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石の下の楽土には 99 [石の下の楽土には 4 創作]

「ところで」
 拙生は話題を変えるのでありました。「島原さんは、この頃いらしてますか?」
「いやあ、ちっとも来ないよ、あれ以来」
「へえ、そうですか」
 矢張り島原さんの消息は知れないのでありました。
「小浜さんは薬屋のご主人とかと『イヴ』に通っているんですか、今でも?」
「まあ、時々ね」
 小浜さんはそう云って拙生から目を逸らすのでありましたが、それは小浜さんがスナック『イヴ』へ通い出した辺りから、拙生と小浜さんとの間の空気と云うのか、距離と云うのか、そんなものが微妙に変わって仕舞ったのだと、小浜さんがなんとなく察しているからなのでありましょう。別に顕著に気まずくなったと云うことではないのでありましたが、しかし矢張り拙生が『雲仙』を辞める気になったのは、確かにそう云う機微も影響してはいたのでありました。
「新入りのアルバイトは、どんな感じです? ここから見ていると、なんかシャキシャキと働いているようですね」
「うん、まあ、やっと少し慣れたかなこの仕事に。でも、秀ちゃんみたいに気が利かないな、色んなことに。あんまり察しが悪いんで、時々苛々することもあるよ」
 小浜さんは声のボリュームを落としてそう云うのでありました。
「まあ、自分も最初はそうだったし、その内仕事ぶりも板についてくるんじゃないですか」
「あいつ、もう猪口と徳利を三つ四つ割っちまったんだぜ。それに酒タンポに日本酒を入れる時、手捌きが雑なもんだから、よく零すしね。秀ちゃんはそんなことなかったけどさ」
「まあ、慣れれば、万事そつなくやるようになるんじゃないですかね」
「どうかね、それは」
 小浜さんがそう云って慌てて言葉を仕舞いこむように口を噤んだのは、新入りのアルバイトが傍に来たからでありました。新入りのアルバイトは拙生と小浜さんが座っている席の横に立って、こちらを窺っているのでありました。
「なんだい?」
 小浜さんが彼に聞くのでありました。
「残っているのは、後はこのテーブルだけなんだけど」
 そう云って、新入りは手に持った濡れた台拭きを揉むような仕草をするのでありました。開店前のテーブル拭きがこの席だけを残して、後は終了したと云うことでありましょう。
「ああ、それじゃあ自分はこれで失礼します」
 拙生はそう云って立ち上がるのでありました。
「悪いね、慌ただしくて」
「いえ、開店前ですから。忙しい時間にお邪魔して、申しわけなかったです」
「引っ越しても、またこっちに来ることがあったら寄ってよ、ウチにも」
 小浜さんがそう云って手を差し伸べるのは拙生と握手するためでありました。
(続)
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