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「四月廿九日。祭日。陰。」9 [「四月廿九日。・・・」 創作]

 今日は随分早く日記を書いたものだと男は思うのでありました。何時もはもっと夜更けて、横臥して布団を被る直前に書くのが慣わしでありました。今日はなんでこんなに早く書いたのであろうかと、男は自分の行為であるのに不思議に思うのでありました。
 男はよろよろと立ちあがって、転ばぬよう手を壁や襖に添えて壁伝いに隣の四畳半に行くのでありました。六畳も四畳半も、男の無精(と云うより、老齢に依る気力の消失)から畳の上には様々な物が散乱していて足の踏み場もないのでありました。なにかに蹴躓いて倒れるのが怖いものだから、男はゆるゆると歩を進めるのでありました。男は四畳半の方で、背を屈めて畳の上に直に置いてある小さな薬缶を取り上げるのでありました。
 薬缶を持って奥の北向きの台所に入り、水道から水を注ぎ入れるのでありました。薬缶の蓋の取手は随分前に取れているので、蓋を開けるのに男は少し手間取るのでありました。薬缶に水を半分程満たしてまた壁伝いに六畳へ戻る時に、男は四畳半の畳の上にある七輪の載った洗面器を蹴飛ばすのでありました。七輪も男も倒れはしなかったけれども、男は口を歪めて目を剥くのでありました。足指の痛みがほんの少しの時間差で頭の中へ上って来るのでありました。男は小さな悲鳴を前歯の欠けた口から漏らすのでありました。
 ようやく男は六畳の布団の上に戻って、そこにしゃがむのでありました。崩れるように尻を落としたものだから、その衝撃で薬缶の蓋の、取手がついていた穴から水が少し布団に零れ落ちるのでありました。男は薬缶を火鉢の火の上にかけるのでありました。薬缶から湯気が上がるまで、男は火鉢に両手を翳して待つのでありました。
 湯が沸くと男はインスタントコーヒーの、畳の上に倒れて転がっている瓶を取り上げるのでありました。体を捻って小机の上から長らく洗わない湯呑を手掴みすると、それにコーヒーの粉を瓶から直に適当にふり落として、湧いた湯をその中に注ぐのでありました。旺盛に上がる湯気に隠れて、黒色の液体の上に白茶色の細かい泡の帯が、集まって渦を巻くのが仄かに見えるのでありました。
 男は火鉢から薬缶を外すと、未だ高熱の儘であるにも関わらずそれを全く無造作に畳に置くのでありました。それから小机の方に体を向けて、湯気の上がる湯呑を小机の上の、小物で埋め尽くされた中に辛うじて空いている隙間に、詰まり元々湯呑が置いてあった位置に置くのでありました。
 男は先程書いた日記のノートの脇にある本を取り出すのでありました。それは森鴎外の『澀江抽齊』でありました。男が昔から何度も何度も繰り返し読んだ本なのでありました。この本を開くと、男は遠い昔に鴎外の住み家なる観潮楼を初めて訪ねた時のことを、未だに懐かしく思い出すのでありました。森鴎外は男の十指に満たない、敬して止まぬ先達の名前の中でも随一なのでありました。
 男は昨日読み終えた頁を開き、しおりを除けるのでありました。鼻の上で少しずり落ちた老眼鏡の位置をなおすのは、これからこの本に向かう男の礼式のようでありました。
 男は今まで何度も読み繰り返したこの本を、飽かず読み進めるのでありました。先程傍らに置いたコーヒーが覚めるのも一向に構わずに。今やこの本以外に男の気持ちを高揚させるものはこの世になにもないのでありました。
(続)
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