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石の下の楽土には 88 [石の下の楽土には 3 創作]

 縦し、娘が遂に再び現れないとしても、その内になにかの切かけで喉に刺さった小骨が落ちるように、突拍子もないあの思いつきが島原さんの喉首から嘘のように離れてくれて、晴々とした顔でまたこの『雲仙』の暖簾を潜ってくれると良いのでありますが。いや、未だ小骨が落ちていなくても、来てくれたなら拙生は喜んで島原さんの話を聞く積りであります。それはあんまり楽しくなるような話ではないにしろ、それで多少の島原さんの気散じになるのなら、拙生は聞くだけは聞く用意はあるのでありました。それに若し島原さんが許してくれるなら、拙生は墓地まで一緒について行って上げても良いとも、考えているのでありました。
 しかし島原さんが来てくれたとしても、今の『雲仙』に島原さんの居場所はどこにもないかも知れません。そう云う意味でも、拙生は店の雰囲気変わりが残念でならないのでありました。
 ぼちぼち本腰を入れて就職活動を始めるかなと拙生は考えるのでありました。今の儘の『雲仙』に、拙生は急速に魅力を失いつつあるのでありました。将来飲み屋を創めようかと云う気持ちも、次第に萎んでくるのでありました。自分は結構人の話にあわせることが上手いとか、客あしらいにそつがない方だとか勝手に思っていたのでありましたが、この頃はその自信もすっかり失せて、接客仕事は結局自分には向いていないのかなと思うようになるのでありました。腹蔵を隠して嫌いなタイプの人と一緒に笑うことが、途轍もなく大変な作業なのだと拙生は漸く判るのでありました。
 人の好き嫌いなんと云うものは、どの世界に居てもどう云う仕事に就いていても結局はつき纏うものでありましょうが、それがその仕事の枢要であるような種類の仕事は、これは畢竟、拙生には手に負えないものであるかも知れません。人の好き嫌いを前面に押し出して突っ走る程豪胆でも自信家でもなく、かと云ってそれを内に秘した儘、露ほども顔に出さずにいられる程したたかな狸でもなく、風に柳の柔らかい護身術処世術を身につけているのでもなく、況してや大悟しているわけでは更々ない拙生が、こう云った接客業に本格的に身を置いたら、それこそ屹度早々に行きづまるに違いありません。酒がなによりも好きであるのでもなく、美味い食い物のためにはどんな労も厭わないと云うタイプでもなく、それに寂しがり屋でも、ま、ないし。
 こう云った拙生の了見の変化は小浜さんにもなんとなく判るようで、小浜さんと拙生のそれまで結構噛みあっていた筈の息も、微妙に齟齬が生じてくると云った按配でありました。小浜さんは拙生の少し投げやりになった仕事態度に、戸惑ったり苛立ったりする風であるし、拙生もそれは従業員として小浜さんに大いに申しわけないことだと判りながらも、薬屋の主人の慎みのない一言や面白くもない冗談、弁えのない頓狂な大声等に接すると、つい自制を忘れて無愛想にもなって仕舞うのでありました。
「秀ちゃん、最近口数がすっかり減ったね」
 小浜さんは店を開ける前等に、そんなことを云って彎曲に拙生を窘めたりするのでありましたが、そんな折り拙生が「小浜さん、最近無駄口が矢鱈と増えましたね」と腹の中で云い返すのは、実に以って不届きな態度であったと云えるでありましょう。
(続)
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