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「四月廿九日。祭日。陰。」6 [「四月廿九日。・・・」 創作]

 などてそんな半世紀以上も前のことを今頃夢に見たのか、男は不思議な気分になるのでありました。アメリカ遊学のことも女のことも、もう五十年以上もの年月が過ぎて絶えて思い出すこともなくなっていたと云うのに。それにアメリカよりもその後に赴いたフランスの方が、未だに強い印象として残っている筈なのに。
 女にしても、あのアメリカの女が殊更自分の心に色濃い蔭として残っているわけではないのでありました。自分は多淫な生まれつきで、その前もその後も幾多の女との関係をもってきたのだし、情においても、他の女達の方があのアメリカの女よりは多くの印象的な経緯に彩られていた筈だと云うのに。まあ、今のこの老衰の身になってみれば、アメリカ遊学もフランス紀行も数多くの女たちとの交情も、この部屋の隅に幾つも転がっている綿埃のように、なにやら遠い過去の芥のようなもののようでありますが。・・・
 頭の中が寝覚めの霞の中でぼんやりとしているのでありました。しかし腹痛は確実に男の体から離れているのでありました。やれやれと思いながら男は緩慢な動作で上体を起こすのでありました。ようやく日課である腹痛から解放されたのでありました。男は軽くなった腹部の感覚を確かめるように、畳に手をついて暫く横座りした儘身動きをしないのでありました。
 傾き始めた日の光が硝子窓を通して斜めから部屋に侵入しているのでありました。夕方の日差しは男の今の気分と同じで、どこか疲弊の色をしているように感じられるのでありました。少し寒気がするのでありました。首に巻いたマフラーは暫く其の儘にしておこうと思うのでありました。男は風邪のぶり返しを大いに恐れているのでありました。

 漸く立ち上がって、男は万年床の上によろよろと移動するのでありました。布団の真ん中に胡坐をかいた男は、前にある小さな火鉢の、真ん中に盛り上がった灰を火箸で掻き分けて白くなった炭を露出させると、それに細い息を吹きかけるのでありました。埋み火が赤く怒るのでありました。男は横の炭入れの籠から炭を幾つかくべて尚も息を吹きかけるのでありました。
 四月も終わろうとしているのに、一向に寒さは市川の街を去らないのでありました。いや、男の体の衰弱と風邪のぶり返しに対する恐怖が、寒くもない空気を寒いと感じているだけなのかも知れません。現にその日の昼近くに大黒屋へ向かう途中の路ですれ違った人や、駅前の踏切を渡る人、大黒家に居た客達は上着を着ていない者もあったのでありました。中にはもう半袖開襟シャツだけの気の早い若者も居たのでありました。
 男は火鉢に手を翳すのでありました。赤く怒る火鉢の炭の色に男は安心するのでありました。火に近づけ過ぎた手が焦げる痛みのような感覚を、男は暫し楽しむのでありました。
 漸く手の感覚を取り戻したように思った男は、両手をついてゆっくりと布団の上で体の向きを変えるのでありました。そこには小机があるのでありました。小机の上の日記のノートを、男は緩慢な手つきで開くのでありました。頁をめくる手が絶え間なく震えているのでありましたが、それは寒さのせいではないのでありました。手元が暗いので男は立ち上がって天井から下がった裸電球を点けようとするのでありました。
(続)
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