女は所帯持ちの良い家庭的な女でありました。この女とは妙に息があって、恋人のような夫婦のような関係を暫く続けたのではありました。結局別れはしたけれど、欲も嫉妬心も少なくこちらに重く寄りかかることのないこの女と、一時は終生一緒に暮らそうとまで男に秘かに思わしめた女なのでありました。別れた後も時々逢ったり食事を共にしたりするのは、男が女と一切交通がなくなって仕舞うことを耐え難く思ったからに他ならないのであありました。
 女は戦後も、つい先頃まで偶に男を訪ねてくれるのでありました。二年前、東京を離れ石川の七尾に移るため挨拶に来たのが最後でありましたか。何時ものように男は浅草で食事をするために午後女と一緒に家を出て、当時新築していた今のこの家の普請具合を二人で見て、そこで別れたのでありました。
 そう云えば先の戦争では独居していた麻布の家が焼かれ、その後は中野のアパート、明石、岡山と逃れ九死に一生の難にも遭遇したのでありました。戦後はすぐに熱海に移り一年後に市川に流れ着いたのでありました。市川でも何度か住処を変え、ようやくに今の家に落ち着いたのは二年前でありました。
(続)
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