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傘がない! (2) [時々の随想など 雑文]

 次の日の朝、曇天ではあるものの雨は上がっているのでありました。拙生は何時も通り朝の不機嫌な顔の儘混みあった電車に揺られて件の駅に着いてみると、その傘は昨夜拙生が立てかけたその儘の姿で、ホーム端の灰皿の横にまだあるのでありました。忘れられたように(いや、本当にそれは拙生に忘れられたのでありましたが)密やかに佇むその姿は、ぞろぞろと改札口に流れる人波の中に拙生の姿を、消沈した面持ちで探しているような風情にも見えるのでありました。それは店先に繋がれて店内を一心に見詰めながら、買い物をしている主人が出てくるのを待っている犬の姿を連想させるのでありました。
 当然今の拙生なら、おおラッキーと内心指を鳴らして莞爾として傘を我が手に取り、そのまま何ごともなかったような顔をして改札へ向かうのでありましょうが、その時の愚かしき若者たる拙生は、そう単純に明快に我が喜びを表出出来ないでいるのでありました。いや正確に云うと、喜びを表出するのが傘に対して甚だしく気恥ずかしかったのでありました。拙生は立ち止まって、後ろから追い抜く人の迷惑気な一瞥を頂戴しながら、眉間の皺を深くして小難しい表情もて傘を見つめるのでありました。
 この傘は一端は拙生の手から離れた、いや我が落度によって手放された傘なのであります。云わば傘と拙生の縁は、どのような経緯に因るにせよ、事実として昨夜断たれたのであります。その離別は突然に、そしていかにも呆気なく行われたのであります。突然で呆気ないだけに、それは別離と云うもののリアリティーを確然と有した幕切れであったように感じていたのであります。だから、ここで拙生がその別離の、云わば「麗しき」リアリティーを乱してまでこの傘を再び我が手に取ることが、果たして執るべき「麗しき」行為であるのかないのか、拙生は大いに懊悩するのでありました。
 そんな躊躇をしているものだから拙生はなんとなく傘を取り戻す機を結局逸して、愚かにも傘をその儘にして駅を出て仕舞うのでありました。改札を出てから、今の拙生の振舞いてえものは、拙生の流儀に照らして、果たして正しい行いだったのか否かと何時までも煩悶しているのでありました。
 ここでプッと吹き出したり、細めた瞼の奥の目ん玉を横に流して拙生を見たりしてはいけません。それは誰ならぬ拙生自身が今やっているのでありますから。
 傘はその日の夕刻もその儘の姿でホームにあるのでありました。そうして次の日の朝も、変わらずホームの端に立っているのでありました。いい加減駅員が片づけないものかなと、拙生は駅の服務規定に疑問すら抱くのでありました。いや律義に片づけるよりは、こうして忘れた時の儘の姿で放置しておく方が、忘れた主が持ち帰りやすいかも知れないと云う駅側の配慮かも知れないとも考えるのでありました。
 やっと三日後に、傘はホームから姿を消したのでありました。拙生は漸くに物語が完結したような安堵感を抱くのでありました。と同時に、やっぱりちゃんと取り戻せばよかったかなと少し悔いたり、あの傘に改めて申しわけないような気分にもなるのでありました。
 嫌に大袈裟な思いこみ、噴飯ものの誇張性、必要のない潔癖感、律義に過ぎる教条主義、どんなに詰まらないことに対しても物語性を付与してしまう浅はかなロマン主義、・・・若気の至りであります。面目ない。今となっては欠片も御座んせんが。
(了)
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