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合気道家の言葉 [合気道の事など 2 雑文]

 とかく合気道家の言葉は判りにくいものが多いように思えるのであります。晩年の大先生がその至高の境地を表現されるために、技の成り立ちの説明に神道的な言葉を多用されたこと等がその因の一つであろうと思われるのでありますが、その言葉を使用される大先生の心の在処を修行者として真摯に受け止めることは重要でありながら、大先生ならぬ者が未消化の儘その言葉を用いて昨日今日入門したばかりの者に指導を為すことは、これは指導者としてどうであろうかと思うのであります。『天狗芸術論』に「若し初学より何の弁へしる事もなく、無心にして事自然に応じ、柔を以て剛を制す、事は末なりといひて頑空惰気になりて足もとのことをしらずんば、現世後世ともに取失うべし」とありますが、これは指導一般に於いて大いに心すべき指摘であります。
 例えば日本神話に登場する神名はものや状態を形容したり、理念を表象するものが多いのでありますが、これを過剰な意味付与を以て合気道的な動きの根拠やら説明と為すのは、一般社会から見ればいかにも強引な解釈学であり、突拍子もない思いつきであり、合気道の一般性普遍性を追求する態度とは凡そ云い難いでありましょう。合気道が青少年の育成と教育をその目的の一つとして標榜するのなら、個人の感覚的な部分に依拠しない一般化された厳密な言葉に依って理念なり術理なりの体系を形成していなければ、それは育成とか教育、或いは指導と云うものでもなくて、単なる洗脳、或いは科学性を有し得ないことの弁明でしかないと云う誹りを免れないでありましょう。
 如何にも合気道は言葉ではなくて行為であります。しかし行為が正しければ言葉への拘泥等は無用とする態度は、言葉の魔力性や暴力性に対して、護身術を標榜する合気道の割にはあまりに無防備であると云えます。同時に言葉の有効性に対しても鈍いのであります。少なくとも合気道が上に述べた育成と教育と云う側面を棄てないのなら、そこで繰り広げられる言葉の営為に対しても、大いに厳密で真摯で内省的であって然るべきであろうと思うのであります。
 同時に長い歴史を有する他武道各派の真髄に属する表現を、その武道の修行経験も、修行に匹敵するような研究の痕跡もないくせに、いともお手軽に拝借して我が境地なり合気道の在りようを玄妙めかして語ろうとする態度も、これもいかにも軽率で、合気道に対して不敬な態度であろうと思われるのであります。色々具体的に事象を紹介して揶揄することはここでは控えますが、その種の言葉を借用した途端、実はそれは合気道が(いや、その仁がと云うべきか)その武道各派の至った境地に未だ及んでいないことを言外に暴露したことになるのであります。現在の合気道が他武道の至った境地に到達しているかいないかと云う話は全く置くとして、合気道家であるならばもう少しばかり己が修錬する合気道に、矜持と敬意を持って頂きたいと願うのであります。そう云えば「芸術未熟の者、名僧知識に逢いたりとて開悟すべきにあらず」と云うのも『天狗芸術論』でありましたか。多年に修錬を為し心を錬り真摯に術を求めて止まぬ、そう云う下地のある者が契機として名僧の至言に逢ってこその高い境地の獲得ではなかろうかと思うのであります。
 或る合気道指導者の文章を読んでいて感じたことを記したのでありますが、そう云う文章に目くじらを立てることこそ、実は我が修錬の至らなさなるべし、でありますか。
(了)
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