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枯葉の髪飾りCCⅩL [枯葉の髪飾り 8 創作]

 銀杏の梢が木肌の擦れあう音を立てるのは、少し強い風が吹いたからでありました。拙生は傍らの紙袋から犬のぬいぐるみと赤い蓋と紐の水筒をなんとなく取り出すのでありました。吉岡佳世の温もりを宿しているはずのそれは、如何にも冷たい手触りを拙生の掌に伝えるだけでありました。多分彼女の温もり等、もうこの世の何処にも残ってはいないのでありました。
 拙生はその二つを自分の頬に強く押し当てるのでありました。吉岡佳世の髪の匂いを、柔らかい唇の感触を、かき抱いた時の彼女の竦んだ肩の華奢な感覚を、頬の暖かさを、大きな瞳で拙生を見るあの視線の強さを、笑った時に唇の端に切れこむ可愛らしい小さな線を、耳朶の下の後れ毛に隠れた小さな黒子を、そんな拙生が秘かに知っていた彼女が彼女であるための些細な特徴を、なにも拙生に伝えてこない、単なる犬のぬいぐるみと水筒なのでありました。ぬいぐるみにも水筒にも、おまじないノートにも、寺の納骨壇にも、彼女の残していった部屋にも、この公園のベンチにも、銀杏の木にも、彼女の体温の気配はなにも残ってはいないのでありました。
 拙生はこの世から去った吉岡佳世との交感が、総て閉ざされてしまったことを改めて悟るのでありました。彼女は全く拙生の手の届かない処へ行ってしまったのでありました。せめて納骨壇での会話が残されているなら、それだけで一生満足出来たろうにと考えて、拙生は苦く笑うのでありました。その彼女の納骨壇も今年の内にあの寺から撤去されて、彼女の遺骨は岡山に移されるのであります。なにもかも、吉岡佳世に纏わるものから拙生は遮断されてしまったのであります。第一もう既に、納骨壇での彼女との会話は、出来なくなっていたのだし。・・・
 納骨壇での会話? さて、そんなものが本当に成立していたのでありましょうか。それは彼女の喪失と云う強い衝撃から身を守ろうとする、拙生の頭の錯乱が引き起こした単なる妄想として片づけられるだけのシロモノなのではないでしょうか。有り得ないことに縋りついて吉岡佳世の不在を受け入れるのを何時までも拒んで、拙生は虚ろな目の儘、意気地なく未練の涎を弛緩した唇の端から垂れ流していたのでありましょう。つまりそれが納骨壇での会話の正体なのでありましょう。だから、吉岡佳世の残した犬のぬいぐるみや赤い蓋と紐の水筒は在っても、彼女の書いたおまじないノートは在っても、彼女の微笑む写真は在っても、それに拙生の度し難い妄想は在っても、吉岡佳世はもうこの世の何処にも居ないのでありました。拙生はそれを思い知らなければならないのでありました。
 拙生は犬のぬいぐるみと赤い蓋と紐の水筒を、ベンチに並べて置いて立ち上がるのでありました。それから紙袋からおまじないノートも取り出してそれも置くのでありました。思いついて拙生はポケットから万年筆を出して一緒にベンチの上に横たえるのでありました。単なる犬のぬいぐるみと、単なる赤い蓋と紐の水筒と、単なる三冊の大学ノートと、単なる万年筆が、ベンチの上に残されるのでありました。拙生は銀杏の木の下まで離れて、ベンチの上の決別すべきであろうそれらのものを見入るのでありました。
 その品々を目を凝らして見ていると、少し気分が変わるのでありました。ベンチの上に並んだそれ等の品は、吉岡佳世の所縁のものではありますが、吉岡佳世そのものではないのであります。ぬいぐるみと水筒とノートと万年筆が、吉岡佳世であるはずはないのであります。それは大切に保管しておかなければならないものではありますが、だからと云って吉岡佳世と等値にこの世に在るものでは決してないのでありました。それ等の品を見ていて、拙生はやっとそう判るのでありました。拙生の気持ちに、ほんの少し落ち着きのようなものが生まれるのでありましたが。・・・
 風が吹いて来て、銀杏の梢を揺らすのでありました。枝の先に残っていた銀杏の枯葉が一枚、落ちるのでありました。枯葉はゆっくりと宙を舞いながら降りてきて、赤い水筒の蓋の上に止まるのでありました。それはまるで髪飾りのようでありました。すると俄かに、ベンチの前に枯葉の髪飾りを頭に飾った吉岡佳世の等身大の姿が、ぼんやりと浮かび上がるのでありました。
 拙生は息を飲むのでありました。その一瞬の場面に、目を奪われるのでありました。つい先程萌したはずの拙生の気持ちの落ち着きが、激しくかき乱されるのでありました。拙生の目の前に立つ吉岡佳世の姿が、淡い光を帯びるのでありました。
<井渕君、どうも有難う、今まで>
 吉岡佳世が頭を下げながらそう云うのでありました。それに応えようと拙生は口を開くのでありましたが、舌が麻痺したように動かないのでありました。
 枯葉の髪飾りは彼女がお辞儀をした時に彼女の頭に止まり続けることを躊躇うように、ひらひらと地面に落下するのでありました。顔をゆっくりと上げて拙生を見つめる吉岡佳世の姿が、すぐに発光を止めるのでありました。そうして彼女の姿は淡く消え去って、背後のベンチの上に赤い蓋と紐の水筒が残るのでありました。水筒の上に止まった枯葉も、既に落ちているのでありました。
 拙生は目眩に襲われるのでありました。その後に猛烈な睡魔が全身に覆いかぶさってくるのでありました。拙生はベンチまで辛うじて戻って、そこへ倒れるように腰を落とすのでありました。一方で感奮の只中に在るのに、拙生の意識は急速に薄れていくのでありました。これは屹度、妄想の見納めと云うものであろうと、薄れる意識が少し冷静な判断をするのでありました。その冷静な判断が激しく時化る海の大波に翻弄されながら、気を失ったように浮かんだり沈んだりしているのでありました。
 それでも、妄想でもなんでも、構わないのでありました。もう完全に途絶えてしまったと思っていた吉岡佳世との交感が、今の一瞬、叶ったのだから。
 冷たい風が拙生の額を撫でて、前髪を乱して通り過ぎていくのでありました。ひょっとしたらと、拙生は消え去ろうとする意識の中でふと考えるのでありました。ひょっとしたらこの眠りの後に、吉岡佳世とこの公園で最初に出逢った時と同じに、拙生の寝惚けた顔を覗きこむ彼女の目と拙生の名を呼ぶその声によって、自分は目覚めることになるのではないだろうか、と。
 そんなこと、まさかと、拙生は苦く笑いながら口を動かして、しかし声は出さずにそう独りごちるのでありました。全くそれも、甘美な一瞬の妄想なのでありました。甘美であるだけに、堪らなく切なくなるのでありました。拙生はもう一度吹いてきた風に残った意識をすっかり奪い取られるように、深い眠りに落ちていくのでありました。目覚めたら一年半前の高校三年生だったあの日と同じに、吉岡佳世が再び拙生の目の前に現れることを、実はかなり本気で期待しながら。
(了)
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