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「四月廿九日。祭日。陰。」10 [「四月廿九日。・・・」 創作]

 何時もなら本の文字を三十分も追っていると、男はそれだけで疲労困憊して睡魔に襲われるのでありました。昔は一日中本と向かいあっていても疲れを知らなかった男の気力と体力は、それで限界を迎える程に衰微して仕舞っているのでありました。そかしその日は一向に瞼が重くならないのでありました。三十分をとうに過ぎても、視線は鋭利な刃物のように文字に突き立って、切り裂くように一文字一文字を縦に流れていくのでありました。
 一時間が過ぎるのでありました。それでも男は本の頁を繰り続けるのでありました。一時間半が、そして二時間が過ぎても男の様子は全く変わらないのでありました。何時までも本の文字を追う男の姿は、まるでこの本との別れを前にして、凄絶に名残を惜しんでいるようでもあるのでありました。
 男はふと目を上げるのでありました。そうだ雨戸を閉めなければと思うのでありました。引き違いの窓にはもう、外側から夜の闇がぴったりと張りついているのでありました。男は布団に手をついて立ち上がろうとするのでありました。
 そのとき不意に、腹痛の予兆が男の鳩尾に出現するのでありました。おやと思って、男は浮かしかけた尻をもう一度布団に落とすのでありました。
 その日の腹痛はもう納まったはずであるのに、どうしてまたそれが今頃再び腹の中に姿を現したのか、男には解せないのでありました。日に二度も腹痛に襲われることなど、今までなかったはずでありました。昼に摂った兆子一本の酒とカツ丼はもうとっくに胃から去って、胃はこの日の働きから既に解放されているはずであろうに。
 男は腹に掌を当てるのでありました。その掌を強く腹に押しこむと腹腔動脈が脈打って掌を弾くのでありました。それは体の芯から、そんなに強く押すなと警告されているようでありました。男は急いで掌の力を抜くのでありました。
 痛みは、まだ確然とした痛みにはなってはいないのでありました。これはあの昼間の腹痛の再来ではなくて、赤ん坊がほんの少しむずかってすぐ寝静まるような、そんなタイプの胃の不調かも知れないと思ってみるのでありました。腹痛が一日に二度あるなんて、そんなことがある筈がないのであります。
 しかし時間が経つにつれて、それははっきりとした腹痛の面貌を表し始めるのでありました。間違いなくこれは昼間の腹痛と同じ種類の痛みだと、男はそう断じる以外にないのでありました。いったい自分の腹は今日に限ってどうしたと云うのだ。男の頭は綯交ぜになった恐怖と怒りと絶望にみるみる満たされるのでありました。こんな、・・・理不尽な。
 男は無意識に小机の上の湯呑を取って、すっかり冷めたコーヒーを口に運ぶのでありました。液体の冷たい感覚が食道を過ぎると、一瞬痛みが和らぐ気がするのでありました。しかしその冷感が喉から去ると、確実に前にも増した痛みが腹を突き上げるのでありました。男は取り乱すのでありました。
 男は湯呑の冷たいコーヒーを一気に飲み干すのでありました。それから小机の端で落ちそうになっている煙草の包みから、震える手で一本を取って口にくわえて、急いでマッチで火をつけるのでありました。ショック療法と云うものもあるかと、取り乱した男の頭が行為の後追いをしてそう考えているのでありました。
(続)
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